第九章② 約束の証、この手の中に。
それから数日、熱を孕んだ風を受けながら船は東へ進み続けた。日差しは強い。甲板の木床は昼になると熱を持ち、裸足では歩けないほどになる。地中海を抜けた船団は着実にエジプト北部へ近付いていく。ある日の昼過ぎ、見張り台から声が上がった。
「見えたぞ!」
人々が次々と船縁に集まり、ルキフェルも顔を上げた。海の向こう、陽炎の中に街並みが見える。白い屋根と白い壁。陽光を反射して輝く建物群。港には無数の帆船が並んでいた。大小様々な船が行き交い、異国の喧騒が風に乗って届いてくる。空と海が溶け合うような青の中で、偽ネーデルラント船団はポート・サイドへ到着した。ルキフェルはすぐに声を張る。
「よし、食糧確保だ!」
甲板が慌ただしく動き始めた。夏場の長期航海において食糧は命だ。補給できる時に補給しておくことが鉄則。ニコラとポーランが真っ先にタラップを駆け下りる。
「行ってきまーす!」
「同僚も探してくるっす!」
二人は港の人混みへ飛び込んでいく。数時間後、積み荷の運搬作業を監督していたルキフェルの元へ、再び二人が戻ってきた。ポーランが息を切らしながら叫び、ニコラも報告する。
「いました、同僚たち!」
「港の奥です! 荷をまとめて待機しています。ヤンさんもいました。カルロータさんもディッキーさんも」
ルキフェルは頷くとニコラは声を弾ませて続ける。
「あとリュウさんもいました」
「そうか、じゃあ船をそっちへ向かわせる。そのまま待っていてくれと伝えろ」
「了解です!」
「行きましょう!」
二人は再びタラップを駆け下り、港の雑踏へ消えていった。ルキフェルは二人の背を見送ると、別の人物の顔が脳裏をよぎる。
——ソフィー、あいつは来ているか。
ルキフェルは踵を返して声を張る。
「そっち運べ、その樽は先に積め!」
人々が動いて荷が運ばれ、ルキフェルは再び作業に戻った。やがて積み荷の運搬作業は一通り終了し、船は直ちに移動を開始する。目指すは港の奥、運河へと接続する船舶が集まる区域だ。ここなら出港後、そのまま運河へ入れる。ルキフェルは船尾に向かい、懐から望遠鏡を取り出す。接岸地点を確認するため、レンズ越しに港を眺める。荷馬車、商人、船乗り、旅人、見慣れぬ服装の人々。東洋の装いをした集団を見つけた。少し離れた場所にはカルロータとディッキーも立っている。ディッキーは何か喋り、カルロータは聞いているのか聞いていないのか分からない顔をしていた。それから……。
「……なんだあれ」
ルキフェルは眉を顰めた。黒い馬がいる。港に馬がいること自体は珍しくないが、妙に目立つ。艶のある黒毛、体格も良い。誰かが連れてきたのだろうか。ルキフェルが視線を辿った瞬間、馬のことなど頭から消えた。ソフィーがヤンの隣に立っている。見間違えるはずがなかった。陽光の下で揺れる髪、見慣れた立ち姿。随分長い間会っていない気がした。実際には、そこまででもないのだろうが。ルキフェルはしばし望遠鏡を覗いていた。数秒か、あるいはもっと長かったか。息を吐くと望遠鏡を下ろして声を上げる。
「接岸準備だ、ロープ用意しろ! そっちの荷は固定! 急げ!」
甲板が慌ただしくなり、ルキフェルも歩き出した。やることは山ほどある。考えるべきことは多いが、頭の片隅では先ほど見た光景が消えなかい。船が岸へ寄せられ、甲板では最後の接岸準備が進められた。ロープの確認、積み荷の固定、船員たちの声。慌ただしさの中で、旧マクシム隊は手を止めた。彼らの視線は一方向、ソフィーに向いている。ジョルジュは船縁に手を置いて彼女の姿を見つめていた。
「……よかった」
その頃、ルキフェルは船尾に向かっていた。操舵輪を握るジャスパー、周囲にはマテオ、ニール、コリンが集っている。
「おい、ソフィーいたぞ。あいつ、元気そうだ」
ルキフェルが声をかけるとマテオが鼻を鳴らした。
「ま、どんな状況でも平気そうな女ではある」
「それは分かる」
ジャスパーも苦笑し、ニールは船縁の向こうに目を向ける。
「あの脱獄以来だよね」
「ああ」
確かにそうだ。あの夜以来、顔を合わせていない。すると、コリンが腕を組んだ。
「ここは船長を代表して謝罪してきてよ」
「は?」
「だって脱獄事件の中心人物じゃん」
ルキフェルが顔を顰めて舌打ちし、四人の無言の圧に耐えきれず深いため息を吐いた。
「……分かったよ。何か言いたいことあるか?」
ルキフェルの問いに四人は顔を見合わせた。マテオが指を一本立てる。
「一応、自分たちについてくるか聞いてみてくれ」
ルキフェルは片眉を上げた。
「本気か?」
「半分本気、半分冗談」
ジャスパーが笑い、ルキフェルは渋い顔をする。
「どっちだよ」
「本人次第でしょ」
「聞くだけ聞いて!」
ニールが肩を竦め、コリンも何度も頷く。
「……分かった」
ルキフェルは踵を返し、今度は旧マクシム隊の方へ向かう。ソフィーを見つめていた面々が彼に気付いた。
「これから彼女と話してくる。何か伝言は?」
一同が顔を見合わせ、シャルルが口を開く。
「自分たちは元気だ、と分かってもらえればいい。だから、心配するなと伝えてください」
「……分かった」
ルキフェルは頷いた時、船体が揺れて岸との距離がさらに縮まった。接岸まで、あと少し。港では相変わらずソフィーとヤンが話している。まだこちらには気付いていない。ルキフェルは船縁に手を置いて待った。船が岸に触れる、その瞬間を。船が接岸し、岸壁と船体がゆっくりと寄り添うとロープが投げられ、係留作業が始まってタラップが掛けられる。
「よし、行くぞー!」
誰かが声を上げ、荷物を抱えた東洋人たちが次々と乗り込んでくる。各地でリー・ウェンを名乗っていた者たち、長い旅路を終えた者たちが再び一つの船へ集まっていく。
「ただいまー!」
真っ先に飛び込んできたのは、ポーランとニコラだった。チャンとワンが続き、さらにリュウも甲板に足を踏み入れた。彼は周囲を見渡すとルキフェルを見つけて歩み寄る。ルキフェルは片手を上げて迎えた。
「ありがとう」
リュウが穏やかに笑い、ルキフェルは目を細める。
「礼を言われるようなことしたか?」
「したさ。それに、また男前になった」
「二十七になったばっかりだから」
ルキフェルは思わず苦笑し、リュウは頷くと空を見上げて呟く。
「今のお前を見たら、フランソワは誇らしいだろう」
ルキフェルの胸がじんわりと温かくなり、リュウと同じ方角を見て微笑する。
「……そうだといいな」
ルキフェルはリュウの荷物に目を向けた。
「疲れただろ。荷物は誰かに渡して休め。あとで積み荷も確認する」
「相変わらず船長だな」
「誰が船長だ」
リュウは声を立てて笑った。ルキフェルはタラップへ向かって足を掛けた瞬間、ディッキーとカルロータが駆け込んできた。
「ルキフェルさーん!」
ヤンもタラップを駆け上がり、ルキフェルとすれ違うと目が合った。ヤンは微笑みながら頷く。ルキフェルは頷き返すと前を見据えて一歩。また一歩とタラップを踏み締めて降りていく。太陽の光を正面から受けながら、ブーツが鳴らす音は木材から硬く冷たい音へと移り変わった。
ルキフェルは港に降り立つと、真っ直ぐ歩き出した。黒い馬の隣に立つソフィーのもとへ。ソフィーはルキフェルを視認するなり瞳を大きく見開く。
「ルキフェル……!」
ソフィーは思わず一歩後ずさった。当然だ。最後に会ったのは、あの夜だったのだから。ルキフェルは立ち止まり、数歩の距離を挟んで見つめ合った。潮風が吹いて互いの髪と服を揺らす。波の音が聞こえ、遠くで船員たちの声もした。ルキフェルは胸が高鳴ってつい微笑んだ。
——また、ここから何かが始まる。
ソフィーはヘイロンの肩に手を置き、ブルーグレーの瞳でルキフェルを捉えている。ルキフェルは首を傾げた。
「……来てくれたんだな」
ソフィーが一歩前に出かけて止まり、代わりにヘイロンの首筋を撫でた。
「……どうして、ここに?」
「お前に会いに来た」
ソフィーはルキフェルから視線を逸らして、船に目を向けると声を震わせた。
「……まさか……」
船の甲板上、旧マクシム隊の面々と、旅路を共にしてきた仲間たちが並んでいた。手を振る者もいる。ジョルジュなど今にも泣きそうだった。ルキフェルは振り返って彼らの反応を見ると肩の力を抜いた。
「お前に……全員に会わせたかった」
ソフィーの瞳が大きく揺れ、ヘイロンが鼻を鳴らす。
「みんな、無事でよかった……」
ソフィーの言葉を聞いた瞬間、ルキフェルは胸を張って犬歯を見せる。
「言っただろ。俺はまだ、死に方を決めてない」
「やることが大胆すぎるのよ。危険だし」
「まあな」
「……もう十分でしょ。これ以上、無理はしないで」
ソフィーが眉を八の字にして言うと、ルキフェルは目を伏せて囁く。
「わかってる。……でも、今回はこうするしかなかった」
潮風が吹き抜ける。ルキフェルは船の方を見ると、カルロータが手を振っている。彼女の隣でディッキーが何か叫んでいたが、聞こえない。聞こえなくていい。ルキフェルは再びソフィーを見る。
「来てくれて、ありがとう」
ソフィーが弾かれたように顔を上げ、目を細めた。
「こちらこそ……生きててよかった」
ソフィーは息を整えた後、遠くで揺れる帆船に視線を向けて問いかける。
「……で。これから、どうするの?」
ルキフェルも海に目を向ける。その問いに対する答えは、もう決まっていた。旧バティーユ邸で剣を振った日から、ずっと。ルキフェルは明瞭な声で告げていく。
「東へ向かう。ネーデルラントの船団を装って、この先の運河を越える。そこからは東の地をいくつか巡る予定だ。リー・ウェンが全部、段取りをつけてくれてる。……でな、東の偉い奴に一度会うことになってる」
ルキフェルは目を伏せて深呼吸すると、晴れやかな色を顔に浮かべてソフィーを見据える。
「そいつに会ったら……俺は船を降りる」
「……え?」
ソフィーの瞳が大きく揺れた。予想通りの反応に、ルキフェルは目を瞑って微笑を漏らす。
「海が近くて。どこかあったかい島国だ。人も多くない。争いも、きっと少ない。……そこで穏やかに暮らす」
ルキフェルの脳裏に、まだ見ぬ土地とまだ知らない海が浮かんでくる。自分でも数ヶ月前なら信じなかったが、もう迷わなかった。ルキフェルは瞼を開けると、真剣な眼差しでソフィーを捉えて歌うように告げる。
「——俺は、もう剣を持たない」
ルキフェルが言葉にした瞬間、身体の奥深くで一本の熱い芯が通った。剣は生きる理由、復讐は進む理由だった。戦うことしか知らなかったけれど、もう違う。
「捨てる、争いから身を引く。誰かの復讐も誰かの正義も、もう背負わない。——今度こそ、自由に生きる。逃げじゃない。……終わらせるんだ」
終わらせる。復讐を、憎しみを、戦い続ける生き方を。何より、自分自身を縛っていたものを。ルキフェルの中で獣が毛繕いをし、欠伸混じりの遠吠えをした。
——お前も、もう気に病まなくていい。
ソフィーは瞬きをすると首を横に振った。
「……そんなの、あなたらしくない……」
ルキフェルは思わず声を上げて笑うと空を見上げた。
「そうか? でもな、これが……今の俺だ」
ソフィーは目を伏せて寂しげに笑う。
「……そっか。じゃあ、フランスには戻らないのね」
ルキフェルは首を横に振った。
「戻らないんじゃない。戻れないんだ。事情が、あまりにも複雑すぎる。俺たちはもう海賊としても生きていけない。ここよりもっと遠くへ、誰も追いかけてこられない場所へ行く。——自由に生きるためにな。……それに」
ルキフェルは言葉を切って船に目を向けた。甲板の上、仲間たちの中にスザンヌもいる。風に髪を揺らしながら、こちらを見ている彼女の姿を見た瞬間、ルキフェルの胸の奥が温かくなった。
「守りたいものがあるんだ。……それには剣を捨てる必要がある」
旧バティーユ邸で見つけた答え。剣を振る理由ではなく、剣を置く理由。守りたいもののために戦うのではなく、守りたいものと共に生きるための選択だ。ソフィーは息を吐くと穏やかな声音で囁く。
「……そういうことだったんだ。じゃあ……お幸せに」
ルキフェルは首を傾げ、理解が追いつくと顔を顰めて目を逸らした。
「いや、まあ……まだ、何も言ってないんだけどな」
沈黙。潮風が吹いてカモメが鳴き、ソフィーが固まった。
「は? ……え? ……はあ!? ちょっと待って!!」
港中に響きそうな声に、ルキフェルは思わず耳を押さえたくなった。ソフィーは顔を真っ赤にして捲し立てる。
「ちょっと待って!! あなた、今なんて言った!? まさか……スザンヌに告白してないの!?」
ルキフェルは思わずギョッとして反射的に距離を詰める。
「おい、やめろ! 声がデカい!! 港だぞ、ここ!」
「だって!! 守りたいものができたとか! 剣を捨てるとか! 人生の進路変更みたいなこと言っておいて!! 本人に何も言ってないってどういうことなのよ!!」
ルキフェルは額を押さえ、舌打ちして目を逸らした。
「だから、これから言うんだっての。タイミングってもんがあるだろ」
「はあ……?」
ソフィーは頭を抱えたが、ルキフェルは内心では別のことを考えていた。
タイミングではない。たぶん、問題はそこじゃない。十年だ、十年。初めて会った頃から数えれば、それくらいになる。十年も抱えていたものをそう簡単に口にできるわけがない。しかも、相手はスザンヌだ。ただでさえ最近は向こうから距離が近い。抱きついてくる、笑いかけてくる、当然みたいな顔で隣にいるたびに調子が狂う。正直な話、ここまで来たらもう何も言わなくていいんじゃないかとさえ思う。……いや、よくないのは分かっている。分かってはいるのだが。
ソフィーはルキフェルの横顔を見て絶句していたが、溜め息混じりに言う。
「信じられない……あんな覚悟決めた顔しておいて、肝心なところで慎重すぎでしょ」
「うるさい。簡単に言えるなら、とっくに言ってる」
ルキフェルは吐き捨てるように言った。海軍に追われる方が、脱獄する方が楽だ。海戦の方が楽だ。少なくとも剣を抜けば済むが、これは違う。失敗したくなかったから余計に難しい。ソフィーはしばらく呆然とルキフェルを見ていたが、口元を緩ませて見上げる。
「……不器用すぎ。でも、逃げないって決めたんでしょ? 剣も争いも捨てるって言ったんだから」
「……ああ」
「じゃあ、大丈夫ね」
「……何がだ」
「ちゃんと幸せになれるわよ」
ルキフェルはソフィーから船に視線を移した。その視線の先にいる彼女を、今度こそ見失わないように。ソフィーはルキフェルを眺めながら口角を上げる。
「……でもさ。本番に行く前に一回ここで素直になってみたら?」
「……は?」
ルキフェルは眉を顰めて振り返ると、ソフィーは肩をすくめた。
「いや。だから練習、予行演習。いきなり本人の前で噛み倒すより、まずここで自分の気持ち整理しといた方がいいんじゃない?」
「余計なお世話だ。お前にとやかく言われる筋合いは——」
「あ、もしかして……また怖がってる?」
ソフィーが一歩踏み込むと、ルキフェルは渋い顔で掠れた声を漏らす。
「……違う」
「ほんとに? ねえ。恐怖と向き合わなきゃ、本当の意味で『強い』とは言えないでしょ」
港の喧騒が少し遠くなり、ルキフェルはソフィーから目を逸らした。返す言葉が見つからない。気付けば、また船の方を見ていた。スザンヌの姿を見た瞬間、胸の奥で何かが落ち着く。
「……しょうがないな」
ルキフェルはため息を吐くと、ソフィーは彼から少し距離を取った。ルキフェルは胸に手を当てると、目を閉じてフーッと疲れを出すように息をする。
——答えなら知っている。ずっと前から。……認めるのが怖かっただけ。
ルキフェルは目を開けると、表情が水に濡れたように生き生きと輝いた。
「俺は、スザンヌを愛してる。——心の底から」
ルキフェルが口にした瞬間、肩の力が抜けた。
ずっと前なら、生きていてくれればいいと思っていた。いつからだろう、それでは足りなくなったのは。処刑の後だったかもしれない。離れの中で泣いた日だったかもしれない。旧バティーユ邸で空を見上げた時だったかもしれない。分からない、ただ一つだけ確かなことがある。ここまで来るのは長かった。本当に長かったが、終わりではない。むしろ逆だ。これから続いていく。
——それに世界は残酷だ。人は人を傷つけて、国は人を切り捨てた。何度も、何度でも。それでも海と空はあった。風は吹いて、朝日は昇った。世界そのものはずっと変わらず、自分たちに美しいものを見せ続けている。なら、世界もきっと生き延びてきたのだろう。人が滅茶苦茶にしても、誰かに景色を見せるために。
ソフィーが涙ぐみながら笑いかける。
「……はいはい。今の、ちゃんと覚えときなさいよ。逃げたら許さないから」
「言われなくても」
ルキフェルは苦笑し、ソフィーが目つきを鋭くさせて声を落とす。
「ねえ、ルキフェル。もし、スザンヌを泣かせたりしたら……許さないから」
「ああ。大切にする」
——彼女も、仲間も。
ルキフェルが即座に答え、ソフィーは一瞬言葉を失うも息を吐く。
「……わかった。行きなさい、ルキフェル」
ルキフェルは頷いた。潮風が吹き、短くなった髪が揺れる。もう邪魔にはならない長さだった。ルキフェルが海を見ると、陽光を受けて波が煌めいている。進むべき航路も見えている。が、この先へ行く前に聞いておきたいことがある。ルキフェルは振り返るとソフィーを真っ直ぐに見据え、手を差し出した。
「……なあ。お前も来るか?」
ソフィーの視線がルキフェルの手に落ち、意を決したような面持ちでルキフェルを見上げる。
「私は行けない。残って、やることがあるから」
ルキフェルは肩を少し落として微笑を漏らす。
「……そうか。わかった、お前の選択だ。……ちゃんと尊重する」
ソフィーは声を張って語り始め、ルキフェルは耳を傾けた。多民族集団のこと、ゼフィランサスのこと、マクシムのこと、憎しみの連鎖のこと。次の世代や仲直りのこと。どうやら、船にいる仲間も語りかけているらしい。ルキフェルは一言も挟まないが、途中で少し笑ってしまう。相変わらずだ。
——本当に、どこまで行ってもソフィーはソフィーだ。誰かを助けようとするし、誰も見捨てない。どれだけ難しいことか知っていても、手を伸ばそうとする。だから、ずっと眩しかった。だから、自分にはできないことだと思っていた。
「——だから、私は行かない。ここに残って、私にしかできないことをやる。それに……亡くなった仲間のためにも、私は逃げない」
ソフィーが締めくくるとルキフェルは頷いた。決意は本物だった。たぶん、何を言っても変わらない。そして、変わらない方がいい。ソフィーの言葉に、ルキフェルの脳裏で何人もの顔が浮かぶ。フランソワとアラン、アントワーヌやもう会えない仲間たち。ソフィーは誰も放っておかない、誰も見捨てないことが自分にできることだと言った。ルキフェルは海を流し目で見る。青かった。どこまでも自由だったが、自由とは進むことだけではない。残ることもまた自由だ。ルキフェルは苦笑する。
「……俺が、あの海軍で本当にやりたかったことだ。結果的に……うまくはいかなかったがな」
本当なら、あの海軍の中で変えたかった。本当なら戦わずに済む道を探したかった。本当なら、誰も死なせたくなかった。だが、自分にはできなかった。ルキフェルは、今ここにいるソフィーを見つめた。彼女の背中は真っ直ぐだ、きっと歩き続けるのだろう。これからも、何年も何十年も、自分が諦めた場所で、自分が辿り着けなかった場所へ向かって。
「いい。その想い、お前に託す」
「……わかった。必ず受け継ぐ」
ルキフェルの肩の荷が少しだけ下りた。潮風が吹いて遠くで船員たちの声が聞こえるが、どれも耳に入ってこなかった。目の前にいるソフィーだけを見ている。自分の人生において大きな意味を持つ人間を挙げろと言われたら、その中にソフィーは必ず入る。ルキフェルはゆっくり顔を上げて声を震わせる。
「……俺はな、お前の言葉がなきゃ自分を変えられなかった。『恐怖から逃げるな』。……トルチュ島で言われた、あの一言。今もずっと刺さってる。だから、感謝してる。……この借りは命懸けで返す。たとえ海の果てまでだって」
ルキフェルは拳で胸を軽く叩き、ソフィーは目に涙を浮かべて微笑む。
「……あの時の私の言葉、間違ってなかったんだ」
ルキフェルは目を逸らし、肩をすくめてぼそりと言う。
「……感謝なんて俺らしくねぇけどな。ありがとう」
ソフィーは胸の手を当てて囁く。
「でもね。私もあなたの言葉に救われてる。『今この瞬間を選べ』って……私、自分にできる道を見つけられた」
ソフィーはひとつ息を吐くと、首にかけていた首飾りを外した。陽光を受けて青い石が揺れる。
「これ、あげる」
ルキフェルは目を瞬いて思わず首を横に振る。
「……仲の良かった友人にもらったんだろ。たしか約束がどうとか……」
「ええ。でも、前にほしいって言ってたじゃない」
「……言ったけどさ、本当に俺がもらっていいのか? お前にとって……支えだったんじゃないのか」
「そうだったよ。でも、今は平気」
ソフィーの視線が腰の短剣に落ちるも、すぐに首飾りを見つめる。
「ねえ、ルキフェル。龍と蛇は『守るもの』と『守られるもの』なんだって。だから……あなたの旅のお守りに、ちょうどいいと思う」
ルキフェルは首飾りを見つめていた。青い光が翡翠の瞳に静かに映り込む。
「……ああ。たしかに、悪くないな」
ソフィーは首飾りを握り直して穏やかな声音で告げる。
「その友達ね、夢があったの。空と海が交わる場所を目指したいって。冒険って言うのかな、いつか船に乗せるって意地張ってた。でも、私は女だから乗るには証がいるって言ったら……この首飾りをくれたの。再会したら返してって。……でも、叶わなかった。だからね、ルキフェル。あなたは自由な人。誰よりも。この首飾りは自由の象徴なの。私が持つより、あなたが持つ方がいい」
ソフィーがルキフェルに近付き、首飾りを差し出した。
「私は船に乗れない。でも、あなたが持ってくれたら……あの子の想いも、きっと海の上で自由になれる。——お願い、受け取って」
その瞬間、ルキフェルの視界が不意に揺らいだ。潮風が消え、港の音が遠のく代わりに、もっと昔の匂いがした。
——柔らかな陽射しに暖かな手。低く穏やかな声が降ってくる。
「寂しい時は、それを握りなさい」
幼い自分が顔を上げると、自分とよく似た目元と茶色い瞳が見下ろしていた。胸元に目を落とすと、銀の龍と蛇と青い宝石が鈍く光っている。試しに掌で掬ってみると、ひんやりとした感触に思わず腕が粟立った。
「これは……?」
男は膝をついて笑うと目線を合わせてきた。
「誕生日のプレゼントだ。いつも寂しい想いをさせているだろうと思ってな。せめて、俺の代わりにしてほしい」
幼い自分は思わず喉を鳴らした。本当は違う。代わりなんかいらない。傍にいてほしい。そう言いたかったのに、言えなかった。男は海に行かなければならない。仕事だから。男は優しく笑って立ち上がると、頭を撫でてくれた。
「俺はいつも海にいるから。それを握って海を眺めるといい」
珍しかった。勉強の時は厳しいのに、こんな顔をするのは。だから、余計に胸が苦しくなった。もっと一緒にいたい。そう思ったけれど、幼い自分は寂しさを呑み込む代わりに別の言葉を吐いた。
「……ありがとう、父さん」
心の奥底から笛の音が聴こえてくる。……いや、違う。響きの中に息吹を感じる。
——遠吠えだ。
景色が砕け、港の音が戻って波が鳴り、潮風が強く吹いて髪を揺らした。目の前にはソフィーがいる。差し出された首飾りを見据え、ルキフェルは思わず息を止めた。
——なぜ、今になって思い出した? 分からないが、一つだけ確かなことがある。
ルキフェルは震える手で首飾りをそっと受け取り、一度握り締めると胸に当てる。目を瞑ると鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなった。
——この首飾りはずっと前から海と共にあった。父の願いも、ソフィーの願いも残っている。
ルキフェルは目を開けると慎重な手つきで首にかけた。銀細工の龍と蛇、その中央でアクアマリンが陽光を受けて輝く。
「……どうだ、似合うか?」
少し照れ臭そうにルキフェルが言うと、ソフィーは一瞬言葉を失うもにこやかに笑う。
「うん、すごく似合ってる」
ルキフェルは首元に触れると、ソフィーをまっすぐ見据える。
「……今度こそ本当に別れだな」
ルキフェルは肩の力を抜いて笑いかけた。
「無理すんな。でも、手ぇ抜くなよ。——ちゃんと生きろ」
ソフィーが目を見開いて息を呑む。彼女の表情が少し可笑しかった。昔の自分なら、こんな言葉は言えなかっただろう。死ぬことばかり考え、復讐ばかり考えていた。今は違う。生きてほしいと思う。仲間にもソフィーにもスザンヌにも、自分自身にも。
「……うん。あなたも、ちゃんと生きて」
ソフィーが微笑みかけると、ルキフェルは頷いて踵を返す。石畳を踏みしめると港の喧騒が戻ってきて、船が近づいて仲間たちが見える。ルキフェルがタラップを上がると木の感触が靴底から伝わった。彼が甲板に足を踏み入れた瞬間、ジャスパーが真っ先に声をかける。
「おかえり」
「長かったな」
マテオが腕を組み、ニールは「どうだった?」と興味津々に聞く。コリンはそわそわしていた。
「泣かせてないよね?」
「お前は俺を何だと思ってる」
ルキフェルが即座に返すと四人は腹を抱えて笑った。ルキフェルは甲板を見渡すと、肺いっぱいに潮風を取り込んで明瞭な声を張り上げる。
「出港準備!」
甲板が一気に動き出す。帆の確認、索具の点検、荷の固定と見慣れた光景だったが、以前とは少し違う。もう逃げるための船じゃない。未来へ向かう船だ。ルキフェルは船員たちの間を歩き出し、舳先へ向かった。風が吹き、青いコートの裾が揺れる。ルキフェルが船首に辿り着くと、目の前には運河が待ち受けていた。ルキフェルは目を細めて運河の向こうを見つめ続ける。白い帆布が大きく膨らみ、索具が軋む。
「綱、離せ!」
甲板のどこかで声が飛び、船員たちが動いて舫い綱が外される。水面に落ちた縄が波間を揺らし、船体が岸を離れていった。ルキフェルは舳先に立ったまま振り返った。港にはソフィーの姿がある。彼女は黒馬の傍らに立ち、潮風に髪を揺らしていた。彼女の姿を目に焼き付けていると、ジャスパーがやってくる。
「ルキフェル。右舷、問題なし」
「左舷も問題ねえ」
マテオが続き、ニールは船縁から身を乗り出して運河を覗いた。
「うわー、ほんとに出るんだ」
「当たり前でしょ」
コリンが笑う。肩にはベルナルドが止まっていた。ベルナルドは首を傾げて「カァ」と一声鳴く。ルキフェルは仲間たちの顔を見渡し、意識を再び前方に向けた。彼の背後で慌ただしい声が飛び交う。
目の前には運河、長く伸びる水路の先には地平線。さらに、その先は東方世界。まだ見ぬ海、まだ見ぬ国、まだ見ぬ景色、まだ見ぬ人生。船は速度を上げ、水を切る音を変えた。船首が生み出す白波が長く伸びていき、港が少しずつ遠ざかる。石畳も倉庫も、黒馬もソフィーの姿も小さくなっていく。
それでも、ルキフェルはもう振り返らなかった。失ったものも、取り戻せなかったものもある。それでも胸元には受け継いだ想いがある。仲間がいて、守りたい人がいる。進みたい未来がある。だから、前を向いた。眩しいほどの青空が広がっている。怖くないわけじゃないが、それ以上に楽しみだった。
未来を楽しみだと思えたのは、人生で初めてだ。
「東へ進むぞ」
船はルキフェルの声に応えるように波を割った。
その先、まだ誰も知らない新しい航路へ向かって。




