第八章④ さらば、フランス。
もちろん、脱獄犯たちが堂々と歩けるわけではない。帽子を深く被る者、ひたすら目を伏せる者、人混みを避ける者。それぞれ警戒しながら進んでいく。幸い海軍も王宮も混乱の最中だ。誰かに呼び止められることもない。やがて、港に辿り着くと潮風が吹き抜けた。
「あ」
ニールが手を振った。港の隅、桟橋の先にポーランが立っている。
「お待ちしてましたー」
「船は?」
ルキフェルが尋ねるとポーランは海を指差した。
「もう造船所は出てます。ここで落ち合う予定っす」
彼の言葉通り、しばらく待つうちに沖合から一隻の帆船が姿を現した。ネーデルラント船団に偽装された逃亡船が、風を受けながらゆっくりと近付いてくる。桟橋では皆が自然と足を止め、船もまた慎重に接岸作業に入る。ルキフェルは皆の背後に控えていた。まだ少し時間が掛かりそうだ、とルキフェルが判断していると背後から声がかかる。
「ルキフェル」
ルキフェルが振り返るとセドリックが立っていた。彼の肩には一羽のワタリガラス、黒い羽が陽光を受けて艶やかに輝いている。
「……セドリック」
ワタリガラスは周囲を見回したあと、「カァ」と一声鳴いて飛び立って何故かコリンの頭の上に着地した。
「え?」
コリンが固まるも、ワタリガラスは羽繕いを始めた。
「なんで!?」
「似合ってるぞ」
「似合わないよ!」
ジャスパーが笑い、コリンの抗議が響く。周囲から笑いが漏れる一方、ルキフェルはセドリックと向かい合った。
「たくさん世話になった」
セドリックは朗らかに笑う。
「君たちのおかげで退屈しなかった」
「それはどうだか」
ルキフェルは苦笑した。
「でも、ここまで本当に感謝してる。何度も助けられた」
セドリックは頷くと、二人は抱擁した。
「元気で」
「あんたも。今度こそ平穏な人生を送れ」
返事の代わりに、セドリックはルキフェルの背を叩いて離れる。帆船がゆっくりと接岸した。船体が桟橋へ寄せられ、ロープが投げられ、船員たちが固定作業を始める。
「よし」
仲間たちは荷物を持ち直して一人、また一人とタラップへ向かう。ジャスパーがセドリックに手を振った。
「世話になったな」
「またどこかで」
ニールも手を振って笑い、マテオも礼を言う。コリンは頭にカラスを乗せながら「じゃあね」と告げた。皆、それぞれの形で別れを告げながら船に乗り込んでいく。ルキフェルも最後にセドリックを見てタラップに足を掛けた時、前方にいるスザンヌが声を上げた。
「あっ」
「どうした」
ルキフェルが顔を上げると、スザンヌは一点を見つめていた。ルキフェルもその先を見る。人混みを掻き分けるようにして、三人の男がこちらに向かってきていた。ティエンとヴィクトル、そしてグレゴワールだ。三人とも綺麗な服装だったが、どこか乱れている。少し遅れて歩いてくる男の姿を見た瞬間、スザンヌが息を呑んだ。
「……お父様?」
ティエンが叫びながら桟橋を踏み鳴らして駆けてきた。肩で息をしている。
「あー、間に合った! ルキフェル!!」
「なんだ」
「ちょっと上がっていい!? オレも皆にお別れ言いたい!」
ルキフェルは呆れてため息を吐いた。
「勝手にしろ」
「やった!」
ティエンは即座にタラップに飛び付き、勢いそのままに駆け上がる。続いてグレゴワールも平然と歩いて渡った。数秒後、甲板の方から歓声が上がる。
「グレゴワールさん!」
「ティエン!」
「おお!」
「うるさいな……」
ルキフェルは顔を顰めたが、口元は少し緩んでいた。スザンヌはタラップの上から動けずにいた。ヴィクトルとフィルマンもまた彼女を見ている。ルキフェルは首を傾げたあと小声で告げる。
「……ここで待ってる」
スザンヌはルキフェルを振り返って頷いた。
「うん」
スザンヌはタラップを降り、父と兄のもとへ桟橋を渡っていく。ルキフェルは彼女の背中を見送った。スザンヌはフィルマンの前で立ち止まると、胸の前で両手を重ねて深く頭を下げた。
「家の名に恥じることをして、申し訳ございませんでした」
フィルマンは瞳を揺らし、スザンヌに歩み寄ると彼女の両肩に手を置いた。スザンヌが弾かれたように顔を上げると、フィルマンは慈しみの眼差しでスザンヌを見つめている。
「謝るのは私だ。勘当などしてしまった。父親失格だ」
「お父様……」
「許してくれとは言わん。だが、お前の幸せだけは願っている」
スザンヌの瞳に涙が浮かぶ。フィルマンは視線を上げると、タラップには立つルキフェルと目が合った。
「……あの男と行くんだな」
スザンヌは振り返ってルキフェルを見ると頷いた。
「はい」
フィルマンは瞼を閉じて深呼吸すると、再び目を開いて囁く。
「生きなさい、スザンヌ。旅の無事を祈っている。そして、旅先で穏やかに過ごせるように」
スザンヌは指の腹で涙を拭った。
「……はい」
ヴィクトルはスザンヌに近づくと微笑みかけた。
「達者でな、スザンヌ」
スザンヌは思わずヴィクトルに抱き付き、彼も受け止めた。フィルマンも二人を抱き寄せる。やがてスザンヌは二人から離れると、何度も振り返りながら歩き出した。ヴィクトルとフィルマンは物悲しげに微笑んで見送っている。スザンヌがタラップに戻るとルキフェルが手を差し出した。スザンヌは彼の手を取り、二人で肩を並べて歩き出す。ルキフェルとスザンヌが甲板に足を踏み入れると、何やら仲間たちが盛り上がっていた。
「だからさ! あの王宮、今とんでもないことになってるんだよ!」
ティエンが身振り手振りを交えながら熱弁している。
「何がー?」
ジャスパーが間延びした声で聞くと、ティエンはやれやれと両手を上げた。
「次の王様が決まらないんだ」
「ええ、決まらないの?」
ニールが目を瞬き、ティエンは口を尖らせて語る。
「派閥争いどころじゃなくなった。誰を王にするかで揉めまくってるから、今も玉座が空席。しばらくこのままだと思う」
誰もが渋い顔をし、マテオが呟く。
「……この国らしいな」
「らしいですね」
シャルルも頷くと今度はグレゴワールが口を開く。
「おかげで海軍も大混乱だ」
「ボクたちの捜索は?」
ジョルジュが聞くとグレゴワールは肩を竦める。
「中止になった。お前たちを追う余裕など無いらしい」
「……」
「……」
「……」
皆が渋い顔で互いを見やった。
「なんというか……お上に振り回されるのって、どこの現場も同じなのね」
アニータの一言に何人も頷いた。特に元軍人は首がもげるほど頷いている。ジョルジュが顔を引き攣らせた。
「……なんか懐かしいですね」
「懐かしくねえよ」
マテオが即答し、ルキフェルは腕を組んで一人唸る。
——なるほど、見つからないわけだ。
「でさ、オレ考えたんだよ」
ティエンが声色を鋭く変えて、ルキフェルは顔を顰める。嫌な予感がした。案の定、ティエンは満面の笑みを浮かべる。
「国王を選ぶんじゃなくてさ、みんなでやらない?」
甲板が静まり返り、ニールが首を傾げる。
「……ん? それどういうこと?」
ティエンは頭をかきながら説明を続ける。
「ほら、海賊って合議制じゃん? 意見を集めてさ、誰か一人に全部押し付けないやつ。オレ、あれ良いと思うんだよね。だって、このままだと決まんないんだよ? だったら、最初から合議制にした方が現実的じゃない?」
ルキフェルは険しい顔でティエンを見据える。
「厳しい道になるぞ。海賊だって全員が納得するわけじゃない。意見もぶつかる。決裂もする。時間も掛かる」
ルキフェルの横でマルクが頷いた。
「その通りだ。やるなら軽い気持ちで採用するな。合議は面倒だが、その分だけ責任も分散される」
ティエンは物憂げな顔な顔をするも微笑した。
「わかってる。それでも、もう誰も壊れなくていいようにしたいんだ」
潮風が吹いて皆が押し黙った時、グレゴワールが事務的な口調と真顔で言う。
「弟が旅先でまた何かやらかしても、知らぬ存ぜぬで通すからな」
「兄上!? そこは応援すると言う場面では!?」
「無理だ」
「即答!?」
シャルルの絶叫に皆の笑いが広がった。ティエンも吹き出すもニコラの傍に寄る。
「元気でな」
「ティエンも」
二人は固く握手を交わし、グレゴワールも皆に軽く手を振る。
「達者で」
「グレゴワールさんも!」
「お世話になりました!」
あちこちから声が飛び、ティエンはタラップを前にルキフェルを振り返ってみる。
「じゃあな」
「ああ」
「次に会う時は別の国だな」
「かもな」
ティエンとグレゴワールはタラップを駆け降りていった。ルキフェルは甲板を見回して全員の乗船を確認する。仲間たち。荷物。積み荷。問題なし。彼は大きく息を吸った。
「出るぞ!」
甲板が一気に騒がしくなり、あちこちから声が飛び交う。
「錨上げろー!」
「ロープ外せ!」
「帆を張れ!」
ジャスパーは操舵輪に向かい、大きな手で輪を握った。
「よし」
帆が風を受けて船体が軋み、帆船は桟橋から離れ始めた。その時、甲板に鳴き声が響く。
「カァ」
「ん?」
ダミアンが振り返ると、視線の先。コリンの頭にはワタリガラスがまだ堂々と鎮座している。
「君、まだいたの」
「だから言ったじゃん! なんか気に入られてるんだって!」
「気に入られても困るだろうね」
コリンがカラスを払おうと両手を振る。ダミアンはひょいと慣れた手付きでカラスを鷲掴みにした。
「カァ!?」
カラスが突然持ち上げられて抗議するも、ダミアンは船縁に身を乗り出してカラスを掲げる。
「セドリックさん! 忘れ物です!」
桟橋にいるセドリックが首を傾げると、顔をパッと明るくさせて「ああ!」と声を上げた。ワタリガラスも「カァ!」と鳴き、セドリックは苦笑する。
「そいつは成鳥になりたてだ。仲間の中でも特に自由気ままなやつでね。訓練しても自由人気質が直らないから、君たちに託す!」
「……はい?」
ダミアンが固まるもセドリックは満面の笑みで叫ぶ。
「あと名前も自由に付けていい! じゃあ頼んだ!」
ダミアンはカラスを見ると黒い瞳と目が合って見つめる。
「カァ」
「……わかりました」
あちこちから笑い声が漏れ、コリンがダミアンの隣にやって来た。
「名前どうしよっか」
「ボクに聞かないで」
「いやでも付けるんでしょ?」
「付ける流れになってる……」
ワタリガラスは再びコリンの頭に飛び乗った。
「なんでまた!?」
「カァ」
「返事するな!」
コリンが抗議す様子を見ながら、木箱に腰掛けていたレオンは吹き出した。隣のイヴォンも肩を揺らす。
「ははは、どうやら新しい仲間が増えたらしいな」
「鳥まで増えるとは思わなかった」
二人が苦笑している間にも帆船は港を離れていく。仲間たちは船縁に身を乗り出して手を振り始めた。
「セドリックー! 元気でなー!」
「また会おう!」
ニールは両手を振り回し、コリンも負けじと手を振る。頭の上ではワタリガラスも羽を広げて「カァー!」と鳴いていた。桟橋ではセドリックが笑顔で手を振っていた。ティエンも大きく腕を振っている。グレゴワールはそこまで派手ではないが見送っていた。ヴィクトルも控えめに手を振っている。船が少しずつ遠ざかって人の顔も判別しづらくなった時、フィルマンが顔を曇らせて声を震わす。
「彼らは逃亡者なのだろう。……この国の定義で言うなら、敗者になるのか」
遠ざかるネーデルラント船団、娘の姿はもう見えない。潮風が吹き荒れて落ち着くと、ヴィクトルは海に残った白い波の筋を見つめながら首を横に振った。
「いいえ、彼らは逃げたのではありません。この広い海の上に、一本の航路を見つけただけです」
「航路……」
「はい。あの船団は誰かに示された道を辿っていません。王も貴族も海軍も……誰も教えてくれなかったから、自分たちで見つけた」
ヴィクトルは追い風に押されて背筋を伸ばし、海の向こうを見つめて笑いながら涙ぐむ。
「——その航路を、ただひたすらに進むのです」
フィルマンは黙って遠ざかる帆船を見ると安堵の息を吐いた。
水平線の彼方へ向かう帆船、白い帆が陽光を反射している。波間には白い軌跡が残されていた。




