第七章③ ルキフェル
昼のマルセイユ港は穏やかだった。潮風が吹くと停泊する船の帆が揺れ、桟橋では船乗りたちが荷を運んでいる。その一角、アーシャ海賊団の小型ガレオン船では、レオンが船長室から出てきたところだった。彼の後ろからアーシャが続いて豪快に笑う。
「いやあ。レオンさん帰っちゃうと、みんな寂しがるだろうねー。兄さんたち、めちゃくちゃ世話になったし」
「でも、まあ……島には家族がいるんだから。いつまでもフランスにいるわけにはいかないよ」
アーシャの隣にいたフェリスも頷き、レオンは苦笑した。
「そうだな」
レオンは二人に軽く手を振ってタラップを下り始める。木板が小さく軋み、桟橋に足を踏み出すと叫び声が飛んできた。
「レオン!」
レオンは反射的に顔を上げた。港の方から誰かが走ってくる。深く被ったフード、外套が勢いよく桟橋に飛び乗り、木板がぎしぎしと悲鳴を上げた。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
該当の人物がレオンまで来たところで膝に手をつき、激しく肩を上下させた。フードがずれて暗褐色の髪が覗き、レオンは目を瞬く。
「ルキフェル?」
「探したよ……大事な話があって」
ルキフェルは息を整えながら顔を上げた。レオンも表情を引き締め、ルキフェルは一度呼吸を整えてから告げる。
「俺たち、東へ行くことにした」
「……東?」
「ああ。リー・ウェンが導いてくれる。船もあるけど、今の俺たちには船医がいない」
レオンの眉がピクリと動き、ルキフェルは彼から目を離さずに言う。
「船を動かすには人手が必要だ。長い航海になる。だから、聞きたい。——多民族集団も一緒に来ないか」
レオンは吃驚して声を上げそうになった。ルキフェルは苦笑するもすぐに顔を引き締めた。
「もちろん、過酷な旅になると思う。けど……俺はレオンを放っておけない。エル・イエロ島の皆も、今まで散々な思いをしてきただろ。だから……もし良かったら、一緒に来てほしい」
春風が吹いて海鳥が鳴く。レオンはただ目の前の青年を見つめている。翡翠色の瞳の奥に、見たことのない色を見た気がした。海だ、まだ誰も知らない海。遠く続く水平線の向こう側。いつかのルキフェルにはなかった色。レオンは瞬きをして苦笑する。
「包帯を嫌がった君が、人を頼れるようになるなんて」
ルキフェルは気まずそうに目を逸らした。
「……そんなこともあったな」
「そんなこともあった」
あの頃の少年は頑固だった。怪我をしても平気だと言い張る。苦しくても大丈夫だと言い張る。誰かに頼ることを知らなかったからこそ、今こうして助けを求めていることが、どれほど大きな変化か。レオンは海に目を向けた。多くの船が浮かんでいる。
「どこへ行っても追い出されてきた。追われて拒まれて、最後に辿り着いたのが、あの島だった。だから皆、あそこを最後の砦みたいに思っている。息を潜めて暮らしてきた」
ルキフェルは黙って耳を傾け、レオンは振り返ると彼を見据える。
「ルキフェル。東の方は、自分たちを見て石を投げたりしないだろうか」
ルキフェルは首を横に振って鋭く告げる。
「させない。これは迎えてくれる人を探す旅だ」
レオンは目を伏せて顔の緊張を緩ませる。
「そうか。俺はな、一度は穏やかな暮らしを手にしたと思っていた。けど、君たちと過ごして分かった。自分たちが動かなければ、世界は変わらないこともあるんだと。……自分たちも、あの島を離れる時なのかもしれない」
ルキフェルは頷きかけて顎に手をやり、穏やかな笑みを浮かべる。
「レオン。まずは島の皆に聞こう。俺も一緒に行くから」
レオンは目を瞬くと柔らかく微笑んだ。目の前にいる青年は、もうかつての少年ではない。いつの間にか、人を守ろうとする男になっている。レオンはルキフェルを見つめながら頷いた。
「……分かった」
春の風が二人の間を吹き抜ける。東へ向かう前に、まずエル・イエロ島へ赴くことになったわけだが……問題が発生した。人員不足である。
「いやあ。実は今、バカンス中なんだよね」
アーシャが頭を掻き、ルキフェルは怪訝な顔をした。
「……何が」
「何もかも。船員たち、契約満了で遊びに行っちゃった」
フェリスがお手上げと言わんばかりに両手を上げ、ルキフェルは目を閉じて歯の隙間から息を吐いた。
「……そうか」
頭が痛かった。東洋行きを決めた翌日にぶつかる現実としては中々に重い。結局、この日はアーシャとフェリス、それにレオンと共に旧バティーユ邸へ戻ることになった。夕方、ルキフェルは真っ先にジャスパーに相談した。話を聞き終えたジャスパーは即答する。
「おれも行くよ」
「助かる」
「とりま、全員集めて募集かければ?」
ルキフェルは少し考える。確かにその通りだった。だから夕食後、応接間に皆を集めた。いつもの四人と旧マクシム隊の面々。ルキフェルはエル・イエロ島行きの計画を説明した。途中、ニールがアーシャとフェリスを指差して言う。
「あ、僕の妹と弟。エドガー海賊団の傘下にいたんだ」
旧マクシム隊の面々が目つきを鋭くさせた。久しぶりに聞く名前、エドガー・ロジャース。だが当のアーシャとフェリスは顔を見合わせ、旧マクシム隊に手を振る。
「いやいや、あたしたち。エドガー・ロジャース海賊団って言ってもねぇ」
「傘下の中でも特に泡沫集団だから」
ルキフェルは強引に本題へ戻らせた。人員不足、船、航路、補給。必要なものは多い。ルキフェルは皆を見渡しながら告げる。
「船団を動かすなら、まずルールを決めて契約書を作る。応接間に置いておくから、行きたい奴はサインしてくれ」
皆が散っていき、夜は更けていった。応接間ではルキフェルが一人残っている。彼は机の上で紙を裁断し、羽ペンを取ってインク壺を開くと書き始めた。
船上規則、契約内容、役割に報酬、責任、救護、食料、罰則。一行ずつ丁寧に綴っていく。内容は昔と殆ど変わらなかった。フランソワ海賊団の頃から、ずっと守ってきたもの。船上での賭博は禁止、仲間への暴力は禁止、略奪は禁止。問題が起きた場合は話し合うこと。弱い者を見捨てないこと。
生きて帰ることを書きながら、彼の脳裏にアランが浮かぶ。同じように机に向かう自分、アランが横から契約書を覗き込みながら「堅ぇな」と笑っていた。今思えば、あの男はいつも隣にいた。面倒な事務仕事も、船員の揉め事も、補給計画もノウハウを叩き込んで。ルキフェルは思わず笑みを浮かべる。少しだけ背中を押された気がした。羽ペンは止まらない。夜が過ぎ、窓の外が少しずつ白み始め、やがて東の空から朝日が昇った。机の上には数十枚の契約書。インク壺と羽ペンも置いてある。
ルキフェルは部屋に戻ると雑魚寝する三人——ジャスパーだけ生意気にも寝台——を避け、毛布に倒れ込んで爆睡した。昼。さらに過ぎて午後。旧バティーユ邸はすっかり活動時間だったが、応接間の隅では毛布の塊が微動だにしなかった。
「……ん」
毛布がもぞりと動き、しばらくしてまた動く。さらに数分後、ようやく毛布の中から暗褐色の髪が覗いた。ルキフェルは半目で身を起こす。身体が重い、徹夜明け特有の気怠さが全身に張り付いていた。のそりのそりと熊のような動きで立ち上がる。窓の外を見ると太陽はとっくに高い位置にあった。
「……寝過ぎた」
ルキフェルは鏡台に向かい、冷たい水で顔を洗う。ようやく意識が浮上してきて顔を上げると鏡があった。そこに映る自分を眺め、鏡越しに前髪を摘まむ。
「……髪、随分と伸びたな」
いつもなら後ろへ流すが、今日は面倒だった。徹夜明けで気が回らない。前髪を垂らしたまま放置する。少し視界は悪いが問題ない。ルキフェルは部屋を出て廊下を歩き、食堂へ向かった。まずは水だ。彼は台所の水差しを見つけると木製のコップに注ぎ、一気に飲み干した。冷たい。生き返る。もう一杯飲もうとした時、聞き慣れた声がした。
「おや」
ルキフェルが振り返ると、ヤンが相変わらず穏やかな顔をしている。
「起きましたか」
「今起きた」
「まあ、あれだけ契約書を書いていましたからね」
どうやら、途中で見られていたらしい。ルキフェルは怪訝な顔をするもヤンは続ける。
「組織の方で東行きの計画を立てています。各地に散っている同僚たちへ、故郷帰還の伝言も届けなければなりません。ですので、わたしたちは皆さんと共に旅へ出ることはできません」
ルキフェルはコップを置いて表情を引き締める。彼らにも彼らの役目がある。リー・ウェンという組織を守るための役目が。ルキフェルはヤンを見て頷いた。
「そうか」
「ですが、旅のご無事は祈っていますよ。皆さんがどんな未来へ辿り着くのか、少し楽しみです」
「……ありがとう」
ルキフェルはあくびを噛み殺しながら応接間へ向かった。まだ頭が少し重い。扉を開くと、長テーブルの上に自分が作った契約書の山が置かれていた。いつの間にか小さな机から移動されている。雑に積み上げられているあたり、誰かが途中で整理を諦めたらしい。インク壺と羽ペンもそのままだ。窓の外からは賑やかな声が聞こえる。今日は剣術稽古でもしているのだろう。
「ぎゃあああああっ!」
ジョルジュらしき悲鳴が聴こえた。何が起きているのかは知らないが、たぶん聞かない方がいい。ルキフェルは椅子に腰を下ろし、契約書の一番上の紙を取った。右下、署名欄に黒いインクが走っている。ルキフェルは一枚ずつ確認していった。ジャスパー、ニール、コリン、サミュエル、シャルル、ジョルジュ。ペネロペ、ロザリー、アニータ、リゼーヌ、ダミアン、ニコラ。それにアーシャとフェリス。思っていた以上に多い。ルキフェルは息を吐いて次の一枚を見た。
「……マルク?」
元海賊船長、戦闘経験も豊富だ。もし同行してくれるなら頼もしい。船団指揮も任せられるかもしれないと思いながら次の紙を取り、ルキフェルは手を止めた。字が妙だった。いや妙というより、酷かった。大きく歪んだ文字、線も震えている。要所要所でインクが滲んでいた。
——誰だ、これ。
大きな「M」の字が見えて続く文字をゆっくり読み、ルキフェルは思わず声を漏らす。
「……マテオ?」
何度見ても、やっぱりマテオだった。ルキフェルはしばらく彼の字を見つめた。
マテオは文字の読み書きができない。幼い頃から生きることに必死で、学ぶ機会なんてなかった。地頭が良いのは誰もが知っている。が、本人は昔から「文字見ると頭痛くなる」と言って勉強を嫌がった。だから契約書も、手紙も必要な時はいつも代筆だ。ニールか、あるいは自分が代わりに書いていた。なのに、今は違う。紙の上には本人の字がある。歪で不器用で、格好良いとは言えない字だったが、間違いなくマテオ自身が書いた名前だった。
ルキフェルは契約書に指先を添えて微笑む。いつ覚えたのだろう、誰が教えたのだろう。あの男も少しずつ変わっていたらしい。窓の外からまた声が聞こえる、今度はマテオの声だった。
「待て待て待て! だから、そこは足を払うな!」
「えっ、こうですか!?」
「違う!」
どうやらダミアンが原因らしい。ルキフェルは肩を震わせて契約書を束に戻し、不格好な署名をもう一度だけ見た。
「……そうか」
応接間の扉が開いてルキフェルは顔を上げると、スザンヌが何か言いかけて動きを止める。
「あ」
——前髪が、いつもなら後ろへ流している髪が額に落ちてる。少し長い、どこか無防備だ。
「……どうした」
「ううん、なんでもない!」
ルキフェルが首を傾げ、スザンヌは慌てて目を逸らした。心臓が少しだけうるさいから誤魔化すように言う。
「よく眠れた?」
「寝過ぎた。身体が鈍い」
「そりゃ、徹夜したんだもの」
スザンヌが長テーブルに近付いた。契約書の山、まだ署名されていないものも残っている。スザンヌが一枚を取ると流麗な文字が並んでいた。ルキフェルの字、意外と綺麗だ。スザンヌは一行ずつ読んでいく。船上でのルールはどれも簡潔だった。しばらく読み進めたあと。スザンヌは顔を上げてルキフェルを見る。
「……昔、女は船に乗れないって言っていたよね」
ルキフェルは少し目を瞬いて苦笑し、後髪を弄る。
「ああ、フランソワの船は女人禁制だったから。今思うと、俺って酷いこと言う」
スザンヌは契約書を持ち上げて誌面を見せびらかした。
「でも、ここには書いてない」
「消した」
「え?」
「今はとにかく人が欲しいから」
ルキフェルが平然と言い放つと、スザンヌは数秒黙ってから吹き出した。
「なんだよ」
「別に。ルキフェルらしいなって思っただけ」
スザンヌは笑いを堪えながら首を振り、再び契約書に目を落とした。彼女は数行読むと羽ペンを手に取り、インク壺に浸すと署名欄にサラサラとペン先を走らせる。流れるような筆致だ、細く柔らかく品のある字。
——スザンヌ・ブルボン。
スザンヌは署名された束の上に契約書を重ねた。ルキフェルは目を離せず契約書を見る。その上に並ぶ数々の名前。今、スザンヌの名前も加わった。自分の言葉を信じて、名前を書いてくれた人たちがいる。
ルキフェルは契約書の束を見つめながら安堵の息を漏らした。




