最終章③ ルキフェル
長い航海の末、偽ネーデルラント船団はついにシャム国へ到着した。
青々とした木々、色鮮やかな建築、熱を帯びた風、ヨーロッパとは何もかも違う景色だ。船が港へ着くや否や王宮から使者がやって来た。ルキフェル、ジャスパー、マテオの三人は元リー・ウェンの面々に案内されながら王宮に向かうこととなる。おまけに護衛付きだ。
「落ち着かねぇ……」
ルキフェルが小声で呟き、隣で歩くジャスパーが笑う。
「諦めろ」
「俺はこういうの苦手なんだよ」
「知ってる、今さらだろ」
マテオも肩を竦めた。やがて、三人はシャム国王との謁見を果たした。広間には重臣たちが並んでいる。王は三人を見つめて深く頷き、すぐに周辺諸国へ使者を送った。予言の人物たちが東に来訪した報せは瞬く間に各地へ広がっていくこととなる。
その後、盛大な歓迎が行われた。宴、音楽、舞、人々の笑顔。ルキフェルは終始落ち着かなかったが、視線を上げるとジャスパーは子供たちに囲まれていた。マテオは通訳を介して東方の学者たちと議論している。ヤンたちも楽しそうだった。ルキフェルの口元が少しだけ緩む。世界にはこんな場所もあったらしい。
数日後、船団は再び出港した。次なる目的地、清に到着すると今度は皇帝自らの歓迎を受ける。壮麗な宮殿、果てしなく広がる都でも三人は歓迎された。そして、数日間に渡る会議が始まる。通訳を介しながら、占星術師たちを交えながら。三人が歩んできた人生、西方世界で起きた出来事、予言との関わりと様々な話が交わされた。そんなある日、皇帝が口を開き、通訳が言葉を伝える。
「この東方では各地で人ならざる者、怪異、妖怪とされる存在の噂が絶えない」
学者たちも頷き、皇帝はゆったりとした口調で続ける。
「君たちの船には異能を持つ者たちがいると聞いた。よければ、その者たちの力も借りて調査組織を作らないか。世界の裏側を監視する役目だ」
ルキフェルたちは顔を見合わせ、ジャスパーが真っ先に声を上げる。
「これ、多民族集団の居場所になるんじゃない?」
マテオも「なるな」とだけ答える。そこから話は早かった。元リー・ウェンと多民族集団の異能持ちたち、双方が手を取り合って調査組織は清王宮を拠点として創設されることになる。
長い旅路の中で彼らと過ごしてきた三人は組織の象徴となった。もちろん三人は旗印だ、実務は周囲が担う。居場所を失っていた者たちに新しい居場所が生まれただけで価値がある。
会議の終盤、皇帝はルキフェルに視線を向けた。
「何か望みはないか」
通訳の言葉が届き、ルキフェルは腕を組んで唸るとぽつりと言う。
「どこか、暖かくて穏やかな国で暮らしたい」
通訳が伝えると、皇帝は笑って地図を広げた。
「なら、この国からさらに南へ。海に囲まれた国々がある。我々とも関係が深い、君たちに合う場所を紹介しよう。きっと気に入る」
ルキフェルは地図の先を見た。ジャスパーとマテオが新たな組織の話をしている。仲間たちもそれぞれの道を見つけ始めていた。終わりではない。これは旅の終着点ではない。むしろ、ようやく始まるのだ。自分たちの人生が。
清を発ってから数日、船は南の島国を目指して航海を続けていた。しばらくはその土地に腰を据える予定だ。まずは暮らしに慣れる、組織の話はそれから。そんな方針で皆の意見も一致していた。
太陽が頂点に差し掛かる頃、船内はいつも通り賑やかだ。ディッキーとカルロータが酒盛りを始めている。
「おいしいー!」
「最高ね!」
二人はすでに上機嫌、アーシャとフェリスが子供たちに真顔で説教している。
「いいかい」
「大人になっても、ああはなっちゃ駄目だよ」
子供たちが真剣な面持ちで頷く様子を見たニールが苦笑する。
「いや、そこまで言わなくても……」
当の二人は酒瓶を掲げて乾杯していた。誰も止めない。止めても無駄だからだ。ルキフェルはいつものように最後まで待ち、自分の皿を受け取った。マテオが厨房を軽く片すと自分の分を持つ。
「空いてる席あるか?」
「さあな」
二人で船内を練り歩くと、サミュエルとシャルルが座る卓の向かい側、ニコラの隣が空いていた。
「ここでいいか」
「いいだろ」
二人は腰を下ろして食事を始める。サミュエルとシャルルは相変わらず海図だの航路だのを話している。ニコラはルキフェルの隣でパンを頬張っていた。ルキフェルは適当に相槌を打ちながらパンをちぎった時、通路を挟んだ斜め前に位置する別卓が目に入った。
スザンヌ、隣にはリゼーヌ。向かいにはアーシャとフェリス。何か面白い話をしているらしい。アーシャが身振り手振りを交えながら話し、フェリスが笑いながら茶々を入れる。リゼーヌが慌てて否定している様子を見て、スザンヌがくすくす笑っていた。頬杖をつきながら、肩の力を抜いて楽しそうに。なぜだろう、目を離せなかった。ルキフェルは自分の口元も緩んでいることに気付き、慌てて表情を戻そうとしてやめた。別にいいか、隠す必要もない。今さら誰に誤魔化すわけでもない。
「美しいだろう?」
不意に声をかけられ、ルキフェルは顔を上げた。向かい側、サミュエルが指を組み、なぜか満面の笑みを浮かべている。彼の隣ではシャルルが片眼鏡を外し、丁寧に布で磨いていた。
「……何が?」
ルキフェルが眉を顰めて聞くと、サミュエルは鼻を鳴らして身を乗り出した。
「愛だよ」
「は?」
「人が誰かを想い、その視線の先に未来を見出す姿は実に——」
「やめなさい」
シャルルが途中で遮り、片眼鏡をかけ直しながらため息を吐く。
「バレバレですよ」
「何がだ」
「全く、けしからんことです」
「だから何がだ」
ルキフェルが眉間の皺を深めた時、食事を続けていたマテオが口を開く。
「それで? もう伝えたのか」
ルキフェルはパンを口に運ぶ手を止めた。
「何を?」
「いやだから、あれだよ。告ったのか」
マテオは呆れたような表情を浮かべ、ルキフェルは即答する。
「いいや」
「……はぁ!?」
サミュエルとシャルルの絶叫が響き、周囲の何人かが思わず振り返ってまた食事に戻る。ニコラが渋い顔で耳を押さえていた。ルキフェルは飛び上がりそうになるも慌てて二人を睨んだ。
「馬鹿! 声がでかい!」
「いやいやいやいや!」
サミュエルが机を叩く。
「何故だ!」
「何故って何がだ!」
「何故、まだ伝えていないんですか!?」
シャルルは片眼鏡がずれそうな勢いで声を飛ばす。
「つい先日、自分の気持ちを認めたって聞いたのですが!?」
「だからって即告白する奴があるか!」
「普通するでしょう!」
「しない!」
「します!」
「しない!」
言い合いになり、周囲の卓から笑い声が聞こえた。ルキフェルは頭を抱えた。最悪だ。戦場より居心地が悪い。国家元首との会談の方がまだ楽だ。マテオはスープを飲んでため息を吐いた。
「……だと思った」
ルキフェルはギロリとマテオの横顔を睨む。
「なんだ、その顔」
「別に」
「絶対何か思ってるだろ」
「思ってるな」
マテオは肩を竦めて不敵に笑う。
「まあ、お前らしいよ」
通路の向こうではスザンヌが何も知らずに笑っている。ルキフェルは目を逸らし、無言でパンを齧った。耳が妙に熱い。サミュエルとシャルルがまだ何か騒いでいる。ルキフェルは無視してスープを飲んだが、マテオは皿の上の肉を切り分けながら口を開く。
「でもよ、ルカ。いつまでもお預けは可哀想だろ」
ルキフェルの眉がぴくりと動く。
「……別に」
「別にじゃねぇよ、十年だぞ。向こうは待ってるかもしれねぇのに、お前はまだ何も言ってねぇ。何やってんだ」
マテオは呆れたように鼻を鳴らす。ルキフェルは目を落とし、木製の机とパンと皿とかいう、どうでもいいものばかり見つめる。
「言えるかよ、今更」
マテオがフォークを動かしたまま言う。
「今更?」
「十年も拗らせた感情をどう説明しろってんだ」
「説明しなきゃいいだろ」
「は?」
「好きですで終わる話だろ」
「終わらねぇよ」
サミュエルが横で吹き出し、シャルルが机に突っ伏す。マテオはフォークを置くと頬杖をついてルキフェルの横顔を見た。
「逆に聞くけどよ。お前、彼女が誰か別の男のとこ行っても構わねぇの?」
「……それは嫌だ」
「だろうな。だったら、伝えるなら今だ」
ルキフェルは顔を顰める。
「簡単に言うな」
「簡単な話だ」
「簡単じゃねぇ」
「簡単だ。このあと伝えてこい」
「嫌だ」
「伝えてこい」
「だから——」
「逃げるな」
ルキフェルは喉を鳴らした。逃げるな、どこかで聞いた言葉だ。何度も何度も、人生の節目で聞いてきた言葉。恐怖から逃げるな、過去から逃げるな、自分から逃げるな。そして今、親友は同じことを言った。マテオは肩を竦める。
「海軍には突っ込める。処刑場にも突っ込める。王宮とも喧嘩できる。なのに、女一人に気持ち伝えるのは無理か?」
サミュエルとシャルルは黙りこくり、ニコラは慎重に杯を傾け始めた。ルキフェルは額を押さえ、マテオは彼を見ながら柔らかい声で言う。
「安心しろ。たぶんお前が思ってるより、ずっと上手くいく」
ルキフェルはスザンヌをチラ見した。まだ笑っている。その姿を見てルキフェルは息を吐くも胸の奥が少しだけ騒がしかった。ニコラが杯を置いてぽつりと言う。
「ルキフェルさんって、遊びと本命をちゃんと分けてるんですね」
マテオが「あ」と声を上げるも、ルキフェルは額から手を離すとニコラを睨んだ。
「おい、それどういう意味だ」
「どういう意味って……港でのお遊びと恋愛の違いですよ。船乗りならわかるでしょ?」
サミュエルとシャルルが身じろぎをし、ニコラは首を傾げる。シャルルが片眼鏡の装着を繰り返しながら言う。
「に、ニコラくん。君の言う船乗りって」
「え、海賊ですよ。そりゃあ」
「狭義の意味ですな」
シャルルは溜め息を吐くとサミュエルは咳払いした。ルキフェルは怪訝な顔で二人を見る。
「お前ら、何を恥ずかしがってる」
「見ていて恥ずかしいのはテメェだ」
マテオに毒づかれ、ルキフェルは黙りこくった。ニコラがルキフェルの横顔を見つめて口を開く。
「ルキフェルさん、もしかして……経験ないんですか?」
その瞬間、ルキフェルは額に青筋を浮かべて目を細めた。ニコラはギョッとして肩を震わせると、立ち上がって距離を開ける。
「え、え、嘘!? 意外なんですけど! だって、ボク……」
「今日の飯、よく味わったか? 最後の晩餐にしてやる」
ルキフェルは指をポキポキ鳴らして立ち上がり、ニコラをジワジワと壁に追い詰めていった。マテオは杯を置く音を強めに鳴らし、サミュエルとシャルルがびくりと肩を震わせる。マテオはルキフェルのコートの襟を掴むと彼の耳元に囁く。
「お前はまずニコラを舐めんな」
襟を引っ張る握力と低く落ちた声を真横に、ルキフェルは冷たいものが背筋に這うも舌打ちして顔を背ける。ニコラは引き攣った笑みを浮かべて壁から身を離す。
「は、はは。マテオさん、危ないところをありがとうございます」
「別件があって生かしといただけ。……んで、お前の言う経験ってなんだ」
「ん?」
マテオはルキフェルを押し退けるとニコラに立ちはだかった。左義手の金属ガードが窓から差し込む陽光でキラリと閃く。
「最後に味の感想、聞かせてくれよな?」
「……え?」
結局、数秒後にはニコラの叫びが船内を満たした。
昼食を終えた後、スザンヌは皿を返却しにギャレーへ向かい、食器を所定の場所に置いた。
「いつもありがとう」
スザンヌが振り返った瞬間、入口からルキフェルが入ってきた。空になった皿を片手で持っている。
「あ」
二人とも足を止め、妙な沈黙が流れた。いざ向かい合うと妙に落ち着かない。ルキフェルは咳払いして皿を置いた。マテオの顔が脳裏に過ぎる。
——逃げるな。
ルキフェルはこっそり息を吐くと、スザンヌをチラ見した。
「……その、このあと時間あるか」
スザンヌが目を瞬いた。
「このあと?」
「ああ」
「アニータの手伝いしようかなって思ってたけど、どうかしたの?」
「いや……最近、話してないなと思って」
ルキフェルは目を逸らし、スザンヌは一瞬固まるもパアッと顔を明るくさせる。
「え、じゃあ話したい」
「え」
「話したい」
「いや、手伝いは?」
「また今度! 今はルキフェルと話したい」
「……わかった」
ルキフェルの心臓がおかしな動きをする。二人は並んで歩き出すも船内は思った以上に人が多かった。どこへ行っても誰かいる。通路には子供たち、作業中の大人たち、談笑する仲間。とても落ち着いて話せそうにない。
「どうしよっか?」
「さあな」
とりあえず階段を上って甲板に出るが、こちらも人だらけだ。帆の整備、見張り、洗濯や昼寝と誰かしらいる。ルキフェルは眉を顰めて船尾側に向かうも、途中で足を止めた。
「どうしたの?」
スザンヌがルキフェルの視線の先を追うと、ニールとリゼーヌがいた。二人きりで何やら話している。距離が近い、なんとなく邪魔してはいけない空気だった。ルキフェルは踵を返す。
「……やめよう」
「そうね」
スザンヌも苦笑して頷く。ルキフェルは腕を組んで唸った。
——困った、本格的に行く場所がない。船長室。いや、それはまずい。男の部屋に連れ込むことになる。甲板も船内も人だらけ。夜まで待つか。その方が……。
くいっと袖を引かれ、ルキフェルは振り返った。
「ん?」
スザンヌがニコリと笑って頭上を指差した。
「上?」
ルキフェルが見上げると、メインマストの先、見張り台が聳えている。今日は交代の時間らしい。今だけ誰もいなかった。ルキフェルは思わず嘆息する。
「……なるほど」
「どう?」
「悪くない」
——むしろ都合がいい。
二人は索具に向かい、ルキフェルが先に登り始めた。スザンヌも彼の後に続く。潮風が吹いて縄の揺れで煽られる中、ルキフェルは見張り台に到着して振り返った。少し下にスザンヌがいる。ルキフェルは手を差し伸べると、スザンヌが顔を上げて一瞬目が合った。それから、スザンヌは彼の手を取った。ルキフェルは柔らかな感触をしっかりと掴む。
「気を付けろ」
「うん」
ルキフェルがぐっと引き上げると、スザンヌの身体が見張り台に上がった。二人はしばらく並んで海を眺めていた。見張り台には心地よい風が吹き、眼下では船員たちの声が遠く聞こえた。スザンヌが隣でくすりと笑みを溢す。
「それで、なんの話しようか?」
「えっと……」
ルキフェルの肩が跳ねた。口を開く。いざ本人を前にすると全部飛んで最悪だった。喉が妙に渇いている。胸が早鐘を打っている。
「いや、伝えたいことがあって……」
スザンヌは微笑みながら待っている。その優しさが余計に緊張を呼んだ。ルキフェルは息を吐き、言葉を探しながら紡いでいく。
「スザンヌには……ずっと支えられてばっかりだ。まともに感謝も伝えてなかったし、あの離れに閉じこもってた時もそう。スザンヌがいなかったら、俺はたぶん一生出てこなかった。スザンヌの言葉が……俺を救ってくれた」
スザンヌの睫毛が震え、頬がほんのり桃色に染まる。ルキフェルの心臓が変な音を立てて余計に調子が狂った。
「でも……いや、その……たぶん……いや間違いなく、十年前からスザンヌが生きてるだけで、俺は充分支えになってたと思う。でも最近、変わった」
ルキフェルは目が泳ぎまくり、早口と沈黙を行き来し始める。
「もっと一緒にいたいっていうか、無理に支えようとか、守ろうとかじゃなくて、ただ隣にいてほしいって思うようになった。十年前、一緒にいた時とは違う。違うけれど、想ってることは同じで……」
ルキフェルは喉につかえ感を覚えて口を閉ざした。酷い。あまりにも酷い。これでは何も伝わらない。情けない。
——逃げるな。
心の奥で声がした。ソフィーの声か、マテオの声か。今まで自分を引っ張り上げてくれた人たちの声か。いや、違うな。胸の奥で翡翠の双眸が見え、自分を捉えて離さない。おまけに歯を剥き出して唸っている。
——逃げるな。恐怖から、過去から、自分自身から。
ルキフェルは拳を握ってグッと顔を上げた。浅瀬を思わせる瞳がそこにある。ずっと見ていたかった景色。十年間、胸の奥に抱えていたもの。全部、たった一言に込める。湧き水のように滲み出た感情に、ルキフェルは明瞭な声で名前をつける。
「……好きだ。十年前から……ずっと愛してる」
喉が焼けるようだった、それでも目は逸らさない。風が止まった気がして世界が静かになる。スザンヌは目を見開いて固まっていた。何秒だったのか分からない。ただ彼女の瞳に涙が溜まっていくのが見えた。
「え」
ルキフェルはギョッとした顔で声を上げる。
「いや泣かせるつもりじゃなくて、違う、俺は——」
ルキフェルが言いかけたところで、スザンヌは首を横に振る。ぽろりと涙が落ち、スザンヌが笑みを溢した瞬間、ルキフェルは瞬きした。スザンヌは涙を拭い、赤くなった目で見上げると声を震わせる。
「……私も。十年前から、ずっと好き。……愛してます」
ルキフェルは瞬きを忘れ。今の言葉が頭の中で何度も響いた。理解した瞬間、脳天に雷でも落ちたような衝撃が全身を駆け抜ける。
「……え」
ルキフェルの口から間抜けな声が漏れるが、熱いものが胸にジワジワと染み込んでくる。
「……本当に?」
「本当に」
夢じゃない、聞き間違いでもない。逃げ続けていた答えが今、目の前にある。遠回りばかりだったけれど、ようやく辿り着いた。ルキフェルは息を長く吐くと思わず頭を掻いた。
「……物好きだな、俺を選ぶとか」
スザンヌは目を丸くした。
「どうして? だって溺れたところを助けてくれた人、忘れるわけないじゃない」
ルキフェルは目を瞬くも軽い興奮に目の縁をぽっと赤らめる。
「ああ……そうか。あの時にはもう、スザンヌは俺を選び続けてたのか」
「もちろん、諦めたことはあるよ。あの海賊戦争の時。海軍にとって海賊は敵だったから、あの時は苦しかった」
スザンヌは自分の手を見つめ、ルキフェルが首を傾げる。
「でも、俺のこと好きだって言った」
「うん。やっぱり諦められなかった。立場じゃなくて、私はあなたっていう人を見て選んだ。脱獄した後も、一人で全部背負って傷つくあなたも、放っておけなかった」
ルキフェルは赤くなった頬を隠すように顔を背けて誤魔化す。
「スザンヌは真剣だったのに……俺は一目惚れから始まったな」
「……え? え、そうなの??」
スザンヌの顔が一気に赤くなる。耳まで真っ赤だ。ルキフェルは顔を背けたまま、胸の内で急激に後悔した。言わなきゃよかったが、もう遅い。
「え?」
「……」
「え?」
逃げ場がない。最悪だ。ルキフェルは仕方なく海と空を見る。どこでもいいから見るが、結局観念して小声で伝える。
「……最初に助けた時、綺麗だったから」
スザンヌの顔がさらに赤くなり、二人とも黙った。スザンヌは浅瀬のような瞳を細める。
「でも……嬉しいな。ルキフェルって、ずっと戦ってたでしょう? 私のことなんて、とっくに忘れてると思ってた」
ルキフェルは即座に首を振り、スザンヌを真剣な眼差しで捉える。
「そんなわけあるか。俺はずっとお前に首ったけだ」
スザンヌは両手で顔を押さえる。
「うぅ……急に男前なこと言わないで」
「……俺、変なこと言ったか?」
「言った! すごく言ったよ!」
「だって事実だろ」
「そういうところ! 心臓に悪い!」
スザンヌは頭を抱え、ルキフェルは顔を顰めた。事実を言っただけだ、何が問題なのか本気で分からなかった。だが、スザンヌは可愛いことだけは分かる。しばらくして、スザンヌは手を下ろすと苦笑して囁く。
「ねえ、これからどうしようか」
ルキフェルは腕を組んで目を瞑った。
南の島国。新しい土地での新しい生活。家を探すだろう。仕事も探すだろう。畑を作るかもしれない、漁をするかもしれない。仲間たちも近くにいる。その未来の中にはスザンヌもいた。
ルキフェルは眉間の皺を解くと、澄んだ目でスザンヌを見つめる。
「……一緒に住もうか」
スザンヌが目を見開くもルキフェルは熱を帯びた声で言葉を紡ぐ。
「もちろん仲間たちともいたいが、スザンヌと暮らしたい」
スザンヌは数回瞬きすると頬をほころばせた。
「じゃあ、一緒に暮らそっか。……これからもよろしくね、ルキフェル」
涙の名残を運び去るように風が吹く。スザンヌはルキフェルを見つめて微笑みかけるも、ルキフェルは目を伏せて胸元の首飾りを見つめた。
——ルキフェル。
今では誰もがそう呼ぶ。自分もそう名乗っている。違和感はないはずだったのに、胸の奥で何かが揺れた。ルキフェルは胸元に手を伸ばした。銀細工の龍と蛇とアクアマリン。父から貰ったもの。失って、取り戻したもの。その時、不意に記憶の底から声が聞こえた。
——ラウル、逃げて!
胸が痛んだ。あの日の屋敷。血。そして、自分を庇うように立ち塞がった母ミレーユ。最後まで自分を守ろうとした人。ルキフェルは瞼を閉じた。母の姿を忘れたくなかった。あの声を、あの想いを無かったことにしたくない。
「……スザンヌ」
「うん?」
ルキフェルはゆっくり瞼を持ち上げると、スザンヌを見据える。
「たまにでいい。……ラウルって呼んでほしい」
スザンヌは目を丸くし、やがて微笑んだ。
「……わかった。よろしくね、ラウル」
笑い顔に優しさが滲んでいる、春の陽射しみたいだ。ルキフェルは愛おしさが胸元に突き上げきて、見張り台の縁に置いたスザンヌの手を重ねると身を寄せた。スザンヌも瞳を閉じ、ルキフェルも薄めで距離を縮めて顔を近づける。
ボンッ!!
「ぎゃああああああ!!」
情けない爆発音、続いて悲鳴が響いた。ルキフェルは即座に顔を離して見張り台から身を乗り出すと、甲板が白煙で埋め尽くされている。
「コリン!! 動くな!!」
「だから、触るなって言ったじゃん!」
「誰か水持ってこい!」
ルキフェルは歯を食いしばって唸ると、額に青筋が浮いた。
「そこはガバッといくところ!」
スザンヌが頬を膨らませ、ルキフェルは彼女と向き直って腕を組んだ。
「じゃあ、スザンヌの方からすればいいじゃないか」
「え。私?」
「そうだ」
「えっ。いや、あの……私、ファーストキスは好きな人にされるのが夢なの」
ルキフェルは眉を顰めて額に手を当て、盛大にため息を吐いた。
「……またの機会にな」
その後、ルキフェルはスザンヌと見張り台から甲板を見下ろした。下ではまだコリンが叫んでいる。白煙も消えていない。おそらく当分は収まりそうにない。スザンヌが鈴を転がすような声で笑っている。
ルキフェルも苦笑した時、胸元で何かが光った。陽光を受けたアクアマリンがキラリと煌めいている。ルキフェルは首飾りに手を伸ばした。青い石の輝きを見つめているうちに、ソフィーの言葉を思い出す。
——その子ね、夢があったの。海の上で暮らして、空と海が交わる場所を目指したいって。
ルキフェルは水平線に目を向けた。
どこまでも続く海、果てしなく青い世界。だが、空は違った。思っていたより白くて淡くて、水平線の向こうで交わっているようには見えない。これでは夢が叶わないじゃないか。これでは昔の想いは自由になれない。ルキフェルは唸りながら空を見上げると思わず嘆息した。
「……あ」
真上に広がる空は真っ青だった。どこまでも高く、どこまでも澄み渡り、海と同じ色をしている。水平線ばかり見て、遠くばかり探していた。ルキフェルは空をじっと見つめていたが、顔の緊張を解いて犬歯を見せた。
「……なんだ。ここにあった」
見張り台の上、空と海の間、風の通り道。誰よりも高く、誰よりも海に近い場所。気づかなかっただけで、最初からここにあった。ルキフェルは胸元の首飾りを握って目を瞑る。父の想いと母の願い。仲間たちとの旅路、そして隣には愛する人の温もり。全部、ここにある。
「夢、叶ったな」
風が優しく吹き抜け、ルキフェルの前髪をふわりと揺らした。
海は続いている。果てしなく、どこまでも終わりのない航路のように。だが、もう迷わない。
だって、一人ではないから。仲間たちがいて、愛する人がいる。
そして、自分の足で選んだ未来がある。
ルキフェルは遥かな海原を見つめた。
この先にどんな景色が待っているのかは分からない。それでも構わない。
これから探していけばいい。仲間たちと共に、愛する人と共に、自分たちだけの航路を。
風は帆を満たし、船は緩やかに進んでいく。
空と海が交わる、その先へ。




