第九章① 東方逃避行
偽ネーデルラント船団は地中海を緩やかに進んでいた。
各国海軍の目を掻い潜るため、船団はアフリカ大陸沿いを南下している。必要があれば途中の港に寄り、物資を補充する予定だった。大小様々な船が行き交う傍で、甲板では派閥も出自も関係なく人々が仕事に励んでいた。荷物を整理する者、帆の点検をする者、子供たちの相手をする者、海を眺める者。皆が居場所を見つけ始めていた一角、ダミアンとコリンは船縁に背を預けて腰を下ろしている。二人の視線の先、一羽のワタリガラスがトテトテと木床の上を歩いていた。
「名前、どうしましょうか」
「うーん、難しいよね」
ダミアンが呟き、コリンが空を仰いだ時、ペネロペとジョルジュが近づいてきた。
「何が難しいの?」
ジョルジュが尋ねた瞬間、カラスは彼の方に向かってツンツンとズボンの裾を啄み始める。
「わっ、ちょっとくすぐったいんだけど」
ジョルジュがしゃがみ込んでカラスの頭を撫でる。カラスは目を細めて喉を鳴らした。ペネロペが腕を組む。
「んで? この子、二人で世話するの?」
「うん。なんか流れでそうなった」
「流れって怖いねえ」
コリンが渋い声で言い、ペネロペはケラケラ笑った。ルキフェルとマテオが通り過ぎざま、彼らに目を向けてくる。どうやら甲板作業の指示を終えたらしい。ルキフェルはワタリガラスを見るなり眉を顰めた。
「おい、あんまり彷徨かせるな。そのうち木箱の下敷きになるぞ」
「カァ」
「返事するな」
ルキフェルが声を荒げた。マテオはしゃがみ込み、膝の上で頬杖をついてカラスを眺める。
「……一羽なら大した量じゃねえな」
ダミアンは顔を上げて改めて尋ねる。
「皆さん、名前は何がいいと思います?」
「クロで良くない?」
ペネロペが即答し、ジョルジュが吹き出す。
「安直すぎる、もう少し捻ろうよ」
「じゃあ何さ」
「もっと親しみある名前とか、知ってる人とかさ」
ジョルジュはカラスの頭を指先で掻くと手を離し、カラスは羽繕いを始めた。コリンはカラスをじっと見つめると口元を緩める。
「……ベルナルド。ぼく、ベルナルドがいいなあ」
ルキフェルはカラスを見下ろした。かつて単身で乗り込んできた軍服の男、もう四年も前のことが脳裏に過ぎる。ルキフェルは穏やかに笑い、マテオも頷く。
「……いいんじゃないか」
「ああ、悪くねえ」
「さんせーい!」
ペネロペが即座に手を挙げ、ダミアンも微笑む。
「では決まりですね」
ジョルジュはルキフェルとマテオ、コリンの笑みを交互に見てから再びワタリガラスの頭を撫でる。
「うん。心なしか本人も喜んでそうだし」
その瞬間、ワタリガラスのベルナルドは胸を張るように首を持ち上げた。
「カァ!」
仲間たちは顔を見合わせると笑い声が広がった。
その後、船はマルタで一時的に停泊した。港で必要な物資を補充し、人々は束の間の休息を取り、水平線から朝日が顔を覗かせる頃には再び出港した。順調だ。このまま進めばエジプト北部、ポート・サイドへ辿り着く……はずだった。
「ルキフェル」
昼頃、船尾で海図を確認していたルキフェルにサミュエルが声をかけた。
「なんだ」
ルキフェルが顔も上げずに聞くと、サミュエルは一瞬言い淀んでからキッパリと告げる。
「少しだけでいいんだが……エーゲ海を見てみたい」
「は?」
ルキフェルは顔を上げ、シャルルも作業を放棄して二人に近寄ってくる。
「ぼくも見てみたいですね」
「お前もか、観光じゃないんだぞ」
「わかっています。が、一生に一度あるかないかの機会ですし」
「そうだな。海軍にいた頃ですら行けなかった」
ルキフェルは眉間を押さえた。嫌な予感がする。案の定、近くにいたジョルジュまでも反応する。
「エーゲ海? え、ボクも見たいです」
「あたしも! ロドス島、聞いたことある!」
ペネロペが駆けてきて、リゼーヌまで混ざる。
「ギリシャですよね? 本で読んだことがあります」
「面白そうだな」
「お前までか」
マルクも声を上げ、ルキフェルはため息を吐いた。気付けば周囲には人が集まっている。
「見たい!」
「見たいな!」
「せっかくだし!」
子供たちまで言い始めて甲板がざわつく。ルキフェルは腕を組んで空を見ると、盛大なため息を漏らした。
「……わかった。ただし、少しだけ」
子供たちから歓声が上がり、ペネロペが飛び跳ねる。
「やった! 船長ありがとう!」
「誰が船長だ」
「船長じゃん」
「違う」
こうして、船団は一時的に進路を変更した。ギリシャ本土とクレタ島の間で、青い海はどこまでも広がる。島々が点在し、白い家々が遠くに見えた。子供たちは歓声を上げ、大人たちも思わず足を止めて海を見ていた。数日後、船団はカルパトス島とロドス島の間を抜けていく。甲板では人々がまだ景色を眺めていた。ルキフェルは船尾に立つサミュエルとシャルルに近付く。
「これで満足か」
「ああ、満足だ」
サミュエルは満悦の表情を隠そうともせず言い、シャルルは頭を垂れた。
「ありがとうございます。想像以上でした」
「……なら良かった」
ルキフェルは鼻を鳴らした。本来なら寄り道などする必要はなかった。それでも、彼は皆の願いを聞き入れた。サミュエルは腕組みを解いてルキフェルを見つめる。
「ありがとう、本当に」
「そんな大袈裟な話か」
ルキフェルはまんざらでもない顔で言い放った。
季節はすっかり夏へと移った。世間ではとっくに七月に入っている。地中海を抜け、東へ向かう船団の悩みも少しずつ変わり始めていた。暑さと食糧物資の傷みとの戦いだ。とはいえ、ルキフェルはあまり心配していなかった。食糧管理はアニータがいて、調理はマテオがいるし、何かあればレオンもいた。おまけに、多民族集団の異能持ち達まで、積極的に知恵や能力を提供している。想像以上だ、彼らは守られるだけではない。この船の一員として生きている。ポート・サイドに着いたら改めて食糧確保に動こう。ルキフェルは甲板の木箱を囲んでいた。向かいにはニール、その隣にはロザリー。三人で航海計算を進めている時、甲板に乾いた爆発音が響き渡る。
ボンッ!!
ルキフェルは顔を顰めて周囲を見渡すと、いつの間にか白煙が広がっていた。
「わー!」
「逃げろー!」
近くにいた子供たちが蜘蛛の子を散らすように退散していく。ルキフェルは鉛筆を木箱の上に置き、ニールとロザリーに告げて立ち上がる。
「……ちょっと見てくる」
ニールが苦笑し、ロザリーは怪訝な顔をする。
「あー、たぶんコリンだね」
「たぶんじゃないと思う」
ルキフェルが白煙の中を突き進むと咳き込む三人のシルエットを見つけた。
「げほっ」
「ごほごほっ!」
「うわぁ……」
コリンとジャスパー、ポーランまでいる。ルキフェルは腕を組んで睨むと、三人が固まった。
「……誤爆か」
コリンは目を逸らし、ジャスパーが片手で煙を払う。
「また失敗しちゃったよぉ……」
「またじゃねえんだよ。こいつ最近、錬金術下手になってる」
「なってない!」
「なってる」
ポーランも涙目で頷いた。
「以前なら煙だけで済まないっす」
「フォローになってない!」
「異能持ちの皆さんからまた馬鹿にされますよ」
「うう……」
コリンはしゅんとなった。ようやく白煙が晴れ、ルキフェルは足元を見下ろした。甲板いっぱいに広げられた錬金術道具に薬品、金属片と怪しい液体。ルキフェルはコリンを見据えて断固とした口調で告げる。
「ポート・サイドを抜けるまで禁止」
「ええっ!? なんで!?」
「なんでじゃない」
「ぼくの力はいつ発揮されるの!」
コリンは指先に小さな火を灯した。
「ほら見て!」
ジャスパーが即座にコリンの手を掴む。
「やめろ、ここで火を出すな。危ないだろ」
「ちょっとくらい!」
「帆船で言う台詞じゃねえ」
ルキフェルは額を押さえて溜め息混じりに言う。
「お前の能力はジャスパーや子供らのため。酒を真水に変えるだけでいいんだよ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
「ぼく、異能持ちなんだけど!?」
「知ってる」
「もっとこう、戦闘とか!」
「今は必要ない」
「うわぁぁぁ!」
コリンはその場に崩れ落ち、ジャスパーは肩を震わせた。ポーランも口元を隠しているが、目が誤魔化せていない。ベルナルドが船縁から「カァ」と一声鳴いた。
七月十日、夜。船長室という名の自室で、ルキフェルは机に向かっていた。漢文の教科書が机上に広げられている。
「……なんで同じ字なのに意味が変わるんだ」
ルキフェルは眉間に深い皺を刻みながら教科書を睨みつけた。東へ向かう以上、少しでも言葉を覚えたいと思って始めたのだが思った以上に難しい。やはり、海図の方がまだ分かりやすい。その時、コンコンと扉が叩かれる。
「入れ」
ルキフェルが顔を上げると、スザンヌが入室してきて背筋を伸ばす。
「ルキフェル、ちょっといい?」
「どうした」
「ここじゃなくて、別の場所で」
スザンヌは指先を弄びながら言った。ルキフェルは首を傾げた。何か揉め事だろうか。子供たちか、それとも大の大人か。最近は平和だが、人数が多い分だけ問題も起きる。
「分かった」
ルキフェルは教科書を閉じると慌てて机の端に追いやった。スザンヌはそんな彼の様子をほくそ笑む。二人は夜風が吹く甲板に出た。星空が広がっている。ルキフェルはスザンヌについて歩いていると、船内へ降りる階段の近くで彼女が立ち止まって振り返る。
「目、閉じて」
「は?」
「いいって言うまで絶対開けちゃダメ」
「なんだそれ」
「いいから」
スザンヌの有無を言わせない口調にルキフェルは渋々目を閉じる。
「これでいいか」
「うん」
次の瞬間、手を掴まれてルキフェルは思わず肩を揺らした。
「転ぶから」
「……分かった」
暗闇の中を歩くと、船の揺れがいつも以上に大きく感じた。スザンヌの足音、真横から誰かの笑い声、遠くで鳴る波の音。やがて歩みが止まった。
「いいよ」
ルキフェルは恐る恐る目を開けると絶句した。テーブル上、豪勢な料理が並んでいる。肉料理と魚料理、焼き立てのパンに果物。酒もある。そして、声が上がった。
「おめでとう!」
ジャスパーとマテオ、コリンとニール。それと旧マクシム隊が杯を持っていた。呆然と立ち尽くすルキフェルに、スザンヌが半ば強引に杯を押し付ける。
「……なにこれ」
「あれぇ? もしや忙しすぎてぇ、忘れてたやつかー?」
ルキフェルが困惑していると、ジャスパーが既に少し赤くなった顔で笑った。もう酔っている、強い酒に弱いくせに。マテオが呆れて肩を竦める。
「今日、誕生日だろ」
ルキフェルは瞬きを繰り返してから額に手を当てた。ニールが嬉々とした声で言い、コリンも何度も頷く。
「サプライズで準備したんだ」
「頑張ったよ!」
元軍人たちも笑っている。ルキフェルは額から手を離すと険しい顔をした。
「……すっかり忘れてた」
「普通忘れる?」
「忘れるのよ、この人」
ペネロペが吹き出し、ロザリーが苦笑した。アニータが杯を掲げながら訊ねる。
「それで? 幾つになったの」
ルキフェルは渋い顔で指折り数える。
「えっと……二十七」
一瞬の静寂。次の瞬間、ジョルジュが声を上げた。
「えっ、二十七!?」
「思ったより若い! 三十超えてると思ってた!」
「失礼だな」
リゼーヌの言葉にルキフェルが即座に言い返す。笑い声が広がる輪の中でルキフェルはようやく気付いた。自分は今、祝われている。その後、立食が続いて料理は次々と減り、酒も少しずつ空いていく。その時、食事の匂いに釣られたのか更なる来訪者が現れた。
「なんだこれ」
レオンの後ろにはアーシャとフェリス、ニコラもいる。
「え、もしや宴会ですか?」
アーシャが目を輝かせ、ニールが即答する。
「宴会だよー、ルキフェルの誕生日!」
「へえ、今日だったんですね」
フェリスが感心したように頷き、シャルルが追加の杯に酒を注いでいった。
「肝心の主役は忘れてましたけどね」
笑いが起きる流れのまま、ペネロペがレオンに身を乗り出した。
「ねえねえ、ルキフェルとの出会いっていつー?」
レオンは一瞬考えてルキフェルをちらりと見る。
「たしか六歳だったな。ある夜、ゼフィランサスが子どもを二人連れて帰ってきた。そのうちの一人がルキフェルだ」
ルキフェルが酒を口に含むと指先で頬に触れた。鏡や水面から目を背けてきた。今は違う。
「……そういや」
ある男の顔が脳裏をよぎった。アランの穏やかに笑う顔、傷だらけの少年に向けられた言葉。
——この顔は生き延びた証だ。
ルキフェルは一人ほくそ笑むと周囲を見渡した。皆が押し黙ってルキフェルを見ている。
……俺に続きを促すな。恥ずかしさで死ぬ。
ルキフェルは一瞬躊躇うも、あの男の背を思い出して眉間の緊張を解いた。
「……俺と一緒にいた子ども、お前たちの隊長だったぞ」
一同が固まり、ジョルジュが素っ頓狂な声を出した。
「……え? マクシム隊長が?」
「ああ。あいつの本名、アントワーヌだ」
再び静寂。元軍人たちは顔を見合わせ、ルキフェルは杯を持ち上げた。
「その辺の話は、また気が向いたら話すだろ。……レオンが」
「なんで俺なんだ」
レオンがつい声を荒げた。船内に笑い声が広がり、イヴォンとマルクとポーランも参加してきた。夜風が彼らの声を運んでいく。七月十日の夜はまだ終わりそうにない。




