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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第六章「世界は、あなたが生まれてくるのを待っていた」
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第六章① それぞれの後始末と、これから

  五月も半ばを迎えようとしていた。


 ヴェルサイユ宮殿では、幾日が経ってもなお混乱が続いている。

 シルヴェストル・ダラスの死は正式に確認、ダラス家は失墜。王宮では連日会議が開かれ、関係者への事情聴取や資料確認が行われている。おまけに、国王ルイ二十五世が熱を出した。悪夢にうなされるように寝室に引き籠もり、政務に顔を出せない状態が続いているという。


 その知らせをティエンから聞いた時、野営地にいた誰もが険しい顔をした。同情する者、呆れる者、何も言わない者。反応は様々だったが、一つだけ確かなことがある。もう、自分たちがパリ郊外に留まり続ける理由は無い。戦いは終わったのだ。だから皆、撤収を決めた。野営地では朝から慌ただしく荷造りが行われている。毛布に食料に鍋、武器に衣類に生活用品。あらゆる物が馬車へ積み込まれていった。


「こっちは終わったぞー!」

「こっちもだ!」

「その箱は最後!」


 あちこちで声が飛び交う中、ヴィクトルとグレゴワールは少し離れた場所でシャルルと向き合っている。


「僕たちはパリに残るよ。しばらく王宮に縛られそうだ。落ち着いたらマルセイユへ行く」

「王宮も大変そうだから」


 ヴィクトルがため息を吐くと、グレゴワールも肩を竦める。シャルルは二人を見つめた。ジャスパーも軽く手を挙げる。


「色々と助かりました、本当に」

「世話になった」

「こちらこそ」


 ヴィクトルは照れ臭そうに笑い、グレゴワールも小さく会釈する。ティエンはロザリーの元へ向かい、あの扇子を差し出した。


「ほら」

「ありがとう」


 ロザリーは受け取って扇子を見つめると、胸元に抱いて目を瞑った。ダミアンは借りていた礼装を抱えながら、おずおずとヴィクトルに近付く。


「あの……」

「ん?」

「これ……」

「ああ、似合ってたよ」


 差し出された服を見てヴィクトルが微笑んで受け取り、ダミアンはサッと目を逸らした。


「荷物、全部積めたぞ!」


 マルクの大きな声が響き、全員の動きが止まった。一人、また一人と仲間たちが馬車に乗り込んでいく。長かった野営生活も終わりだ。車輪が動き、馬が歩き出す。列を成した馬車が街道へ出ていった。三人はただ見送っていた。馬車が小さくなり、やがて地平線の向こうへ消えていった。長い沈黙の後、ティエンがぽつりと呟く。


「終わったな」

「いや。まだ終わってない」


 ヴィクトルは空を見上げた。混乱は続いている。後始末も山ほどある。そして、それぞれが向き合わなければならない問題もまだ残っていた。




 数日後、マルセイユ。初夏の陽射しが街を照らしている。一台の馬車が旧バティーユ邸の前で停まり、御者が扉を開いた。先に降りたのはヤン、それからリュウが姿を現す。リュウは目の前の屋敷を見上げた。外壁には蔦が絡みついている。かつて海賊たちが出入りしていた頃より、どこか静かだった。


「ここにルキフェルがいるのか」

「はい。御父上の現状を知らされてから、一度たりとも姿を見せていません」


 二人は門を潜って玄関扉を開いた。ニコラがエントランスのソファに寝転がっている。暇そうに天井を眺めていた彼は、人の気配に気付くと身体を起こし、茶色の瞳がリュウを捉えてパチパチと瞬く。


「あれ、初見さんだ。この人も組織の人?」

「そうですよ」

「へえ」


 ヤンの言葉にニコラは興味深そうにリュウを見つめたが、すぐに立ち上がって手を差し出した。


「長旅だったでしょ? 荷物持つよ」


 リュウは少し目を細めて微笑む。


「すまない」

「気にしないで」


 ニコラが荷物を受け取ると、ヤンは屋敷の奥を指差した。


「この先、庭があります。離れも。彼はそこにいます」


 リュウは頷くと歩き出して長い廊下を進んだ。窓から差し込む陽射しが床に伸びている。やがて、裏庭へ続く扉が見えてきた。窓の向こうには木々が揺れている。リュウは扉を開くと暖かな風が吹き込んだ。



 スザンヌは今日もウッドデッキで膝を抱えていた。足元には読み終えたばかりの本が置かれている。内容はほとんど覚えていない、ただ時間を潰すためにページをめくっていただけ。スザンヌは離れの扉を振り返って見つめる。

 今日も開かない。明日も開かないかもしれない。来週も来月も、もしかしたら一生。そんな考えが脳裏を過ることもあったが、それでもここに来る。独りじゃないと伝えたかった。この扉の向こうにいる彼へ。届いているかどうかは分からないが、伝え続けることに意味がある気がした。スザンヌは息を吐いて視線を落とす。

 本当は一目だけでもいい。彼の顔が見たかった。声が聞きたかった。元気かどうか知りたかった。けれど、ただの自分の願望だ。無理に扉を開けさせたいわけではない。心配だからこそ、待ちたい気持ちと会いたい気持ちが胸中でせめぎ合っていた。


 その時、柔らかな草を踏む音が聞こえてスザンヌは顔を上げる。見知らぬ男だ。白髪に穏やかな佇まい。東洋の衣服を身に纏った人物が近づいて、ウッドデッキの前で足を止めた。男は凪のような眼差しでスザンヌを見据えると、柔らかく笑った。


「こんにちは」


 スザンヌは疲労で重くなった身体を支えながら、小さく頭を下げて微笑む。


「こんにちは」


 男はスザンヌの表情を見て少し目を細め、離れに目を向けた。閉ざされた扉、静まり返った窓。しばし見つめた後、男は落ち着いた声音でスザンヌに尋ねる。


「貴女がスザンヌさんですか」


 スザンヌがこくりと頷くと、男は再び微笑んで胸に手を当てる。


「私はリュウ・ヨシマサ。ルキフェルの師です」


 スザンヌは思わず目を見開き、リュウは半着の懐に手を入れた。


「ここへ来る途中、仲間からおおよその事情は聞きました。貴女が今日まで、あの子のために何をしてきたかも」


 スザンヌは目を伏せて草地に視線を落とした。


「私は……ここにいたいだけです」


 リュウは離れに目を向けながら尋ねる。


「あの子は、ちゃんと食べていますか」


 スザンヌもつられて扉を振り返った。


「今朝、一口齧ったパンが置いてありました。それと、空になったグラスも」

「そうですか」


 リュウはスザンヌの話を聞きながら苦笑し、彼女の横顔を見た。青い瞳の下に薄く影が落ちている。頬も少し痩せたように見えた。笑っているが、無理をしている人間の笑顔だ。


「貴女は? 見たところ、具合が悪そうですが」


 スザンヌはきょとんとし、慌てて首を横に振る。


「いいえ、どこも悪くは……」


 言いかけて、スザンヌは言葉に詰まった。リュウの真剣な眼差しに耐えきれず、やがてスザンヌは頼りない笑みを浮かべる。


「……正直、少し疲れています。最近、あまり眠れなくて」


 リュウはスザンヌの表情を見つめている。離れの中で閉じこもっている弟子よりも先に、目の前にいる娘の方が今にも倒れてしまいそうだ。風が木々を揺らし、遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。やがて、スザンヌがおずおずと口を開く。


「あの……聞いても、大丈夫ですか」

「ええ」

「昔のルキフェル……どんな人でした」


 リュウは視線を上げる。庭の向こう、マルセイユの街並み、そして、その先、遥か彼方の水平線。リュウは景色を眺めた後、目を細めて囁く。


「少年らしい、少年でしたよ。ただ、環境が悪かった。自分の周囲にいる者を全て敵だと思って。まるで威嚇する仔犬です」

「仔犬……?」


 スザンヌが思わず聞き返した。今のルキフェルからは想像しづらい。リュウは頷くと苦笑した。


「よく暴れていました。私と出会った時から、周囲に噛み付いては威嚇して」

「そんなことが……」

「ありました。あの子は、自分の中にある恐怖にも気付いていなかった。何が怖いのか、なぜ苦しいのか。なぜ怒るのか。分からないまま混乱していたのです。私が来た時には息を乱していました。暴れて叫んで……必死でしたが、そのうち落ち着いた。……今のあの子も、貴女も。自分では気付いていないだけで、大きな葛藤を抱えています」


 スザンヌは目を皿のようにして驚き、恐る恐る聞く。


「どうして、人の心が分かるんですか」


 リュウは首を横に振った。


「分かりません」

「え?」

「私は神ではありませんから。ただ気を読むのです」

「気……」

「呼吸、仕草、視線、声、立ち方。人は思っている以上に心を外へ出しています」


 スザンヌが瞬きをしていると、リュウは指を一本立ててニコニコと笑った。


「どうやって落ち着かせたか? ……簡単ですよ。怖がる者に寄り添うだけです」

「……怖がる者に寄り添う」


 スザンヌは離れの扉を見つめ、言葉を探すように視線を落とす。


「……最近、不安になるんです。届いているのかなって。本当は話したいこともあるんです。でも、怖くて聞けないんです。ここから声をかけるのでさえ、彼にとっては迷惑なんじゃないかって」


 スザンヌは言葉に詰まらせて俯くと、リュウは彼女の横顔を見つめながら呟く。


「……なるほど。あの子が好きか?」


 沈黙。一秒、二秒、三秒、スザンヌの思考が止まった。


「え」

「あの子が好きか?」


 リュウがにこやかな顔でもう一度聞いた瞬間、スザンヌの顔が真っ赤になって文字通り飛び上がり、慌てて後ずさる。


「っ!? なっ!? な、なななななっ……!」

「違うのか?」

「ち、違っ……!」


 スザンヌは反射的に否定しかけるが、違うと言い切れなかった。耳まで赤くしている彼女の様子を見て、リュウは首を傾げると頷く。


「そうか、だからか」

「だからって……何がですか!?」

「貴女がここにいる理由だ」


 スザンヌは両手で顔を覆った。


「もう……なんで分かるんですか……」


 リュウは少し笑って離れに目を向ける。


「簡単だ。好きでもない相手のために、人はそこまで自分を削らない」


 風が二人の間を通り抜け、リュウはスザンヌに尋ねる。


「その想い、ずっと秘めたままか」


 スザンヌは顔から手を離すと目を伏せて頷く。


「はい。彼、ずっと戦っていたので私のことなんか……今も多分、自分と戦っているのかもしれません。だから、ここで待っているんです。彼のペースに合わせて」


 スザンヌは寂しげな笑みを浮かべ、リュウは腕を組んで彼女を見据える。


「けれど、貴女は不安だと言っていた。自分がここにいることが、本当に伝わっているのかと」


 スザンヌはこくりと頷いた。リュウはそんな彼女を見つめて囁く。


「ずっと押し殺す必要はない。不安なら、己の足と目と耳で確かめればいい。待つことに意味を求めるのではなく、自ら動くべき。もちろん慎重に。だが、行動こそが心を納得させる唯一の手段だ」


 スザンヌは目を瞬いて思わずリュウを見つめた。今まで考えもしなかったわけではないが、怖かった。リュウはそんな彼女の心を見透かしたように続ける。


「それに、あの子は聡い。人を見る目もある。貴女がずっとここにいる時点で、彼は心を許しているかもしれません」

「え……」

「でなければ、もっと前に追い払っているでしょう。彼もまた気を読むから」


 リュウが肩を竦め、スザンヌは離れを見つめた。毎日見てきた景色だが、今日は少しだけ違う。待つだけではなく、自分で確かめればいい。そのための足も、目も、耳も持っているのだから。スザンヌは息を吐いた。


「……少し、話をしようと思います」


 リュウは穏やかに頷いた。


「上手くいくことを願っているよ」

「ち、違いますからね」


 スザンヌは顔を赤らめて返し、リュウは益々笑みを深めた。スザンヌは咳払いを一つすると、大きく深呼吸して木製の階段を上がり、扉の前に立った。胸の鼓動が妙に大きい。スザンヌは控えめに扉を叩いた。


「ルキフェル、入っていい?」


 沈黙。スザンヌは肩を落としかけた時、扉の隙間から微かに風が流れてくる。スザンヌは思わず瞬きをした。よく見ると扉が少しだけ浮いている。試しに指先で押してみると、ギィと小さな音を立てて扉が動く。スザンヌは息を呑み、もう一度深呼吸すると徐々に扉を押し開いた。

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