第七章① ルキフェル
人数が多いため、食堂は立食形式に近い形になっている。長テーブルの上には様々な料理が並び、それぞれ好きなものを皿に取り分けていた。そこへ、ルキフェルがリュウと共に食堂に入ってくる。
先ほどまで自室で話していた。フランソワのこと。船のこと。過去のこと。話したいことは山ほどあったが、全ては語り切れない。それでも不思議と胸は軽い。
ルキフェルが食堂に足を踏み入れた途端、思わず周囲を見渡した。仲間たちがいる。ジャスパーが何か言って笑い、ニールは料理を皿に盛りながらマテオと話していた。コリンは既に何かつまみ食いしているらしく、アニータに見つかって怒られていた。シャルルとリゼーヌはまだ予言の話をしているようで、ロザリーが呆れた顔をしている。どこか祝賀会のようにも見えた。誰かを倒したわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。それでも、皆がここにいる。ルキフェルは息を吐いた。これから先、自分たちはどう生きるのだろう。この先で何を見て、どこへ向かうのか。ぼんやりとそんなことを考えていた時、白い皿が胸元に押し付けられる。
「ほら、考え事はあとにしろ」
ルキフェルが反射的に受け取ると、マテオが呆れたように言う。
「まず食え。食わないと倒れるぞ」
「分かった」
「分かってない顔だな。とにかく食え」
マテオは眉を顰めて去っていく。相変わらずだ。ルキフェルは思わず苦笑し、食堂の隅に目を向けた。窓際に小さな空きテーブルがある。
「ヨシマサ、あそこに座ってくれ」
ルキフェルが声を掛けるとリュウは頷いた。二人で歩き、リュウが空いて椅子に腰を下ろして周囲を見渡す。
「何でも良いのか?」
「食べたいものあるなら持ってくる」
ルキフェルが立ったまま聞くと、リュウは長テーブルの上に並ぶ料理を遠目に眺める。
「魚があれば嬉しい」
「分かった」
ルキフェルは皿を持ち直して長テーブルへ向かい、人混みの中へ足を踏み入れる。料理の匂いと笑い声が今は妙に心地良い。長テーブルには肉料理に煮込み料理、焼き立てのパンと果物が並んでいた。ルキフェルはある一皿を見つけて足を止める。
焼き魚だ、なかなか立派な大きさである。香ばしい匂いが食欲を誘った。リュウなら喜ぶだろう。ルキフェルは魚を見下ろしながら腕を組んだ。一匹を二人で分ければ十分だろう。ルキフェルは近くに置かれていたトレーに手を伸ばし、未使用のナイフとフォークを掴むと、焼き魚を手繰り寄せるようにして皿に移した。ついでに野菜も添えておこうと思った時、ルキフェルの視線が近くの大皿に盛られた野菜に向く。東洋組が持ち込んだらしい細長い木の棒が二本置かれていた。菜箸、以前にも見たことはある。使っているところも見た。ルキフェルはしばらく菜箸を見つめて手に取る。数秒後、野菜は一切動かなかった。そもそも掴めない。挟もうとしても逃げる。思った方向へ動かない。どういう理屈なのか分からない。ルキフェルは菜箸を見つめた。
「……無理だな」
ルキフェルが菜箸を元へ戻すと、近くにいた東洋組の誰かが肩を震わせていた気がした。ルキフェルは仕方なくナイフとフォークで野菜を挟み、盛り終えたところで皿を持ち上げる。焼き魚と野菜、ついでにパンも少し。ルキフェルは食堂の隅へ戻り、「持ってきた」と言いながら皿をテーブルに置くと目を瞬いた。
「……あれ」
リュウの手元に箸が置かれている。しかも一式揃っていた。
「いつの間に」
「今しがた、ポーランが持ってきてくれた」
ルキフェルが見回すと、ポーランが軽く手を振っている。ルキフェルも軽く手を上げて返した。
「そうか」
ルキフェルは席に腰を下ろした。リュウは箸を持って魚の身を綺麗にほぐし、小骨を避けながら口に運ぶ。ルキフェルはナイフとフォークで骨を避け、身を切り分けて食べる。しばらく二人で黙って魚をつつく間、食堂では仲間たちの笑い声が響いていた。誰かが騒ぎ、誰かが笑い、誰かが料理を落として怒られている。ルキフェルは魚を一口食べながらそんな光景を眺める。少し前まで、自分には縁のないものだと思っていた。今はこの喧騒も悪くない。魚の白身が半分ほど消え、骨が少しずつ姿を現し始めていた時、聞き慣れた声が降ってくる。
「隣、いいか」
「……レオン」
ルキフェルが顔を上げると、レオンは空いている椅子に腰を下ろした。皿は持っていない。どうやら食事目的ではないらしい。ルキフェルは皿の上に残った魚を見て、フォークで軽く身を指した。
「食べる?」
レオンは思わず笑って首を横に振る。
「気持ちは有難いけど大丈夫だ。それより、ちゃんと食えてるか」
「まあまあ」
しばらく周囲の笑い声が聞こえ、やがてレオンが真剣な眼差しで口を開く。
「ルキフェル」
「ん?」
「今後のことなんだが」
レオンは食堂の向こう側に視線を向け、仲間たちの光景を眺めながら告げる。
「……そろそろ、エル・イエロ島へ帰ろうかと思う。島の仲間が心配だし、向こうも俺を気にしてるかもしれない」
ルキフェルは手を止めて魚の白身を見て、レオンの横顔をチラリと見た。引き留めようと思えばできるが、帰る場所があることの意味を、今の自分は知っている。
「……そっか」
ルキフェルは再び魚に視線を落とす。寂しくないと言えば嘘になる。レオンには何度も助けられた。言葉にも行動にも、背中にも。だからこそ、帰るべき場所に帰ることを止めたくはなかった。レオンはそんな彼の神妙な面持ちを見て笑う。
「まあ、明日明後日の話じゃない。まだしばらくはいるさ」
ルキフェルは少しだけ肩の力を抜いた。
魚も野菜も綺麗に平らげた頃、食堂の賑わいはさらに増していた。ルキフェルは席を立ち、リュウを部屋まで送り届ける。部屋の前で別れを告げると、ルキフェルは廊下を歩いた。久しぶりに風呂に入ろう。引き籠もっていた間も最低限は身体を拭いていたが、湯に浸かる気分にはなれなかった。今日は少し違う。ルキフェルは風呂場へ向かって脱衣所へ入り、扉を閉めると白いシャツの釦を外し、一枚ずつ脱いでいく。床に落ちたシャツはすっかり色褪せていた。今では灰色がかり、所々黒ずんでいる。ルキフェルが顔を上げると、鏡の中の自分と目が合った。傷だらけの顔、無数の古傷。左眉から右頬へ走る大きな傷跡。上裸になった身体にも戦いの記憶が刻まれている。
——ずいぶん傷付いたな。
少し前まで鏡を見るのも嫌だった。映る自分を見るたびに胸の奥が軋んだ。目を逸らしたかった、壊したかった。消えてしまいたかった。なのに、今は違う。嫌悪感がない。許せたわけではないし、好きになれたわけでもないが、少なくとも憎んではいなかった。——昼間に差し伸べられた手と頬をなぞった指先、傷跡に触れてくれた温もりと優しい声、浅瀬のような瞳が脳裏に過ぎる。ルキフェルはサッと顔を逸らした。なんとなく居心地が悪い。胸の辺りが落ち着かない。鏡を見続けるのも妙に気恥ずかしかった。
「……風呂入るか」
ルキフェルはさっさと浴場へ向かい、少しぬるめの湯に足を入れて肩まで浸かる。じんわりと身体が温まって息が漏れる。湯が肌を包むだけなのに、妙に落ち着いた。海賊だった頃を思い出す。トルチュ島近海、停泊中の船。吊り下げた帆布で囲いを作り、その中に海水を引き込んで身体を洗ったこともある。あれはあれで楽だった。潮風が吹いて、馬鹿話もして誰かが騒いでいた。笑い声があったが、もう戻れない。たぶん、二度と。ルキフェルは湯の中でぼんやりと天井を見上げた。寂しさはあったが、以前ほど苦しくはない。失ったものは戻らないが、残ったものもある。湯面が小さく揺れ、ルキフェルは目を閉じて湯の温もりに身を委ねた。
ルキフェルは再び白シャツに袖を通し、濡れた髪を軽く払った。部屋に戻るには少し早い気もした。どうしようか。ルキフェルが廊下を歩いて自分たちの部屋前に辿り着いた時、扉の前に二人の人影が立っていた。
「ん?」
誰かいる。ニールとリゼーヌだった。ルキフェルは足を止めて声を掛ける。
「何してるんだ」
「ああ」
ニールが振り返って妙に素っ気ない返事を寄越した。ルキフェルは首を傾げる。
——何だ、その反応。
リゼーヌがルキフェルを見つけるなり目を輝かせる。
「ルキフェルさん。このあと、少しお話いいですか?」
「ああ、いいけど」
髪が乾くまでなら暇だった。ルキフェルが答えるとリゼーヌは続けて言う。
「ヤンさんがジャスパーさんを連れてくるまで、ここで待っているんです」
「ヤン?」
ルキフェルが聞き返すとニールが肩を竦めた。
「あの黒髪男のリー・ウェン。本名、ヤン・ジュンジャーだってさ」
ルキフェルは一瞬黙るも鼻を鳴らした。
「あいつ、そんな名前だったのか」
「僕も今日知った」
ルキフェルは腕を組んでニールに目を向ける。
「んで、なんでお前がいるんだ」
ニールは一瞬目を逸らした。怪しい、非常に怪しい。リゼーヌが代わりに答える。
「夕食の時、シャルルさんと私が予言の話して、ニールさんも気になったそうです」
「まあ、そういうこと」
ニールは咳払いした。全然そういう顔じゃない。ルキフェルは顔を顰めるが、追及する前にリゼーヌが階段の方を見た。
「遅いですね……ヤンさん、苦戦してると思うので見てきます」
「苦戦?」
「たぶんです!」
根拠はないらしい。リゼーヌは階段を駆け下りていった。足音が遠ざかって廊下に沈黙が落ちる。ルキフェルはニールをチラ見すると、ニールは目を逸らした。
「お前」
「何」
「まさか部屋に連れ込もうとしたのか?」
「ぶっ、違う!」
「違うのか」
「違わないけど違う!」
「どっちだ」
「いや、その……」
ニールがごにょごにょと何か言うが聞き取れない。ルキフェルが盛大なため息を吐いた時、階段の方から声が飛んでくる。
「欲求不満か」
二人が振り返るとマテオがいた。上階へ上がってきたばかりらしい、ニールを見る目が妙に冷たい。
「っ、君ねえ!」
「さっきリゼーヌとすれ違ったぞ。顔真っ赤だった」
「……」
「バレバレ」
マテオが淡々と言い、ニールは顔を押さえた。ルキフェルが思わず吹き出す。
「なるほど」
「笑わないで」
「無理だろ」
やがて、階段から足音が聞こえてきた。リゼーヌの後ろにはヤン、さらにジャスパーもいる。
「連れてきました!」
リゼーヌがどこか誇らしげに言いい、ジャスパーは首を傾げていた。
「なんなんだよ」
「まあまあ」
ヤンが苦笑する。結局、一同は五人組の部屋に移動した。ルキフェルは拳を握って身構えた。リゼーヌが目を瞬かせて問いかける。
「エル・イエロ島で仲直りした時のお話、聞かせてください!」
「……それだけ?」
「それだけです!」
リゼーヌの真剣な眼差しに、ルキフェルは拍子抜けした。話し始めたのはジャスパーだった。ルキフェルとの再会とマテオのこと。あの日のことを延々と語る。ルキフェルとマテオは窓辺に腰掛けていた。今思い返すと妙に気恥ずかしい。特にジャスパーが二人の喧嘩について語り始める辺りから、居心地が悪かった。が、ジャスパーは構わず語り続ける。
「んで、おれは自分の血筋とか、ぶっちゃけどうでもいいわけ。おれが生き延びてきた意味を血筋なんかで片付けられたら悔しくない? だから、おれも自分にできることしたいなって考えてたの」
リゼーヌが真剣に頷き、ヤンも耳を傾けている。ニールも三人の経緯を神妙な面持ちで受け止めていた。ジャスパーは少し笑って言う。
「で、ルキフェルと話してるうちに覚悟決まった」
「どんな覚悟ですか?」
リゼーヌが食い気味に聞くと、ジャスパーは腕を組んでアンバーの瞳を細めた。
「おれが守るもの。人との繋がり、人と人を繋ぐこと。もし切れたら、繋ぎ直すこと。ルキフェルとマテオには仲直りしてほしかったし」
「……」
「……」
ルキフェルとマテオは揃って目を逸らした。
「……ああ」
「なるほど」
リゼーヌが天を仰ぎ、ヤンまで天井を見る。
「……ヤンさん、ここにいましたね」
「ええ、言っていることも一致しています」
「何が?」
ジャスパーが首を傾げた瞬間、リゼーヌが勢いよく立ち上がってビシッとジャスパーを指差す。
「いました! ここに紅い星の人!」
「は?」
ジャスパーが固まり、ニールも固まった。マテオも硬直している。ルキフェルは顎に手を添えた。紅い星。そういえばあの日、ジャスパーが真面目な話をしていた時、何か空が光ったような気がする。気のせいだと思っていたが。
「間違いありません! 紅い星はジャスパーさんです! 二つの蒼い首星はルキフェルさんとマテオさん!」
「……え、俺?」
リゼーヌの推理にルキフェルが思わず素っ頓狂な声を上げた。
「は?」
マテオも巻き込まれ事故に顔を顰める。が、リゼーヌは満面の笑みで頷いた。
「うんうん! 言われてみれば、ルキフェルさんはシリウスっぽいですし!」
「シリウスっぽいって何だ」
「マテオさんはプロキオンって顔してます!」
「どういう顔だ」
ルキフェルとマテオがそれぞれ真顔で聞き返した。リゼーヌは勢いだけで捲し立てる。
「ジャスパーさんが一度喧嘩した二人を結びつけたの、予言と一致します! それにジャスパーさんって髪、赤いじゃないですか!」
「……それだけ?」
「十分です!」
ジャスパーは眉を八の字にして頭を掻いた。リゼーヌは自信満々、ヤンに至っては顔を覆っている。よく見ると肩が揺れていた。ニールに関してはもっと酷い、腹を抱えて笑い始めている。ルキフェルは額に手を当てた。
——ジャスパー。普段はあいつが振り回す側なのに、振り回されている。
ジャスパーは怪訝な顔でリゼーヌに問いかける。
「理由が雑すぎない……? 髪が赤いだけだぞ?」
「だけじゃないです!」
「いや絶対だけだろ」
「違います!」
リゼーヌもジャスパーも譲らない。不毛な応酬を眺めながら、ルキフェルは独り言を漏らす。
「俺、そんなにシリウスっぽいか」
リゼーヌは聞き逃さず振り返った。
「ぽいですよー」
「そうか?」
「はい。ルキフェルさんって狼みたいですし」
「……狼?」
今度はルキフェルが困惑し、リゼーヌはうんうんと頷く。
「東のある国では、シリウスのことを『天狼星』って呼ぶんです。ほら、狼の字が入っているでしょう?」
「へえ」
ルキフェルは知らなかったが、ジャスパーが息を吹き返したように声を飛ばす。
「ま、ルキフェルは狼ってかクソデカワンコだけどな」
「殺すぞ」
ニールが「そうそう」と声を震わせ、マテオも目を瞑って頷いている。何故だ。ルキフェルは不服だったが、シリウスという名の響きは以前にも聞いたことがあった。あれはフランソワと最期に話した日、彼が空を見上げながら「シリウスみたいだな」と自分のことを指して言った。その時の声を思い出す。穏やかな声音だった。少しだけ寂しそうで、少しだけ誇らしそうで。
——シリウスは明るいからこそ、輝きと光の永遠の象徴になっている。俺もその光に救われた人間だ。
ルキフェルは目を伏せた。あの人は本当にそう思っていたのだろう。なら、シリウスという例えも悪くないのかもしれない。少なくとも嫌ではなかった。リゼーヌはまだ何か説明し、ヤンも頷いている。ジャスパーが相変わらず困惑している光景を見ながら、ルキフェルは息を吐いた。
——けど、勘違いするな。俺は英雄なんかじゃない。がむしゃらに生きようとした人間だ。
その時、ヤンはルキフェルとジャスパー、マテオの三人を順番に視線を巡らせた。
「東方に住むお偉方が、皆さんを見たら喜ぶと思いますよ。英雄と呼ばれるか否かは、後世の人間が決めることです。けれど、あなた方のこれまでの生き方には少なからず興味を持たれるでしょう」
ルキフェルは思わず顔を顰めた。
……あれ、俺の心読んだ? それとも声に出てた?
彼の隣でマテオが唸りながら問う。
「何が言いたい?」
ヤンは椅子から立ち上がって裾を払った。
「簡単です。どうでしょう、皆さんで東洋に行きませんか?」
「……はあ!?」
ジャスパーとマテオ、ニールの声が重なった。部屋の外、ちょうど扉へ手を掛けていたコリンが、中から聞こえた絶叫に肩を跳ねさせる。
「へっ!?」
ルキフェルは宇宙の真理に触れた猫のような顔をしている。リゼーヌは目を輝かせた。
「東洋!? え、本物の東洋ですか!?」
「本物の東洋です」
「行きたい!」
「早いですね」
ヤンが苦笑した時、コリンが恐る恐る扉を開けて入ってくる。ヤンは皆を見渡しながら告げる。
「だって皆さん、この国では脱獄者ではないですか」
「ぐっ」
「それにルキフェルさんは海賊社会から追放されたと聞いています」
ルキフェルの眉間が深くなるも、ヤンは微笑みながら告げる。
「東洋なら歓迎されるでしょう。予言の人物という免罪符付きです」
「待て待て待て待て」
マテオが両手を上げて制止する。
「それ国外逃亡しようって話か!?」
「そうとも言います」
ヤンは爽やかというか全く悪びれない。ニールが頭を抱える。
「嫌というか、急すぎる……」
「そうですか?」
ジャスパーまで横入りのように突っ込む。
「そうだよ。普通もうちょい段階踏まない?」
「踏んでますよ」
「どこを?」
「予言を解読しました」
「そこじゃない!」
マテオが声を荒げ、ルキフェルは絶句していた。
東洋、国外、新しい土地。——新しい人生。考えたこともなかった。いや、考えないようにしていた。この先どう生きるのか、まだ決めていなかったから。だからこそ、あまりにも突拍子もない提案なのに、不思議と否定できなかった。コリンはそっと扉を閉めて数秒、それから真顔で呟く。
「この人たち、また何企んでるんだろ」
「ちげえから!」
「違う違う!」
マテオとジャスパーはほぼ同時にヤンを指差す。
「こいつだ!」
「言い出したの、こいつ!」
「心外ですね」
「全然心外そうじゃねえ!」
ジャスパーが髪を掻きむしって叫び、ニールもとうとう疲れた顔をした。
「シャルルじゃあるまいし、一緒にしないでよ」
その頃、別室。
「……っくしゅ」
シャルルがくしゃみをして鼻先を擦る。
「む、誰か噂でもしているのかな」
一方、五人組の部屋ではジャスパーが騒ぎ、マテオが突っ込み、リゼーヌが目を輝かせ、ニールが頭を抱え、コリンが冷めた目で俯瞰している。ヤンだけは穏やかに笑っていた。ルキフェルはそんな光景をぼんやり眺めて最近のことを思い出した。
——東洋へ逃げろ。
長老の言葉、あの時は追放宣告だと思った。世界の果てへ放り出されるような気がした。居場所を失ったことが胸に残ったが、今になって思う。長老は船を用意し、金も用意して逃げ道を残した。カリブ海から追放しながら、それでも生きろと言った。あの人なりに自分たちを見捨てなかった。ルキフェルの視線がヤンに向くと、彼はまだ何か説明している。
「東洋の料理は美味しいですよ」
「そこじゃねえ」
「景色も綺麗です」
「だから、そこじゃねえって!」
ジャスパーが頭を抱えている。ヤンは楽しそうに語っているが、この男もただ面白がっているだけではない。自分たちが生き延びる道を探している。海軍でもない。海賊でもない、その先を探している。長老と同じように、不器用なやり方で生きろと言っているのかもしれない。ルキフェルは息を吐いた。まだ答えは出ない。東洋へ行くかも分からないが、以前ほど拒絶感はなかった。
「だから急なんだって!」
ジャスパーの絶叫を聞きながら、ルキフェルは口元を緩めた。ひとしきり騒いだ後、ヤンは服の皺を整えて踵を返す。
「では、これで失礼します。同僚たちに報告しなければなりません。我々にとってはビッグニュースですから、最高機密案件でもあります」
「それ、絶対面倒なことになるやつだろ」
マテオが呟くと、リゼーヌもヤンと共に扉へと向かう。
「私も行きます!」
二人は振り返って部屋を出ていく。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい!」
扉が閉まり、ニールが口を開く。
「……予言の星って、やっぱり東洋人たちにとって重要なんだね」
マテオが腕を組み、ニールが天井を見上げる。
「ほら、歴史が少しずつ変わっていくって話」
「ああ、星の話のインパクトが強すぎて忘れてた」
マテオが頷くとコリンが手を挙げる。
「あ、それ。ぼくも知ってるよ。少しずつ歴史の転換点が生まれていく、だったよね」
「そうそう」
ニールが頷くとジャスパーがベッドに寝転がりながら言う。
「えー? おれ、なんか変えたか?」
ニールが一つずつ指折り数える。
「うーん。アントワーヌの復讐を止められた、とか? あと色々起きたよね。トゥーロンで裁判。処刑。ルキフェルの血筋裁判もあった。脱獄して、ダラス家を倒すために動いた。その結果、ダラス家は失墜した」
「……この先、どうなるんだろ」
ジャスパーが天蓋を見上げながら呟いた。ルキフェルがジャスパーを流し目で見た時、彼の両耳に揺れるものが目に入った。トルコ石にチェコガラスのビーズ。長年、見慣れたイヤリングだ。今まで空いていた右耳には黒ずんだ同型イヤリングもある。
「……それ、父親の分も着けたんだな」
「ああ、これ?」
ジャスパーが身を起こすと鏡台に目を向ける。
「シルヴェストルのクソの元へ行く時、母ちゃんとゼフィランサスのために着けたんだ。別に外してもいいんだけど、外せないんだよな。アントワーヌの遺品でもあるし」
ジャスパーは指先でトルコ石を撫でて肩を竦めた。ルキフェルが窓の外を見つめる。すっかり夜だ。遠くで風が鳴っている。
「……ようやく、終わったんだ」
次の瞬間、盛大な欠伸が響いた。
「ふわぁぁぁぁぁ……」
一同が振り返ると、コリンが目尻に涙まで浮かベている。
「ねむい……」
ジャスパーが吹き出し、ニールもくすくすと笑う。マテオは額を押さえ、ルキフェルも思わず声を上げて笑った。終わった。ようやく、長い長い戦いが。だからこそ、今日はもう寝よう。明日のことは明日、考えればいい。
この夜、誰も戦いの夢を見ることなく暗い空間に身を委ねた。




