第八章③ さらば、旧バティーユ邸
翌朝、ジャスパーたちが早速新しい服に着替えていた。
「どう?」
「似合ってる」
ニールがくるりと回り、コリンが即答する。派手さはないが、色選びが以前と違った。ルキフェルはまだ着替えていない。……朝食で汚したくなかったから。
その後、皆と食堂で朝食を済ませ、いつもより少し多く食べた。今日は出発の日だ、体力も使う。食後、仲間たちはそれぞれ最後の時間を過ごしていた。
ルキフェルは自室に戻り、まずズボンを履き替えた。ブーツも新しいものへ替える。そして、白いシャツへ手を伸ばしかけた時、ふと鏡が視界に入って目をむけた。
目に入ったのは髪だ。長い襟足が首筋に落ち、前髪も伸びている。普段は後ろに流しているから気にならなかったが、改めて見ると随分伸びた。このまま東へ行くのか。また長い航海になる。途中で散髪する保証もない。それに、シンプルに邪魔だった。風が吹けば前が見えなくなる。甲板では鬱陶しい。何より、東の王に会うのだ。今の姿でいいのだろうか。
——せっかくなら、新しい自分で。
ルキフェルは鏡台に歩み寄ると引き出しを開けた。中には一本の鋏がある。彼は鋏をしばらく見つめて手に取り、椅子に腰を下ろして鏡の中の自分と向き合った。翡翠の瞳がこちらを見返している。
ルキフェルは前髪を掴むと鋏を入れる。シャリという乾いた音がし、暗褐色の髪が床に一房落ちる。ルキフェルは鋏を入れ続けた。もう一房、さらに一房と額が少しずつ見えていく。
今度は襟足に鋏を入れた。長く伸びていた髪が肩から離れ、首筋が風に触れた。軽すぎる感覚に思わず瞬きをする。髪が次々と床に落ちていく。積み重なっていた時間が一房ずつ切り落とされていくようだ。もちろん過去は消えない。忘れるわけでもないが、抱えたまま進むことはできる。
ルキフェルは最後に横髪を整えて鋏を置いた。足元には暗褐色の髪が散らばっている。
「……悪くないな」
鏡の中で何度も顔の角度を変え、ルキフェルは短くなった前髪を弄び始めた。
一方、応接間では新しい服に着替えた者たちが集まっている。ジャスパーは壁際に立って室内を見回していた。ニールとコリンが耳打ちし合い、マテオがジョルジュをあしらっている。ロザリーとペネロペとアニータは談笑中。サミュエルとシャルルは鏡台の前に立って衣服を整え、リゼーヌとスザンヌは読書をしていた。ジャスパーは目を細めてぽつりと呟く。
「……なんていうか、海賊っぽいな」
静まり返った次の瞬間、ジョルジュが声を弾ませて言う。
「あー、わかります。なんか思い出しますね、海賊戦争を」
「どの辺?」
「二回戦目の夜戦です!」
ニールが首を傾げ、ジョルジュは身振り手振りを交えながら語り始める。
「あの時、マクシミリアン隊で火炎瓶作戦をやるために砲撃陣地から勝手に離れてですね」
「待って、勝手に離れたの?」
ニールが早速突っ込むとジョルジュは満面の笑みで応える。
「はい、作戦遂行のためです!」
「それ怒られなかった?」
「怒られました! で、今度は撹乱作戦をやるために海賊船を乗っ取って」
「ちょっと待って。海賊船を?」
今度はコリンが止めた。
「乗っ取ったんです!」
「なんで?」
「撹乱作戦です! 海賊同盟の中をぐるぐる回って、爆破騒ぎを起こしていったんですよ! その時も皆で海賊の服着てました!」
ジョルジュが語り終えると、コリンが顔を引き攣らせる。ニールに至っては理解を放棄して真顔だ。応接間が数秒沈黙するも、ペネロペとロザリーが静けさを破った。
「懐かしい!」
「懐かしいわね!」
「あなた達、ほんと破茶滅茶なのよ……」
アニータが額を押さえると、サミュエルが穏やかな口調で言う。
「まあ、最後は味方から誤射されて船燃えたけど」
「……は?」
「だから皆で海に飛び込んだ」
アニータがふらりと傾いてジャスパーが慌てて支える。
「アニータさん! 大丈夫!?」
「大丈夫じゃないわよ! なんなの、その部隊!!」
アニータが金切り声を上げる側で、リゼーヌが本を閉じて声を上げる。
「でも! あの時、第一艦艇部隊の方から褒められたんですよ!」
「褒められたぁ?」
マテオが怪訝な顔で聞き返すと、リゼーヌは胸を張った。
「『君たち、正真正銘の自由奔放な暴れん坊だな。軍人としてはどうかと思うが、海賊としては一流かもしれない』って!」
応接間が静かになった。ニールがリゼーヌをチラ見し、それからシャルルに視線を移した。当のシャルルは海賊服に着替えても、相変わらず片眼鏡を掛けている。今もちょうど髪留めを結び直しているところだった。ニールは彼をじとりと見つめる。
「その時の参謀は君か」
シャルルは手を止めて口元だけで笑う。
「おや、よく分かりましたね」
「テメェ以外いねーよ」
マテオが即答して応接間が爆笑に包まれ、シャルルは肩を竦めた。
「失礼ですね」
「褒め言葉だあ」
「褒めてねえ」
ジャスパーが笑い、マテオが即座に返した。ジョルジュはまだ肩を震わせるし、アニータは額を押さえながら「信じられない」と譫言を言う。スザンヌは目元に浮かんだ涙を指先でそっと拭った。
「ふふ……」
ようやく落ち着いたところで、スザンヌは長テーブルの端に目を留まる。そこには一着のコートが置かれていた。
「あら?」
スザンヌは手に取って少し持ち上げて皆に見せた。
「皆さん、これ誰も着ないんですか?」
「あー、それ? 暑いし、操舵の時に邪魔かなって」
ジャスパーが気だるそうに答えた。
「ああ」
スザンヌは納得した。確かに船上では動きやすさが優先される。
「ぼくはサイズ合わない。大きいんだよね」
「コリンが着ると裾引き摺るもんな。……痛っ!」
マテオが言った瞬間、腹を押さえて前屈みになった。コリンの拳が綺麗に決まったらしい。
「余計なこと言わなくていい!」
「事実だろ!」
「言わなくていい!」
応接間に笑いが広がる中、アニータもコートを見る。
「んー、色が綺麗で気になっていたんだけど。男性サイズみたい」
「なるほど」
シャルルが片眼鏡を押し上げた。
「ぼくは不要ですね。片眼鏡とオレンジ髪と髪留めで完成されていますから」
「変人だ」
「変人だね」
「失礼ですね」
マテオが呟いてニールも頷くも、シャルルは平然としていた。むしろ語尾が弾んでいる。
「あ、じゃあサミュエルが着たら? 海の男っぽいし似合いそう」
ペネロペが提案するもサミュエルは苦笑した。
「いや、自分が大きすぎてサイズが合わない」
ジョルジュがコートをじっと見つめるも首を横に振る。
「ボクは……着こなせる自信がないなぁ」
「えー? でもせっかく用意してくれたのに勿体なくない?」
「そうですよね。でも、着たい人いなさそうです」
ニールが首を傾げ、リゼーヌも頷いた。その時、ロザリーがふいにスザンヌの隣にやってくると耳元で囁く。
「ねえ。似合いそうな人、一人いるじゃない」
「え?」
スザンヌが瞬きをするとロザリーはにやりと笑った。
「ほら、今この場にいない人」
静寂が落ち、ジャスパーが笑みを浮かべて声を上げる。
「あー。なるほど、確かに」
皆が顔を見合わせてニヤニヤした後、マテオが立ち上がる。
「じゃあ、オレ持って——」
「私、届けてきますね!」
スザンヌが顔を輝かせると、コートを抱えて応接間を飛び出していった。扉が閉まると、静寂の中で全員がロザリーを見る。ロザリーは肩を竦めた。
「何?」
「いや。お前、絶対わざとだろ」
「さあ?」
マテオが呆れたように息を吐き、ロザリーは悪びれもせず笑った。
ルキフェルは床に散らばった髪を集めていた。暗褐色の髪が思った以上に多い。箒でまとめ、布に包む。やがて床は綺麗になった。
「よし」
その時、コンコンと扉がノックされる。
「どうぞ」
ルキフェルが返事をすると扉が開き、スザンヌが部屋に入ってきた。
「お届け物」
「お届け物? よく分からんが、その辺に置いといてくれ」
ルキフェルは振り返らないまま答え、鏡台の椅子にかけていた白い麻シャツを手に取った。彼が着替えようとシャツを広げた時、小さく息を呑む音が耳に入ってくる。
「……っ」
怯えたような音だった。ルキフェルが振り返ると、スザンヌはコートを抱えたまま口元を押さえ、目を見開いている。
「どうした?」
「その背中……どうしたの?」
「背中?」
ルキフェルは首を傾げて鏡台を見た。
「ああ……これか」
背中を斜めに走る無数の傷痕。まだ生々しさが残っている。エドガー海賊団での捕虜。九尾の猫、三十九回の鞭打ち刑。ルキフェルは目を瞑って唸った後、苦笑しながら言う。
「まあ、必死こいて生き残った証かな」
ルキフェルが白いシャツに腕を通そうとした。裾口から腕を入れた瞬間、不意に腹に細い腕が回って強く抱き締められた。
「……え?」
ルキフェルの体が一瞬硬直するも、数秒遅れて耳と顔に熱が駆け巡った。
「えっ。す、スザンヌ?」
ルキフェルが声を上擦らせていると、背中に柔らかな重みを感じた。スザンヌの声がくぐもって耳に届く。
「今度、ちゃんと話してね」
ルキフェルは息を呑むも、目を伏せて自分の腰に回された腕に手を重ねた。
「……いつか話す」
ルキフェルは鏡台をチラ見すると、鏡の中でスザンヌが自分の背中に額を預けていた。目を瞑って柔らかい笑みを湛えている。ルキフェルも目を閉じてしみじみ味わうも、しばらくして先に限界を迎えた。
「……スザンヌ」
「なに?」
「服、着たい」
「…………」
スザンヌは瞼を開けると鏡の中の自分たちに目を留めた。ルキフェルはすでに顔を背けている。スザンヌは身体を硬直させるも、顔を真っ赤にして腕を離した。
「ご、ごごごごめんなさい!! 私、なにやってるの!?」
スザンヌがアワアワと後退し、ルキフェルは思わず吹き出しそうになる。
「落ち着け」
「無理!」
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃない!」
「いや、大丈夫だ」
「本当に?」
「本当に」
「だから気にするな」
「……うん」
スザンヌは火照った顔で俯いた。耳まで赤い。ルキフェルは苦笑すると改めて白い麻シャツに袖を通し終え、赤いサッシュを腰に巻いた。サッシュの上から幅広の革ベルトを締めると金具が小さく鳴る。ルキフェルが鏡の中の自分を見ながら襟元を整えると、不意にスザンヌがおずおずと尋ねる。
「髪、もしかして自分で切ったの?」
「ああ。変か?」
ルキフェルは前髪を整えながら聞き返すと、鏡の中でスザンヌがひょこりと顔を出してきて目が合う。
「ううん、すごく似合ってる」
「……」
彼女の天真爛漫な笑顔にルキフェルは目を逸らした。
——今のは反則だろ。心臓に悪い。なんでこいつ時々、平然とそれ言うんだ。不意打ちに弱いのが俺なのに。
ルキフェルは咳払いを一つすると、鏡台を背にスザンヌと向き直った。
「それで、お届け物って何だ」
「あ、これ」
スザンヌがコートを広げて持ち上げた。ルキフェルは目を瞬く。
「コート? 俺に?」
「皆、着ないんだって。それに、ルキフェルなら似合うかなって」
「いや……」
「嫌い?」
ルキフェルは困ったように眉を寄せた。
「嫌いじゃないが、コートってなんか偉そうだろ。威圧感あるし」
「そう? でも試しに着てみようよ」
「いや、だから——」
「ほらほら」
ルキフェルが何か言う前に、スザンヌはルキフェルを鏡に向かわせてコートを広げる。
「腕」
「あ、ああ」
ルキフェルは言われるまま腕を通すと肩に重みが乗った。生地は思ったより軽いが、仕立てはしっかりしている。スザンヌがコートの襟元を整えた。
「できた」
ルキフェルは鏡を見て思わず目を見張る。肩から裾に流れる青、底まで透き通った海を思わせる鮮やかな青色だった。晴れ渡った空の色にも似ている。コートそのものに袖はない。肩を覆う形で仕立てられているから、腕の動きを邪魔しない。前は開いていて、白いシャツと赤いサッシュがより鮮やかに見えた。金色の飾り釦が規則正しく並び、陽光を受けて鈍く輝く。長い裾は膝の辺りまで伸びており、歩けば翻るだろう。海風そのものを纏ったようだ。ルキフェルは鏡の自分を見つめて言葉を失っていると、彼の背後からスザンヌがくすりと笑った。
「ほら、やっぱり似合う」
ルキフェルは鏡越しに彼女を見て観念したように息を吐いた。
「……そうか」
ルキフェルは肩掛け鞄を手に取って中身を軽く確認し、蓋を閉じるとスザンヌを振り返った。
「行こうか」
「うん」
二人は部屋を出た。廊下を歩き階段を下りるとエントランスに辿り着く。すでに仲間たちがちらほらと集まっていた。
「全員いるか?」
ルキフェルが声を掛けると各々が頷いた。
「出るぞ」
仲間たちは旧バティーユ邸を後にする。玄関を抜けると初夏の風が吹いた。ルキフェルは一度だけ振り返る。長く世話になった屋敷だ。未練はない。ルキフェルは再び前を向くと、皆と共にマルセイユの街へ歩き出した。




