第七章① 剣舞を通すは一つの覚悟
翌日。食堂では東洋人たちが朝から何やら熱心に話し込んでいた。予言だの報告だの最高機密だの、聞こえてくる単語だけでも物騒である。一方、応接間では全く別の意味で騒ぎになっていた。
「よし! じゃあ次は賭けありな! 海賊の間で流行ってたやつなんだけど——」
ゴッ!
「痛っ!?」
ジャスパーが頭を押さえ、彼の背後でマテオが拳を下ろす。
「海賊の掟。フランソワ海賊団では船上での賭博は禁止だったろーが」
「いや、でも今は陸だし——」
「禁止だ」
「はい」
ジャスパーは涙目で呻き、ニコラが笑いながら椅子に背を預けた。
「いやー、懐かしいですね」
「そうだね」
ニールも苦笑する。笑い声が絶えず、ルキフェルは窓辺近くのテーブル席にいた。チェス盤が置かれた小さなテーブル、向かいの席は空いている。彼は椅子に深く腰掛けながら、仲間たちの様子を眺めていた。海賊の掟を定めていたのは自分だった。クォーターマスターとして、船団の秩序を守るために。こうして騒ぐ仲間たちを見ながら笑う日が来るとは思わなかった。
今はシックスティシックスのトーナメント戦らしい。賭け事はなし、ただ遊んでいるだけ。ジャスパーが騒ぎ、マテオが止め、コリンが笑い、ニールが呆れる。
「負けたー」
一回戦で敗退したらしい。スザンヌが少し不満そうな顔で近付いて向かいの席に座った。
「参加しないの?」
ルキフェルは応接間に視線を向けた。ジャスパーがまた何か騒いでいる。
「どうせすぐ負ける」
「ふーん。でも、笑いながら見てたよね」
「……え」
ルキフェルが目を丸くすると、スザンヌは頬杖をついてクスクスと笑う。
「穏やかに笑ってた。すごく優しい顔」
ルキフェルの心臓が跳ねた。顔に血が集まっていく。耳と頬が熱い、頭の中が真っ白になる。まるで不意打ちだ。スザンヌが首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
ルキフェルは慌てて顔を逸らした。窓の向こうでは風が木々を揺らしている。ジョルジュの叫び声が響き、歓声が上がった。トーナメントは順調に進んでいるらしい。ダミアンはトランプの持ち方から怪しかった。
「待ってください、これ何が強いんですか?」
「だから説明したでしょ」
ニールが頭を抱え、対面ではロザリーが愉快そうに笑っている。
「ほらほら、初心者を盾にするんじゃないわよ」
「盾じゃない!」
「今のは盾だった」
ダミアンがしょんぼりし、周囲から笑い声が上がった。そんな賑わいを眺めていた時、スザンヌがルキフェルに声をかける。
「ねえ。少し外に出ない?」
「外?」
ルキフェルは首を傾げ、スザンヌは応接間を見回した。
「うん。この部屋、暑いから」
確かに人数が多い。熱気も凄かったが、それだけではない気がした。ルキフェルが何も言わずにいると、スザンヌは少しだけ笑った。
「昔みたいに二人でいたいなって」
「……そうか」
ルキフェルはどぎまぎし、二人は応接間を出て屋敷の庭へ向かった。春の陽射しは暖かく、草木は青々としている。二人は歩きながら他愛もない話をする。昔のこと、士官学校のこと、海のこと。そして時折、応接間から漏れてくる笑い声。
「……スザンヌ」
「ん?」
「この先、どうしたいとかあるか」
「うーん……具体的には何もないかな。でも、たまに考えちゃうの。戦いがなかったらいいのにって」
スザンヌは応接間の窓を振り返る。
「ほら、今のメンバーって元軍人も多いでしょ? みんな、任務がない時でも緊迫してた。いつ死ぬか分からないし、理不尽なこともあったし、小さなことで幸せを感じる余裕なんて、あまりなかった」
スザンヌは少し寂しそうに笑って目を伏せる。
「だから、できるだけ争いから遠い暮らしをしたいかな」
ルキフェルは足を止めてマルセイユの街並みを見た。
「現実は厳しい。どこへ行ってもな。人がそうさせている部分もあるけど、一番は環境だ。海の上だって過酷だったろ」
「そうだったね」
スザンヌは苦笑した。二人は庭を散策した後、ルキフェルは不意に足を止めた。陽光の中にリュウが立っている。リュウは二人が近付くより先に振り返った。
「やあ」
相変わらずだな、気配を読むという次元ではない。昔からこうだった。リュウの両手の上で何かが陽光で煌めき、スザンヌは思わず目を瞬く。
「あ、隊長の剣」
ルキフェルも目を見開いた。リュウの手には二振りの剣。シュアン・イン、アントワーヌが生前愛用していた剣だ。
「なんでそれを?」
ルキフェルが尋ねると、リュウは剣身に目を落として指先で柄を撫でる。
「元々、私が作ったものだ」
そうだった。この男は武術家であり、元海賊であり、鍛冶師でもある。トゥーロンでの穏やかな老人の顔が消え、かつて海を渡り歩いた武人の顔になる。
「懐かしいな。君とアントワーヌ、船の上で稽古をつけていた」
リュウは微かに笑って視線を遠くへ向ける。潮風、揺れる甲板、木剣の音。昔の光景が脳裏を掠め、ルキフェルも思わず口元を緩めた。懐かしい。そして、少しだけ寂しい。もうアントワーヌはいない。それでも、剣だけは残っている。スザンヌが声をかけた。
「リュウさん。ルキフェルのお師匠さんだったんですね」
「そう。昔は海賊の用心棒。今は引退した老耄。それと、トゥーロン担当のリー・ウェンも時々やっていた」
リュウが淡々と答えるとルキフェルは即座に突っ込む。
「なんで引退後もスケール広いんだよ……」
老人の第二の人生じゃない。情報組織の幹部である。リュウは気にした様子もなく返す。
「暇だったので」
「絶対嘘だろ」
ルキフェルは呆れ、スザンヌがくすくす笑う。
「強かった?」
「強い。俺より強い。一度も勝てないまま引退しちまった」
ルキフェルは即答して肩を竦める。スザンヌが目を丸くするが、当のリュウは首を横に振った。
「勝敗などどうでもいい。君は十分強くなった」
ルキフェルが目を逸らして頬を掻き、リュウは微笑んでルキフェルを見つめる。
「君もアントワーヌも……私の自慢の弟子だ」
陽光が剣身を照らす。リュウの言葉を聞きながら、ルキフェルの胸の奥は温かさに満たされていた。ルキフェルはリュウの顔を見つめると昔を思い出した。
十年ほど前。一度別れた時、この人は言っていた。遠い東の故郷へ帰りたい、と。だが結局、帰らなかった。昨夜も笑いながら話していた。
——人との縁を巡った結果、フランスに残ることにした。組織リー・ウェンからスカウトされてね。
苦笑交じりの声だったが、今なら分かる。帰らなかったのではない。帰る場所よりも大切な縁を選んだ。ルキフェルは目を伏せる。自分には帰る場所がない。今は流れ着いただけの人間。けれど、季節は過ぎていく。皆が未来へ向かって歩き始めている。この屋敷に留まり続けても、何も変わらない。自分のために動いてくれた人たちへ、できることはあるのだろうか。
ルキフェルが眉間に皺を寄せていると、リュウがシュアン・インの片割れを差し出した。
「ほら」
「……何」
ルキフェルが聞くとリュウは目を鋭くさせた。
「ルキフェル。最近、舞えているか?」
「……いや。最近はどうも剣を持つ機会がなくて」
「そうか」
リュウは頷くと哲学者のような面持ちで説く。
「昔、幼い君に言ったな。迷いが生じた時、人は案外答えを持っている。見つけられないのは、心が騒がしいからだ」
ルキフェルは苦笑した。
「舞を通して自分の心を沈めつつ、答えを見つけるんだろ」
リュウは口元を緩めて声を弾ませる。
「よし。よく覚えているな。じゃあ、見せてもらおうか」
「……」
ルキフェルは思わず半眼になった。
「さっき引退したって言ったよな」
「引退した」
「説得力がねえ」
ルキフェルの横でスザンヌが天真爛漫に笑った。
「私、見てみたい」
「いや——」
「見たい」
「……」
ルキフェルは盛大に息を吐いた。頭で考えていても仕方ない。リュウから剣を受け取ると思ったより軽かった。左手用の片手剣は細身、ラピエールに近い。アントワーヌとの戦いで、突きに特化した剣だということは知っている。が、今は妙に重かった。自分の心が重いらしい。ルキフェルは剣を握り直し、深く息を吸うとリュウを見る。
「……やってみる」
「うむ」
ルキフェルは二人に背を向け、青々とした草地の中央まで歩くと足を止める。草が揺れていた。春風はまだ少し冷たい。けれど、冬のような鋭さはない。遠くで鳥が鳴き、屋敷の方からは誰かの笑い声が聴こえる。ルキフェルは剣を下げて瞼を閉じた。呼吸をひとつ、草の匂い、土の匂い、暖かな陽射しを肺の奥まで満たすと、長く吐いた。肩の力が抜け、胸の奥に渦巻いていた何かが少しずつ静かに沈んでいく。
起勢。大地は動かない、空も動かない。風が頬を撫でる。動いているのは自分だけ。剣先がすいっと持ち上がる。
並歩点剣、空へ向かう細い線。腕が伸び、剣が前を向く。遠く、ずっと遠く。視線の先は青かった。その先に何があるのかは見えない。見えないままでいい、未来とはそういうものだ。どこへ行き、何をして、何のために生きる。剣先が空を指し、身体が巡って片脚が浮く。重心は細くなるが、体は揺れない。風が腰に帯びる赤い巻きサッシュを鳴らす。
独立反刺の瞬間、潮の香りがした気がした。風が袖を孕ませ、世界が少しだけ遠ざかると、今度は波の音が聞こえた気がした。誰かが歌っている。優しい歌声。
——月影之文。
母の声だ。澄んだ声が波音に混じる。振り返ればそこにいそうなほど鮮明なのに、もう届かない。歌と波だけが残っている。剣先がゆっくり円を描き、呼吸が続き、身体が続き、記憶もまた続いていた。
灯りの下で本を開く男。夜の静けさ。灯の下、穏やかな横顔。物語を語る、低い声。エリオット、父だった男。もう過去だったが、失われたわけではない。人は案外、抱えたまま生きていく。剣先がゆっくり反転し、身体もまた回る流れの中で、もう一人の顔が浮かんだ。身も心も深く切り刻まれた、あの日。名を失った少年を黄金の瞳で射抜いてきた男。
——お前は今日からルキフェルだ。
今も覚えている、ゼフィランサス。風が強く吹き、身体が沈んで低く、さらに低く沈む。
仆歩横掃で草が剣先に触れた。払い、円を描き、払う度に胸の奥を掻き出される気がした。
海へ消えた背中、もう聞けない声、届かなかった手。フランソワ。アラン。ベルナルド。そして、アントワーヌ。別れもそうだ。消えるわけではない。忘れるわけでもない。ただ胸の奥へ沈んでいく。海の底へ沈む船のように深く。
陽光が刃を流れ、身体が起き上がると水平に剣が走った。弓歩平斬で風が裂け、その向こうに顔が見えた。ジャスパー、マテオ、コリン、ニール。笑っている顔、怒鳴る顔、呆れる顔、泣いている顔。皆ばらばらだった。けれど、今は同じ場所にいる。奇跡のように思えた。皆、生きている。だから、守りたい。
剣が流れ、円だった軌跡が不意に変わる。直線で鋭い刺突。迷いなく、陽光を裂く。
西洋剣術、アントワーヌの剣が真っ直ぐ突く。身体が覚えていた。まるで、目の前に誰かが立っているかのように。声にはならないが、胸の奥で木霊した。
——君が守ったものを守りたい。仲間を、あの島の民も。今を必死に生きている人たちを。
一瞬、懐かしい背中が見えた気がした。振り返らない男だった。だから、呼び止めなかった。もう十分。剣先が震えて陽光が刃を照らした時、身体が大きく開いて風が吹く。
大魁星式、空は広かった。どこまでも、どこまでも高い。どこまでも青い。春雲が流れ、鳥が飛んでいく。どこへ向かうのだろう。知らない。けれど、鳥は迷っていないように見えた。遠く、さらに遠く、視線は自然と地平線を探していた。その先には海がある。海の向こうにも海がある。そして、まだ見ぬ土地。まだ知らない人々。
——東。そうか、そこか。
昨夜まで荒唐無稽に聞こえていた話が、今は不思議と遠い話には思えなかった。名前も言葉もない。理由もわからない。ただ息がしやすかった。剣が軽くなる。
燕子抄水、燕が水面を掠めるように風を切った。身体が流れる、水面を渡る燕のように自由だ。船の上で誰かが騒ぎ、誰かが転び、誰かが呆れてため息を吐く。そんな光景が浮かんだ。背負っていたものが消えたわけではない。それでも、前へ進める気がした。導くのではない、共に行く。共に生きる。
最後の一歩、弓歩刺剣。剣先が静かに定まる。空も風も揺れているが、剣だけは揺らがない。呼吸も視線も心も。
——仲間を守って自分も生きる。そのために進む。
答えはもう、そこにあった。呼吸を落として収勢。刃がゆっくりと下り、風が静まって鳥の声が戻る、誰かの笑い声も戻る。世界は何も変わっていない。春だ、穏やかな昼だ。ただ、ひとつだけ自分の中の何かが定まっていた。長く息を吐いて目を開く。空は青い。どこまでも青かった。その青さを見上げたまま、ルキフェルはぽつりと呟く。
「……決まった」
ルキフェルは踵を返し、草を踏みしめて二人のもとへ戻ると、手にしていた剣をリュウに差し出した。
「ありがとう」
リュウは目を細めて受け取り、ルキフェルは息を吐く。
「……戻ろうか」
スザンヌが頷く。三人はそのまま庭を後にして応接間へ戻る。扉を開いた瞬間、歓声が上がった。
「だから、言ったでしょ! ボク、強いんですよ!」
ニコラが両手を広げて勝ち誇っている。どうやら、ゲーム大会は終わったらしい。周囲には敗北した者たちの死屍累々たる姿があった。
「イカサマじゃないよね……」
「違いますよ! 港町で育った男、舐めないでください!」
ジョルジュが涙目で訴え、ニコラは胸を張った。アニータはルキフェルに気づいて顎を上げる。
「あら、おかえり。優勝賞品でも用意したの?」
応接間の視線が集まった。ルキフェルはしばらく皆の顔を眺めた。海賊たち、元海軍、ダミアン。不思議な組み合わせだ、少し前まで殺し合っていた人間たちとは思えない。けれど、今ここにいる。生きて笑って、同じ屋根の下にいる。ルキフェルは顎に手を添えて語る。
「……そうだな。けど、これは誰か一人のものじゃない」
皆が首を傾げ、ルキフェルは背筋を伸ばして告げる。
「皆、また船に乗らないか。いつ、ここが見つかるか分からない。だからといって、西の地に俺たちの居場所はない」
ルキフェルは窓の外に視線を向け、再び仲間たちを見据える。
「東洋へ行きたい。結果的に国外逃亡になる。……それでも、俺は皆と一緒に生きたい」
ルキフェルの言葉に何人かが目を瞬き、言葉に詰まらせている。静まり返った中で、最初に鼻を鳴らしたのはマテオだった。
「今更かよ。ここにいる連中はな、今日まで散々な目に遭いながら生きてきたんだ。ずっとこの国に居座ろうなんて思ってる奴いるか?」
何人かが苦笑するとジョルジュが勢いよく手を挙げた。
「はい! ボクたち、あの脱獄の時点で引き返せないって分かってました! どこまでも逃げてみせます! 世間に嫌われても、海は旅する者を歓迎してくれますから!」
「発想が海鳥なんだよなあ……」
ニコラが呆れる横でサミュエルがうんうんと頷いている。
「良いじゃないか。共に生きるというのは美しいことだ」
「詩人ですか」
「いや、実際そうだろう?」
「そうでしょうけど……」
ダミアンが突っ込み、シャルルが手を上げる。
「ぼくは賛成だよ」
「即答だな」
「以前から東洋には興味があってね」
リゼーヌが元気よく続いた。
「私もです! 絶対行きたいです!」
「おれは元から行くつもりだったけど?」
「僕も」
「ぼくも!」
ジャスパーがニヤリと笑い、ニールとコリンが片手を突き上げる。ロザリーとペネロペは顔を見合わせる。
「なんだろ。国外逃亡なのに」
「やけにワクワクする」
アニータが大きく溜息を吐いた。
「で? 誰があんたたちの食事管理するの? わたしも行く」
ニコラは何も言わず頷き、ダミアンは少し照れ臭そうに笑う。
「ボク、色んな世界を見てみたいです」
ルキフェルはただ皆を見ていた。馬鹿みたいに騒がしいが、嫌ではない。スザンヌはルキフェルの背中を見つめている。
「……ありがとう」
ルキフェルは頭を下げた。春の日差しが窓から差し込む。東洋がどんな場所かも分からない。待ち受けるものも分からない。それでも、行こうと思えた。皆がいるから。




