第五章② ヴィクトル
ヴェルサイユ宮殿。王宮へ辿り着いた瞬間、アルフォンスは思わず息を呑んだ。
「……でか」
豪奢な建築に延々と続く廊下、絢爛な装飾。海軍総司令部とは違う。ここは国家そのものだ。心臓が嫌に騒ぐが、立ち止まってもいられない。受付役らしき人物に近付くと、アルフォンスは真っ直ぐ背を伸ばした。
「アルフォンス・シャトレです。海軍総司令部所属。そして、海軍大元帥エリオット・ド・レオパード……現在はイザベル・ボナパルト副司令官兼大元帥代理の側近をしております」
シャトレの名と肩書、更には警視総監の紹介状だけで王宮側はすぐ納得した。案内役の男が頷く。
「ああ。シャトレといえば、アルマン・シャトレ殿のご子息ですか」
「え?」
アルフォンスが瞬きをする。
「たまにですが、王宮内の催しへ招待を受けておりますよ。お父上は茶会などにも参加されている」
「父上が……?」
アルフォンスは怪訝そうな顔になってぶつぶつ呟く。
「いや、側近引退してからのんびりしてるとは聞いてたけど……まあ、本人が楽しそうならいいや」
ベルリオーズが彼の横で密かに笑った。やがて、二人は海務院へ辿り着く。既に夕方。建物内へ残る人影は少ない。静かな空気の中、一人だけ机に向かって作業を続けているヴィクトルがいた。彼は海軍の白い制服を見つけるなり、手を止めて立ち上がる。
「何か御用ですか」
「あ、えっと」
アルフォンスとベルリオーズは顔を見合わせる。
「警視総監の紹介を受けて、こちらへ来ました」
「事情は話せば長くなるんですが、その……航路記録を見たくて」
ヴィクトルは二人を見つめて穏やかに頷いた。
「何やら事情が深そうですね。よければ、僕が相手になりましょう」
海務院内の客間、アルフォンスとベルリオーズこれまでの経緯をヴィクトルに説明した。ヴィクトルが整理するように呟く。
「つまり、反体制派の疑いがある貴族について調査していたところ、その貴族の変死事件が発生した」
「はい」
「警察と協力し、遺体見聞記録を確認」
「ええ」
「更に家宅捜査した結果、夢蛇という幻覚剤の密輸疑惑が浮上した」
ベルリオーズが頷く。
「その流通経路を探るため、海務院へ来ました」
「なるほど」
ヴィクトルは目を細めた。
「それでしたら、僕も協力しましょう。僕は航路監査官と言って、交易記録をよく見ていますから」
その後、三人は資料室へ向かった。扉を開けた瞬間、アルフォンスが思わず声を漏らす。
「うわ……」
本棚、本棚、そしてまた本棚。膨大な資料が天井近くまで並んでいる。
「これ全部……?」
「航路記録です」
ヴィクトルが淡々と返し、ベルリオーズはすぐ思考を切り替えた。
「イヴォン・ローラン殿はブレスト所属。なら、ブレスト周辺地域の港から洗い出せばいい」
「手分けするか」
二人は早速資料を探し始める一方、ヴィクトルは二人を眺めながら考えていた。——片方は見たことがある。あの法廷で、大元帥エリオットの側近として立っていた青年。そして、この二人の口から出た名前はイヴォン・ローラン。
「……意外だな」
ヴィクトルは呟く。更に「ある貴族の変死事件」の言葉も引っ掛かっていた。
「……だいぶ気になる」
ヴィクトルは資料を漁る二人を横目に、怪訝そうな顔をして立ち上がる。
「いや、そっちじゃない」
「え?」
アルフォンスとベルリオーズが顔を上げた。ヴィクトルは別棚へ向かうと、一冊の分厚い航路記録を持ち出し、机上に重たい音を立てて置いた。
「これは以前、お宅の部隊が街を取り戻したおかげで手に入った、比較的新しい航路記録だ。過去一年分ある」
表紙に刻まれていたのは、サン・マロ港周辺航路記録。アルフォンスとベルリオーズは一瞬、言葉を失う。去年の十二月、マクシム隊によるサン・マロ奪還作戦で、海軍はようやく港の管理権を取り戻した。二人の脳裏へ浮かぶのは、消えていった者たちの名前。
「……ありがとうございます」
ベルリオーズが頭を下げ、アルフォンスも続けて礼を言う。感謝とどこか懺悔にも似た感情を抱えながら、ベルリオーズはすぐさま資料へ手を伸ばした。
「そうじゃん……サン・マロはかつて自由港だったんだ。奴らは海軍の手や目に入りにくい場所を選ぶに決まってる」
「なるほどね」
アルフォンスも資料を引き寄せ、二人で航路記録を読み漁り始める。日付、積荷、寄港地、交易記録。ページを捲る音が資料室へ響いていった。
「……無い」
「こっちにも。ダラス家の名前が出てこない」
アルフォンスが眉を顰め、ベルリオーズも唸る。最初から読み返す。また捲って更に探す。それでもダラス家の名は一度も記録へ現れない。
「……これ、裏取引の香りがする」
「ああ。完全に記録を避けてる」
アルフォンスが低く呟き、ベルリオーズも同意する。
「ふふ……」
二人が同時に顔を上げると、ヴィクトルは目を細めて笑っていた。
「海軍も、やっと辿り着けたか」
「……は?」
アルフォンスが目を瞬き、ベルリオーズも困惑した顔になる。ヴィクトルは二人を横目に航路記録に指を置いて続ける。
「実は、僕も以前からダラス家には目をつけていた。まあ、諸々を話すと長くなるけど、友から夢蛇の存在を聞かされていた」
「……友?」
「それと、この間のルキフェルの裁判。僕も同席していたよ」
「えっ」
アルフォンスが思わず声を漏らし、ベルリオーズも目を見開く。ヴィクトルは構わず続ける。
「ダラス家が国家転覆を目論んでいるなら、僕も現王党派として黙っていられないからね。だから、独自で調査をしていたわけだ」
アルフォンスはしばらく口を開きかけては閉じ、やがて恐る恐る尋ねた。
「えっと……そういえば、貴方は?」
「僕はヴィクトル・ブルボン。父の名はフィルマン。それに妹が世話になった」
アルフォンスが勢いよく立ち上がる。
「え、あ、じゃあ……! スザンヌ・ブルボン嬢のお兄さん!?」
「そうなるね」
ヴィクトルは苦笑した。国家から謀反者として扱われ、マルセイユへ留まり、それでも帰還を待ち続けている妹。ヴィクトルは心の中で嘆息する。
——あの子は、また一人で抱え込んでいるんだろうな。
ヴィクトルは資料を閉じると二人に視線を向けた。
「ところで、ダラス家に何かあったのか? さっきの話だと、変死事件という単語が出てきたけど」
「あっ、えっと、これはあくまで表に出てない情報なので、口外禁止を約束してくださいね!? その、ダラス家の次男! ドミニク・ダラスが死んだんですよ! それも夢蛇を摂取した証拠も出て——」
「お前は慌てて全部喋るな」
アルフォンスがジタバタと身振り手振りで全部話し、ベルリオーズが即座に突っ込んで制止する。ヴィクトルは「あー」と声を漏らした。
「それは大事だね。よく分かったよ」
そう言った後、ヴィクトルは顎に手を当てて天井を見上げる。
——これは使える。
ヴィクトルは穏やかに笑って二人を見据える。
「君たち、ヴェルサイユまで来るとは凄い執念だ。どうやら海軍も、まだ腐っちゃいないらしい」
アルフォンスとベルリオーズは顔を見合わせ、ヴィクトルは続ける。
「けど、海軍も海軍で今は色々と大変だというのは聞いている。どうだろう?夢蛇案件を、僕に預けてくれないか。君たちの名前は出さない。ここは王宮に任せてくれたまえ」
「……え?」
アルフォンスが瞬き、ベルリオーズは腕を組んだ。海軍側だけで抱えるには、既に規模が大きすぎる。更に今の海軍は、内部整理だけでも手一杯だ。そこへ、王宮内部に信頼できる協力者がいる。アルフォンスも頷いて一礼する。
「分かりました、よろしくお願いします」
ヴィクトルは歯を見せて笑った。
「任された」
その後、二人はヴィクトルに見送られる形で海務院を後にした。ヴェルサイユ宮殿の広大な砂利道。夕暮れの中、背後には国家の中心が聳えている。アルフォンスは歩きながら深いため息を吐いた。
「そうなんだよねぇ……内部再編がまだ上手くいってないから、そっちも取り組まなきゃいけないし……でも海賊戦争の件がまだ残ってる……告発しなきゃ、トゥーロンに帰れないよ……」
頭を抱えるアルフォンスとは反対に、ベルリオーズは砂利道を見下ろしてから前を見据える。
「じゃあ、さっきの人みたいに誰かに任せればいい」
「誰かって、候補いるの?」
アルフォンスが怪訝そうに振り返り、ベルリオーズは即答する。
「お前の親父さんでいいだろ」
「は?」
「こういう時にシャトレ家の名前を使えよ。ボナパルト副司令官とも仕事で交流があるんだろ」
「まあ、あるけど……」
「今回の大元帥の報せも伝えれば、親父さんも動く。若きエリオット・レオパードが海軍トップへ就いた時から、ずっと側近してた人なんだ。シャトレ家の名に懸けても、個人としても黙っていられないだろ」
「……確かに」
こうして、二人はアルフォンスの父——アルマン・シャトレに会うため、一度シャトレ家へ立ち寄ることとなった。そして、翌朝にはトゥーロンへ向けて旅立つことになる。
公務を終えたヴィクトルは、グレゴワールと共に野営地へ戻ってきた。焚き火の火がぱちぱちと鳴り、周囲に集まる仲間たちへ向け、ヴィクトルは早速報告する。
「海軍側が動いている。彼ら、夢蛇の存在を把握していた。それに、警察がダラス家を家宅捜査して実物を押収」
シャルルが片眼鏡を直した。
「ほう、なんでまた?」
「まあ……過去の出来事を追った末に辿り着いたんだろうね。今、頭が働いてないから考えるのを拒否してるけど、多分そういうこと」
ヴィクトルは少し疲れた顔で苦笑し、ワンが腕を組む。
「それにしても、警察が動くとは。海軍と警察のラインは何だろう」
「さあ? 詳しくは知らないけど、両陣営ともダラス家に反体制派の疑いを抱いているとのこと」
ヴィクトルは肩を竦めて表情を曇らせた。
「それともう一つ、大きな事件が起きた。ドミニク・ダラスが変死したと。夢蛇を摂取した証拠が出たらしい」
「……そうですか」
シャルルが重苦しく呟いた。脳裏へ蘇るのは、あの夜。マテオが天眼滴を放った光景。あの時の空気、ドミニクの顔。何とも言えない感情が胸に残っていた。ヴィクトルは皆を見渡しながら続ける。
「王宮に来た海軍二人と話して、夢蛇の件は僕が引き受けることになった」
「じゃ、おれたちが出来ることはもう無いってか?」
ジャスパーが焚き火越しに声を飛ばし、ペネロペが肩を竦める。
「あるとすれば……またここで待って、シルヴェストルの末路を見届けることくらい?」
「だな。僕たちが下手に動くより、ここは王宮側に任せた方がいい」
サミュエルも頷いて同意した時、ティエンがふいに立ち上がる。
「オレも行く。オレも、シルヴェストルのクソに言ってやりたいことがあるから」
「え、君が? いや、庶民は王宮に入れないよぉ」
ジョルジュが目を瞬かせるが、ティエンはグレゴワールとヴィクトルを見詰める。二人もまた頷き返した。ティエンの青い瞳が焚き火の灯りで橙色に移り変わる。
——ブルボン本家長男として、シルヴェストルとの戦いに臨む。
シャルルは悪戯を思いついたように笑うと、片眼鏡が焚き火の灯りを受けてキラリと光った。
「決まりですね。では王宮の皆さん、この先は任せましたよ。あとで軽く作戦を練りましょうか。——せっかくなので玉座の間で暴いてやりましょう」
その場が解散ムードになり始めた頃、ロザリーがティエンに歩み寄ってセンスを差し出す。
「これ、証拠に使って。リュミエール家……あの人たちは何もしていないって、証明できるから」
ティエンは扇子を受け取り、試しにゆっくり開くと目を丸くする。
「……なるほど」
こうして野営地へ残る者たちは、ヴィクトルとグレゴワール、そしてティエンに望みを託して息を潜めることとなった。
三日後。シルヴェストルは近頃、使用人たちの様子がおかしいことに薄々気付いていた。人ならざるものを見るような視線。当然だろう。ドミニクの死体に広がった鱗の肌、蛇のような瞳を目撃してしまった以上、自分にも同じものがあるのではないかと恐れるのは予想していたことだ。だが、シルヴェストルはいつも通り振る舞う。上に立つ者の務めだと信じて。
朝、支度を終えたシルヴェストルは馬車に乗り込み、ヴェルサイユ宮殿へ向かった。到着後、同僚たちと挨拶を交わす。
「おはようございます」
「……ああ」
返事が遅い、部下たちも妙だった。誰も目を合わせず、会話が続かない。シルヴェストルは眉を顰めた。何かおかしいが、正体も掴めないから彼は考えるのをやめた。今日もまた、自分を信頼する国王の元へ向かう。
一方、ヴェルサイユ宮殿の門外に二台の馬車が停まった。先に降りてきたのはヴィクトル、続いてグレゴワール。三人目はティエンだった。髪も整えられ、由緒正しきブルボン本家の挨拶用礼装を身に纏っている。ティエンも今日ばかりは節度を弁えていた。上流貴族として、ブルボン本家長男として。
彼の隣には、これまた礼装姿の若者が立っている。落ち着きなく辺りを見回し、どこかオロオロしているが、今はまだ語るべき時ではない。四人は王宮に足を踏み入れた。廊下を行き交う者たち、小声で囁き合う官僚、慌ただしく書類を運ぶ使用人の間に何かが起きている。
「騒がしいな」
グレゴワールが呟くと、すぐ近くを通った職員の会話が耳に入った。
「警察からだそうだ」
「本当なのか?」
「まだ分からん。しかし……」
シルヴェストルの名が聞こえ、ヴィクトルはついほくそ笑む。
「何かあったのか?」
ティエンが聞くと、グレゴワールは鼻を鳴らした。
「警察上層部から王宮へ垂れ込みがあったらしい。シルヴェストルに嫌疑が掛けられている模様。奴が追い詰められるのも時間の問題か」
「なら、もっと時間を早めようか」
ティエンは目を細めて笑う。四人は王の御前に足早に向かう。
真実を暴くため、ダラス家を終わらせるために。




