第四章③ 野営地
翌朝、ダラス家本邸に姿を現したシルヴェストルは、廊下の向こうから広がる夥しい悲鳴を聞いて眉を顰めた。
「……何事だ」
使用人たちの悲鳴は収まらない。何かに怯え切ったような声だ。シルヴェストルは急ぎ足で廊下を進み、騒ぎの中心へと辿り着くと不意に足を止めた。使用人たちが腰を抜かしている。それに、ドミニクが倒れていた。シルヴェストルは怪訝そうにドミニクを見下ろした瞬間、目付きが驚愕へと変わった。
——最悪だ。
自分たち兄弟が必死に隠し続け、忌み嫌ってさえいた鱗の肌が。ドミニクの身体に、それも広範囲に広がっていた。胸元、首筋、頬へ、黒ずんだ鱗が死人の肌を侵食している。ドミニクは目を見開いたまま死んでいた。濁った青灰色の瞳孔は蛇の目と同様、縦長に細く裂けている。苦しみ悶えながら死んだのだろうか。身体は硬直し、不自然に強張っていた。シルヴェストルの視線がドミニクの傍らに落ちた。注射器の中、青い液体が少し残っている。夢蛇を見た瞬間、シルヴェストルは状況を理解した。
——過剰摂取、遂に死んだのか。だが、それより不味いことが起きた。
夢蛇と自分たち一族の鱗を、使用人たちに見られたことの方が遥かに厄介だった。シルヴェストルは使用人たちを振り返る。彼らは怯え切った顔で後ずさった。
「……庭へ埋葬しろ。教会と葬儀屋には通すな」
シルヴェストルは冷たく言い放って踵を返す。王宮へ向かう準備をするため、本邸の自室へ戻るつもりなのだろう。——だが、シルヴェストルが去った後も使用人たちは遺体を近付けなかった。
「……あれ、人間なの……?」
誰かが震える声で呟き、使用人の一人が耐え切れなくなったように口を押さえる。
「無理よっ」
「埋めろって言われても……!」
恐怖が広がっていき、使用人たちは顔を見合わせると屋敷を飛び出した。その日のうちに、ダラス家の屋敷に警察が訪れることとなる。シルヴェストルは既に王宮へ向かい、使用人たちは怯えた様子で捜査官たちを現場へと案内した。警察側も遺体を見た瞬間に顔を強張らせる。
「……なんだ、これは」
年嵩の捜査官が眉を顰め、死人と傍らへ落ちた注射器に目を向けた。
「証拠品として回収しろ」
命令が飛び、すぐさま遺体と注射器は警察管理下へ置かれ、秘匿案件として扱われることになった。その後、司法解剖に立ち会った解剖医は、途中から明らかに顔色を変えていく。
「……おかしい」
机上に並べられた記録用紙を他所に、解剖医は手袋越しにドミニクの腕を持ち上げ、血管を観察する。黒ずんでいる。いや、焼け爛れたみたいに変質していた。
「血管異常……」
次に神経組織。こちらも通常ではあり得ない損傷が広範囲へ及んでいる。助手が困惑した顔を解剖医に向ける。
「神経焼損……? 薬物反応でしょうか」
「いや……こんな症例は見たことがない」
更に首筋から頬へ広がる鱗状変質。皮膚病では説明がつかない。瞳孔変化も異常だった。まるで蛇。助手の顔から血の気が引いていく。
「先生……これ、本当に人間ですか」
解剖医は傍らに置かれた注射器を見つめ、記録係に向かって告げる。
「……恐らく、薬物常習者だ。注射器が落ちていたことから見ても、日常的に何かを摂取していた可能性が高い」
「はい」
羽根ペンが記録用紙を走るが、解剖医はなおもドミニクの遺体を見つめていた。
「——既知の薬物反応ではない」
部屋の空気が静まり返る。国家側が初めて、夢蛇という存在の異常性に真正面から触れた瞬間だった。
その頃、野営地では東洋人たちの賑やかな声が響いている。鍋から湯気が立ち昇り、誰かが薪を割り、別の誰かが茶を淹れている。昨夜の緊張感が嘘みたいに彼らは平常通りだったが、その少し離れた場所では空気が重い。海賊たちに元海軍員たち、そして協力者たち。彼らは焚き火を囲んでいる。シャルルが疲れたように額を押さえた。
「……つまり、クレマン家侵入作戦は成功」
「うん。扇子も回収できた」
ロザリーが頷き、シャルルは焚き火の煙を見ながらため息を溢す。
「ですが、ダラス家侵入作戦は失敗です。ドミニク・ダラスの乱入で、夢蛇を回収できなかった」
マテオとジャスパー、ダミアンとサミュエルも一斉に溜め息を吐いた。ジョルジュが顔を上げて声を張りあげる。
「え、えっと……! でも、みんな無事に帰還できたじゃないですか! ほら! 誰も死んでないし! それってすごく大事なことですよ! えっと、その……夢蛇はまた探せば——」
「ジョルジュ」
アニータが苦笑混じりに声を掛け、救護用の布や薬草を整理しながら肩を竦める。
「気を遣ってくれてるのは分かるわ」
「……はい」
「わたしも、みんなが無事だったのは嬉しい」
アニータは焚き火に視線を落とした。彼女の表情にもやはり薄い陰りがある。
「……後味悪ぃな」
マテオがぼそりと呟き、焚き火の火がパチリと小さく爆ぜた。重苦しい空気の中、ジャスパーが焚き火に木枝を放り込みながら眉を顰めた。
「てかさ……ドミニクに見られたんだろ。やばくね?」
コリンが露骨に顔を顰めて髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す。
「うわぁ、誰も考えないようにしていたのに」
「いや、普通にまずいでしょうね」
シャルルは片眼鏡を外し、服の裾でレンズを拭きながら言う。
「……それにしても、逃げる時に悲鳴を聞いたような……」
シャルルの目が宙を彷徨っている時、リゼーヌがマテオに尋ねる。
「その人、何か言っていましたか?」
「さあ? まともに会話できてねえよ。なんか教団が自滅して、自分も役目がなくなって、うんたらかんたら」
「師匠、適当すぎますよ」
マテオが面倒臭そうに肩を竦め、ジョルジュが呆れた声を出す。
「うるせぇ、思い出したくねえんだよ」
マテオは眉間に皺を寄せた途端、ワンが目を瞬かせて彼らの輪に入ってくる。
「ほう! 黒辰封儀教団が自滅したとは!」
「ええ、あの連中が?」
ポーランも目を見開いて参入してくると、ダミアンが目を伏せて語る。
「……兄上、教団の導師をやっていたので間違いないと思います。紅い星の予言が本当に起きて、教団の人たちは自分で自分を殺した、と言っていました」
周囲にいた東洋人たちが「おお」と声を上げ、チャンがぱっと顔を明るくした。
「おっ、それじゃ僕たちの宗教的対立も無くなったわけか! いやぁ、でも紅い星が出てきた時は嬉しかったなー」
「紅い星って、そんなに重要なもんなのか?」
「重要なんですぅ!」
マルクが首を傾げ、リゼーヌが即座に反発した。
「東洋人にとっては重要なんですよ!」
「はいはい」
「はいはいじゃないですぅ!」
東洋組がまたわちゃわちゃと騒ぎ始めるが、ニールは焚き火を見つめて指先を震わせていた。脳裏へ浮かぶ。薄暗い部屋、甘ったるい香、ドミニクの笑い声、絡み付くような手。呼吸が浅くなって胸の奥がざわついたが、ニールは焚き火の向こうを見つめ続けていた。その時、重苦しい空気を割るように陽気な声が響く。
「お待たせー!」
ティエンが両手で大ぶりの中華鍋を抱えてやってきた。中から湯気が立ち昇り、香辛料と肉の匂いがふわりと広がっていく。
「そんな煮詰めてないで、朝飯食おうぜ」
「おっ」
コリンが嬉しそうに身を乗り出す。グレゴワールが焚き火の上に鍋が来るよう器用に台を調整し始めた。
「こっち寄せろ」
「はいよー」
ティエンが鍋を置いた。ぐつぐつと煮える音がし、彼はお玉で中をゆっくり掻き混ぜ始める。ヴィクトルが数人分の器を抱えて戻ってきた。
「ほら」
「助かるー」
朝飯の準備が進み始める中、サミュエルが焚き火越しにシャルルに視線を向けた。
「んで、これからどうする」
「うーん……」
シャルルは片眼鏡を着けると、腕を組んで眉間に皺を寄せた。
「奇抜な作戦も今は思い付きませんし……」
「珍しいな、君が詰まるの」
「うるさいです」
その時、グレゴワールがシャルルに向かって声を掛ける。
「あ、そういや。俺とヴィクトル、ここ離れることにした」
「え? なんで」
シャルルが弾かれたように顔を上げ、グレゴワールは平然とした態度で言う。
「パリまで来たなら出仕しなければ。あと、実家からまあまあ長いこと離れていたし。顔出しも兼ねて……いや、別に出さなくてもいいか」
「どっちなんですか」
「安心しろ。王宮内部から探ってみるだけだ。情報掴んだら、またここに顔出す」
グレゴワールが淡々と言ってのけた後、ヴィクトルも頷いてシャルルに言う。
「航路記録や王宮側の動きなら、こっちの方が探りやすい」
「……なるほど」
気付けば全員、鍋へ群がっていた。シャルルは少し考え込んだ後、頷いて周囲を見回しながら告げる。
「じゃあ今後の方針としては、しばらく野営地で情報を——」
「お、できた」
「先もらう」
「熱っ」
「肉入ってるぞ!」
ティエンが器にスープを注ぎ、ジョルジュがニコニコと受け取り、コリンが横から具を掠め取り、マテオが既に食い始めている。ペネロペとポーランはどっちの器が多いか揉めていた。
「いや、だからそっち多いって!」
「気のせい気のせい!」
シャルルは和かな笑みで朝飯の光景を見つめ、焚き火の向こうに向かって声を張る。
「……って、皆さん聞いてました!?」
「うま」
「これ何の肉?」
「知らん」
「おかわりある?」
その後、ヴィクトルとグレゴワールは一足先に野営地を後にした。向かう先は王宮。航路監査官として。そして、歴史書誌官として。二人はまず所属部署の上官たちに長期不在の謝罪と感謝を伝えた。
「長いこと暇をいただいて、申し訳ありませんでした」
グレゴワールが職務に忠実な堅物人間を演じれば、上官は呆れた顔で「本当に急だったな」と返す。一方、ヴィクトルは簡潔に頭を下げるだけ。そして、二人はそれぞれ職務の奴隷と化した。
航路監査室で、ヴィクトルは改めて航路記録に目を通した。羊皮紙の束には航路番号、積荷記録に寄港地が記録されている。ヴィクトルは隅々まで目を走らせるが、全て読み終えたところで天を仰いだ。
「……やはり無いか」
正規交易記録上、ダラス家は表立った商売をしていないにも関わらず、現実には夢蛇が流通している。
「完全に裏取引だな」
記録を残さない密輸、国家監査から逃れるための航路操作の裏にいるダラス家。ヴィクトルは目を閉じて深く息を吸った。
一方、歴史書誌室ではグレゴワールが古い資料の束を広げていう。リュミエール家謀反事件の資料を改めて読み返し、数枚めくったところで彼は眉を顰めた。
「よくもまあ、こんな出鱈目な資料で国王の信頼を得られたもんだな」
証言の整合性が甘い。物証も弱いのに、当時の王宮は謀反の証拠として受理した。グレゴワールは資料をそっと閉じて囁く。
「焦ってたのか。それとも最初から信じる気だったのか……」
野営地で情報を待つ者たちと王宮側で動く者たち。双方が虎視眈々と時を待つ中、マルセイユではアルフォンスとベルリオーズが、海軍から託された大量の資料を抱えていた。
イザベルから預かった、海賊戦争にまつわる秘匿情報の原本。第二部隊による報告書。そして、イヴォン・ローランに関する取調調書を携え、二人はパリへ向かった。国家の奥底へ眠っていた膿が暴かれ始めている。
本格的に動き出すのは——五月に入ってからだ。




