最終章② フランス王国
一方、フランス王国。
ルキフェルたちがマルセイユを出港した直後、王宮では更なる騒動が起きていた。
高熱で寝込んでいたルイ二十五世は回復したが、回復したからといって元に戻ったわけではない。むしろ悪化した。ダラス家の陰謀と欺瞞は王の精神を蝕んでいる。怒鳴る、暴れる、疑う。かつての冷静さはどこにもなかった。
最終的にルイ二十五世は退位を余儀なくされた。
問題はその後、王がいない。王宮では連日の会議が始まった。ティエンもまた、その席に座らされている。
「帰りたい」
ティエンの隣にはヴィクトルがいる。向かいにはグレゴワール。三人とも心底嫌そうな顔をしていたが、会議は進んでいく。ある貴族が立ち上がり、別の貴族も続く。
「ぜひ! ぜひ、ダラス家の悪事を暴いてくださった貴方に!」
「我々はブルボン家を誤解しておりました!」
「どうか王座へ! フランスを導いてください!」
拍手でも始まりそうな勢いにティエンは頭を掻く。
「却下」
「なぜですか!?」
貴族たちが絶叫した。ティエンは椅子に深く座り直す。
「だって、やりたくねーもん」
会議室が騒然となった。第一候補が自ら辞退した瞬間、そこから先は泥沼だった。
次の候補、また辞退。次、辞退。また次、辞退。誰もやりたがらない。無理もなかった。
十八歳で即位し、二十年以上に渡って国を統治した王の後釜など誰がやりたいだろう。しかも、断罪型正義を掲げた王である。比較される未来しか見えなかった。こうして、何も決まらないまま時間だけが過ぎていく。
ルキフェルたちがポート・サイドを発った頃もまだ決まらなかった。「誰が王になるのか」の問いには誰も答えられない。そんなある日、ついにティエンが口を開く。むしろ、この展開を待っていたと言わんばかりだ。
「あの王の次なんて、誰だってやりたくないだろ? なら、王を決められないなら合議で良くないですか?」
一瞬、会議室が静まり返った。
「……うん?」
誰かが呟くもティエンは平然として言い放つ。
「実例? 海賊たち。彼ら、意外と上手くやってますよ。今の状況なら、これが一番現実的じゃないか」
今度こそ騒然となり、貴族たちが顔を見合わせた。由緒正しきブルボン家の男が、王宮で海賊の制度を提案している。前代未聞だったが、誰も即座には否定できなかった。派閥争いに明け暮れる余裕はもうない。国を止めるわけにもいかない。
議論は続き、結果として派閥や立場を超えた合議体制が、暫定的に採用されることになった。決定の瞬間、ティエンはヴィクトルをとグレゴワールに拳を突き出した。小さな音が重なる。誰か一人が断罪する時代、誰か一人が正義を名乗る時代は終わるべきだ。少なくとも、そう願う者たちがそこにいた。
会議終了後、三人は王宮を出て馬車に乗り込む。目的地はアンジュ、ヴィクトルの実家だ。フィルマンも共に皆で茶でも飲もうという話になっている。馬車は石畳を進み、窓の外には珍しく青空が広がっていた。ティエンは窓枠に肘を置いて鼻歌を歌い始める。アンジュに到着したのは夕方だ。ヴィクトルの実家に馬車が滑り込み、三人は馬車を降りるなり揃って肩を回した。ティエンが真っ先にぼやく。
「疲れた……王宮会議なんて二度と御免だ」
「同感」
ヴィクトルが即答し、グレゴワールも無言で頷く。執事が玄関口で出迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
ヴィクトルは手を振った。
「父上は?」
「お庭にて客人とお茶を楽しまれております」
「客人?」
三人は顔を見合わせて庭に向かった。花壇の間を抜けると、白いテーブルクロスと湯気の立つ紅茶、談笑する二人の老人を見つける。ティエンの顔が引き攣った。
「あー……あの時の」
「お邪魔しております」
テーブルについていた初老の男が立ち上がって一礼する。アルマンだった。王宮でダラス家の悪事を暴いた際に顔を合わせた人物である。フィルマンが笑う。
「ヴィクトル。こちらはアルマン・シャトレ殿だ」
「存じています、なかなか忘れられない方ですので」
ヴィクトルも苦笑し、アルマンは肩を揺らした。
「ははは、それは光栄ですな」
フィルマンが紅茶を口にする。
「シャトレ殿のご子息は、海軍総司令部で側近を務めていたそうだ」
「ああ、アルフォンスさん」
「ええ」
アルマンが頷いた。
「今は伝令係としてパリ総司令部を走り回っていますよ。一族として担っていた側近係も、今だけは必要なくなりました。精神的負担は軽減されましたかね」
全員が笑った。しばらく穏やかな時間が流れる。王宮と海軍の話題は尽きない。やがて、玄関の方から声がした。
「失礼しますよ」
全員が振り返ると、セドリックが招待状をひらひらと揺らして歩いてくる。
「フィルマンさん、お招きありがとう。うちの子も連れてきました。パリで仕事終わりのところを拾って、そのまま来ましたよ」
「父上」
ベルリオーズがセドリックの後ろに続いて現れ、アルフォンスも姿を現すとヴィクトルが立ち上がった。
「おお、アルフォンスさん!」
「お久しぶりです」
アルフォンスも微笑みかけ、ベルリオーズは空席を探しながら肩を竦めた。
「随分と豪華な顔ぶれですね」
「本当にな」
グレゴワールが苦笑する。気付けば席が増え、紅茶と焼き菓子も増えていた。ティエンは椅子に深く腰掛け、青空を見上げる。遠い海の向こうでは、あいつらも馬鹿みたいな顔で笑っているのだろう。
「……東への行程、どのくらいだろ」
ティエンがぽつりと呟くと、セドリックがカップを置いて告げる。
「気が早いぞ。まず目の前の茶を楽しみたまえ」
笑い声が爆発的に広がり、ポットから溢れる湯気が空へ溶けていく。ティエンはカップの取手を渋々と掴んで口元に運んだ。蘭の花か薔薇の香りか、よく知らないが気品ある香りが鼻腔をくすぐり、まろやかな甘みが舌の上に熱く滑って胸の奥まで満たしていく。
——早く和解交渉して皆と再会……の前に、ミルクを追加してみよう。
ティエンはカップを置くと安堵の微笑を漏らした。
昼下がりのパリ。市場の通りに馬車が停まる横で、アンドリューは紙袋を抱えて渋い顔で立っていた。まだ袋の中身は熱い。その時、小洒落た店の扉が音を立てて開き、中からルソーが現れた。
「おう、待たせたな。行こうか」
ルソーが我先に馬車に乗り込んだ。アンドリューは彼の背を追って苦笑する。
——ほんと、民衆ファーストだな。
時間かけて選んだパンを貧しい母子にあげ、また選び直した挙句に追加の品を買う。この男はそういう人だ。だから、ついていく。アンドリューは馬車の扉を閉めると、小窓を叩いて御者に合図を出した。馬車は市民を避けながら、灰色の建物を目指していく。
医務局の屋上、風がふわりと吹いていた。遠くにはノートルダム大聖堂が見える。尖塔をぼんやりと眺めながら、エリオットはベンチに座っていた。時々、風に揺れる雲も眺めている。彼の隣にはイザベルがいて同じ景色を見ている。やがて、屋上に続く扉が開いてルソーが乱入してきた。片手には紙袋、もう片方には小瓶を抱えている。
「お待たせ、パンを買ってきた」
イザベルが振り返る。
「ありがとう」
「いや、たまたま近くの屋台が開いていた」
ルソーは笑いながらベンチに腰を下ろし、紙袋を開く。焼きたてのパンの匂いが広がった。小瓶の中には苺のジャム。
「ほら」
ルソーはパンを半分に割った。イザベルに渡すし、もう一つをエリオットに差し出す。エリオットはゆっくり手を伸ばして受け取る。ルソーは微かに目を細めた。
エリオットが二人を認識し始めたのは最近だ。精神を壊した直後、彼は昼も夜も関係なく、誰かの名前を呼んでいた。ゼフィランサス、ミレーユ、ラウル。手を伸ばして探し続けていたが、それも少しずつ減った。今ではほとんど聞かない代わりに静かになっている。
三人は黙ってパンを食べ始めた。風が吹いて雲が流れ、ノートルダムの鐘が遠くで鳴り、街に荘厳な音色が響き渡る。エリオットが聖堂を振り返ると目尻が下がった。イザベルとルソーは顔を見合わせる。
何年かかるだろう。十年かもしれない。二十年かもしれない。あるいは、一生このままかもしれない。それでも、二人とも席を立たない。今日も隣に座っている。
季節は巡り、世界は少しずつ変わっていく。
それでも、三人の時間は静けさを伴って続いていた。
エトルタ、丘の上に立つ屋敷。海が見える景色を前に、ジャンは残りの花を抱えていた。先ほどまで雨が降っていて、二人は濡れた墓石をざっと拭っていた。今は妻クラリスが風で飛ばされないよう、花の置き位置を調整している。ジャンは彼女の背を見つめた後、空に目を向けた。今は雲の切れ間から光が差し込み、雲も徐々に後退して天気雨がぽつりぽつりと降っている。ジャンは三つの墓石に目を移すと、一つずつ指差していった。
「グウェナエル・ブランシェ、リラ・シャネル、ダヴィット・オードラン」
ジャンは最後に残された墓石の前で膝をつき、石に刻まれた名前を指先でなぞった。
「……マクシミリアン・ブーケ、か」
クラリスが立ち上がってスカートの裾についた細かい草を払い、ジャンをチラリと見た。
「どうかしました?」
ジャンは名前の下に刻まれた文字列を見て眉を顰めている。
「いや……アントワーヌと同じだな、と思って」
クラリスがジャンの側に寄ると、彼の指先が示す箇所を見て思わず目を見張った。
二〇〇〇年一月七日 —— 二〇二十八年四月六日
「……ほんとですね」
クラリスは眉を八の字にし、ため息を漏らした。ジャンは冷たい感触から指を離すと、胸に抱えた花を一輪ずつ墓前に供えていく。
矢車菊、アキレア、忘れな草。青、黄色、白。
ジャンは風に飛ばされないよう重石で調整すると、十字を切って指を組み、しばらく目を瞑った。クラリスも同じことをしている。海からの風が一頻り落ち着くと、ジャンは目を開けて墓石の文字を再度焼き付けると立ち上がった。
「戻ろうか」
クラリスが頷くとジャンは溜め息を吐いて踵を返す。
「結局、引越しの片付けも碌できていないな。エリオットもソフィーも無茶言いやがる」
「ジャン。二人が必死に守ろうとした人たちですよ。それに片付けを後回しにしたのも、あなたの判断では?」
クラリスがじとりとした目つきでジャンを見上げ、ジャンは顔を引き攣らせた。
「……君の言う通りだ」
クラリスは四つの墓石を眺めて微笑みを浮かべる。
「でも、これでよかったですね。海も近いですし」
ジャンは振り返って四人の戦士の名を見つめた後、安堵の色を瞳に湛えて「さ、行こうか」と言ってクラリスに腕を差し出した。墓前から離れていく二人は草地を下っていく。
「ちょっと休憩したら作業開始だ。今のままでは、ソフィーが卒倒するだろう」
「ふふ、そうですね。ソフィーをいつでも迎えられるように、張り切りましょうか」
まさか、その彼女が黒い馬に乗って颯爽と現れるとは……この時の二人は思うまい。
…………。
……ポツンと残された墓石四つ。そのうちの一つ、青年は墓石の上で片膝を立てて座っていた。燃え尽きたような灰色はない、漆黒を湛えた髪を取り戻している。青年は頭上に広がる青い空を眺めながら一人想う。
「天国にも地獄にも行かない代わり、こうして憩いの場ができるとは」
青年はジャンとクラリスの背に目を移した。二人の背はまだ青々とした草地に残っている。青年は茶色い瞳に溢れんばかりの涙を湛え、胸に手を当てた。
「——ありがとう、叔父さん。また会えて嬉しかった」
青年は頬を紅潮させ、鼻を啜ると墓石から飛び降りて地を蹴った。駆けていく拍子に、墓前の花々と草地が風に吹かれて揺れる。
青年の姿はあっという間に消えた。
見守りたい人の元へ、新たな使命を胸に抱えて。
——天気雨はいつの間にか止んでいた。




