第一章③ ルキフェルとエリオット
夜半の風が窓から吹き込み、半分溶けた蝋に灯る火が揺れて手元のページと室内の明暗を一瞬点滅させた。ルキフェルはベッドの背もたれに上体を預けて布団の中で片膝を立て、膝の上で本を開いて読み耽っている。蝋燭の火はコリンが例の如く魔術で、読んでいる本はニールが暇潰し用に押し付けてきた詩集だ。 ぶっちゃけ琴線に触れる言葉など一切ないが、エリオットが来るまでの暇潰しにはなった。ルキフェルが左手だけでページをめくっては舌打ちして顔を歪ませていると、扉のノックが控えめに響いた。
「起きているか」
エリオットの声が扉向こうでくぐもって聞こえ、ルキフェルは反射的に顔を上げると本の表紙を閉じてサイドテーブルに放った。
「……どうぞ」
ルキフェルが上体を整えていると、エリオットは昼間よりも疲れた顔をして入室してきた。
「遅くなったな」
「いいよ。仕事、大事だろ」
エリオットは椅子に腰を下ろし、しばしの沈黙してから語り始めた。かつてパリに住んでいたこと、レオパード家のこと、母ミレーユのこと、そしてゼフィランサスの名が自然な形で並んだ。幼い頃の三人の関係、友人だったという事実。ルキフェルは口も挟まずエリオットの穏やかな語りに耳を傾けていた。やがて、エリオットの話は自分のことへと移っていく。緑の目、周囲から向けられる視線、社交界の空気。好奇と忌避の中で育てられた幼少期。
「……舐められないように、と早くから教育を施した。その結果……お前は、時折発作を起こすようになった」
エリオットの声が淀んで低くなり、ルキフェルの胸の奥で何かがすとんと落ちた。ああ、そうか。身体が弱いわけじゃない。やっぱり、見られることが怖かったのか。理由が改めて形になり、さらに昔話が語られる。ヴール=レ=ロズへの移住、父の不在、母と使用人たちとの生活。そして、町の子ども達からの暴力。ルキフェルの指先がピクリと動いて記憶が揺れる。エリオットの言葉を聞いているはずなのに別の光景が浮かび上がる。
——トルチュ島、ワインの匂い、仲間の声。
「なんで目って言った?」
マテオの声、指先が自分を指している。
「緑色って不吉だとか言われるし」
「悪魔の目とか、あるよね」
ニールの淡々とした説明、コリンの言葉。
「……知らなかった」
自分の声、そして翡翠——無意識に出た言葉。あの時のざわつき、かつてスザンヌの声で綺麗だと言われた。さらにグラスを持つ自分の記憶も浮かぶ。
「所作が綺麗なんだよ。貴族の女によく見られる仕草だ。その持ち方はどこで覚えた?」
マテオの声が駆け巡って視界が病室へと戻り、ルキフェルはエリオットから目を逸らして呟く。
「……あいつら、気にしてないって言ってたけど。どっちかっていうと納得してたんだな」
エリオットが首を傾げていると、ルキフェルは少し迷ってから恐る恐る訊ねる。
「俺、フランソワから夏生まれってことくらいしか聞いてなくて。……誕生日、いつ?」
「七月十日だ」
エリオットが即答した瞬間、ルキフェルは思わず目を見張って声を漏らす。
「……は?」
「どうした」
「……俺、勝手に決めてたんだ」
「何をだ」
「誕生日。夏生まれってだけで……なんとなくこの日だろって、七月十日」
「……そうか」
エリオットは目をパチクリさせていたが、次第に表情筋が緩んでいった。ルキフェルは胸の奥がじわりと温かくなって控えめな笑いを溢す。
「……変な感じ」
しばし沈黙してから、ルキフェルは顔を上げてエリオットを凝視した。
「……なあ。なんで、俺たちは自由に過ごせてるんだ」
エリオットは目を伏せて爪をいじりながら応える。
「ラウルと友人たちを牢に入れたくないんだ。それに、一部の海軍の者たちは君たちの行動を見直し始めているとも聞いている。それよりも……皆、マクシミリアン・ブーケ隊の件に衝撃を受けているな。軍内での謀反……あの部隊の功績を思えば、なおさらだ」
「……けど、部隊全員が同じスタンスじゃなかった」
ルキフェルが眉を顰めて囁くと、エリオットは爪いじりを止めて顔を上げて彼を見つめた。ルキフェルはエリオットの茶色い目を見据えながら言う。
「事件調査の進捗は?」
「アントワーヌ以外の関係者全員の証言なら、事件当日に一通り聞いている。それ以降は牢獄で監視だ」
ルキフェルは一度目を伏せて口元を固く結ぶと、瞼を閉じて牢の情景を頭に思い描いた。闘いに身を投じた者と身を挺して制した者、傷ついた者と傷つけられた者が同じ空間にいて疲弊している。
——事件から何日も経っている。自分は清潔な部屋、彼らは埃まみれの牢。自分がここにいて、どうして彼らをそのままにできようか。とりわけ、スザンヌのことも気になる。
ルキフェルは目を開けると顔を上げ、エリオットに向けて腑に落ちないという風に首を傾げる。
「もう一回、話を聞いてやってくれないか。サミュエルとロザリー、それにペネロペだ。あの三人は俺たちの味方で、部隊を止めようと必死に戦ってた。……ちゃんと見てやってほしい」
エリオットは目を見張っていたが、息を吐いて困り顔のまま愛想笑いを浮かべる。
「……優しいな」
ルキフェルは目を大きく見開いてから勢いで首を横に振る。
「そういうつもりじゃない」
「だとしてもだ」
エリオットは目を細め、ルキフェルと窓向こうに広がる夜を同じ画角内に収めて眺めたあと、ルキフェル一点に集中して厳かに告げる。
「いいだろう。明日にでも、もう一度一人一人と向き合ってみる」
ルキフェルの呼吸が一瞬止まるも、肩の荷が下りたようにホッとする。
「……ありがとう」
エリオットはルキフェルの顔を目に焼き付けた後、椅子からのそりと立ち上がった。
「今日はもう休め」
「ああ」
エリオットはルキフェルに背を向けて扉に近寄り、取手に手をかけると振り返って微笑んだ。
「おやすみ、ラウル」
ルキフェルは瞬きを数回高速させると、顔から耳まで熱を駆け巡らせて掠れた声を漏らす。
「……おやすみ」
エリオットは一度頷くと部屋を出ていった。ルキフェルは手元に視線を落として目を瞑る。そのうち彼は布団を退けて冷たい床に足をつけると自由が利く腕で窓を閉めた。灯りを散らす蝋燭が消え去り、夜風が窓にぶつかって硝子を軽く揺らしていく。
翌日、ブレスト城の取調室。窓の下では城修復の作業音が喚いている。エリオットは椅子に腰を下ろし、机の向こうに座る相手を見据えた。彼の背後にはルソーとイザベル、さらに部屋の隅にはアルフォンスと記録係のベルリオーズが控えていた。重苦しい空気の中で、エリオットが口を開く。
「……話してもらおうか」
正面にいるのはシャルルだ。片眼鏡も髪飾りも外され、手枷をつけられたまま項垂れている。伸びた橙色の髪が顔に影を落とし、やがてシャルルは顔を上げて語り出した。
「……あの時、自分でも何が起きていたのか、今でも整理できていません。ただ……次々と飛び込んでいく仲間を止められなかった後悔が心に残っています」
ペンが紙を擦る音が響き、証言は暫く続いた。一人ずつ、入れ替わり立ち替わりで語られる。リラは顔を伏せたまま絞り出す。
「隊長は一人で行くと言いました。それを破って……ついていこうとしたのは、私たちです」
ダヴィットは目を逸らさずに言う。
「国外逃亡を計画していました。発起人はグウェナエル・ブランシェ。——自分たちは共犯者です」
ジョルジュは言葉にならない嗚咽で「すみません……すみません……」と繰り返し、アニータは指先を震わせて淡々と語る。
「逃亡用の船を確保するため、造船所にいました。隊長を守ることばかり考えて……そのあとで自分たちの愚かさに気づきました」
リゼーヌは焦点の合わない目で語る。
「気づいたら捕まっていて、仲間同士で斬り合っていました。……何のためにここにいるのか、今でも分かりません」
サミュエルは背筋を伸ばして重々しく告げる。
「自分とロザリー、ペネロペは隊長から別任務を受けていました。任務先で五鬼衆と出会い……隊長を止めたいという意思に共感し、一時的に共闘しました。部隊を裏切ることになるのは承知の上です。それでも、隊長のやり方は間違っていると言いたかった」
ロザリーは片腕を抑え、声を震わせながら言う。
「止めようとしました。でも……城にいた仲間は、もう覚悟が決まっていて正直、怖かった。このまま仲間を殺してしまうんじゃないかって。……ルキフェルの言葉で、剣を捨てた仲間がいたのは救いでした。……そのあとが最悪だったけど」
ペネロペは机に目を彷徨わせたまま呟く。
「もっと、やり方があったんじゃないかって今でも考えてます」
スザンヌは時々指先を吐息で温めながら、ため息混じりに言う。
「……隊長も仲間も放っておけませんでした。自分が何をすべきか、考えられなかった。今でも……何が正解だったのか分かりません」
そして、アントワーヌは顔を上げてエリオットを見据えたまま告げる。
「すべて、自分一人で終わらせるつもりでした。仲間は誰一人として悪くありません。止めようとした者がいたことも事実です。ただ……自分が止まれなかっただけ」
一人一人の証言は断片だったが、浮かび上がるものは一つだった。暴走、迷い、それでも止めようとした者たちの存在。エリオットは目を閉じて一人一人の顔を思い浮かべていた。アントワーヌが付き添いの軍医に支えられながら、自分の足で部屋を後にしていく。彼の背中が扉の向こうに消えると音もなく扉が閉まった。
静寂の中、エリオットは椅子に背を預けて天井を仰いだ。言葉にならない息が喉の奥で滞る。証言は揃ったが、結論は出ない。誰もが迷い、誰もが止めようとして、誰もが間に合わなかった。すべてがあの日に集約されている。そして、エリオットの胸の奥に鈍い痛みが走った。ゼフィランサスの名が頭から離れない。親友を討ったあの日、あの決断がどこまで波及しているのか、考えれば考えるほど底が見えなかった。
「……あいつら、だいぶ参ってるな」
「ええ……あの戦闘と、あまりにも多くの死。皆、限界に近いわ。これ以上追い詰めれば、かえって危険かもしれない」
ルソーとイザベルの低い声が現実へ引き戻し、エリオットは机に視線を落として口を開いた。
「……提案がある。マクシミリアン・ブーケがほぼ完治した段階で、他の隊員たちはブレスト城内に限り解放しても構わないか」
「……何だと?」
ルソーが眉を顰めてイザベルも目を見張るも、エリオットは椅子を軋ませて二人を振り返る。
「もちろん、マクシミリアン・ブーケは牢に入れる。重罪人としてではなく……あれ以上の暴走を防ぎ、彼自身の安全のためだ」
ルソーは腕を組んで唸りながら目を伏せ、イザベルもまた考え込むように黙った。反論はあるが、尋問で聞いた言葉が彼らの頭をよぎる。やがてルソーが盛大なため息を吐き、イザベルは目を瞑った。
「……否定はしきれんな」
「ええ、納得はしきれないけれど理解はできる。……了承するわ」
「……感謝する」
エリオットは二人に礼を告げて立ち上がると、アルフォンスを連れてペンが走る音を背景に部屋を出ていった。その後、廊下を歩く足音がコツコツと響き、エリオットは隣を歩くアルフォンスに問いかける。
「隊員たちの実家に知らせを送ったか」
「はい。あの事件の翌日、直ちに緊急通達として送られています。伝令係からも報告がありました。今頃は各家に届いているかと」
「……そうか」
アルフォンスが即座に答え、エリオットは窓の外に目を向けながら歩いていく。城の外、遠くの地で親たちが報せを受け取る光景が脳裏に浮かんだ。誇りだったはずの名、信じて送り出した子が一瞬で塗り替えられていく。
一方、ブレスト港。停泊中の帆船は波に合わせて揺れていた。甲板の上では、東洋組織リー・ウェンの一団はそれぞれの持ち場で動いているが、船尾の一角ではマルク、イヴォン、ニコラ、ティエンの四人が取り残されたかのように手持ち無沙汰でいた。陽の光を浴びながら甲板に寝転がり、マルクが腕を頭の後ろで組んで誰にともなく言葉を投げる。
「それにしてもよぉ、オレたちがここにいて意味あんのか? あの五人組も、海軍も、城から一向に出てこねえし。……捕まった?」
ニコラが期待の眼差しでイヴォンをチラリと見ると、イヴォンは床から目を話さずに答える。
「ブレスト城内は軍関係者以外立ち入り禁止だ。……退役軍人は一般人と同等に扱われる」
「えぇ……」
ニコラの肩が露骨に落ちて項垂れる横で、ティエンが波から視線を外して口を開く。
「なあ。オレ、単独行動していい? 自分の謎、追っかけたいんだよ」
マルクが片目だけ開けてティエンに顔を向ける。
「あぁ? なんだっけ、それ。てか、まだ謎残ってたか?」
「あんたな……謀反事件の関係者、やっと掴めたと思ったら捕まってんだよ」
ティエンは呆れたように息を吐いた。彼の脳裏に浮かぶのはロザリーの顔。ニコラが首を傾げて曖昧に笑う。
「ボクたちは……まあ、しばらくここにいようかな。行くあてもないし。リー・ウェンたち持ち場に戻ったみたい」
「ふーん。じゃあ、オレ一人で行くわ」
ティエンは興味なさげに頷くと、甲板の端で落ち着きなくうろうろしていたダミアンが声を上げる。
「だ、大丈夫かな……」
「落ち着け。必要以上に心配するな」
ダミアンの様子を横目に見ながら、レオンが穏やかに宥めているとティエンに視線を向けた。
「離れるなら家族のもとに顔を出すのもいいんじゃないか」
「家族、ねえ……」
ティエンは面倒くさそうに呟くが、ある顔が浮かんだ。従兄弟、ヴィクトル。あのやたらと面倒見のいい男。
「……あー……そうしよ。じゃ、しばらく抜けるわ」
ティエンは振り返って軽く手を振る。誰も引き止めないのが、この連中の距離感だった。ティエンはそのまま桟橋へ降りり、懐を探ると残っている金を確かめた。
「……まだいけるな」
ティエンが独りごちると潮の匂いが鼻をかすめる。遠くに見える街並み、彼は軽く肩を回すとブレストの街中へと歩き出した。馬を借りるために、そして自分の“謎”を追うために。




