第五章① アルフォンスとベルリオーズ
木漏れ日が乱反射して眩しい。マルセイユ、旧バティーユ邸。
離れは今日も静まり返っている。室内は暗く、小さな窓から射し込む陽光が床に白く落ちていた。ルキフェルは光を避けるように横たわり、ぼんやりと光を見つめている。彼が背を預けているのは窓側の壁、これまで何日も背を預け続けていた玄関扉とは対照的な位置。ルキフェルは指先を陽光に触れないよう、壁にぴたりと背をつけていた。扉の向こうから、誰かの話し声が微かに聞こえる。ルキフェルは目を閉じて寝返りを打ち、額を壁に押し付けるように身体を縮めた。
一方、離れの外。スザンヌは今日もウッドデッキに座っていた。春の風が草木を揺らしている。彼女の前にはニコラとレオンが立っていた。
「スザンヌさん、無理しないでください。毎日ここに居るじゃないですか」
ニコラが眉を八の字にして笑い、レオンは物憂げな顔で離れを見つめていた。スザンヌは微笑んで言う。
「大丈夫。私、ここに居たいだけだから」
「……何かあったら呼びなさい」
レオンが言うと、ニコラと顔を見合わせて本邸に戻っていった。スザンヌは離れの玄関扉を振り返った。が、扉は今日も閉ざされたまま。彼女は外壁に凭れて空を仰ぐ。いかにも初夏らしく澄みわたる空、どこまでも真っ青だ。
パリ総司令部。ベルリオーズは机に向かって黙々と羽根ペンを走らせていた。机上にはイヴォン・ローランの取調調書、第二部隊による報告書。そして、海賊戦争に関する秘匿資料。ベルリオーズは資料を整理しながら、正式な事件報告書として纏め上げていく。
「……よし」
最後の一文を書き終えたところで、彼は息を吐いた。アルフォンスが完成した報告書を抱えて参謀本部へ向かっている間、ベルリオーズは情報統括の立場を利用し、総司令部内の記録室へ赴く。薄暗い記録棚には各司令部から送られてきた膨大な報告書が並んでいた。彼は未解決事件の棚に向かって指先と目線で背表紙を追う。
「……あった」
ブレスト司令部第二部隊。「イヴォン・ローラン失踪事件」一連の捜査記録。ベルリオーズは資料を抜き取ってアルフォンスが待つ執務室へ戻ると、二人で再び机に向かい合った。羽根ペンが走り、紙が積み重なる。これまで散らばっていた点が少しずつ一つの線になっていった。
「……完成」
アルフォンスが顔を上げた瞬間、完成した事件報告書を抱えて早歩きで執務室を飛び出していく。
「ちょ、待って!」
ベルリオーズも慌てて後を追った。
参謀本部。アルフォンスは参謀本部長、そして情報統括部門の代表を呼び出した。卓上に置かれる一枚の羊皮紙、イザベルが出立前に託したもの。「ボナパルト副司令官、大元帥代理の許可書」を見た瞬間、両者の表情が変わる。
「……確認した」
両者の視線が事件報告書に落ちる。静かな沈黙、やがて印章が押されて重々しい音が響いた。
——未解決事件、解決済。
アルフォンスとベルリオーズは思わず顔を見合わせる。ダラス家によって狂わされ続けた、一人の退役軍人の苦悩がようやく国家記録の上で報われた。
「……っ」
アルフォンスが拳を差し出し、ベルリオーズも笑う。そして、二人の拳が軽くぶつかった。彼らがパリへ到着した翌日の出来事である。もちろん、二人の戦いはまだ終わらない。
この翌日。アルフォンスとベルリオーズは、イヴォン・ローラン事件の正式報告書、それと海賊戦争に関する一連の報告書を抱え、今度はパリ警察へ向かっていた。目的は一つ、ダラス家に疑わしき点があること、更に反体制派との繋がりが存在する可能性を警察側へ提示し、王宮へ繋げるためだ。
パリ警察本部。二人は総司令部所属の軍人という立場を利用し、警察上層部との面会を取り付けることに成功した。緊急会議、報告書が机上に広げられる。警察側の男が眉を顰めた。
「国家謀反の疑いがある、と」
「可能性は高いです。海賊戦争当時から不審な動きが見られます」
「更に、こちらはブレスト司令部第二部隊による未解決事件——」
ベルリオーズが即答し、アルフォンスも資料を差し出す。取り急ぎ呼び出されたのが警視総監だった。が、部屋に入ってきた彼は目の前の二人を見て露骨に怪訝そうな顔をする。
「……若いな。国家謀反の疑いだ何だと聞いたから来てみれば、こんな若造二人とは」
「若造でも仕事はできますよ」
アルフォンスが即座に返すと、警視総監は鼻を鳴らしたて面倒臭そうに資料へ目を通し始めたが、しばらくして思い出したように口を開く。
「……ダラスといえば、ドミニク・ダラスが亡くなりましたな」
「え」
「誰?」
アルフォンスとベルリオーズの声が綺麗に重なる。警視総監が怪訝そうに二人を見た。
「ほら、当主がシルヴェストル・ダラスでしょう? ドミニクって男は次男坊です。その男が突然、屋敷内で死んだんです」
二人の顔が強張り、警視総監は肩を竦めた。
「公には出してませんがね。ただ、少々妙な死に方をしておりまして。事件記録を持ってこい」
「はっ」
警視総監は部下に向かって顎をしゃくり、やがて机上に一冊の事件記録が置かれた。
——ドミニク・ダラス変死事件。
アルフォンスとベルリオーズは書類を捲り、読み進める度に顔が青ざめていった。ベルリオーズの喉が鳴る。
「薬物投与の疑い、ですか」
「まあ、ねぇ。ご遺体は今、防腐処置して腐敗進行を遅らせてるところです。なんでも、警察内部の医者たちが興味津々で」
警視総監が頬杖をつきながら答えた。アルフォンスが再び資料に目を落とす。鱗状変質、瞳孔変化、血管異常。そして、傍らへ落ちていた青い液体入りの注射器。
——夢蛇。
アルフォンスは机上に置かれた事件記録から顔を上げた。
「……家宅捜査しましたか?」
「何?」
「ブレスト所属士官失踪事件。正式にはそう記録されていますが、事件の被害者であるイヴォン・ローランは、取調調書にて『ダラス家に拷問された』と証言しています」
アルフォンスは机上に新たな書類を置き、警視総監の視線が資料に吸い寄せられた。ベルリオーズが引き継ぐように言葉を重ねる。
「イヴォン・ローランが現役時代に探っていたのは、密輸疑惑です」
「……密輸?」
「ええ。現在、ドミニク・ダラスの遺体傍から薬物投与の痕跡が見つかっている。つまり、イヴォン・ローランが追っていた密輸品と、ドミニク・ダラスが用いていた薬物が同一である可能性が高い」
警視総監の顔から徐々に軽薄さが消え、ベルリオーズは書類を捲って締め括る。
「つまり、ダラス家が記録を残さない形で密輸へ関与していた可能性は極めて高い」
警視総監は頭を掻いて低く唸る。
「しかしだなぁ……通報したのは屋敷の使用人なんだよ。聞けば、当主様には内緒で来たらしい。だから『当主様には言わないでくれ』って懇願されて。こっちが下手に立ち入れば、当主様に見つかって面倒事になる」
「ですが、この二件には共通項があります。密輸疑惑。薬物。そして、ダラス家」
ベルリオーズは真っ直ぐ警視総監を見据えた。
「ここまで一致していて、まだ偶然と言いますか?」
警視総監は書類を睨み、長い沈黙の末に深いため息を吐いた。アルフォンスは机に手をついてピシャリと言い放つ。
「これは、上流貴族が遊びで手を出しているだけの案件じゃないんですよ。それに、こちらとしても無視できない事実があります」
「落ち着きたまえ、若いの」
警視総監は宥めるように手を振ったが、アルフォンスは顔を真っ赤にして返す。
「ええ、たしかに僕は若造ですけど? アルフォンス・シャトレっていう素敵な名前と、海軍トップの側近兼総司令部所属司令官っていう肩書きを背負っているので、あまり舐めないでくださいね」
捲し立てるような早口にベルリオーズが「うわ、始まった」と声を漏らした。アルフォンスはわざとらしく咳払いして真顔に戻す。
「去年、ブレストで海賊同盟と海軍の戦争があったこと、記憶に新しいでしょう? あの戦争の裏で、ダラス家が関わっていたのですよ」
「……」
「しかも、旧ブルボン派の名義で! 国王陛下のお側へ仕える立場にも関わらず、彼らは旧ブルボン派として暗躍していたのです!」
アルフォンスは目に憤りを滲ませて畳み掛けた結果、警視総監の顔付きが途端に険しくなった。
「……旧ブルボン派。信じ難い話だ」
「ですが……海軍が法螺を吹いているとは思えない、と仰りたいのでしょう?」
ベルリオーズが口を挟んだ。警視総監は黙る隙を彼は逃さない。
「再三申し上げていますが、我々はダラス家に反体制派の動きがあると貴方方へ伝えるために、わざわざここまで足を運んでいるのですよ」
警視総監は腕を組んで暫し考え込み、すぐさま部下たちを振り返る。
「……由々しき事態である。今すぐダラス家を家宅捜査せよ。——ただし、見つかるな」
その日のうちに、警察は再びダラス家の屋敷へ赴いた。重々しい門。門前へ現れた使用人に対して、警察側はまず当主シルヴェストル・ダラスの所在を確認する。
「……本日は王宮へ」
「よし。始めろ」
低い号令と共に家宅捜査が開始された。警察は一直線に、ドミニクの死体が発見されたあの空間へ向かう。床、壁、そして奥に存在する意味深な扉。
「地下か……」
警官の一人が呟いて扉を開ける。薄暗い階段、地下から甘ったるい香りが漂ってきていた。警察たちは慎重に地下へ降りていき、やがて実験室のような空間に辿り着いた。
「……なんだ、ここは」
棚には大量のお香が並んでいる。奇妙な香。甘いが、嗅ぎ続ければ頭がぼうっとしそうな、不穏な匂いだ。一本一本、丁寧にラベルが貼られている。「港到着日」、「精製日」。警察たちは顔を見合わせた。
「記録しているのか……?」
「流通管理だろうな」
更に奥、別扉の先にあったのは保管室だった。暗がりに積み上げられた、交易用木箱。蓋を開けた瞬間、警官の一人が息を呑む。中には夢蛇の素材が大量に収められていた。乾燥した植物、粉末、青黒い液体、そして異様な臭気。
「全部押収しろ!」
警察たちは即座に動き始めた。木箱へ封印を施し、記録を取る。運搬準備に地下室は慌ただしい足音で満たされていった。回収された夢蛇関連物資は警察本部へ運び込まれる。警察内部保管庫、厳重封鎖、関係者以外立入禁止。国家管理案件として扱われ始めていた。
一方、屋敷側の使用人たちは青ざめた顔で光景を見つめていた。これまで彼らにとってダラス家とは、仕事ぶりは優秀で冷静沈着、どこか体温の低い貴族という印象だった。必要最低限しか雇われていない使用人たちは、主人たちの私生活を深く知ることもなかったが、目の前で運び出されているものに、身も心も縮み上がっていた。もし警察の件がシルヴェストルへ知られれば、通報したのが自分たちだと露見すれば、命令へ背いたと知られれば、何をされるか分からない。だから、ただ黙って震えていた。
その間、アルフォンスとベルリオーズは警視総監から新たな助言を受けていた。
「密輸関係なら、王宮海務院へ行くといい。あそこなら航路記録が見られるはずだ」
警視総監が机に頬杖をつきながら渡したのは、一通の紹介状だった。警察本部を出た二人はまず互いの軍服を整えた。総司令部所属を意味する、真っ白な軍服の皺を払って襟を直す。
「……緊張してるのか?」
「してる。王宮だよ?」
ベルリオーズが横目で聞き、アルフォンスは即答した。
「ま、俺も初めてだけど」
二人は顔を見合わせて馬車に乗り込んだ。




