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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第四章「絶対逃さねえから……覚悟しとけ」
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第四章② パリ

 およそ一週間に及ぶ旅路の末、ジャスパーたちはついにパリ目前の地域まで辿り着いた。


 日は既に落ちかけ、街道から少し外れた林の中で東洋人たちが野営地を組み立てていた。火床を作る者、天幕を張る者、周囲の警戒へ回る者もいる。一方、作戦へ参加する面々は最後の確認を行っていた。


「クレマン家への侵入は、正面より裏側の方がいいわね。サン=ジェルマン=アン=レーにある実家の庭、かなり広いの。植木と噴水で死角も多いし、あそこから入る方が見つかりにくいわ」


 ロザリーが地図を広げ、指先で森側を示した。周囲の者たちが何度か頷く。一方でダラス家侵入組の空気は妙に張り詰めていた。ワンがマテオをじとりと見下ろし、腕を組んでいる。


「……お前、持ってるだろ」


 マテオは焚火の前に座ったままワンから目を逸らした。


「何をだ」


 ワンは深くため息を吐いて苛立ち混じりに鋭く言う。


「返せ、天眼滴」

「嫌だ」

「即答するな」


 マテオは腕を組んで不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「……これで復讐するつもりだった」


 シャルルが額を押さえて疲れたように言う。


「君。仮にここで返却したとしても、どうせまた隙を見て掠め取るつもりでしょう」


 マテオがそっぽを向き、シャルルはため息をついて片眼鏡の位置を軽く直す。


「ほんと強情ですね……仲間のためなのは分かりますけど。仕方ないので、ここはぼくが常時監視させてもらいます」

「うえ、最悪だ」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 ジャスパーが立ち上がって腰の剣帯を軽く整える。


「おれ、シルヴェストルに言ってやりたいことある。屋敷の離れに行くわ」


 サミュエルが即座に顔を顰めた。


「なんだと?」

「危険です。兄上が何もしない保証はありませんよ」


 ダミアンが鋭い剣幕で言うと、ジャスパーは肩を竦めて目を細めた。


「安心しろ。殺すつもりねえし。向こうも、おれを直接殺すつもりは無いだろ」

「……なんで言い切れるんですか」


 ダミアンが眉を寄せる。ジャスパーは少し考える素振りを見せて「勘」とだけ答え、焚火の向こう側でマテオが「だろうな」と呟いた。……ここにいない男の代わりに。


 闇が森を覆い始めた頃、二台の馬車が異なる進路へ向けて野営地を出発した。馬蹄の音は小さい。月明かりの下、車輪が細く軋む。野営地に残ったのは、ヴィクトルとグレゴワールとチャン、そして残る東洋人たちだった。


「……気を付けろよ」


 ヴィクトルの低い声を背に馬車は夜の街道へ溶け込んでいく。



 深夜、サン=ジェルマン=アン=レー。広大な庭園の隅で、茂みがガサガサと揺れて小声が飛び出す。


「いてっ」


 塀の内側に転がり込んできたのは、ジョルジュだった。彼が草葉を払いながら立ち上がった瞬間、次に降りてきたロザリーに小突かれる。


「音、うるさい」

「いっ……」

「忍び込みで騒いでどうするのよ」


 ロザリーは呆れたように溜め息を吐いた。二人の後ろでは鉤縄が揺れている。ニールが塀の上から軽やかに飛び降りてきた。続いてコリン、リゼーヌ、ペネロペも姿を現す。彼らは茂みを抜けて広大な庭へと足を踏み入れた。


「ふぅ……馬車、見つかったらどうしよ」


 ペネロペが周囲を見回しながら息を吐く。


「大丈夫でしょ。ティエンなら馬くらい大人しくさせられるし」

「ああ……確かに」


 ニールが気楽そうに言い、ペネロペが納得したように息を吐く。六人は身を低くして広大な庭園を横切っていった。草花の匂い、湿った土の感触、夜露を含んだ芝生。そして、その先の闇の中から巨大な屋敷の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。白亜の外壁、幾つもの窓、高く伸びたバルコニー。ロザリーは足を止めて二階部分の一角を指差した。


「あれ。あそこが私の部屋」


 六人はバルコニー下まで辿り着いた。見上げれば二階部分、白い石柱に囲まれた小さなバルコニーが夜闇に浮かんでいる。リゼーヌが小声で問いかける。


「ここから上がるの?」

「待って」


 コリンが他メンバーの鉤縄を次々と手に取り、各鉤縄に付属していた持ち手ロープをスルスルと解き、自分の鉤縄に付属するロープの先へ、解いたロープを一本ずつ結び始める。


「……早い」


 ロザリーが思わず呟く横で、ニールが感心したようにコリンを見る。


「さすがフランソワ海賊団の雑用係」

「雑用係言うな」

「ロープ編みは海賊の生き残る術だからねぇ」


 コリンは不服そうに眉を寄せながらも手だけは止めない。数分後、彼は強制的に長さを継ぎ足された鉤縄を持ち上げた。


「できた」

「おー。じゃ、投げるよ」


 ジョルジュが感嘆して鉤縄を受け取ると、バルコニーを見上げた。鉤縄が夜気を切る。一回、二回、三回。遠心力を乗せた勢いのまま、ジョルジュは鉤を高く放り投げた。鉤縄が二階バルコニーの柱へ巻き付いて絡み合う。ジョルジュは慎重にロープを引き、ピンと張る感触に手応えを感じた。


「……よし」


 ペネロペがケロッとした顔でロープに手を掛ける。


「じゃあ、上がるね」

「え、待っ——」


 ジョルジュが止めるより早く、ペネロペはスルスルとロープを登っていった。軽やかな影が二階へ近付いていく。


「うわ……」


 ニールが思わず見上げる。ペネロペはバルコニーへ辿り着くと欄干へ片腕を乗せて下を覗き込む。


「大丈夫そう!」


 ペネロペの小声が降ってきた。彼女の様子を見上げながら、ジョルジュはヘラヘラと笑う。


「懐かしー、士官学校時代の訓練」


 ペネロペが足音を殺しながら歩き、ロザリーの自室へ続くフランス窓に近付く。


「任せて」


 彼女は腰元から細い金具を取り出した。カチャリと微かな金属音が鳴る間にも、ロザリーがロープを登り始め、長い裾を片手で押さえながら上へ進んでいく。やがて彼女がバルコニーへ辿り着いた時、カチリという小さな音と共にフランス窓の鍵が外れた。


「開いた」


 ペネロペが窓をそっと押し開けると、夜風が室内へ流れ込んだ。ロザリーは部屋に足を踏み入れて見渡す。月明かりに照らされた家具、整えられた寝台、静まり返った空気。ロザリーは一瞬視界が滲むもすぐに首を横に振った。


 一方、バルコニーの下。リゼーヌが周囲を見回しながら小声で告げる。


「では、私は逃走経路を確保してきます。さっきの塀の辺りにいますね」

「あ、僕も行くよ」


 ニールはすぐ手を挙げ、ジョルジュが振り返った。


「え?」

「コリンとジョルジュが残れば安心だし」

「いや待って、現場指揮官がいなくなるの普通に困るんだけど」


 ジョルジュが慌てて引き留めるが、ニールはリゼーヌの隣に並ぶと、「じゃ、行こうか」と言って歩き始めた。


「え、あ、はい……?」


 リゼーヌも戸惑いながら彼の後を追う。二人の背中は来た道を引き返して夜の庭園に消えていった。ジョルジュはバルコニーと去っていく二人、そしてコリンを順番に見て力なく呟く。


「ええ……指揮官いなくなったら、ボクどうすれば……」


 コリンはじとりとした目つきでニールの背中を見送っていた。


「あれ。絶対、私情入ってる」


 ロザリーは自室を見回した。懐かしい匂いだ。幼い頃から見慣れていたはずの空間だが、今はどれも遠い。ロザリーは棚に歩み寄ると、埃を被った引き出しを開いた。中には一つの扇子、長らく触れずに薄く埃を纏っている。ロザリーは扇子を手に取ると、苦い表情で見下ろした。その時、部屋の扉が開いてペネロペが瞬時に振り返った。


「誰だ?」


 低い声と共に、燭台を手に現れたのは一組の男女だった。寝巻き姿の父と母。ロザリーは目を見開く。


 ——鍵、確認を怠った。


 舌打ちしたい衝動を押し殺しながら、ロザリーは両親を見つめ返す。父は厳しい表情をしていた。久しぶりに見た娘。だが同時に、この国では謀反人として追われる存在。一方、母は震えながらロザリーを見ていた。ロザリーは扇子を握り締めて口を開く。


「……お父様、お母様。突然押しかけて、ごめんなさい。どうしても、この部屋に用があったの。でも、すぐ去るわ」


 燭台の火が揺れ、父は目を伏せて踵を返す。


「……私の気が変わらないうちに行きなさい」


 父は部屋を出ていき、母はロザリーに目を向けるが、最後まで何も言わず部屋を後にする。扉が閉まり、ロザリーは立ち尽くしていたが、扇子を懐にしまってペネロペに告げる。


「……行きましょう」


 二人は再びバルコニーに出て、一人ずつロープを伝って降りていく。二人とも着地した時、ジョルジュとコリンがロープを見上げた。


「あ。これ、どうやって回収しようか」

「切る?」

「いや、それはもったいな——」


 その時、上から鉤縄が襲いかかってきた。


「うわっ!?」


 ガシャンという音と共に鉤縄が落下し、コリンとジョルジュが慌てて飛び退く。上階から微かな足音とパタンという窓が閉じる音に、四人はしばらく呆気に取られていた。ロザリーが屋敷を見上げると踵を返して歩き出す。


「さて、目的は達成ね。戻りましょ」


 ペネロペとコリン、ジョルジュも慌てて彼女の後を追う。戻る途中、ロザリーは一度だけ実家を振り返った。月明かりの下、白い屋敷が静謐に佇んでいる。ロザリーは目に焼き付けた後、再び前を向いた。三人が中庭を突き進み、塀の近くにいるニールとリゼーヌと合流する。既に鉤縄は設置済みらしい。


「お疲れ」


 ニールが小声で言った。六人は素早く塀を越え、街道脇へ停められていた馬車へ駆け込む。御者台にはティエンが座っていた。


「全員、戻ったね」


 彼が手綱を軽く鳴らした瞬間、馬車は夜道を走り出してサン=ジェルマン=アン=レーを後にする。



 同じ頃、パリ。街中の外れに停まった馬車から数人の影が降り立った。夜風が石畳を撫でる。一行は足音を極限まで殺して暗い街道を進んでいく。先頭を歩いているのはダミアンだった。彼の目は夜に慣れている。曲がり角、路地裏、巡回の気配を確認しながら歩を進めていった。やがて、巨大な屋敷の輪郭が闇の向こうに浮かび上がる。ダラス家の裏手、そして使用人用の裏口。ダミアンは足を止め、心が裂けそうになる感覚を押し殺しながら、扉に手を伸ばした。その時、ジャスパーが小声で問いかける。


「シルヴェストルの離れ、どこだ」


 ダミアンは手を止めて目を伏せ、恐る恐る屋敷の奥側——庭園の先を指差した。


「あっちです。本邸から離れた場所にあります」

「了解」


 ジャスパーが頷いた横で、サミュエルが周囲に目を配る。


「僕はここに残る。夜遅いとはいえ、通りすがりの人間がいないか見なきゃ」


 シャルルも頷くとジャスパーに告げる。


「なるべく早く戻れ」

「善処するよ」


 ジャスパーが軽く手を上げた瞬間、身を翻して闇に溶け込むように消えていった。


「……行きます」


 ダミアンは再び扉へ向き直ると慎重に鍵を外し、ゆっくりと裏口を開いた。軋みは最小限、内部は暗い。ダミアンとマテオとシャルル、三人は重い足取りで屋敷に侵入した。廊下は怖いほど静まり返っている。ダミアンは記憶を辿るように廊下を進み、シャルルが彼の背を探りながら小声で問う。


「夢蛇の保管場所は?」

「屋敷の奥です。地下に近い区画にあります」


 三人は息を潜めて、屋敷の奥へ奥へと進んでいった。やがて、屋敷奥の開けた空間へ辿り着くと空気が変わる。冷たい。石壁に囲まれたこの場所は、屋敷内部なのに妙に湿っていた。ダミアンは足を止めると正面の扉を指差す。


「あれです。あそこが地下へ繋がっています」

「では、行きましょうか」


 シャルルが慎重に歩き出した瞬間、ギィィと不気味な音を立てながら扉がひとりでに開く。


「……!」


 シャルルとマテオが反射的に剣を抜く。暗闇の奥から、何かが這い出るように現れた。壁に手を付きながら、ふらふらと歩いてくる男。扉から姿を現した人物を見た瞬間、ダミアンの顔色が変わった。


「……っ」


 男は酷く痩せていた。夢蛇への禁断症状なのだろう。げっそりと頬が削げ落ち、肌は異様なほど青白い。目元には隈、焦点も定まっていない。彼の眼差しは、どこか別のものを見ているみたいだった。シャルルが小声で問う。


「あの人、誰だ」


 ダミアンは声を震わして答える。


「……二番目の兄です。ドミニク……離れにいるはずじゃ……」


 ドミニクは暗がりの中、三人の影を見つけて掠れた声を漏らす。


「……だれ」


 ドミニクはふらふらと歩き、ダミアンの姿を見ると足を止めた。青白い顔に奇妙な笑みが浮かぶ。


「……あれ、死んでなかったの」


 ダミアンが喉を詰まらせ、ドミニクは額に手を当ててクスクスと笑い、瞳も虚ろに揺らした。


「ピエール? それともダミアン? もう、どっちがどっちか分からないや」


 ドミニクの笑みは甘く、ひどく不気味だった。マテオの目付きが鋭く変わる。


「ダミアン。先、逃げろ。サミュエルのところへ行け」

「……分かりました」


 ダミアンは踵を返すと足音一つ立てず、来た道を駆け戻っていった。彼の背中があっという間に廊下の闇へ消え、マテオとシャルルは剣を構え直す。ドミニクは身体をフラフラと揺らし、マテオはドミニクを睨み付けた。


「……なんでここにいる」


 ドミニクは壁に手をついてクツクツと喉を鳴らし、焦点の合わない目で天井のどこかを見上げた。


「なにって……夢に溺れていたに決まってるじゃないか。あの予言の星……紅い星が観測された途端、教団の連中が発狂してね。指揮系統もぐちゃぐちゃ、自分で自分の喉を突き刺して死んでいった」


 ドミニクは時折笑い声を混ぜ、肩を震わせて胸に手を当てる。


「残されたのは、導師である僕。けど……教団が自滅したら、僕の役目はどうなる? 父から与えられた役目が消え、何者でもなくなった。だから、夢に溺れるしかない」


 ドミニクが死神に取り憑かれたような顔を向けると、シャルルは怪訝そうに目を細める。一方、マテオの目は冷え切っていた。


「あ、そう。自業自得だな。お前……オレの仲間を滅茶苦茶にしたんだから」


 ドミニクは首を傾げた。マテオの神経を逆撫でして額に青筋が浮かぶ。


「……っ」


 ドミニクは目つきを鋭くさせて不敵に笑う。


「ああ、そう……もう散々。夢蛇も、いずれ底を尽く。けど、君たちがまた邪魔してくるなら、僕も容赦しないよ。だからさ、ここで決闘しようか」


 シャルルが舌打ち混じりに吐き捨てる。


「こいつ、狂ってる」


 マテオはドミニクを見据えていたが、ため息を吐いて双眸に昏い怒りを滲ませる。


「無理だろ。勝敗なんて、すぐつく。オレの手にかかりゃ、一発で人が沈む。銃でも剣でも同じ。教団が知識と術をくれて、オレをそういう人間にした」


 ドミニクが目を見張るも、マテオは語気を強めて言い切る。


「オレは……お前が仲間にしたことを赦せねえ。本当は殺したかった。何度も想像した。けど……ルカの言葉が頭から離れねえ」


 マテオは目を伏せ、剣を持つ手に力を込める。彼の脳裏に浮かぶのはルキフェルの横顔だった。


「ルカは連鎖を止めるために動いた。踏み躙りたくねえ。踏み躙ったら、あいつが命懸けた意味が無くなる」


 マテオは懐に手を入れ、注射器を取り出した。青い液体が満ちている、天眼滴。彼は天眼滴を見下ろした後、無造作に床へ放った。カランと乾いた音が空間に響く。ドミニクの視線が注射器へ吸い寄せられた。マテオは剣を納めながら淡々と言う。


「それ、欲しいんだろ。無いと生きられねえんだろ。お前を殺すつもりはない。……ていうか、お前なんか復讐する価値もない」


 ドミニクの笑みが消え失せる。マテオはドミニクに一瞥もくれず踵を返した。


「じゃあな。——いい夢、みろよ」


 シャルルも警戒を解かないまま、マテオの後を追った。残されたのは床へ転がった青い液体と青白い男だけ。遠ざかっていく足音が石造りの廊下へ反響していた。


「……復讐する価値もない」


 ドミニクの脳内で何度も反響する。価値がない。価値がない。価値がない。


「……っ」


 彼の喉の奥から掠れた呼吸が漏れた。屈辱だった。胸の奥を焼け爛れるような敗北感が満たしていく。ドミニクの手が思わず震えた時、床に転がった注射器が目に入った。青い液体、天眼滴。目が離せない。欲しい。欲しい。欲しい。気付いた時には注射器が掌の中にあった。


「あ……あぁ……」


 ドミニクは笑って震える手で袖を捲り上げ、腕の脈に針を突き刺した。液体が体内へ流れ込む。——数秒後、全身に激痛が走った。


「っ、が……!?」

 骨の芯まで凍るような冷たさ。喉から胃液がせり上がる。視界が激しく明滅した。こめかみが脈打つ。——どくん、どくん、どくん。


 ——星が、紅い星が、導師、蛇、神、裏返る。


 耳鳴り。声。無数の声が反響しながら脳内を埋め尽くす。視界の端で黒い何かが這った。蛇影が床へ、壁へ、天井へ。黒い蛇たちが暗闇の中を蠢いている。


「あ……あああ……っ」


 ドミニクは頭を掻き毟った。自己と外界の境界が溶け始める。どこまでが自分で、どこからが夢なのか分からない。


「は、はは……っ」


 彼の瞳に奇妙な光が宿る。壁の向こう、天井の先、闇の奥。あらゆるものが光を帯びて見えた。人間の本質、罪と恐怖、そして死が色彩となって溢れている。


「あぁ……綺麗だ……」


 ドミニクが恍惚した直後、ブチっと胸元の皮膚が裂けるような音が耳に届いた。


「……ぁ?」


 ドミニクが自分の胸を見る。そこには黒ずんだ鱗。元々わずかに浮かんでいた異様な肌が急速に広がっていく。鱗は胸、鎖骨、首へと蛇のように皮膚を侵食していった。


「や、やめ——」


 痙攣がして、視界の中で無数の蛇影が渦を巻いて声が響く。


 ——蛇の夢を見た者は、魂が裏返る。


「あ、ぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 ドミニクの濁った青灰色の瞳が大きく見開き、縦に裂けた。——蛇の目。異形へ変貌した双眸が、暗闇の中でぎらりと光った。次の瞬間、ドミニク・ダラスの身体がドサリと崩れ落ち、もう二度と動くことは無かった。



 ジャスパーは夜気の中、一人で離れを見上げていた。旧バティーユ邸にある山小屋みたいな離れとは違う。ダラス家の離れは、本邸を小さくしたような造りだった。白い外壁、整えられた窓枠、庭木。まるで上流貴族の別宅みたいな美しい住宅。

 ジャスパーは目を細めるとポケットに手を突っ込み、手探りで冷たい感触を探し当て、首を傾げて耳元を弄った。月明かりが彼の横顔を薄く照らしていく。左耳にはトルコ石とビーズのイヤリング。右耳にも同じもの。だが、戦火によって黒ずんでいる。


 アルマとゼフィランサス、二人のためにも自分はここに来た。


 ジャスパーは息を吐くと離れの扉へ手を掛けた。軋みと共に扉が開く。彼は足音を殺しながら廊下を進み、二階へと続く階段を上がった。空気が淀んでいる。重い、まるで水の中へ潜っていくみたい。ジャスパーは空気の濃度を辿るように歩き、一つの扉の前で立ち止まった。室内から微かな物音、誰かがいる。ジャスパーは一瞬目を伏せた後、勢いよく扉を開け放った。重い音が静寂を裂き、彼は慎重に足を踏み入れる。シルヴェストルが窓の近くに立っていた。今しがた窓を閉めたばかりなのだろう。彼の片手がまだ窓枠に添えられていた。シルヴェストルは振り返り、月明かりの下に現れたジャスパーの姿を見るなり穏やかに笑った。


「……来たのか。貴様と会うのは、あの戦争以来か」


 ジャスパーはシルヴェストルを見据えていた。


「……思い出したさ。母ちゃんが死んで、おれはリュミエール家で過ごして、そのうち追い出された」


 ジャスパーは胸に手を当てて囁く。


「リュミエール家……あの人たちは優しかった。あの家の人たちは『好きにしていい』って言ってくれた」


 ジャスパーの脳裏にリュミエール家の屋敷の景色が浮かぶ。暖かな食卓、柔らかな灯り、話をすると笑ってくれた人たち。


「追い出される時も、『陸に飽きたら、海へ出ればいい』って言った」


 ジャスパーは両手で顔を覆って天井を仰ぐ。


「あー、もう何もかも思い出した。夜になると警官が追い掛け回して……今思うと、あれお前のせいか。お前が送り込んだろ、暗殺者。警官にしちゃ全身黒すぎたし」


 ジャスパーは手を下ろすと、アンバーの双眸をギラリと光らせてシルヴェストルを射抜く。


「仲間から聞いた。お前、リュミエール家を嵌めて、処刑台送りにしたって。……なんでだ?」


 シルヴェストルは目を伏せて窓に寄りかかった。


「リュミエール家。お前の主人は以前からダラス家……というより、我が父に疑いの目を向けていた。父上も、あの一族を好いていなかった。父が狂いながら死んだあと、俺は兄弟と共に誓った。父上の遺言通り、お前を殺すと」


 シルヴェストルのアイスグレーの双眸が月明かりを映す。彼はなお穏やかな笑みを浮かべながらジャスパーに言う。


「お前がリュミエール家にいると知った時、俺はあの家が邪魔だと判断した。死んだ父上も、さぞお喜びだろう。だから、リュミエール家もろとも処刑へ送った。……なのに、お前の姿は無かった。だから、教団の連中へ捜索を命じた。見つけ次第、殺せと」


 月光がシルヴェストルの横顔を白く照らした。ジャスパーはが険しい目つきで睨むと、シルヴェストルはタガが外れたように語気を強めて語る。


「お前が海賊になったと報告を受けた時、俺は残り短い命だと考えて、追跡を引き上げさせた。……それでも生きていたとは。まったく、しぶとい奴め」


 シルヴェストルはジャスパーの両耳に目を向け、揺れるイヤリングをじっと見つめる。


「……両親の形見か。ここへ来たのは復讐のためか? ゼフィランサスの息子よ」


 シルヴェストルは窓辺から離れると二人の間に月光が落ちた。シルヴェストルは穏やかに笑ってジャスパーを目で捉える。


「いいだろう、今ここで復讐すればいい。親の仇を取るがいい」


 ジャスパーは喉を鳴らしたが、緩やかに首を横に振る。


「お前を殺す気なんかねーよ。仲間が切りたかった連鎖をまた繋ぎたくない。おれはな……一言言いたくて、ここへ来たんだ」


 ジャスパーはほとんど冷却しきった顔つきで、シルヴェストルを見据える。


「なあ、因果応報って知ってるか? この世界ってよくできていてさ。自分がやったことは、巡り巡って返ってくるんだってよ。だから……お前、このまま終わると思うな。絶対逃さねえから……覚悟しとけ」


 ジャスパーは踵を返して部屋を出て行った。シルヴェストルは去っていく背中を見送っている。扉が閉まり、月明かりは一人分の影を落としていた。



 ジャスパーが裏口へ戻ると、サミュエルとダミアンが待機している。


「おかえり」

「……ああ」


 サミュエルが小声で言ってジャスパーが返した時、廊下の奥から足音が聴こえてきた。ややあって、シャルルとマテオも裏口から姿を現すが、その表情は重い。シャルルは周囲を確認して低く告げる。


「緊急事態。夢蛇は回収できなかった」


 ダミアンの顔色が途端に青ざめる。


「……何があったんですか」

「今は撤退が先です。野営地へ戻って、今後のことを練りましょう」


 シャルルが即座に言い、彼らはダラス家の屋敷を直ちに離れた。夜の街道を早足で進んでいく。石畳、冷たい夜風、遠くの鐘の音。やがて、彼らは待機していた馬車へ辿り着いた。御者台にはマルクが座っており、シャルルは馬車へ乗り込みながら告げる。


「急ぎ、出してくれ」

「了解」


 マルクがすぐさま手綱を引くと、馬車は音を立てて動き出して夜のパリを駆け抜ける。灯り、石造りの街並み、闇へ沈む路地。やがて、馬車はパリの街を抜け出してた。

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