第八章① エル・イエロ航海記
小型ガレオン船を動かせるだけの人員を確保できた。
ルキフェルは一枚の書類に目を落として羽ペンを走らせる。名前と役割、当番と見張り、それから操船と食料管理と負傷者対応、一人ずつ仕事を割り振っていた。食糧や必要物資についてはリー・ウェンが手厚く支援してくれている。あとは船の整備だ。ペネロペとジョルジュが最後の確認を終えれば、いつでも出港できる。
ルキフェルは書類に最後の一筆を書き込んで窓の外を見る。マルセイユ港は今日も穏やかだ。海鳥が飛び、船員たちが行き交う。妙だな、自分たちは脱獄犯だ。ただの脱獄犯ではない、海軍も王宮も巻き込んだ大騒動の当事者だ。海軍内部も王宮内部も今は混乱している。仲間たちから聞いていたが、それにしても追っ手の気配がない。
「……緩いな」
ルキフェルは肩を竦めて書類をまとめ、羽ペンを置いて顔を上げる。ここは船長室だ。アーシャ海賊団の船、いや今はエル・イエロ島行きの船。ルキフェルは振り返って窓際に立つ男を見上げる。
「……で、なんでまだここにいるんですか」
トルチュ島の長老は港を眺めている。
「悪いか」
「いや、悪くないですけど。いつトルチュ島へ帰るんですか。まさか、このあとですか?」
「ん?」
長老は首を傾げて振り返る。
「いや、帰らないけど」
「……は?」
「帰らない」
長老がもう一度言って、ルキフェルはつい瞬きをする。
「いや、待ってください」
「待たん」
「なんでですか」
長老は窓の外に目を戻して苦笑する。
「帰ったら殺されるからな」
ルキフェルは言葉を失うも長老は続ける。
「自分から一族の長を降りたんだ。島の連中から見れば、裏切り者みたいなもんだろう」
「……あんた。俺に会うために、そんな覚悟を」
ルキフェルは目を伏せると、長老は再度振り返って鼻で笑った。
「違う違う。それじゃお前のためみたいだろうが。間違いなく俺の意思だ。俺だって外の世界を夢見て何が悪い」
ルキフェルは吹き出しそうになって堪えるが、苦笑を漏らす。
「……すみません」
「何がだ」
「いや、勝手に勘違いしてました。……あんたがそこまで言うなら、一緒に行きましょう」
長老は腕を組んで口角を上げた。ルキフェルは椅子から立ち上がって船長室の扉に向かう。これからやることは山ほどあった。扉を開くと潮風が吹き込んでくる。ルキフェルは甲板に出ると伸びをした。
「ルキフェル!」
ルキフェルが振り返ると、ペネロペとジョルジュがやってきた。二人とも顔が煤で汚れている。
「点検、終わりましたー! いつでも出られます!」
ジョルジュが大きく手を振る。ルキフェルは頷いて甲板を見回した。問題ない、全員いる。ルキフェルは一度息を吸った。
「よし、出るぞ」
皆が動き出して錨が上がり、帆を開いてロープを引くと船体が軋んだ。マルセイユの街並みが少しずつ遠ざかっていく。
数時間後、船は穏やかな波の上を進んでいた。甲板では一仕事終えたコリンとニールがのんびりしている。そこへ、船室から長老が出てきた。いや、元長老だ。コリンはニールを見て小声で言う。
「これから何て呼べばいいんだろ。まさかずっと長老?」
「それはそれで変だよね」
言われた本人は腕を組むと、二人に向かって告げる。
「バーソロミュー」
「ん?」
「バーソロミューだ。俺の本名」
「うわあ、強そう」
ニールが感心したように言い、コリンも頷いた。バーソロミューはニッコリと笑って二人を見下ろした。コリンとニールが顔を強張らせる。
「さて、島に着くまで暇だ。何か面白い話を聞かせろ」
——あ。変わってない。
トルチュ島の管理人を辞めようが、一族の長を降りようが、名前が判明しようが、この男の本質は何一つ変わっていない。バーソロミューはニヤニヤと続ける。
「最近読んだ本でも、何か考察でもいい。ほら、賢い子は好きだぞ」
ニールが一歩後退り、コリンも後退る。
「いやだ……いやだあ!! なんでこの人、こういうとこ変わらないの!!」
コリンの絶叫が甲板中に響く。近くで作業していた船員たちが振り返った。ニールは額に汗を掻き、引き攣った笑みを浮かべる。
「分かる」
船尾側ではサミュエルが操舵輪を握っていた。海は穏やか、風向きも悪くない。ルキフェルは彼の隣に立ち、海図と進路を確認し、時折水平線に目を向ける。近くに積まれた木箱に腰掛けていたレオンは、そんな彼の横顔を眺めていた。
「ん?」
「悪いな。俺のために、みんなまで巻き込んで」
ルキフェルは首を横に振る。
「いい。行きたい奴らが集まっただけ」
ルキフェルは再び海図に視線を落とした。エル・イエロ島、以前は三週間近くかかったが、今は違う。ジャスパーは不気味なほど当たる。サミュエルは操船技術に長けている。ジョルジュは天候の変化を読むのが上手い。ニールは航海士として申し分ない。さらにアーシャとフェリスはこの海域を何度も往復している。海流も風の癖も知っている。ルキフェルは海図の一点を指先でなぞって目を細めた。無理やり船を動かしていた頃とは違う。今は人がいて、頼れる仲間がいる。
「もう少し早く着けそうだ」
「船長らしいこと考えてるね」
「やめろ」
「事実だろう?」
サミュエルがクスクスと笑った。ルキフェルは顔を顰めて唸る。
航海は順調だった。もちろん、全てが順調だったわけではない。船は問題なく進むが、人の心まではそう簡単に穏やかにならない。
例えばある日のこと、船医室の明かりが深夜まで消えなかった。ニールが突然目を覚ましたと思えば呼吸を乱して全身を震わせ、レオンとアニータがすぐ駆けつける。ルキフェルは船医室の閉じた扉の前で立ち止まって灯りを見つめていた。
翌朝、ニールは甲板に出てきた。こういうことは一度ではない。日々が穏やかすぎるからこそ、ふとした瞬間に思い出してしまう。戦争、処刑台、失った人たちのこと。旧マクシム隊は特にそうだった。笑っていたかと思えば急に黙り込む。海を見つめて遠くを見る。そんな姿をルキフェルは何度も見た。
昼間、見張り台から鐘が鳴った。船影、海賊船だ。相手もこちらに気付いて、追いかけっこが始まる。
「マルク、指揮を頼む」
ルキフェルが即座に声を上げるとマルクは頷いた。戦闘時の指揮権が移って砲門が開き、マテオが声を張り上げる。
「砲手、配置!」
旧マクシム隊の面々が動く。海軍時代に嫌というほど叩き込まれた動き。鎖弾装填、照準、発射、轟音と共に敵船の帆が裂ける。さらに一本、マストに命中して相手の船体が大きく傾いた。
「よし!」
ジャスパーが叫ぶ。海賊船の速度が落ちる隙に、エル・イエロ行きの船は距離を取った。
また別の日、ジョルジュは空を見上げていた。嫌な雲だ。結果、彼の予感は当たる。数日後、海は荒れた。ジョルジュの判断を信じ、遠回りして嵐を避けた。食糧の管理はアニータだった。彼女は貨物室に籠もり、紙と睨めっこしながら残量を確認する。一方、マテオは台所を占領していた。長期航海用の献立を考え、時には漁をし、時には魚を捌いて全員に食べさせる。文句を言いながら、怒鳴りながら、結局一番面倒を見ていた。そんな穏やかで騒がしくて、少しだけ痛みを抱えたまま船は進み続ける。そして、マルセイユを出航してから二週間。水平線の彼方に懐かしい島影が見え始めた。
集落に着いた。帆船を沖合に小舟で接岸する。真っ先に飛び降りたのはレオンに、期間を待ち侘びた仲間たちが駆け寄る。抱き合う者、肩を叩き合う者、レオンと連れ合いの再会涙ぐむ者もいた。ルキフェルは彼らの様子を見ながら桟橋へ降り立つと、わらわらと子供達が押し寄せてくる。
「ルキフェルだ!」
ジャスパーは早速肩車をさせられていた。
「重い重い!」
「うそだー!」
「バレたか!」
「待って待って! 走んないで!」
コリンは子供たちに引っ張り回され、ニールは人混みの向こうに一人の少女を見つけた。以前、青い髪紐をくれた少女だ。ニールは自分の金髪を束ねている青い髪紐を指差した。少女は目を丸くして、ぱっと顔を明るくした。やがて集落の中央に人が集まり、レオンが島を出る提案をした。言葉は次々に翻訳される。歓声と不満がほぼ同時に上がる。一方、少し離れた場所ではジャスパーたちが子供たちに囲まれていた。
「おじさんたち、これからどうするの?」
一人の少年が聞き、ジャスパーはニコニコと笑う。
「おじさんたちはなー、東に行くの」
「東?」
「もっともっと遠いところ」
「東ってどんなところ?」
「僕らも知らないんだ」
ニールが苦笑する。
「えっ」
「知らないの?」
「知らない。行ったことないから」
コリンが言うと、今度は別の少年が聞いた。
「じゃあ、どんな国に行ったことあるの?」
海の話、港と船の話、旅の話をジャスパーが身振り手振りで語り始め、子供たちの目がみるみるうちに輝く。大人たちの議論は平行線。レオンもルキフェルも、どうまとめるべきか考えていた時、子供たちが駆け込んでくる。
「ねえ、僕たちも船に乗りたい!」
「東ってどんなところ?」
「みんなで海を見たい!」
子供たちが口々に叫んだ瞬間、議論が止まった。レオンが子供たちを見て言う。
「俺たちは逃げるために島に来た。でも、あの子たちは違う。最初から島しか知らない。昔は外に出れば捕まった。今は違う。フランスが混乱している今なら、海を越えられる。俺はずっと世界を憎んでいたが、ここにいるルキフェルたちが変えた」
スペイン訛りの男がルキフェルをチラリと見た。
「顔が傷だらけだな。緑の眼。お前、迫害されたことがあるか」
ルキフェルは頷いた。
「昔から。今も居場所を失ったまま、それでも前に進んでいる」
沈黙。やがて一人が言った。
「お前が行くなら、俺も行く」
それに続く者が現れるが、まだ頷かない者もいた。異能を持つ男が言う。
「けど……ゼフィランサスがいない」
「船長なら何て言っただろうな」
「ゼフィランサスなら……」
皆の中に英雄がいた時、ジャスパーの声が飛んだ。
「知らねえよ。だっておれ、会ったことねえもん。おれ、あいつの息子だけど……どっちかというと母ちゃん似だし。親父のこと聞かれても困る。ゼフィランサスならどうするかじゃなくて、今ここにいる皆がどうしたいかじゃね? だって、ゼフィランサスはとっくに死んでるし。生きてるあんたらはどうしたいの?」
その時、広場の端で子供たちが笑った。マテオに抱きつく子供、コリンに飛び付く子供、ニールの袖を引っ張る子供。無邪気な笑い声が飛び交う光景を見て、大人たちは黙っていた。やがて、誰かが呟く。
「……あの子らが望むなら」
こうして、小型ガレオン船はエル・イエロ島を出発した。以前とは比べものにならないほどの大所帯だ。甲板には最低限の荷物をまとめた、多民族集団の面々がいる。皆、それぞれの場所で過ごしていた。船縁にもたれかかる者、家族と寄り添う者、無言で海を眺める者。
最初は誰もが遠ざかっていくエル・イエロ島を見つめていたが、時間が経つにつれて少しずつ前を向き始める。船首の先、水平線の彼方へ。船尾ではジャスパーが操舵輪を握っていた。
ルキフェルは銀の羅針盤を取り出し、蓋に刻まれた紋章に指先を滑らせた。ガルーダと双剣。蓋を開くと銀色の針は震えながら回り、そのうち止まった。相変わらずだ。針が指しているのは、ルキフェル自身。正確には、遠ざかっていくエル・イエロ島。ルキフェルは蓋を閉じると長く息を吐く。
「それも、もうただのアンティーク品だよなー」
ジャスパーがケタケタと笑い、ルキフェルは苦笑する。
「かもな」
ルキフェルは羅針盤を懐に戻して船尾を後にする。階段を降り、右へ曲がって船長室の扉を開くと、室内にはバーソロミューがいた。バーソロミューは机の上をじっと見つめている。
「どうした」
ルキフェルは近寄って目を見開いた。
「あ」
そこに置かれていたもの、黒い三角帽だ。見間違えるはずがない、フランソワの帽子。一年前、トルチュ島を出る時に「自分の正体が分かったら報告する約束」の担保としてバーソロミューに預けたものだ。バーソロミューは肩を竦めた。
「返すの忘れていた」
「今かよ」
「今だ」
ルキフェルは苦笑して懐に手を入れ、銀の羅針盤を取り出すと海賊帽の隣に置く。コトンと小さな音が鳴り、バーソロミューは帽子を顎で示した。
「被らないのか」
「いや、これはあの人専用だ。唯一の遺品と言ってもいい」
ルキフェルは首を横に振ると指先で帽子の縁を軽く撫でる。
「棚にでも飾るさ」
バーソロミューは頷いた。窓の向こうでは青い海が続いていた。
エル・イエロ島を出発して数日、再びマルセイユへ向かう航海の中で、ルキフェルは船長室に籠もっていた。向かいにはシャルルが座っている。机の上には海図羊皮紙、計算途中の書類と人数分の物資一覧。問題は山積みだった。
「まず、この人数を旧バティーユ邸まで連れて行くのは無理だ」
ルキフェルは羊皮紙を指先で叩くとシャルルも同意した。
「目立ちますね」
「目立つどころじゃない」
「なら、やはり造船所でしょう」
シャルルが言うとルキフェルは頷いた。バーソロミューから託された船、ネーデルラント船団に偽装された逃亡用帆船。現在はマルセイユの造船所に保管されている。管理しているのはディッキーとカルロータだ。
「島の連中には、あっちへ移ってもらう」
「その方が安全ですね」
問題は次だった。ルキフェルは机に肘をつく。
「金銀財宝はあるんだけどな」
逃亡船に積まれている。バーソロミューが一族に無理を言って用意した財産だが、持っているだけでは意味がない。シャルルが呟く。
「換金が難しいですね。リー・ウェンに頼みますか。彼らなら売り捌けるでしょう」
「まあ、そうだろうな」
「あるいは、誰か金持ちに買い取らせるか」
その瞬間、ルキフェルの脳裏に一人の男が浮かんだ。粗末な衣、柔和な笑顔、そして懐から膨らんだ麻袋を取り出す姿。
「お金? あるよ」
ジャラッという金貨の音。ティエンの妙に得意げな顔。ルキフェルは即座に首を横に振った。シャルルが首を傾げる。
「どうしました?」
「なんでもない。東洋人たちに分配して売り捌いてもらおう」
「その方が安全ですか」
「ああ。その金で物資を揃える。食糧、真水、予備資材、医薬品。衣服もだな」
「確かに。皆さん、随分とくたびれています」
シャルルがクスクスと笑った。ルキフェルは自分の袖を見る。擦り切れていた。ジャスパーはもっと酷い。マテオも似たようなものだ。ニールに至っては何度も補修跡がある。
「必要なら買い替える」
「船長らしいですね」
「やめろ」
「最近よく言われますね」
「お前まで言うな」
シャルルは肩を揺らす。ルキフェルは顔を顰めて溜め息を吐くと羽ペンを手に取った。




