第六章③ お茶会
応接間では誰かが昼寝をし、誰かが雑談をし、誰かが食後の茶を飲んでいる。追われる身でもなくなったからこそ訪れた、久しぶりの平穏だ。そんな中、応接間の隅ではシャルルが一冊の本を手に取っていた。革張りの茶色い表紙、特に題名も記されていない。暇潰しのつもりでシャルルは一ページ目を捲る。数秒後、眉が動いてさらに数行読む。今度は眉間に皺が寄り、気付けば椅子の背にもたれ掛かっていた身体が浮いていた。
「……ほう」
「それ、何読んでるんですか?」
「漢文だな」
ジョルジュが首を傾げ、シャルルはページから目を離さず指先で文字をなぞる。
「けど……この部分は違う。篆書か。いや、正確には篆書を利用した固有名詞だな」
シャルルはぶつぶつと独り言を続け、次のページを捲って更に捲る。
「なるほど、そういうことか。なるほどなぁ」
ジョルジュは額に嫌な汗をかいた。シャルルがこういう声を出し始める時は大抵ろくなことにならない。
「何なんです?」
「読ませないための文書化だ。本文は読める。が、重要箇所だけ意図的に読みにくくしている。実に面白い」
シャルルが声を弾ませていた時、近くにいたダミアンがおずおずと手を挙げる。
「あの……それ、うちにあった本です」
「ほう?」
シャルルの目が光って本から顔を上げ、ダミアンは少し身を縮める。
「兄上の話では、教団が持っていたものをダラス家が取り上げた書物らしくて……でも、誰も読めなかったんです」
「なるほど。古代文字かと思われたんだろうな」
シャルルはうんうんと頷くと再び本に目を落とした。ページをめくる手が止まらない。片眼鏡と共に目が爛々と輝いている。
「実際は漢文が基礎だ。固有名詞を篆書にして、さらに要所要所に記号や暗号を混ぜている。これは興味深いねえ!」
シャルルは一度本をテーブルに置くと周囲を見渡す。
「誰か紙とペン持ってないか? 解読を始める」
「あーあ、始まった」
「何がです?」
ジョルジュが額を押さえ、ダミアンが首を傾げた。
「歴史好きの血が騒ぎ出したんだよ。もう止まらないよ、あれ」
ジョルジュは呆れたように言った時、別の声が飛び込んできた。
「漢文? 今、漢文って言った?」
リゼーヌだった。いつの間にか応接間へ来ていたらしい。シャルルが顔を上げる。
「言った」
「篆書も?」
「言った」
リゼーヌの目がギラリと輝いた。
「本、見せてください」
ジョルジュは天井を仰いだ。
「増えた」
「増えましたね」
ダミアンも小声で同意する。数分後、応接間のテーブルに紙と筆記具が並んだ。シャルルとリゼーヌは肩を寄せ合うように書物を広げる。二人とも真剣そのものだ、もはや周囲の声など聞こえていない。新しい遺跡でも発見した考古学者のようだ。ジョルジュは二人の様子を見ながら肩を竦める。
「まあ……楽しそうで何より」
応接間の扉が開き、顔を覗かせたヤンは室内の異様な光景を見て目を細める。テーブルの上には紙束、書き写された文字列、古い書物。そして目を輝かせるシャルルとリゼーヌ。もはや学者が何かに取り憑かれたようだった。
「皆さん、食堂でお茶とお菓子の用意ができましたよ」
ヤンが穏やかな声で言った瞬間、リゼーヌが勢いよく顔を上げた。
「やったあ! 最後のページまでいった!」
「解けましたね」
シャルルも満足そうに頷く様子にジョルジュは苦笑した。
「二人とも、途中から完全に楽しんでいましたね」
「当然です。こんな資料、そうそう読めませんからね」
シャルルは言いながら机上の紙束を整え、喉を軽く鳴らした。
「よし」
読み上げる気らしい。ジョルジュが嫌な予感を覚えた頃にはもう遅く、シャルルは解読した紙を手に取る。
「『古来より、人にはそれぞれ宿星があり、その人の本質や人生の宿命を握る星がある。それなら、紅い星や他二つの蒼い星も誰かの運命というより、人物そのものを指していることは、皆も共通認識として持ちながら慎重に探していることだろう』」
その頃、シャルルの周囲では皆がぞろぞろと立ち上がっていた。
「お、菓子か」
「行こうぜ」
「腹減った」
「先に席取るよー」
誰もがお茶という言葉に釣られて扉の向こうに消えていく。
「『しかし、私は闇雲に探してもその人物は見つからないと断定し、誰かがいつかこれを読むことを前提にここに重要事項を記しておく』……導入部分を要約すると、こうなりますね」
シャルルが顔を上げると瞬きをした。応接間にはリゼーヌ、ダミアン、ジョルジュにヤン。そして自分しか残っていない。
「……あれ?」
「皆さん、お茶飲みに行きましたよ」
ヤンが微笑みながら答えた。
「重要事項なんですが」
シャルルが言うとジョルジュが真顔で返す。
「お茶も重要なんですよ」
数秒後、シャルルは深いため息を吐いた。
「仕方ありません。食堂で続きを読みましょう」
「そうしましょう!」
リゼーヌは元気よく立ち上がった。結局、世界の秘密が書かれているかもしれない古文書は、お茶と焼き菓子と共に読み進められることになった。
食堂では皆が思い思いの時間を過ごしている。香り高い茶に焼き菓子。穏やかな雑談で誰かが笑い、誰かが欠伸をした。そんな中、食堂の一角だけは妙な熱気に包まれている。シャルルとリゼーヌが解読した書物を広げ、向かい側ではダミアンが背筋を伸ばして座っていた。どうやら逃げ損ねたらしい。ヤンは少し気の毒になり、苦笑しながら彼の隣に腰を下ろす。
「わたしもご一緒しましょう」
「ありがとうございます……」
ダミアンは助けを求めるような顔をした。が、シャルルは気づいていない。いや、気づいていても気にしていない。シャルルは紙束を整えて軽く咳払いする。
「さて、続きだね。導入部分の後は予言そのものについての解説だ。『遥か西の地、大海の手前、北玄の宿にて、二つの首星を結びつく星が紅く輝く時、歴史の転換点が生まれていく』」
ジャスパーが焼き菓子を頬張り、コリンは何個目か分からない菓子へ手を伸ばしている横で、シャルルは紙を捲って続ける。
「これが予言の原典だ。まあ、ぼくたちも東洋知識として聞いたことがある内容だね。この書物を書いた人物によれば、予言の解釈自体はそこまで難しくないらしい」
「そうなんですか?」
ダミアンが首を傾げ、シャルルは指先で文面を示した。
「うん。内容が比較的具体的だからね。まず『遥か西の地』。これはおそらくヨーロッパ圏を指している」
「『大海』は大西洋ですね」
リゼーヌが補足し、シャルルも頷いた。
「つまり、この部分だけでもヨーロッパ沿岸部という解釈が成り立つ」
「なるほど……」
ダミアンは頬に手を当てて耳を傾けている。そんな彼の前で、リゼーヌが身を乗り出して紙に書かれた文字を指差す。
「それでですね! この『北玄の宿』という言葉なんですが、信託を受けた預言者たちによる造語だそうです」
「『玄』はおそらく玄武ではないかと囁かれています。東洋の守護獣ですね」
「はい!」
ヤンが解説してしまったことでリゼーヌはさらに勢いづいた。
「古代中国では陰陽五行説において、玄武は北を守護する霊獣。四神の一体で冬を象徴します」
「へぇ」
ダミアンが感心したような声を漏らし、リゼーヌは指を一本立てた。
「そして『宿』。これは星座、あるいは星の領域を意味する言葉です。東洋占星術でも天文学でも暦でも使われます」
「つまり、『北玄の宿』という単語だけでも複数の解釈が可能になる」
シャルルが言葉を引き継いだと思ったら、リゼーヌは横入りするように捲し立てる。
「そうなんです! 地域を指している可能性もありますし、季節を意味する可能性もありますし、天体配置そのものを示している可能性もあります!」
すっかり研究発表会である。ヤンは思わず苦笑し、リゼーヌは最後の一文に視線を落とす。
「さらに、この書物では紅い星と二つの首星についても言及されています。冬に観測される星々、もしくは予言が発生する時期を示している可能性が高い、と記されていました」
言い終えた彼女の瞳はきらきらと輝いていた。まるで宝物でも見つけた子供のよう。しばらく予言の話が続いた後、ヤンが湯気の立つ茶器を置いた。
「実際、予言の通りになりましたね」
「というと?」
シャルルがやっとカップに口をつけ、ヤンはテーブルに肘をついた。
「今年の一月です。紅い星が突如現れましたから」
「……え? 一月だったんですか? 私、てっきり二月だと……」
リゼーヌが目を丸くし、ヤンは首を横に振る。
「いえ、一月です。わたしたち、リアルタイムで観測しました」
ヤンは窓の外に視線を向けた。夜のエル・イエロ島。突如として夜空に現れた紅い輝き。仲間たちが夜空を指差し、誰かが叫び、誰かが記録を取り、誰かが預言書を引っ張り出してきた。あの異様な夜、ヤンは今でも鮮明に覚えている。
「そうだったんですね……私、ずっと二月十八日だと思っていました」
リゼーヌは目を伏せて呟いた。マクシム隊の謀反事件。今まで厚く空を覆っていた雲が晴れた瞬間、夜空に浮かんでいた三つの星。紅い星と二つの首星があまりにも鮮明だった。
「違ったんですね……始まりじゃなかった」
リゼーヌは視線を窓の向こうに向ける。
「もっと前から……空は予言の到来を告げていたんですね」
ヤンとシャルルがカップを傾け、ダミアンは目をぱちくりさせると恐る恐る口を開く。
「他に……何が書いてあったんですか?」
その問いにシャルルは解読した紙束を整えて一枚の紙を取り出した。
「ここから先は少し毛色が違う。書物を書いた人物自身の解釈が綴られていた」
リゼーヌが椅子から腰を浮かしかけ、ヤンも耳を傾けた。シャルルは抑揚をつけて読み上げる。
「まず導入でも述べられていた通り、人は誰しも星を持ち、その星が自分自身を指している。『星が誰かを指し示すなら、予言の星、つまり三つの星にも、それぞれ当て嵌まる人物がいると誰もが解釈するはずだ。恐らく多くの者は、その人物の出現を誕生と捉えるだろう』。ここまでは一般的な解釈だね」
シャルルは一度顔を上げて紙を覗き込むように続きを音読する。
「『だが、私には一つ疑問がある。紅い星は夜空に現れなければ予言は完成しない。しかし、二つの蒼い星は昔から夜空を彩っている。誕生と解釈するなら、蒼い星に当たる人物はよほどの仙人ということになるだろう。暴論言えば、蒼い星に関しては誰でもいいことになる』」
「……確かに」
「そう」
ダミアンが首を傾げ、リゼーヌは思わず吹き出して指を二本立てた。
「それはそうですね。二つの首星、冬であればシリウスとプロキオンです。昔から観測されていますし、学者たちの間では有名ですよ。星にまつわる神話や物語は山ほどありますが、天文学的には『ただ明るい星』と言われることもあります」
シャルルは再び文書に目を落として声音が少し真面目にする。
「まだ続きがある。『私は星が宿命を指しているのではなく、人物の生き方に呼応するように光っているのではないかと考える。星が運命を導くのではない。人の生き様が星を光らせるのだ』」
リゼーヌが思わず息を呑み、ヤンも目を細める。ダミアンは黙ったまま聞いていた。シャルルはまた紙をめくって最後の一文を読んでいく。
「『故に紅い星が夜空に現れない限り、予言の人物を特定することは不可能。探すなら紅い星が現れてからだ。これを読んだ諸君らが紅い星を観測できた時、周囲に何か強い決意をした者がいないか探してみよ。私が生きている間に、紅い星が現れることはないだろう。故に、これを読んだ諸君らへ託す。どうか参考にしてみてほしい』」
シャルルが読み終えた紙を机へ置いて肩の力を抜く。
「——以上。これが書物に記されていた内容だ」
シャルルが読み終えた時、他の仲間たちは各々の時間に戻っていた。残されたのは、すっかり冷めた紅茶と解読された書物を囲む四人だけ。
「熱心ねぇ」
隅の席からアニータが呟き、ロザリーも頷いた。
「ほんと。シャルルの言ってる意味はさっぱりだけど」
シャルルは聞こえない振りで椅子に背を預けて解読文を眺める。
「いやあ。この書物を書いた人物は、ただの信者じゃないね。ちゃんとした研究者だ」
「兄上たちが解けなかった本を、そんなにあっさり……」
「ああ、言ってなかったかな?」
シャルルは顔を上げ一呼吸すると、何度も繰り返した自己紹介を始める。
「ぼくは王宮付きの歴史官、それと書誌管理官を務める家の次男さ。父も兄も今なお王宮勤めでね。家柄のせいか歴史、風土、伝承の知識だけは少々自信がある。古文書の類も読める。まあ、ただの歴史好きだよ」
捲し立てるような早口にダミアンは怪訝な顔をした。リゼーヌも苦笑し、ヤンが紅茶を嗜んでいた。やがて、リゼーヌが顔を上げてヤンを見据える。
「……予言、叶いましたよね。探さないんですか?」
「何をです?」
「予言の人です」
ヤンは少し考えて首を横に振った。
「うーん、探したいのは山々ですね。先祖たちも喜ぶでしょうし、今となっては半分諦めています」
「そうですか……」
リゼーヌは少し残念そうだったがすぐに別の疑問をぶつける。
「そういえば。紅い星が出た日って、一月だったんですよね?」
「はい。一月二十二日です」
「その時、リー・ウェンの皆さんはどちらに?」
「エル・イエロ島です。マクシムさんの故郷ですね。多民族集団が暮らす島で、カナリア諸島の近くにあります」
シャルルの頭の中で霧が晴れて目が宙を泳ぎ始めた。
「……ん? 待て。あの島、別名『子午線の島』って呼ばれていたよね?」
シャルルが身を乗り出して紙を引き寄せ、ヤンが目を瞬く。
「ええ、そういえばそうでしたね」
「それ、何ですか?」
ダミアンが未知の領域に困惑していると、シャルルは興奮気味に説明を始める。
「『子』は真北、『午』は真南。この二つを結ぶ線を子午線と呼ぶ」
「はあ……」
「昔の王がエル・イエロ島を通る線を基準子午線として定めた時代があるんだ。それにエル・イエロ島は古代から『世界の西の果て』、『陸地の西の果て』として認識されていた」
ダミアンは瞬きを繰り返して予言文を見る。
「え? じゃあ『遥か西の地、大海の手前』って……エル・イエロ島を指しているんですか?」
ヤンは懐を探って手帳を取り出し、挟まれた折り畳み地図を広げた。ヨーロッパ、アフリカ、そして大西洋。皆が覗き込み、ヤンはエル・イエロ島の位置を指先で示した。
「……たしかに、この島は西の果てです。そして、大西洋の手前に位置している」
地図を囲む食堂の一角にしばし沈黙が落ち、リゼーヌが勢いよく立ち上がった。椅子が大きな音を立てる。
「一月二十二日に! エル・イエロ島で、どなたか強い決意をした人いませんか!?」
「ひっ」
ダミアンが肩を跳ねさせ、ヤンは苦笑して紅茶を一口飲む。
「躍起になっても現れませんよ。とはいえ、調査範囲はだいぶ絞られましたけどね」
「落ち着きたまえ、リゼーヌくん」
「落ち着いていられません! こっちはですね! ずっと予想していたんですよ!? 予言の星、誰かなって!」
シャルルが宥めるも、リゼーヌは声を荒げて机を両手で叩く。ダミアンがまた肩を震わせた。リゼーヌはシャルルを射抜くように見据える。
「だ、だって! 二つの蒼い星だけなら、候補なんていくらでも挙げられるじゃないですか! ゼフィランサスさんとレオパード大元帥!」
「うん」
「フランソワさんとエドガー・ロジャースさん!」
「まあ、分からなくもない」
「当て嵌めるだけなら簡単なんですよ! でも、三人目が現れなかった! じゃあ誰なんですかって話ですよ! ほんとに誰なんですか、紅い人!」
リゼーヌは机に身を乗り出した時、ヤンがロザリーに目を向けた。
「ああ、そういえば。あなたも島にいましたね」
「は?」
「サミュエルさんとペネロペさんも一緒に」
ロザリーが固まる。嫌な予感しかしない。案の定、リゼーヌが振り返った。すっかり獲物を見つけた目で。
「あなたですか?」
「ち、違う……!」
ロザリーは即答して慌てて首を振る。
「私たち、その日は護衛してたし!」
「護衛」
リゼーヌが復唱するとロザリーは記憶を辿った。
「紅い星は確かに見た。でも、気づいたら夜空で光ってたの。光る瞬間は見てない」
「なるほど、ちょっと詳しくお願いします」
「うわぁ……」
リゼーヌの目がさらに真剣になり、ロザリーは顔を覆った。数秒後には諦めたようにため息を吐く。
「しょうがないわね。サミュエルとペネロペも連れてくるから待ってなさい」
ロザリーが食堂を出ていくとリゼーヌは拳を握った。
「あと少しです……!」
「何がですか」
「予言の星です」
ダミアンが恐る恐る聞いて、リゼーヌは声を落として答えた。シャルルは冷め切った紅茶を飲み始める。
——この子、絶対寝ないな。
しばらくして、ロザリーが戻ってきた。サミュエルとペネロペの姿もある。二人とも露骨ではないが、やや不満そうだった。長旅の疲れもまだ抜けていない。せっかくの自由時間を潰されたのだから当然だ。一方、アニータは食堂の隅から様子を眺めながら、口元を緩めている。予言の謎に取り憑かれた集団を見るのは、なかなか愉快だった。
「それで? あの時の話だろ?」
「ええ」
サミュエルが椅子へ腰を下ろし、ヤンが頷いた。サミュエルは腕を組んで天井を見上げる。
「夜中にルキフェルが一人で出て行こうとしたから、僕たちも付いていった。護衛としてね。仲直りするために」
「そうそう」
「あの時の五人、ギスギスしてたから」
ペネロペもうんうんと頷き、ロザリーは頬に手を当てた。サミュエルがリゼーヌに向かって語る。
「それで、まずジャスパーを見つけたんだ」
「ジャスパーさんを」
「うん。ルキフェル一人で行って、僕たちは少し離れて隠れてた。内容は聞こえなかったよ」
「なるほど……」
リゼーヌが紙に何かを書き留めている。
「では、紅い星は見ましたか?」
「さあ?」
「二人に夢中だったからなあ」
サミュエルが即答してリゼーヌは肩を落とすと、ペネロペが呑気な声をあげる。
「あ、見たよ」
「え?」
リゼーヌが固まり、ペネロペは首を傾げてお茶を一口飲む。
「いや、だって暇だったんだもん。ずっと待たされるし」
「うん」
「だから、空見てたんだよね。そしたら突然、紅い星がキランって光ったの」
「キラン……?」
「うん。流れ星みたいに消えなかった。ずっとそこにあったよ。なんだったんだろうね、あれ」
リゼーヌは机に両手を置いたまま固まっている。
「光った……? 突然……?」
「うん。でもね、ロザリーとサミュエルに教えても、二人とも光る瞬間を見てないって言うし」
ロザリーとサミュエルも頷いた。ペネロペは思い出したように言う。
「ジャスパーとルキフェルも会話に夢中だったみたい。で、ルキフェルはどっか走っていった」
リゼーヌは勢いよく立ち上がった。
「ジャスパーさんとルキフェルさんにも話を聞くべきです! きっと何か知っています! いえ、むしろ当事者ですから! 今から——」
「駄目」
突然、横から声が飛んだ。リゼーヌが固まる。いつの間にかアニータがすぐ隣まで来て腕を組み、呆れたような目で見下ろしていた。
「せめて夕食後にしなさい」
「で、ですが!」
「駄目。みんな帰ってきたばかりなの。疲れてる。というか、リゼーヌ。あなたも休みなさい」
「うっ」
痛いところを突かれてリゼーヌの肩が目に見えて縮こまる。
「で、でも予言が……」
「逃げないわよ」
「はい……」
リゼーヌがしょんぼりと椅子に座った。ダミアンが安心したように息を吐く。ロザリーは苦笑し、サミュエルは肩を竦めた。ペネロペは面白そうに眺め、シャルルは堪えきれず笑う。
「ふふ、良かったじゃないか。止めてくれる人がいて」
「うぅ……」
リゼーヌは返事にならない声を漏らした。ヤンは冷めた紅茶を飲み干し、空になったカップを机に置く。
「うむ、これは面白いですね」
数百年越しの予言が少しずつ輪郭を見せ始めている。調査が再開された時は是非、自分も同席しよう。ジャスパーとルキフェルが何を語るのか。少しばかり興味があった。食堂の窓の外、夕陽がマルセイユの街並みを染め始めている。
窓から差し込む橙色の光が廊下を淡く染めている。ルキフェルとリュウは並んで二階の廊下を歩いていた。食堂を出てからしばらく経つ。不意に横切ってきた人影に、ルキフェルは思わず足を止める。
「あ……」
スザンヌだった。ちょうど自室へ戻るところだったらしい。彼女もまたこちらへ気づいて足を止めた。沈黙が落ち、昼間の出来事が互いの脳裏を過ぎった。スザンヌが先に目を逸らし、ルキフェルも何となく頭を掻く。
「……もう寝るのか」
「ううん。本、読んでくる」
「そうか」
「じゃあ、また夕食で」
「ああ」
ルキフェルが頷くと、スザンヌは軽く手を振って自室に戻った。扉が閉まり、静かな音が廊下に溶けた。二人の背中を見ていたリュウが口元を緩める。
「優しい娘だな」
ルキフェルは目を逸らし、平静を装って歩き出した。
「……話したいことが山ほどあるんだ。俺たちの部屋に案内するよ」
「そうか」
長い廊下の先へ、夕陽は差し込み続けている。もう閉ざされた扉の前で立ち止まる必要はなかった。彼らの足音が穏やかに屋敷の奥へと消えていく。




