第四章① マルセイユ
離れ——と言っても、ほとんど木造の小屋だ。
室内にあるのは簡素な机と椅子、それから寝台だけ。小さな窓から差し込む光はやけに眩しく、燦々と部屋の中央ばかりを照らしているが、ルキフェルの足元までは侵食してこなかった。暗がりの中で、ルキフェルは玄関扉に背を預けて床を見下ろしている。もう何日経ったのか数えていない。食事もろくに喉を通らなくなってきている。その時、扉の向こう側から控えめなくしゃみが聞こえた。
「……っくしゅ」
——あの女、今日もいるのか。
ルキフェルは顔を顰めて扉からそっと背を離した。
離れの外、スザンヌはウッドデッキの上で蹲っていた。周囲には草木の青い匂いが満ちている。鼻の奥がむず痒い。くしゃみの直後、スザンヌは反射的に玄関扉を振り返った。扉は動かない、中から足音が聞こえる気配も無かい。スザンヌはため息を吐き、膝小僧に頬を押し付けて背を丸めた。春風が髪を揺らしていくが、柔らかな陽気とは裏腹に彼女の表情は沈んでいる。
一方、旧バティーユ邸。屋敷の玄関扉が開き、イヴォンとニコラが慎重な足取りで姿を現した。
「大丈夫ですか?」
「ああ……問題ない」
イヴォンの片手には杖。ニコラは彼のもう片方の腕に手を添えていた。ニコラはここ数日、マルセイユの街と旧バティーユ邸を何度も往復し、買い出しや連絡役を自ら引き受けている。誰かが後方を回さなければ、この屋敷は回らない。それを理解しているからこそ、彼は敢えて前線へ出なかった。
「無理そうなら、途中で休みますから」
「年寄り扱いするな」
「いや、普通に怪我人なんで」
ニコラが淡々と言い返すと、イヴォンは不満げに鼻を鳴らした。今日、二人はモンレザール家の屋敷へ赴く予定となっている。少し歩いた先で馬車を拾い、そこからセドリックの元へ向かう手筈だ。玄関先で、レオンとヤンが二人を見送っている。
「気を付けてください」
ヤンが言い、レオンは腕を組んだまま低く呟いた。
「海軍側も、とうとう動き始めたか」
昨日、ワタリガラスが飛来してセドリックから知らせが届いた。詳細までは書かれていなかったが、あの男が動く時は大抵ろくでもない事態が起きている。今回、そのろくでもない事態に海軍側も関わり始めた。
「何かが変わり始めていますね」
ヤンは空を見上げると、薄曇りの空を一羽の黒い影が横切っていった。
イヴォンとニコラがモンレザール家の屋敷に到着した頃、陽はすっかり傾いていた。
「お、来た来た」
セドリックは玄関扉前で待ち構えていた。馬車が正門前で止まり、ニコラが先に降り立って手を差し伸べると、イヴォンは彼の手を取って地面に足を着ける。セドリックが門を開けて二人を迎える。
「わざわざ来てもらって悪いな」
「いや、こちらも聞きたいことがある」
イヴォンが杖をつきながら門をくぐると、セドリックは目を細める。
「階段は面倒だろう。一階の応接間に案内する」
その言葉通り、セドリックは二人を応接間へ案内した。重厚な木製扉を抜けた先、深紅の絨毯と落ち着いた色合いの調度品が並んでいる。
「うわ……」
ニコラは席に座ってはみたものの、背筋を妙に伸ばして落ち着きなく視線を泳がせていた。比較的豪勢な室内に気圧されているらしい。一方、イヴォンは杖を傍らに立て掛けて正面を見据えている。やがて応接間の扉が再び開き、ベルリオーズが入室した。
「失礼します」
ベルリオーズはイヴォンとニコラの姿を確認すると一度深く頭を下げる。
「初めまして、ベルリオーズ・モンレザールと申します。以前は海軍総司令部にて書記官を務めておりましたが、再編に伴い現在は第二部隊と第八部隊を総括する立場となっております」
そう言いながら、ベルリオーズはイヴォンと向かい合う位置で椅子に座る。
「この度、ローラン殿へお伺いしたいことがあり、無礼を承知でこちらへ足を運んでいただきました。急な申し出にも関わらず、お越しいただき感謝いたします」
イヴォンはベルリオーズを見つめていた。若いが、目だけは妙に疲れている。やがて、イヴォンは口を開く。
「元第八部隊所属、イヴォン・ローランです。現役時代はブレスト司令部にて職務へ従事していました。……貴殿のことはセドリック殿や仲間たちから聞いております。二重スパイと毒殺未遂の件です」
ベルリオーズは息を呑んでセドリックを横目で見た。セドリックは隣の椅子に深く腰掛けたまま口を開く。
「ローラン殿は退役後、東洋の情報屋組織と接触したんだとさ」
「……なるほど。リー・ウェンか」
ベルリオーズの脳裏に過去の会話が蘇った。
——勘違いするなよ、ベル。リー・ウェンは一人の名前じゃない。組織そのものの呼称だ。
以前、セドリックが教えてくれた。ベルリオーズは再びイヴォンに視線を戻し、イヴォンは杖に手を添えて息を言う。
「まあ、目的は単純だ。俺を拷問した相手が誰だったのか、突き止めたかった」
ニコラが表情を曇らせる横でイヴォンは淡々と続ける。
「長い間、記憶が曖昧だったんだ。拷問の際、妙な薬を盛られていてな。あいつらは俺の記憶を塗り替えていた。大海賊フランソワや海賊共に暴力を振るわれた、と思い込まされていた。だが、ピエール・ダラスの顔を見た瞬間、一気に思い出した。ダラス家が俺を壊した」
ベルリオーズは絶句し、セドリックは目を伏せた。イヴォンは声に押し殺した怒りを滲ませて言う。
「現役時代、任務中に妙な書類を手にした」
「……妙な書類?」
ベルリオーズが椅子から腰を浮かせ、イヴォンは当時の記憶を思い返しながら語る。
「記号化された物資一覧だ。何の物資なのか探って……連中に攫われた。その物資っていうのが、夢蛇だ」
「夢蛇……」
「東洋由来の幻覚剤だよ。密輸品だった。判明したのは退役してからだ」
ベルリオーズが険しい顔をした。イヴォンはもう動かない片脚に一瞬だけ視線を落とす。
「ダラス家は密輸にも手を出していた。その事実を知りかけたから、口封じも兼ねて拷問されたって訳だ。密輸の件も含め、現役でこの事実を知ってる奴は……恐らく、ほとんどいない」
イヴォンが低く呟くと、ベルリオーズは目を伏せて顎に手を添えた。
「つまり……貴方が真相に辿り着いたのは退役後。じゃあ、海軍側の記録では未解決で終わってる」
「恐らくな」
「だったら……現実の事件として解決させなきゃ」
ベルリオーズは顔を上げると目を怒らせた。セドリックは目を細め、ニコラとイヴォンも黙ってベルリオーズを見つめている。その後も応接間では幾つもの言葉が交わされた。イヴォンが現役時代に触れた資料、当時の任務経路、記号化されていた物資。そして、ダラス家の動き。ベルリオーズは時折メモを取りながら一つ一つ整理していく。
夜も更け始めた頃、ベルリオーズは書き終えた羊皮紙を丸めると、小ぶりの筒へ丁寧に収めた。窓辺には一羽のワタリガラス——ノクターが留まっている。
「よし、頼むぞ」
ベルリオーズが筒をハーネスへ固定すると、ノクターは「カー」と短く鳴く。数分後、ノクターは黒い翼を大きく広げ、闇の彼方へ消えていった。
トゥーロン司令部、深夜。
「……今日はもう寝るか」
アルフォンスが燭台に手を伸ばした時、コンッと窓硝子を叩く音がして顔を上げる。
「……ん? 君……ベルリオーズくんの」
ノクターが窓辺に留まっていた。アルフォンが苦笑しながら窓を開けると、ノクターは室内に入り込んで脚のハーネスを軽く鳴らした。
「はいはい」
アルフォンスは小ぶりの筒を外して中の羊皮紙を広げる。
ダラス家絡みで未解決の事件があった。捜査資料そのものは、恐らくパリに残されているはず。
パリへ赴く前に事件が未解決であることを、あの鉄の女と熱血准将に伝えなければ。
「……なるほど」
アルフォンスが息を吐いた横で、ノクターは既に窓辺へ戻っている。
「もう帰るの?」
アルフォンスが問い掛けると、ノクターは「カー」とだけ鳴いて夜空へ飛び去った。
それから数日後。ベルリオーズはトゥーロン司令部に帰還すると、荷物を置く間もなくアルフォンスを伴って司令部最上階へ向かった。二人は廊下を進み、重厚な扉の前で足を止める。かつてエリオット・ド・レオパードの執務室だった場所。今はイザベル、ルソー、アルフォンス、ベルリオーズの四人が仕事場として使っている部屋だ。
「失礼します」
ベルリオーズが扉を開くと、イザベルが机へ向かって書類に目を通していた。彼女の傍らには、腕を組んだルソーが立っている。二人がアルフォンスとベルリオーズを見て顔を上げた瞬間、アルフォンスが低く言い放つ。
「ダラス家を野放しにしていいはずがない」
イザベルが目を丸くするもすぐに顔を顰める。
「アルフォンス——」
「僕たちが黙ってるせいで大元帥は壊れました。傷付かなくてよかった奴らまで傷付いて、巻き込まれた人間も命を落として……それなのに、また同じことを繰り返すのですか?」
アルフォンスは拳を握り締め、燃えるような瞳で二人を見据える。ルソーは唸りながら目を伏せ、イザベルは張り詰めた顔でアルフォンスを見上げていた。アルフォンスの横で、ベルリオーズが口を開く。
「海賊戦争。俺とフェルナンドが巻き込まれた毒殺未遂。ブレスト司令部所属、第八部隊士官の一時失踪事件。俺は本人と会いました。彼は退役後、拷問した相手を思い出したそうです。それもダラス家の仕業でした。しかし、海軍側の記録では、事件は未解決のままです」
ベルリオーズは頭を下げて語気を強める。
「第二部隊、第八部隊の情報総括を担う者として、見過ごせません。どうか……捜査の許可を」
重苦しい沈黙が落ち、ルソーは二人を見つめて低く唸る。
「……お前ら、勢いだけは大したもんだ」
イザベルは二人を見つめていたが、目を伏せて拳を握り締めた。
「……この間、ユルリッシュと話していたの。エリオットが壊れたのは、私たちの責任でもあるって」
アルフォンスとベルリオーズが顔を上げる。イザベルが悔し涙を堪えながら言葉を紡ぐ。
「国家の顔色を優先するのか。……エリオットは国家維持を選び続けた。心が壊れたまま、それでも進み続けて、立ち直れないほど崩れた。なのに、私たちも……同じことをするのかって」
イザベルの言葉が途切れると、ルソーが二人に向かって続きを言う。
「オレは軍人として、誰のために戦ってるのか。ここ数日、ずっと考えてた。けど、お前たちに言われてやっと決まった。オレは民衆のために戦う。ダラス家が海賊戦争の時みたいに、また民衆を巻き込もうってなら……オレは黙っていられない。国王には悪いが、ダラス家は報いを受けるべきだ」
イザベルは立ち上がると刺すように燃える目で二人を見る。
「私たちが立ち上がるのは、民衆のため。今度こそ、ダラス家の思い通りにはさせない」
彼女の言葉を聞いた瞬間、アルフォンスはグッと唇を噛み締め、目元を赤くさせる。
「……っ、ありがとうございます……!」
アルフォンスは涙声を隠し切れないまま深く頭を下げた。




