最終章① 旅する船団
偽ネーデルラント船団は数日かけて運河を越えた。今、船はついにアラビア海へ到達している。
見渡す限りの青、空も海も広いが、だからといって気楽な航海というわけではない。むしろ逆、ここから先は完全な未知の海域だ。組織リー・ウェンから渡された海図はあるが、地中海とは勝手が違った。風向きも海流も季節風も何もかもが違う。おまけに、マダガスカル周辺には海賊がいるらしい。ヤン曰く「海賊っていうか海賊みたいな連中」とのことだったが、その説明で安心できるわけがない。そして、とにかく暑い。トルチュ島やカリブ海の暑さとは違う。空気そのものが重く、湿気を含んだ熱気が肌にまとわりついて離れなかった。
「右だ」
ルキフェルは羅針盤を見ながら言い、隣ではジャスパーが操舵輪を握っている。
「嫌だ」
「嫌じゃない」
「嫌だ」
「お前なぁ」
ルキフェルは額を押さえ、ジャスパーは真面目な顔で海を見ている。
「なんだよ」
「なんだよじゃない。右へ行く」
「行かない」
「行く」
「行かない」
「理由は」
「嫌な波がいる」
ルキフェルは空を見上げた。雲も少ない。海も穏やかで波も普通。
「どこにだ」
「いる」
「見えないが」
「いる」
ルキフェルは頭を抱えた。昔からジャスパーはこうだ。理屈が通じないが、問題はこの男の勘が妙に当たること。
「リー・ウェンの海図だと右だ」
「波は左って言ってる」
「波は喋らない」
「喋る」
ルキフェルは深々と溜息を吐いた時、船尾の階段を駆け上がってきたコリンが顔を出す。ニールもいた。
「あっ、またやってる」
「またやってるね」
「おい」
ルキフェルが睨むが、二人ともジャスパーの背に控えて覗き込んでくる。
「ちなみに、ぼくはジャスパー派」
「僕も」
「お前らな」
ルキフェルは思わず声を荒げるとジャスパーが得意げな顔をする。
「ほら」
「何がほらだ」
「多数決」
「海の進路を多数決で決めるな」
「でも嫌な波なんだよなあ」
「だからどこにいるんだ、その波は」
「向こう」
「雑すぎるだろ」
遠くで誰かの笑い声が聞こえた。甲板では今日も平和だ。未知の海、未知の国に不安はあるが、こうして仲間と馬鹿みたいな言い合いをしている時間は、案外嫌いじゃなかった。その時、甲板中に金属音が響き渡る。
カンカンカンカンカンッ!!
「うるせえな」
ルキフェルは思わず顔を顰めて音の方を見る。案の定、アニータが鍋の蓋を両手に持って景気よく打ち鳴らしている。
「お昼よー!!」
甲板中にアニータの声が響いた瞬間、コリンが両手を上げる。
「やったー! やっとだよ、お腹すいたぁ」
「今日の献立なんだろ」
ニールもニコニコと笑う。二人は進路の話など綺麗さっぱり忘れたらしく、揃って階段に向かって駆け出した。
「走るな」
「はーい」
ルキフェルは溜息を吐いて隣を見る。ジャスパーはまだ操舵輪を握っていた。
「サミュエルと代わるか?」
「あとでいい」
「飯は」
「水一杯かパン一個あれば充分」
「そうか」
ルキフェルは頷く。昔からこうだ。ジャスパーは食への執着が妙に薄い。放っておくと本当に食べないので少々厄介だった。
「あとでちゃんと食え」
「気が向いたら」
「食え」
「はいはい」
ルキフェルは眉間を揉む。本当に仕方のない男だ。それでも、操舵輪を握る横顔は真剣で、海だけは一瞬たりとも見逃していない。ルキフェルは船尾を後にして階段へ向かうが、途中で足を止めた。今頃、食堂代わりの船内は大変なことになっているだろう。マテオの飯は人気だ。配給が始まれば長蛇の列ができる。並ぶのは構わないが、正直なところ今は静かな場所に行きたかった。それに、やるべきこともある。ルキフェルは踵を返して甲板を横切る。船長室へ向かう途中、何人かとすれ違った。ジョルジュが声をかけてくる。
「ルキフェルさん、ご飯食べないんですか?」
「あとで行く」
「珍しいですね」
「勉強だ」
「……頑張れ」
ジョルジュが妙な顔を浮かべるも、ルキフェルは無視した。船長室へ辿り着くと扉を開ける。室内は静かだ。潮騒が遠く聞こえる。ルキフェルは机に向かって椅子に腰を下ろし、机上に積まれた本を開いた。漢文を前に数秒沈黙し、ルキフェルは眉間を押さえる。
「……なんで主語を省略するんだ」
ルキフェルは深々と溜息を吐いた。どう考えても、最後の敵が一番厄介だった。漢文と格闘しているうちに、どれくらい時間が経ったのだろうか。不意に扉が叩かれた。
「入れ」
ルキフェルが返事をすると扉が開き、ヤンが顔を覗かせた。
「失礼します」
相変わらず落ち着いた声だ。ヤンは室内に入るなり、教科書に目を落として口元を緩める。
「熱心ですね」
「暇だっただけ」
「なるほど」
ヤンは机の向かいに立ったまま続ける。
「必要でしたら、わたしたちが教えますよ」
ルキフェルの眉がぴくりと動く。
「いらん」
「そうですか?」
「そうだ」
「甲板で講座を開いてもいいのですが」
「やめろ」
「ワンも喜びます」
「やめろ」
「チャンもポーランも」
「だからやめろ」
ヤンは袖で口元を隠して肩を震わせる。
「こういう時こそ、わたしたち組織を頼ればいいじゃないですか」
「頼ってるだろ」
「どこがです?」
「航路」
「ああ。ですが、言葉も文化も含めてですよ」
ルキフェルは再び教科書に目を落とした。文字の羅列が並んでいる。見れば見るほど分からない。頭が痛かった。ヤンは窓の外に目を向ける。
「わたしとワン、それにチャンとポーランは清に先祖のルーツがあります。他の者たちも、シャム国や周辺国にルーツがありますので。この辺りの文化や言葉なら、ある程度は分かります」
そこでヤンは少しだけ言葉を切り、穏やかな声で続ける。
「それに、清はリュウ・ヨシマサ殿の故郷ですから」
ルキフェルは手を止めて口元を緩める。
「……そうか」
ヤンはふと思い出したように声を上げた。
「あ、そうそう。そのリュウ・ヨシマサ殿がですね……先ほど『ルキフェルの姿がない。さては飯抜きでもするつもりか』と、やや憤慨しておりました」
ルキフェルは眉をピクリと動かして羽ペンを置いた。
「……そうか」
「はい。あなたを呼びに来ました」
ルキフェルは椅子から立ち上がって教科書を閉じると机の上に放置する。
「行くぞ」
「勉強は?」
「あとだ」
二人は船長室を出る。廊下へ出るなり、ヤンは興味深そうに尋ねた。
「食になると師匠は怖いのですか?」
「怖い。ろくに食わない時も厳しい。残そうとするともっと厳しい」
「なるほど」
「昔、一度だけ逃げた」
「どうなりました?」
「捕まった」
「でしょうね」
ルキフェルは小さく溜息を吐く。たぶん今日もそうなる。呼びに来た時点で決まっている。昼食はヨシマサと同じ卓だろう。食べ終わるまで逃がしてもらえない。経験上、間違いなかった。
二人で船内に続く階段を降りると、昼時の船内は賑やかだった。木製の長机には人々が集まっている。リー・ウェンの面々、元海軍の仲間たち、海賊たち。様々な言語が飛び交い、笑い声が響いていた。誰かが乾パンを巡って揉め、誰かが料理のおかわりを要求している。どこもかしこも騒がしい。ルキフェルは漂ってくる香りに腹が鳴りそうになる。漢文のせいだ。たぶん。いや、絶対に漢文のせいだった。やがて視界の先にギャレーが見えてきた。その近くにはリュウの姿も。彼は振り返るなり穏やかに笑う。
「来たか。まあ、まずは食べようか」
「先に席座っててくれ。俺が持ってくる」
リュウが納得したように頷くが、数歩進んだところで立ち止まって振り返る。
「ちゃんと自分の分も持ってきなさい」
ルキフェルは怪訝な顔で言う。
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
リュウは「ふうん」と鼻を鳴らすも、空いた卓を探して歩いて行く。彼の背中を見送ってから、ルキフェルとヤンはギャレーへ入った。途端、マテオの低い声が飛んでくる。
「……遅い」
既に食事の配給は終盤らしい。鍋の中身もかなり減っている。マテオは呆れた顔のまま皿を取り上げる。
「悪いな」
ルキフェルは肩を竦める。マテオは手際よく料理を盛り付け始めた。煮込み料理、焼いた魚、少量の野菜、それからパン。見慣れた昼食だ。
「お前、飯抜きな」
「いや、それは駄目だ」
「何でだよ」
「ヨシマサに怒られる。マジで」
ルキフェルの言葉にヤンが吹き出しそうになり、マテオは鼻で笑った。
「冗談だよ」
「笑えねえ」
マテオはもう一皿に料理を盛り付け、ヤンが自分の皿を受け取る。ルキフェルは自分の分とリュウの分を持ち上げた。マテオも最後の盛り付けを終え、鍋の蓋を閉じると周囲を軽く片付け、布巾で手を拭いて二人の後ろについてくる。
三人はギャレーを出ると空いた卓を見つける。既にリュウが座っていた。四人は席に着くと昼食が始まった。気付けば、その日の話題のほとんどはリュウだった。昔話、東方の話、リー・ウェンの話。ルキフェルとマテオは半ば聞き役に回りながら相槌を打つ。ヤンは彼らの様子を穏やかな笑みで眺めていた。一方、船内の別卓では、ダミアンとコリンがベルナルドの世話をしていた。既に昼食は食べ終えている。二人の前でベルナルドが器用に餌を啄んでいた。
「ゆっくり食べろよー」
コリンが指先で机を叩きながら言う。向かいにはバーソロミューとニコラが座っていた。四人は取り留めのない雑談を続け、しばらくしてニコラが呟く。
「フランス、今どうなってるんだろうな」
「それなー」
隣の卓から声が飛んできて、ポーランが振り返った。口いっぱいにパンを頬張りながら頷いている。
「めちゃくちゃじゃない?」
「だろうな」
バーソロミューが鼻を鳴らすとポーランの隣——もっと正確にはバーソロミューと背中合わせの席——に座っていたワンが腕を組む。
「全くだ。今も王宮は混乱しているだろうな」
ワンが茶を一口飲むと、ダミアンは彼女の後ろ姿をじっと見つめて問いかける。
「そういえば……ワンさんって、なんか雰囲気変わりました?」
ワンの眉が上げて振り返る。
「雰囲気?」
「はい。なんというか……前より女性らしいというか」
ポーランが失笑し、ワンは茶碗を置いた。
「ああ、気付かなかったか? 私は女だよ」
ダミアンとコリンが瞬きをした。バーソロミューもニコラも、そして四人の声が綺麗に重なる。
「……は?」
ポーランが机を叩いて笑う。
「はははっ! だから言ったじゃないですかー」
「いや、待て待て待て」
「え?」
バーソロミューもニコラも混乱している。ベルナルドは平然と餌を食べていた。ワンは彼らの反応を見て肩を竦める。
「リー・ウェンとして活動している間は男装」
「さすがワンさんの男装術はすごいですねー」
ポーランが感心したように言い、ワンは長く伸びた髪を指先で梳く。
「まあな。逆に唯一見破ったのはニールだ」
「えっ、ニールさん?」
ダミアンが顔を上げ、ワンは頷く。
「ああ。初対面から妙に距離感がおかしかった」
「なんで分かったんですかね」
ニコラが不思議そうに呟くとワンは微笑みを浮かべる。
「本人に聞いてみろ」
ワンの表情はどこか穏やかだった。対するダミアンたちはまだ現実を受け入れきれていない。混乱はしばらく続きそうだ。
船尾では穏やかな風が吹いていた。
「……くしゅん」
ニールが小さなくしゃみをする。最大限抑えた結果、妙に可愛らしい音になった。
「風邪か?」
ジャスパーは木箱に腰掛け、ニールが持ってきたパンを頬張っていた。ニールは鼻先を擦る。
「違うと思う」
「誰か噂してるんじゃない?」
「あー」
二人の近くではロザリーが六分儀を覗いている。少し離れた木箱ではサミュエルとシャルルが、海図と計算板を前に腕を組んでいた。二人とも何やら難しい顔をして、シャルルが顔を上げた。
「……ジャスパー」
「ん?」
「左へ行ったね?」
ジャスパーが瞬きし、パンを齧りながら返事をする。
「行ったな」
シャルルの額に青筋が浮かび、隣のサミュエルも頷く。
「行ったな、じゃない」
「僕とシャルルで何度も計算し直したけど、結果は変わらなかった。ズレてるんじゃなくて、ジャスパーがズラしてるだけだった」
ジャスパーはパンを飲み込んだ。
「ああ」
「認めるのか」
シャルルが頭を抱えた時、ロザリーが六分儀から顔を離した。
「あ、やっぱり。私とニールの計算、合ってたんだ」
「だろう? 何回計算しても同じだったからね」
サミュエルが言い、ニールも肩を竦める。
「僕らが間違えてるのかと思った」
ジャスパーは残りのパンを食べながら言う。
「でも嫌な波だったしな」
シャルルもサミュエルも空を見る。ロザリーも見た。青空だった。シャルルが目を閉じて聞く。
「どの波だ」
「嫌な波」
「だからどの」
「嫌な波」
「具体的に」
「嫌な感じの」
「説明になってない」
サミュエルが即座に突っ込むもジャスパーは腕を組んだ。
「でも、避けたら快適だろ」
「それはまあ」
シャルルは認めざるを得なかった。実際、昼前から波はかなり穏やかになっている。船の揺れも少ない。
「理屈が分からないけど」
「おれも分からん」
ジャスパーは即答し、全員が頭を抱えた。ニールだけ笑いを堪えている。その時、船尾の階段から聞き慣れた足音が近付いてきた。ルキフェルはジャスパーを見ると、海図に目を落としてシャルル達も見て深々と溜息を吐いた。
「……お前、また勝ったのか」
その後、ジャスパーは操舵輪から追い出された。サミュエルとシャルルに「休め」と言われ、「嫌だ」と返したものの、ロザリーにも詰められて「はい」と力無く返事をして敗北した。現在、操舵輪はサミュエルが握っている。ジャスパーは不服そうな顔で船内の階段に向かっていた。どうやら昼寝でもするらしい。
「働きすぎなんだよ」
ニールの声が後ろから飛ぶも、ジャスパーは振り返らず片手だけ掲げた。甲板ではジョルジュとペネロペは帆の点検をしている。風向きと張り具合を確認しながら、何やら話し込んでいた。
少し離れた場所では、多民族集団の女たちが洗濯をしている。甲板の端に張られた縄には洗った布や、ハンモックが並んでいた。レオンの連れ合いの姿もある。彼女は桶の中の布を絞っている。休憩がてらレオンが甲板に出てくると、二人の視線が重なって微笑み合う。ルキフェルは足を止めてスザンヌの顔を思い浮かべ、眉間を押さえて考えを追い払う。今は違う。そういうことを考える時間ではない。たぶん。いや、絶対に違う。ルキフェルは船長室に逃げ込むと漢文の勉強を再開した。
「だから、何で主語がないんだ」
甲板のどこかで笑い声が響く。船は東へ進み続ける。そしてルキフェルは、恋心より先に漢文と戦うことになった。
夜、船はアラビア海を進んでいた。昼間の熱気は少しだけ和らいでいる。それでも、夏の夜風はどこか暖かい。リゼーヌとスザンヌも肩を並べていた。二人とも手摺に寄りかかって夜空を眺めている。雲は少ない、無数の星が頭上に広がっていた。リゼーヌが空を指差す。
「あれ、あれが夏の大三角。こっちが牽牛星で、こっちが織姫星」
「ああ……前にリュウさんが話してた」
「七夕伝説?」
「うん」
スザンヌが微笑むと夜風が銀色の髪を揺らした。
「年に一回だけ会える恋人たち。もう今年は終わっちゃったけど……リュウさんの話、素敵だったな」
「どれ?」
「地上では雨が降っていても」
スザンヌは夜空を見つめて照れたように笑う。
「雲の向こうでは二人はちゃんと会えてるって話。喜びのあまり流した涙が地上に降る雨。再会の雨だっけ」
「うん、私も好き」
リゼーヌも頷いた。遠くで波が船腹を叩いている。スザンヌは船内への階段に目を向けた。最近、あまり話せていない。ルキフェルは忙しい。考えることが山ほどある。分かっているけれど、少しだけ寂しかった。リゼーヌが不意に口を開く。
「そういえば、ルキフェルさんとは進展あったの?」
スザンヌが瞬きをした。
「え?」
「だから、進展」
リゼーヌは悪戯っぽく笑い、スザンヌは首を横に振る。
「ない。全然」
「ええっ?」
リゼーヌが目を丸くするもスザンヌは苦笑した。
「本当に」
「そうなの?」
「そうなの」
むしろ最近は話す時間すら少ない。そう言いかけて、スザンヌはリゼーヌをじっと見つめて問いかける。
「リゼーヌは?」
「え?」
「ニールとよく話してるよね」
リゼーヌの顔が真っ赤になって飛び上がった。
「えっ!? な、なななな何の話!?」
「そのままの意味」
「違う違う違う違う!」
リゼーヌは慌ててウロウロし始める。
「たまたまだから!」
「へえ」
「本当だから! 相談してるだけ!」
「ふーん」
「本当に!」
リゼーヌの挙動不審にスザンヌは吹き出しそうになる。分かりやすすぎる。リゼーヌは気付いていないらしいが、周囲から見れば一目瞭然だった。リゼーヌは頭を抱えてしゃがみ込んだ。耳まで真っ赤になっている。リゼーヌが微笑ましかったからこそ、スザンヌは胸の奥に意識を向けた。
——私、何しているんだろう。
どんな時も支えると決めたのに、最近の自分は遠くから見ているだけ。忙しいから、今は仕方ないから。そんな言葉ばかり並べて、気付けば距離を取っている。スザンヌは年に一度しか会えない恋人たちを思いながら空を見上げた。自分も同じ船に乗っているのに、自分自身に呆れている。
翌日の昼。水平線の向こうから現れた一隻の海賊船が、偽ネーデルラント船団に接近してきた。最初は様子見だったが、やがて相手が砲門を開く。警告でも挨拶でもない、明確な敵意だ。
「馬鹿だな」
マルクは呟くと即座に戦闘指揮を引き受ける。
「ルキフェル、戦闘権限よこせ」
「了解」
ルキフェルはあっさり引き下がる。こういう時の判断はマルクの方が早い。船内に彼の号令が飛ぶ。
「配置につけ!」
マルクの一声で空気が変わった。五人組が動き、元軍人たちが動く。多民族集団の異能持ちたちも動く。結果、戦闘時間は短かった。海賊船は砲撃戦で帆を失い、接近戦では圧倒され、異能持ちによる妨害まで受け、気付けば船体のあちこちが破壊されていた。甲板には泣きそうな顔をした海賊たちが並んでいる。
「降参!」
「すみませんでした! もうしません!」
「許してください!」
もはや襲撃ではなく謝罪会見だ。マルクは鼻を鳴らして船縁に足を乗せ、見下ろすように怒鳴る。
「オレたちに手ェ出したのが運の尽きだったな! この海域に棲む奴らに知らせてやれ! オレたちに近寄れば命はないってな!」
戦闘終了の号令が響き渡り、砲撃に参加した者たちは次々とバンダナを外し始めた。砲手長として指揮を執っていたマテオが、バンダナを外してマルクを見た。
「……はぁ」
ジョルジュが振り返る。
「どうかしました?」
「いや、あれだ。長引かせ過ぎだろ」
マテオは頭を掻いた。まだマルクが何か怒鳴っている。二人は顔を見合わせる。数秒後、なぜか同時に短銃に手を伸ばした。フリントフロック式短銃。火皿を確認し、弾薬を込める。
「ジョルジュ」
「はい!」
二人はまだ謝り続けている船長と、船縁にそれぞれ狙いを定める。乾いた銃声が響き、ジョルジュの弾丸は海賊船の船縁に命中し、木片が派手に飛び散る。
「ひぃっ!」
船長が悲鳴を上げ、続いてマテオが撃つ。銃声と共に弾丸は一直線に飛び、海賊船長の三角帽を吹き飛ばした。帽子が宙を舞い、船長本人は腰を抜かした。
「申し訳ありませんでしたぁぁぁ!!」
さっきまでより大きな謝罪が飛んできて、ジョルジュは銃を下ろす。
「当たらなくて良かったですね」
「だな」
マテオも頷いた。二人の様子を見ていたルキフェルは腕を組む。
「……やり過ぎだ」
「威嚇だ」
「威嚇です」
戦闘が終わり、甲板には再び日常が戻りつつあった。砲手たちは後片付けに追われ、異能持ちたちは損傷箇所の確認を始め、各所で安堵の空気が漂い始めている。そんな中、シャルルは何気なく自分の手を見下ろした。
「……ん?」
右手の甲、薄く血が滲んでいる。どうやら戦闘中に切ったらしい。火薬やロープや木材が飛び交う中では珍しくもない傷だった。痛みもほとんどない。
「いつだ?」
分からない、興奮していたのだろう。シャルルは指を動かしてみる。
「あとでやるか」
シャルルが歩き出した時、ペネロペが手の甲を覗き込んできた。
「シャルルさん、怪我してる」
「いや、これは——」
「怪我してる」
「だから、かすり傷だ」
「怪我してる」
シャルルは空を見上げた瞬間、ペネロペに腕を掴まれる。
「来て」
「待って、ペネロペ」
「来て」
シャルルはペネロペにずるずる引きずられ、近くを通り掛かったニールが笑いを堪えた。ジョルジュは見なかったことにしている。ルキフェルはシャルルを振り返って「ご愁傷様」とだけ言った。数分後、シャルルは船首側にある船医室に放り込まれる。
「連れてきた」
ペネロペが言うと、レオンは薬品棚を整理していた。レオンはシャルルを見るなり椅子を指差す。
「座れ」
シャルルは観念して椅子に腰掛け、レオンは慣れた手付きで傷口を確認した。
「浅いな」
「だから言ったでしょう」
「放置はするな」
酒精が染みてシャルルは眉を顰めた。ペネロペが繊維質の壁に寄りかかって腕を組む。
「ほら」
「ほら、じゃない」
「怪我は怪我」
「君はソフィーか」
「褒め言葉?」
「違う」
レオンは包帯を巻いていく。手際は相変わらず良く、数分もかからなかった。
「終わりだ」
「ありがとう」
シャルルは立ち上がると、今度は別の声が飛んできた。
「シャルル」
シャルルが振り返ると、入口にアニータが立っていた。
「怪我を隠そうとしたでしょう」
「隠してはいない」
「自己判断で放置しようとした。それを隠したと言うの」
シャルルは口を噤むとアニータは溜息を吐いた。
「船医がいないならともかく、この船にはレオンがいて私もいる。次からは来なさい」
シャルルは肩を落とし、苦笑しながら答える。
「善処する」
レオンは鼻を鳴らし、ペネロペは満足そうに頷く。アニータは呆れたように微笑んだ。どうやら、この船には面倒見の良い人間が多過ぎるらしい。
海賊船が視界の彼方へ消えていった頃、甲板もすっかり元の姿に戻っていた。砲弾の破片は片付けられ、火薬樽は所定の位置へ戻され、船員たちもそれぞれの持ち場へ散っていく。やがて、避難していた子供たちが再び甲板に姿を現した。
「わーっ!」
「待てー!」
「ベルナルド捕まえろー!」
元気な声が響き、ベルナルドが慌てて空へ逃げた。杖をついたイヴォンが階段を上がってくる。彼の隣にはチャンがいた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
チャンがさり気なく腕を支えるとイヴォンは苦笑した。
「過保護だな」
「当然です。僕たちの仲間ですから」
ルキフェルは船縁に寄り掛かっていた。走り回る子供たち、談笑する仲間たち、杖をつきながら歩くイヴォン。ルキフェルが視線を移すと、同じように子供たちを眺めていたスザンヌがいた。スザンヌと目が合うと、二人とも反射的に目を逸らした。その一部始終を見ていたマテオは、腕を組んで眉間に皺を寄せると盛大にため息を漏らす。
「どうした?」
近くを通ったジャスパーが聞くも、マテオは答えない代わりに顎で二人の方を指した。ジャスパーも見ると呆れた声を出す。
「……ああ、なるほど」
「なんなんだ、あいつら」
「さあ、思春期なんじゃないか?」
「二十代後半だぞ」
「精神年齢の話だ」
マテオは頭を抱えた。目の前では子供たちが走り回っているが、今の二人を見ていると、どちらが子供なのか分からなかった。




