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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第六章「世界は、あなたが生まれてくるのを待っていた」
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第六章② ルキフェルとスザンヌ

 室内は暗く、頭上では窓が開いていた。差し込む陽光が部屋の中央を照らしているが、光から逃げるように一人の男が壁際に座っている。窓の方を向いたまま胡座をかいて、額に手を当てて。扉が開いたことで空気が流れ込み、部屋の淀んだ空気が揺れた。ルキフェルが顔を上げると、背後で扉の閉まる音が響く。


「……なんできた」


 ルキフェルが掠れた声で問うと、スザンヌは眉を下げて明るい声音で言う。


「扉、開いてたよ。鍵、かけ忘れちゃった?」


 ルキフェルは頑なに振り向かなかった。スザンヌは彼の背中を見つめている。久しぶりに見た、生きている姿だ。胸の奥が少し熱くなるも、スザンヌは窓から差し込む光の中に膝をついた。光と影の境目の向こうに、ルキフェルの背中がある。


「お腹、空いてない?」


 ルキフェルは壁を見つめたまま動かない。スザンヌは少し唇を引き結び、また柔らかい声音で言う。


「あとで水、持ってこようか」

「要らない。独りにしてほしい」

「でも、せめて水だけでも飲まないと……あなたが死んじゃう」


 部屋の中を風が通り抜け、ややあってルキフェルが鼻で笑った。


「死ぬ、か。俺はもう死んだようなもんだ」


 スザンヌは目を見開いて思わず口をついて出る。


「どうして、自分のこと死んだなんて言うの」


 ルキフェルは俯き、額に当てた手を震わせて自嘲する。


「どうして? 海賊としても戻れない。本当の父を失って、家族も失った。……還る場所もない、死んだも同然じゃないか」


 ルキフェルは胸の奥を抉るように囁き、ずっと心の中に溜め込んでいたものを吐き出していく。


「今の俺はラウルでもない、ルキフェルでもない。……大事な人も守れない。守れないどころか、俺が動けば誰かが傷つく。壊していく、全部」


 スザンヌは胸を痛めて目を伏せた。長い沈黙の後、ルキフェルは力なく呟いた。


「……名前すらないんだ。生きていていいのかも分からない。どうしようもない人間だ」


 窓から差し込む光が揺れ、部屋が静まり返る。スザンヌは光の届かない場所に蹲るルキフェルを見つめた。今まで見たことのない姿、いや見せてこなかったのだろう。怒りも悲しみも恐怖も、全部抱えたまま誰にも見せないようにして生きてきた。彼の痛ましい叫びを聞きながら、スザンヌは胸の奥が締め付けられた。


「……みんな、あなたに救けられてるよ。あなたの勇気に、あなたの言葉に」


 スザンヌは目を泳がせたが、彼の背に視線を定めると拳をギュッと握って声を震わせる。


「私も、あなたに救けられた。何度も、何度も」


 スザンヌは鼻の奥がツンと痛くなるも、少女のようなあどけない微笑を浮かべる。


「私が海に落ちた時も、だよね。……ノワール」


 ルキフェルは呼吸も忘れて肩を震わせた。十年前、あの少女だけが呼んでくれた名。ルキフェルは顔を上げて振り返り、驚愕に目を見開いて光の中を見る。窓から差し込む陽光に包まれながら、スザンヌは浅瀬を思わせる青い瞳を潤ませて、優しく笑いかけていた。ルキフェルは言葉を失うも、掠れた声で呟く。


「……やっぱり、嫌でも覚えられていたか」


 スザンヌは首を傾げる。


「ずっと前から気づいてたよ。一年前の、あの嵐から。目が覚めた後、あなたが助けてくれたって聞いた」


 スザンヌは目を伏せて胸に手を当てた。


「それから、私が身投げようとした時も、本気で怒って生きろって言ってくれた」


 ルキフェルは瞑り、スザンヌは照れ臭そうに笑った。


「私ね、また会いたくて海軍に入ったの。海にいるって、教えてくれたから」


 ルキフェルは目を見張った。十年前、別れ際の言葉。海を見れば自分がいる。あの頃の自分はそんなつもりで言ったわけではなかったが、彼女は覚えていた。ずっと、十年間。スザンヌは涙を堪えながら微笑み、ルキフェルを見つめた。


「……ずっと救けてくれて、ありがとう」


 ルキフェルの胸の奥で何かが軋み、冷え切っていた場所に微かな熱が流れ込んできた。暗闇の中に差し込んだ光のように。ルキフェルは膝を床につけたまま、少しずつ光の方へ歩み寄り、スザンヌの側まで辿り着いた。手を伸ばせば届く距離。ルキフェルは息を整えながら顔を上げ、手を伸ばしかけて途中で止めた。指先が震え、そのまま力なく手を下ろすと俯く。胸の奥から這い出してくるものがあった。スザンヌは彼を見つめて首を傾げる。


「……まだ何か怖いの?」


 しばらく沈黙が続き、ルキフェルはスザンヌから顔を背けて囁く。


「……この顔が、怖くないか」


 スザンヌは目を瞬いた。ルキフェルは床を見つめたまま続ける。


「……見られたくなかった。拒絶される、嫌われるんじゃないかって」


 ルキフェルは自嘲するような笑みを浮かべて目を伏せる。


「それに、あの時の喧嘩も。お前が忘れることを願って、わざと怒らせた。嫌われた方が楽だった。離れた方が幸せになれると思って」


 スザンヌはただ彼を見つめていたが、ルキフェルは青い瞳を見ることができなかった。


「……怖いんだ。今も見られるのが……記憶を失くしてから。いや、もしかしたら……生まれた瞬間からかもしれない。本能みたいに、どうしようもなく」


 スザンヌは息を呑んだ。ルキフェルはスザンヌから視線を逸らすように振り返り、窓の外を見る。青空だ、どこまでも広い。雲一つない空、眩しいほど明るい世界。今の自分にはその光が酷く遠く見えた。ルキフェルは青空を睨むように目を細める。


「ずっと考えていたんだ。……この世界が、俺を拒んでいるみたいだ。でなけりゃ、俺をこんな顔にはしない。家族だって、世界が殺したようなもんだろ。居場所も取り上げられて、大事なもん全部失った」


 窓の外で鳥が飛んでいた。自由にどこまでも羽ばたく、あの景色が今のルキフェルには憎らしかった。ルキフェルは生気のない、魂が抜けたような顔で吐き捨てる。


「一つだけ貰ったもの……孤独だ。俺は、ずっと独りなんだ」


 部屋が静まり返る。スザンヌは膝をついたままルキフェルの隣に移動した。窓の前、同じ景色が見える場所。ルキフェルが隣に目を移すと、スザンヌは潤んだ目で彼の瞳を覗き込んだ。


「独りじゃない。拒まれてなんかいない。だって……世界は、あなたが生まれてくるのを待っていた。ずっと、待ち望んでいたんだよ」


 ルキフェルは驚きで心臓が高鳴った。スザンヌは頬を紅潮させて微笑み、熱を帯びた声で囁く。


「それでも……世界に嫌われていると思うなら、私もいるよ。だから、独りじゃない」


 ルキフェルの胸の奥で凍り付いていたものが溶け始めた。スザンヌの言葉が胸の奥で反響している。世界は待っていた。理解したくなかった。そんなことがあるはずないと、心のどこかで否定し続けていた。けれど、目の前にいる彼女は本気だ。だから、怖い。信じてしまいそうになるから。その時、スザンヌが息を吸って小声で訊く。


「ルキフェル。顔、触ってもいい?」


 ルキフェルは顔を上げると、浅瀬のような瞳が真っ直ぐ見ていた。何を言われたのか分からなかった。顔。今、顔と言ったのか。傷だらけで醜い、誰にも触れさせなかった。この顔を触りたいと言ったのか。ルキフェルは呆然とスザンヌを見つめている間、スザンヌが徐々に手を伸ばしてきた。ルキフェルの身体が反射的に震えて肩が跳ねる。逃げなければ、離れなければ。だが、動けなかった。スザンヌの指先が近付き、ルキフェルの左眉の上から頬へ、斜めに走る大きな傷をそっと撫でた。ルキフェルの喉から小さな声が漏れる。


「ぁ……」


 熱かった、温かかった。指先が、手のひらが。スザンヌの指先が頬と額の傷をなぞっていく。長い年月をかけて刻まれた痕を拒絶することなく触れている。

 どうして、どうしてそんなことができる。どうして怖くない。どうして、こんな自分に。その時、頬を何かが伝った。ルキフェルは目を見開くも止まらない。一滴、また一滴、次々と零れ落ちていく。その瞬間、気付いてしまった。今まで何を恐れていたのか、何を拒んでいたのか。傷じゃない、顔じゃない。世界でもない。違う、もっとずっと単純だった。


 ——自分自身だ。


 自分が優しくされることを許していなかった。温もりを受けることを、愛されることを赦していなかった。だから、逃げて拒んで、独りになった。胸の奥で長い年月をかけて築き上げた壁に亀裂が入り、音を立てて崩れていく。


「っ……」


 声が詰まって呼吸が乱れ、視界が滲む。気付けば、ルキフェルは熱涙に咽んでいた。嗚咽を堪えられず、声が上擦って肩が震える。十年分。いや、もっと長い時間閉じ込めていたものが溢れていった。スザンヌも目を潤して微笑み、彼の頬から手を離さなかった。


 二人とも、流れ落ちる涙に自身の手を濡らしている。



 旧バティーユ邸の玄関扉が勢いよく開き、ニコラの間延びした声がエントランスに響き渡る。


「還ってきたよー!」


 彼の声に反応して、食堂にいたヤンが顔を上げた。応接間ではレオンとリュウが椅子から立ち上がり、イヴォンも杖をついて応接間を出ていく。やがてエントランスに集まった面々の前へ、屋敷の外から次々と仲間たちが姿を現す。旅の汚れを残した顔。疲労の色は濃いが、表情はどこか晴れやかだった。ヤンは一同を見回して微笑む。


「皆さん、ご無事でしたか?」

「みんな生きてるよー。それが一番だろ?」


 ジャスパーが肩を竦めながら答えた。何人かが苦笑し、シャルルは荷物を降ろしながら報告する。


「ティエンさんとヴィクトルさん、それと兄上はパリに残りましたが……果たすべきことは終えました」

「そうですか……」


 ヤンは胸に圧し掛かっていた重石をようやく外した。レオンも安堵したように頷き、イヴォンも杖を握る手の力を抜く。リュウは帰還した東洋人たちを順番に眺めていた。ポーランにワン、組織の同僚たち。見慣れた顔ばかりだ。彼が旧マクシム隊に目を向けた時、見知った顔を見つけた。


「……おや」


 彼と目が合ったのはリゼーヌだった。リゼーヌは目を丸くするも慌てて会釈し、リュウもリゼーヌに微笑みかける。その後、エントランスで帰還した者たちによる慌ただしい作業が始まった。武器の手入れ、馬車から降ろした荷物の整理。誰かが笑い、誰かが文句を言う中で、コリンは顔を上げて庭に続く扉を見た。


「……ルキフェルは?」

「おれも気になってた」


 ジャスパーが肩を竦め、マテオがソファから立ち上がるなり扉に向かう。


「ちょっと見てくるか。一応な」


 ニールも苦笑しながら三人の後に続いた。四人が揃って庭への扉を開くと、眩しい陽光が目に突き刺してくる。青々とした草木、風に揺れる葉音。そして、庭の奥に建つ離れ。


「あ」


 コリンは思わず声を漏らした。離れの扉が開いている。四人は思わず足を止めた先で誰かがゆっくりと外へ出てきた。ルキフェルは陽光に思わず目を細め、一歩ずつウッドデッキの階段を降りていく。彼が草地に足をつけると仲間たちと目が合った。ルキフェルは立ち止まりかけるも、四人に向かって歩き始める。ルキフェルが近くに寄ったところで、ジャスパーが数歩前に出て軽く手を挙げる。


「よう」


 ルキフェルは少し目を見開くも口元を緩める。


「……久しぶり」

「心配したんだから!」


 コリンが真っ先に駆け寄る後ろでニールが苦笑した。


「コリンの場合、半分は野次馬でしょ」

「うるさい!」


 マテオも肩の力を抜いて息を吐いた。長い嵐を越えた船が、ようやく港へ帰ってきたような静かな安堵がある。ルキフェルは仲間たちを見回し、みんな生きている事実に胸が弾んだ。スザンヌが離れから出てくると、風が銀色の髪を揺らした。スザンヌは仲間たちに囲まれるルキフェルを見つめて微笑んでいる。


 その時、草を踏む音が聞こえ、ルキフェルは視線を向けると息を呑んだ。ジャスパーとマテオの間から見える、陽光の中を歩いてくる人物。白く伸びた髪に歳月を刻んだ目元、旅の疲れを残しながらも背筋は少しも曲がっていない。見間違えるはずもなかった。仲間たちもルキフェルの反応に気付いて振り返る。

 リュウは彼らに歩み寄り、数歩手前で足を止めた。ルキフェルも前に出て、十分な距離を空けて立ち止まる。風が吹いて草木が揺れた。ルキフェルは息を吸って両腕を胸の前へ運び、片方の手で拳を包み込むように添え、深く頭を下げた。リュウは目を見開くもすぐに穏やかな微笑みに変え、同じように胸の前で手を合わせる。先に手を下ろしたのはリュウだ。ルキフェルは遅れて手を解いて顔を上げた。


 二人の視線が交わり、リュウが頷くと穏やかな眼差しで弟子を見つめ、ルキフェルは肩の力を抜いて笑いかけた。

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