第八章② マルセイユにて
危険を避けながら航海を続けるうちに六月に入る。マルセイユへ到着したのは夜だった。船は灯火を最小限に抑えながら、港の造船所へ滑り込む。幸い、見咎められることはなかった。……と思った矢先、役人が桟橋に近づいてくる。
「おい」
役人の前にディッキーとカルロータが立つ。ディッキーが笑顔で応える。
「あー、うちの系列の船です」
「書類は?」
「あります、あります」
あるわけがなかった。数分後、役人は満足そうな顔で帰っていく。手の中に銀貨が増えていた。ルキフェルは船から降りると桟橋で二人と再会する。
「……何した」
「世の中、交渉ですよ」
ディッキーは営業スマイルで応えた。その後、多民族集団の面々は順番に船を降り、逃亡用帆船へ移動していった。子供たちは疲れ切っている。レオンやアーシャ、フェリスが彼らの面倒を見ることになった。そして、バーソロミューも移動している。
「俺も向こうで暮らす」
「なんでですか」
「面白そうだから」
ルキフェルはバーソロミューの背を見送った。五人組と旧マクシム隊、全員での荷運びが始まる。木箱、木箱、また木箱。逃亡船に積まれていた財産が次々と運び出される。全て運び終えた時、造船所の一角には木箱の山が出来ていた。ルキフェルは山を見上げて腕を組んで唸る。
「……これ、捌き切れるのか?」
その時、ディッキーが手を挙げる。
「あー、換金ですか?」
「それ以外に見えるか」
「実はですね……」
嫌な予感がした。ディッキーがそう言う時は大抵ろくでもない。
「港の酒場で飲んでたら宝石の話で盛り上がりまして」
「うん」
「仲良くなったおじさんがいるんです。宝石商で成り上がった貴族だそうですよ」
ルキフェルは眉を顰めた。
「近頃、宝石の卸売りが滞って困っているって話してました」
「……」
「その人に聞いてみましょう」
マテオが即座に突っ込む。
「本気かよ」
「本気です」
「なんて名前だ」
ディッキーは首を傾げた。
「ロペスさん」
旧マクシム隊の面々が固まり、リゼーヌだけがきょとんとしている。
「……?」
カルロータが首を傾げる。
「あんたたち、どうしたの?」
「いや。あ、えっとぉ……」
ジョルジュが笑顔を引き攣らせた。言いづらい。非常に言いづらい。皆の脳裏には同じ顔が浮かんでいた。マルセロ・ロペス、おそらく彼の父親。アニータが肩を竦める。
「大丈夫よ。ロペス家って隣国で宝石商から貴族になった家系だもの。話くらいは聞いてくれるんじゃない?」
ルキフェルは木箱の山を見渡し、それからディッキーを見る。
「時間がない。ディッキー、ここはお前の手腕にかかっている」
「責任重大ですね」
「トルチュ島で培った商人魂で売り込んでくれ」
ディッキーは苦笑したが、目は妙に楽しそうだった。獲物を見つけた商人の目。
翌日、宝石は全てロペス家が買い取った。全てである。文字通り報告を聞いたルキフェルは、「は?」と声を上げて椅子ごと転げ落ちた。
朝から木箱が次々と運び出されていく。荷馬車、また荷馬車、さらに荷馬車。金銀財宝が詰まった箱はロペス家の使用人たちの手によって積み込まれ、列を成して港の外へ運ばれていた。
「いやあ、実に助かったよ」
恰幅の良い男——ロペス家当主が笑い、ディッキーはゴマ擦りしながら頭を下げる。
「こちらこそ。まさか全部買い取ってもらえるとは」
「面白い品が多かったからな」
当主は楽しそうだった。宝石商としての血が騒ぐのだろう。その時、ダミアンが息を切らして造船所に駆け込んでくる。
「はあ……はあ……」
「ダミアンくん?」
ディッキーが目を瞬く。ダミアンはロペス家当主の前まで来ると、懐からシトリンの指輪を取り出した。金色の石が朝日に照らされて淡く輝いている。
「これ……売れますか?」
ダミアンが息を整えながら差し出す。ロペス家当主が受け取る前に、ディッキーが目を丸くした。
「あ、それボクが加工したやつだ」
「え?」
「随分前さ。ちょっと失敗してるけど」
「失敗なんですか?」
「失敗だよ」
ディッキーは即答したが、ロペス家当主は指輪を光に透かし、角度を変えて石の色を見ると笑みを浮かべた。
「いや、宝石そのものを売るのも良いが……装飾品にするのも悪くない」
ダミアンが目を瞬く。当主は懐に手を入れ、中身の詰まった袋をダミアンの手に握らせた。
「ありがとうな。これは参考として買い取らせてもらうよ。受け取っておけ」
「え、でも」
「商売だ。代金は払う」
ダミアンは袋を見下ろした。ずっしりと重い、中で金貨がぶつかり合う音がする。
「ではな」
ロペス家当主は踵を返すと、荷馬車の列が動き始めて遠ざかっていった。造船所に静寂が戻る。ダミアンは手の中の重みを見つめて握り直した。ようやく逃げられたのかもしれない。兄の影から、兄の呪縛から。気付けば、ダミアンは人知れず笑っていた。
多額の金を分散して持ち運びながら、ルキフェルたちは旧バティーユ邸へ帰還した。応接間の長テーブル上に次々と金貨袋が置かれていく。ジャラリ、ジャラリと金属音が響く。
「これを頼む」
「承知しました」
ルキフェルの向かいにはワンポーラン、そしてリー・ウェンの面々。ワンが頷くとポーランも羊皮紙を取り出した。
「食糧、医薬品、水、予備帆布……火薬も必要っすね。港ごとの補給計画も立てましょ」
彼らは金貨袋を抱え、何人かは屋敷を出ていった。マテオはアニータと何やら食糧について揉めていた。シャルルは帳簿を片手に頭を抱え、ロザリーたちは荷物整理中。ニールは帆船関連の書類を確認している中、ルキフェルはヤンに声をかける。
「ヤン。ヨシマサは?」
「トゥーロンですよ。旅立ちの準備をしています」
ルキフェルは頷くと、ヤンが穏やかに笑った。
「何人かの東洋人たちはエジプト北部、ポート・サイドで合流する手筈です」
「ポート・サイドか」
「ええ」
ヤンは地図を広げ、指先で海を辿った。
「この運河を抜けた先が紅海。そして、アラビア海。まずはシャム国、その後は清。国王へ挨拶もしなければなりませんし」
ルキフェルは思わず顔を顰める。
「国王か……」
「ええ」
「ルキフェルー」
ルキフェルが振り向けば、ディッキーとカルロータが並んで立っていた。
「どうした」
「私たち、一足先に向かうね」
カルロータが得意げに言い、ルキフェルは首を傾げた。
「先に?」
「うん」
カルロータは笑う隣でディッキーが肩を竦める。
「ほら。みんな、あの人に会いたくないですか?」
「あの人?」
「ソフィーさん」
「……あ」
思い出した。脱獄前夜以来だ、あまりにも色々ありすぎた。
「……あいつ、俺たちの生存すら知らなそうだな……」
ルキフェルは思わず天井を見上げると、カルロータが吹き出した。
「忘れてたの?」
「……いや」
ヤンまで肩を震わせている。
「酷いですね」
「うるさい」
ルキフェルは眉間を押さえ、カルロータは楽しそうに続ける。
「だからさ、ポート・サイドで待ち合わせしよう? フランス国内で再会すると色々問題になりそうだし」
元脱獄犯と現役軍医、問題しかない。ルキフェルは苦笑した。
「来るかな」
「来るでしょ」
カルロータが即答し、ディッキーも頷く。
「来ますよ」
ルキフェルはため息を吐く。
「……分かった。先に行ってくれ」
「了解」
「では、ポート・サイドで」
「またね」
カルロータがウインクして微笑む。こうしてディッキーとカルロータ、ヤンは一足先に東への旅路へ出ることとなった。ポート・サイド、遠い港町で再び合流する約束を交わして。
数日かけて、東洋人たちは調達した物資を次々と運び込んでいく。食糧、真水、医薬品、火薬、予備帆に補修用木材と長期航海に必要な品々だ。港と造船所を何度も往復しながら、荷馬車がひっきりなしに出入りする。
「その樽は後ろ! 違う、その箱は先に船倉だ!」
ルキフェルは船倉へ続く昇降口の近くに立ち、次々と飛び交う報告に指示を返している。
「真水は右舷側! 医薬品は湿気を避けろ! 火薬はまとめるな! 重い荷は下!」
積み荷の種類、重量と配置。航海中の重心移動と船体への負荷を頭の中で計算している。船員たちが言われた通りに動く様子を、サミュエルとジョルジュは少し離れた場所から見ていた。
「……すご」
「そうだな」
ジョルジュが思わず呟き、サミュエルも頷く。指揮官も補給担当も見てきたが、これは少し違う。ルキフェルは立っているだけなのに、船全体が彼の指示で動いていた。
「本当に慣れてるんだな」
「十年ですもんね」
サミュエルが感心し、ジョルジュもうんうんと頷いた。クォーターマスター、海賊船において船長に次ぐ権限を持つ役職。航海物資と規律と戦闘、全てに関わる。ルキフェルは十年近く役目を担ってきた。船縁に寄りかかり、ジャスパーは腕を組んで口元を緩ませる。マテオが彼の隣に近づいた。
「なんだよ」
「いや」
ジャスパーの先ではルキフェルが船員に怒鳴っていた。
「そこ邪魔! 先に積むな! だから、重いの下だって!」
ずいぶん久しぶり、本調子のルキフェルを見るのは。ここ数ヶ月、あいつはずっと何かを抱えて、それでも今は甲板の上に立つ姿は違う。
「大丈夫そうだな」
「何がだ」
「ルキフェル」
ルキフェルの赤いサッシュが風に揺れていた。十年、間が空いたこともある。それでも衰えてはいない。クォーターマスターとしての勘も、船をまとめる力も何も失っていない。ジャスパーは目を瞑って神経を尖らせた。
——こいつがいる限り、船は沈まない。
根拠なんてない。ただ、自分の勘は言っている。
その頃、トゥーロン。港町の一角にある鍛冶屋では、リュウが最後の仕事に向き合っていた。炉の火はすでに落としてある。聞こえるのは金属を磨く微かな音だけ。リュウは作業台に腰掛けたまま、一振りの短剣を手にしていた。
グウェナエルの短剣、かつてヤンから託されたもの。彼曰く友人が愛した人の遺品。リュウは短剣を眺めた。柄と刃、装飾に刻まれた傷と使い込まれた痕跡。持ち主の癖まで見える気がした。もっと早く修復するつもりだったが、気付けば今日になってしまった。
「歳を取ると忘れっぽくなるな」
修復自体は難しくなかった。刃こぼれを整え、歪みを直して丁寧に磨く。最後に布で表面を撫でると、銀色の刃が光を返した。十分だ、これ以上は必要ない。リュウは短剣を布で包み、さらに包みを重ねる。傷付かないよう慎重に、旅支度用の荷物を引き寄せて中に収める。
七月十六日、ポート・サイドにて合流する予定になっている。組織の者たちは各地で最後の仕事を片付けている最中だ。ヤンもその一人、この短剣はその時に渡せばいい。リュウは荷物を閉じて立ち上がり、鍛冶屋の中を見回す。炉、工具、棚、壁に掛けられた古い剣。何年ここにいたのだろう。東の故郷へ帰るつもりだった。気付けば、フランスに根を下ろしていた。人との縁とは不思議なものだ。リュウは一礼した。
「世話になった」
彼は踵を返して扉を開けると、初夏の風が吹き込んできた。陽光が眩しい。リュウは一度振り返って鍛冶屋を後にする。長かったトゥーロンでの日々も終わりだ。彼もまた東への旅路を歩き出す。
旧バティーユ邸は少しずつ静かになっていた。東洋人たちが置いていた荷物はすでに運び出されている。今頃は港に停泊する帆船に積み込まれている頃だろう。屋敷に残されたのは旅立ちを待つ仲間たちだけ。そして、厨房では別の戦いが始まっていた。
「マテオー。飯ー」
「腹減ったー」
「働いたんだから、豪華なの頼むー」
「うるせえ」
マテオはまな板の前で腕を組み、食料棚に残っている食材を見る。旅立ち前だ。食材は極力使い切りたい。どうせ持っていけないものもある。なら、今夜くらいはいいか。
「仕方ねえな。今日は豪勢にする」
マテオが頭を掻いた瞬間、廊下の向こうから歓声が上がった。
「やったー!」
「聞いたか!?」
「マテオが折れた!」
「折れてねえ!」
厨房まで聞こえている。鬱陶しかった。
「これ、頼む」
アニータが野菜を受け取り、包丁を動かしながら横目でマテオを見る。マテオは大鍋のスープを味見していた。
「ねえ」
「なんだ」
「なんで毎回、誰かに切らせるの?」
マテオは一瞬動きを止めたが、再びスープをかき混ぜる。
「海賊やってた頃な。義手で調理するのかよとか、不衛生じゃねえかとか、陰で色々言われた。面倒だったから、切る作業だけ他人に任せるようにした」
アニータは手を止めてマテオの義手をじっと見つめる。
「でも、指先は骨でしょう?」
「あぁ?」
「動物の骨」
「……ああ」
「だったら、問題ないじゃない」
マテオが言葉に詰まるとアニータは肩を竦めた。
「それに、せっかくコリンくんが作ってくれたんでしょ?」
「……」
「そうなんでしょ?」
「まあ」
マテオは頭を掻き、義手を見下ろして指を動かす。
「最初は指三本しか動かなかった。けどよ、一年前に改良して五本全部動く」
「すごいじゃない」
「……そうかもな」
アニータは包丁を置く。
「じゃあ存分に使ってあげなきゃ。コリンくん泣いちゃうよ」
その時、ペネロペが厨房の入り口からひょこりと顔を覗かせる。
「包丁さばき、見たい」
「……は?」
マテオが眉を顰めてペネロペを睨む。
「変なこと言うんじゃねえ」
「え、そうかな? あたし、人の包丁さばき見るの好きなんだ」
「なんでだよ」
「戦闘で応用できそうじゃん」
「できねえよ」
「できる」
ペネロペは目を細めて笑った。
「マクシミリアン隊にメリッサって子がいたんだ。調理係だった子。いつも美味しいご飯作ってくれた。今思うと贅沢な部隊だったよね」
「本当にね」
アニータも野菜を皿に移しながら頷く。マテオは腕を組んで目を瞑っていたが、再び開けた時には瞳がギラリと煌めいた。
「ちゃんと見てろよ」
「え?」
「いいの?」
「見たいんだろ」
アニータとペネロペが顔を見合わせると、マテオは包丁を握って義手の指で柄を支えた。音が変わって野菜が細かく揃っていく。
トン。トトトトトトトトトッ。
「え」
ペネロペが固まった。マテオは肉塊をまな板に置くと、包丁を走らせて骨を避けながら筋を断つ。ペネロペとアニータが瞬きしてるうちに、解体が終わっていた。マテオが息を吐いて包丁を水桶に放ると、ペネロペが思わず拍手する。
「すごーい! メリッサに負けてなーい!」
「負けてないわね!」
「なんで比較対象がそいつなんだよ!」
マテオは顔を引き攣らせ、厨房に笑い声が響いた。
夕食は賑やかだった。五人組に旧マクシム隊、ニコラとダミアン。ワンとポーラン、イヴォンとマルクと長テーブルを囲む人数は随分と増えた。肉料理。魚料理に温かなスープ、焼き立てのパン。酒も少しだけ開けた。旅立ち前のささやかな宴に笑い声が絶えない。ルキフェルはイヴォンとマルクの元に立ち寄った。
「本当にいいのか?」
「何がだ?」
マルクが聞き返し、ルキフェルは二人の顔を交互に見て尋ねる。
「一緒に来ることだ。特にイヴォン。故郷を離れるんだぞ、後悔はないのか」
イヴォンは自分の片脚に目を落としてそっと撫でる。
「……こんな足でも、船なら遠くへ行けると知ってしまった。だったら、行くだろう」
イヴォンの隣では、マルクが笑いながら酒を飲んでいる。
「俺は海の男だ。また海に出られるならいい」
「単純だな」
「そうか? 案外、人生なんてそんなもんだ」
夕食が終わって片付けも終わる。食堂で思い思いに過ごしている時、ワンがシャルルに袋を差し出す。
「ヴィトン殿、頼まれていた物だ」
シャルルは目を輝かせて袋を受け取るなり、中身をチラ見した。
「ああ、染料用の植物ですか! そうそう、これこれ!」
ルキフェルは首を傾げると、シャルルは厨房へ消えていった。しばらくして、鍋から妙な匂いが漂ってくる。植物を煮出しているらしい。赤金色の液体が見えた気がした。
「何するつもりだ?」
ルキフェルがこっそり聞くとロザリーが即答した。
「ああ、塗り足しね」
「塗り足し?」
「シャルルって元々金髪なの」
ルキフェルは思わず瞬きをする。そういえば、兄グレゴワールも金髪だった。
「髪が伸びるでしょ?」
「根元の金髪が見えてくると、あのオレンジ色を塗り直してるのよ」
ロザリーが説明するとルキフェルは数秒黙った。
「……オレンジにこだわりが?」
「いいえ。ただの変人」
「そこ、聴こえてますよー」
ロザリーが首を振ると、シャルルの抗議が厨房から飛んできた。ロザリーは気にせず囁く。
「あと少し切ってる。長さも整えてるわ」
「へえ」
ルキフェルは自分の襟足を手に取って見る。
「……髪切りか」
夜は更けていき、ルキフェルは一人ずつに声を掛けた。
「おやすみ」
「おう」
「おやすみなさい」
「また明日ね」
返事が返ってくると妙に心が躍る。ルキフェルは自室に戻る寝台に身を投げ出した。今日も一日走り回った。気が張っていた分だけ疲労も大きい。いつもなら床へ毛布を敷く。だが、今日は違った。ベッドへ向かう。そのまま身体を柔らかい感触が背中を受け止め、心地良いと思った瞬間にはもう瞼が重かった。遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がするが、確かめる前に意識は沈んでいった。
翌朝、食堂に向かったルキフェルは妙な光景を目にした。ポーランとマテオがギャミギャミと言い合っている。
「靴は?」
「四十二」
「服のサイズは?」
「知らねぇ」
「知らねぇは困るっす」
ポーランが羊皮紙を片手に、仲間たちに片っ端から話しかけている。まるで役所の聞き取り調査である。ポーランの視線がルキフェルを捉えた。
「次、ルキフェルさん」
「なんだ」
「靴のサイズ」
「四十三」
「服」
「……知らん」
「あんたもかい」
ポーランが額を押さえ、近くで聞いていたジャスパーが吹き出す。
「いや、普通わかんねえだろ」
「分かる奴は分かるっす!」
ポーランは抗議するも結局、肩幅や身長を参考に適当に書き込み、食堂を出ていく。
「同僚に伝えてこよ」
どうやら、今日中に新しい服の調達へ向かうらしい。朝食を終えると、それぞれ荷造りが始まった。とはいえ、元々持ち物など少ない。服、日用品、武器くらいだ。むしろ、皆の興味は別の場所へ向いている。書庫である。ルキフェルは廊下を歩きながら、何度も書庫に出入りする仲間の姿を見かけた。ニールとコリン、シャルルにリゼーヌ。スザンヌもいた。皆、本を抱えている。しかも一冊ではない。数冊。いや、人によってはもっと多い。
「それ全部持っていくのか?」
ルキフェルが聞くと、「もちろん」とニールが即答する。抱えている本はすでに腕いっぱいだ。シャルルも彼の隣で頷く。
「暇な時に読むんだ。航海長いし」
「本は良いですよ。場所も取らない」
「取ってるだろ」
サミュエルは彼らの様子を見て苦笑していた。元当主、代々受け継がれてきた蔵書の行方を見守る立場だ。
「好きに持っていくといい」
そう言った本人も自室へ向かい、愛読書だった数冊を鞄へ詰め始めていく。
ルキフェルも書庫に足を踏み入れた。暇潰しになるものを探しに本棚を眺める。歴史に詩集、哲学や小説や伝記。題名を追うも興味が湧かない。海賊時代なら帆船、航海術や海洋戦術の本を何冊か持っていた。もっとも、一度読めば満足する性分だ。同じ本を何度も開くことはほとんどない。だから結局、本棚はいつも寂しかった。ルキフェルが唸りながら練り歩くと、語学関係の棚が目に入った。東へ向かうなら、言葉を覚えなければならない。今更ながら当たり前のことだ。
「そういや」
ルキフェルは棚に並ぶ本の背表紙を目で追う。東洋、異国語、やがて関連書籍が二冊だけ見つかった。他の本と違い妙に綺麗だ。誰かが買ったものの途中で投げ出したのだろう。表紙に埃が薄く積もっている。一冊は漢文、もう一冊はサンスクリット語。ルキフェルは手に取ってパラパラと試しに眺めた。当然読めない。開いてみても意味不明だ。それでも、海の向こうへ行くなら必要になる。ルキフェルは二冊を抱え上げると、書庫を出て自室に戻るなり肩掛け鞄を開いた。武器や日用品の隣に、漢文とサンスクリット語の教科書をそっと入れて鞄を閉じる。
昼頃になると、マルクとイヴォンは先に帆船へ向かうと言い出した。
「どうせ暇だしな」
「向こうで過ごしている」
マルクが肩を竦める隣でイヴォンも頷く。ルキフェルは苦笑しながら二人に告げる。
「無理するなよ」
「するか。お前じゃあるまいし」
「誰が無理してる」
「お前だよ」
マルクは鼻を鳴らして顎でしゃくり、ルキフェルは口を噤んで顔を顰めた。結局、ニコラとダミアンも同行することになる。
「僕たちも行きます。イヴォンさんの手伝いもありますし」
「そうですね。船、見てみたいです」
そうして四人は屋敷を後にする。彼らと入れ替わるように、今度はポーランが戻ってきた。しかも一人ではない、同僚らしき東洋人たちまで引き連れている。
「運びますよー」
「そこ空けてください」
応接間に次々と木箱が運び込まれる。蓋が開くと中身は衣類だった。テーブル上に様々な衣類が並べられていく。シャツ、ズボン、上着、ブーツがサイズごとに綺麗に分けられていった。ポーランは胸を張ってルキフェルに言う。
「好きなの選んでいいっすよ」
「自分で?」
「その方が早いでしょ」
東洋人たちが作業を終えると、彼らは帰り支度を始めた。玄関先、ポーランが振り返る。
「あ、そうそう。船自体はいつでも出られますからね」
「そうか」
ルキフェルは腕を組んで顔を曇らせる。
「多民族集団は?」
「ん?」
「船に閉じ込められて退屈してないか」
ポーランは目を瞬かせるも即座に笑う。
「全然ですよ。むしろ逆です」
「逆?」
「異国の地ですから、警戒してる人が多いですね。外に出る人はあまりいません」
「なるほど」
「ま、子供は例外ですけど。甲板でアーシャさんとフェリスさんが面倒見てます」
「大変そうだな」
「毎日大騒ぎらしいですよ」
ルキフェルは思わず微笑み、ポーランは軽く手を振って屋敷を後にする。
「じゃ、また明日」
静かになったエントランスで、ルキフェルは腕を組んで俯く。
「……明日だな」
多民族集団も仲間たちも十分待った。明日、マルセイユを発つ。夕方、決定事項のことを仲間たちに伝えた。皆、聞いている間は顔を引き締めていたが、夕食を囲むと笑い声を響かせた。
食後、ルキフェルは応接間に向かって山積みの衣類を見下ろした。彼はしばし唸った後、長袖の白い麻シャツと黒いズボン、膝下まである革のブーツを選んだ。さらに赤いサッシュに幅広のベルトも手に取る。
「結局、いつも通りか」
変わらない。昔から。何年経っても選ぶものは同じだ。ルキフェルは自室に戻り、鏡台の椅子へ新しい衣類を掛けた。しばし見つめるも、踵を返して寝台に身体を横たえる。窓の外では風が鳴り、港の匂いが空いた窓の隙間から微かに流れ込んでくる。潮の匂いを感じながら、ルキフェルは瞼を閉じて意識を手放した。




