第三章④ セドリック
マルセイユ、モンレザール家の屋敷。
四月も終わりへ近づき、南方の空気には初夏の気配が滲み始めていた。窓の外では柔らかな陽光が庭木を照らし、潮を含んだ風が白いカーテンを揺らしているが、穏やかさとは裏腹に屋敷の一室には、重苦しい空気が沈殿していた。
セドリックは自室の机に肘をつき、一通の手紙へ視線を落としている。部屋の中では数羽のワタリガラスたちが自由に飛び回り、梁へ止まったかと思えば羽音を立てて旋回し、時折机の端に降り立っては、黒曜石みたいな瞳で主人を覗き込む。開け放たれた窓辺にはノクターによく似た若い個体が止まり、喉を鳴らしていた。セドリックは溜め息を吐いて文面に目を走らせている。
手紙の差出人はヤン、旧バティーユ邸から送られてきた近況報告だ。綴られていた内容は、決して良いものではない。
——ルキフェルが離れへ引き籠ったまま、数日が経過。一度たりとも外へ姿を現さない。玄関前へ食事を置くと時間を置いて食器ごと消える。再び訪れる頃には、空になった皿だけが戻されている。生きてはいるが、事態は何一つとして変わらない。
ヤンの筆跡は相変わらず端正だったが、文面の端々に隠しきれない疲弊が滲んでいた。
——調理と運搬は、若い女性が献身的に行っています。
そこを読んだ時、セドリックは目を細めた。ヤンの続きの文章にはこうも記されている。
晴れた日の日中は離れの前に腰掛けて、片時もその場を離れません。わたしを含め、レオンという医者とイヴォン・ローラン、それからニコラという青年もおりますが……今は見守ることしかできない状況です。
紙を持つセドリックの指先に力が入る。部屋の中を飛んでいたカラスの一羽が気配を察したように低く鳴いた。
「……そうか」
セドリックは椅子に深く背を預ける。脳裏に浮かぶのは、あの緑の瞳だ。感情を押し殺し、どれだけ傷を負っても立ち続けていた青年。海賊でありながら、どこか壊れかけた子供のような危うさを抱えていた。あれほど張り詰めていた糸が切れれば、どうなるか想像できなかったわけではない。むしろ、いつ壊れてもおかしくなかった。エリオットの件が決定打だっただけ。
セドリックは目を伏せた。風が吹き込んで書類の端を煽っていく。暖かな季節が来ようとしているのに、冬の底へ沈んでいくような気分だ。窓辺に止まっていたカラスが首を傾げ、セドリックは黒い羽根をぼんやり見つめて低く呟く。
「……お前、ちゃんと戻ってこられるか」
旋回していたワタリガラスの一羽が羽ばたきを止めた。同時に控えめなノック音が響く。
「旦那様」
セドリックが顔を上げると、扉の向こうから執事が姿を現した。長年、この屋敷に仕える老人は普段と変わらぬ穏やかな佇まい……なのだが、今日は妙に口元が緩んでいる。
「……何だ」
セドリックが訝しげに眉を寄せると、執事はどこか楽しそうに目を細めた。
「旦那様に御用の方ですよ」
「俺に?」
「ええ。大変、お綺麗な方です」
「は?」
セドリックは怪訝そうな顔のまま立ち上がった。彼は執事に促されるまま部屋を出て廊下を歩き、階段を下り、広々とした玄関ホールへ辿り着いて足を止めた。鞄を肩に下げた一人の青年——ベルリオーズが立っている。黒髪、細身の体躯、何より若い頃のセドリックを切り抜いたような容貌。いや似ているというより、ほとんど生き写しだ。ベルリオーズはセドリックと目が合った瞬間、どこか気まずそうに歯に噛む。
「……久しぶり」
セドリックは勢いでベルリオーズに歩み寄るなり抱き締めた。
「うおっ!?」
ベルリオーズが目を見開くも、セドリックは彼の背をばんばん叩きながら笑う。
「帰ってきたか、息子よ!」
「ちょ、父さん、苦し——」
「いやぁ、話したいことが山ほどある」
そう言ったセドリックの笑顔は穏やかだった。が、ベルリオーズはその奥に漂う妙な含みを敏感に察知した。彼の脳裏へ浮かんだのは……数ヶ月前、自称十五代目コルヴァンとして海軍内部情報をリークした、あの二重スパイ騒動だった。嫌な汗がベルリオーズの背中を伝う。
——あれ。そういえば、父にちゃんと説明していない。というか、確か全部バレていた。
セドリックはベルリオーズの袖を掴むとズンズン歩き出す。
「まずは俺の部屋へ行こうか。積もる話もあるしなあ?」
「……はい」
ベルリオーズは引き摺られるように歩きながら、額にじわじわ滲む汗を拭った。玄関ホールの隅では、執事が実に満足そうな顔で頷いている。
——数分後、怒号が屋敷中に響き渡った。
「何をやっているんだ、この馬鹿者がッ!!!!」
廊下を歩いていた使用人たちがびくりと肩を跳ねさせる。セドリックの私室では、数羽のワタリガラスたちが止まり木に留まり、実に冷めた目で親子喧嘩を見守っていた。
「勝手に十五代目コルヴァンを名乗った挙句、二重スパイ!? 海軍内部情報をリーク!? しかも俺に一言の相談も無し!!?」
「はい……」
「はい、じゃない!!」
セドリックが机を叩いた。ベルリオーズはソファに座らせられた状態で、ひたすら小さくなっていく。
「いや、だって父さん絶対止めるし……」
「当たり前だ!!」
「でも結果的に上手く——」
「上手くいったから問題ないと思ってる辺り、余計に腹立つんだよお前は!!」
一羽のワタリガラスが「カー」と鳴いた。ベルリオーズは肩を縮こませながら目を逸らす。セドリックは額を押さえて大きく深呼吸した。
「……で、エドガーとはいつからだ」
ベルリオーズの肩がぴくりと揺れた。
「……二年前」
「二年」
セドリックのこめかみに青筋が浮く。ベルリオーズはしょげた顔で続ける。
「最初は脅されてたんだ。情報流さなきゃ、色々バラすって言われて」
「ほう」
「でも、そのうちちょっと楽しくなっちゃって……」
「楽しくなったぁ!!?」
セドリックの怒号が炸裂し、ワタリガラスたちが一斉に羽をばさりと鳴らす。
「自分が何をしていたか、理解してるのか!?」
「はい……」
「国家機密だぞ!?」
「はい……」
「歴代コルヴァンの名を勝手に継承するな!! しかも自称十五代目って何だ!! 俺まだ生きてるだろうが!!」
「ちょっと語感が格好良くて……」
「馬鹿か、貴様は!!」
ベルリオーズはしおしおになっていたが、セドリックの怒りはそれだけで終わらない。
「……お前な。上層部から密かに報告を受けて、俺がどんな気分だったと思う。ベルリオーズ・モンレザール、毒殺未遂。……気が狂うかと思った」
セドリックの低くなった声音に、ベルリオーズがびくりと肩を震わせた。セドリックはギロリと睨んで吐き捨てるように呟く。
「死にかけた挙句、ピエール・ダラスが関与していたとは。頭痛で倒れるかと思ったぞ俺は」
「……ごめんなさい」
ベルリオーズは目を伏せて呟くと、セドリックは深く息を吐く。
「……まあ、生きて帰ってきたから良しとする」
「父さん」
「だが、説教は別だ」
「ですよね……」
セドリックはベルリオーズの前に立ってニコリと微笑んだ。
「さて。二年分、聞かせてもらおうか。十五代目コルヴァン殿?」
ベルリオーズは神妙な顔で座っていたが、観念したように息を吐いた。
「……えっと」
「何だ」
「二年分の思い出を語る前に、話さなきゃいけないことがあって」
セドリックは「ほう?」と片眉を上げ、ベルリオーズは指先を弄りながら小声で切り出す。
「去年の海賊戦争の裏、旧ブルボン派が糸を引いてた話。父さんも把握してるだろ」
「ああ」
「で、あのダラス家がそいつらに助力してた件も」
セドリックは頷くと踵を返し、執務机に向かって椅子に腰掛ける。いつの間にか一羽のカラスが机上へ降り立っていた。セドリックはカラスの黒い頭を指先で掻きながら息子の続きを待った。ベルリオーズはソファから立ち上がって執務机の前に立つ。
「軍は……というか、ボナパルト副司令官とルソー准将は、国家維持のためにダラス家の関与を秘匿してる」
「だろうな」
「あの一族、王宮じゃ宰相みたいな立場だし、今ここで全部表に出せば国内が混乱する」
ベルリオーズは両手を机に付き、セドリックを真正面から見据える。
「けど、俺たちが黙ってたせいで今の軍は滅茶苦茶だ。大元帥は公務へ戻れない。内部編成も滞ってる。またダラス家が旧ブルボン派と組んで何か仕掛ける前に、俺と同僚で秘匿情報を公にしたい。そのためには……」
「俺の力が必要ってことか」
ベルリオーズは黙って頷いた。数秒の沈黙、カラスが小さく喉を鳴らす。セドリックは椅子に腰掛け直すと、机の上で組んだ指に顎を乗せた。
「一つ、指摘しておく。ダラス家が旧ブルボン派へ助力していたというより、ダラス家そのものが旧ブルボン派だ」
ベルリオーズの目が見開き、まるで宇宙の真理に触れた猫のような顔になった。セドリックは淡々と続ける。
「俺が仲間内で情報共有した中で判明したものだ。間違いない」
ベルリオーズはしばらく固まっていたが、天を仰いで顔を顰める。
「…………待って」
「何だ」
「ちょっと整理したい」
そう呟くなり、ベルリオーズは部屋の中をぐるぐる歩き始めた。
「え、つまり何? ダラス家は『旧ブルボン派に協力してた貴族』じゃなくて、中核側ってこと?」
「そうなるな」
「じゃあ、海軍って今まで何と戦ってた?」
「王宮寄生型の特大爆弾だ」
「最悪だな……」
ベルリオーズは頭を抱えたまま旋回を続ける。カラスたちは彼を見つめ、どこか呆れたように瞬きをした。セドリックは息子の様子を眺め、ふっと口元を歪めた。
「どうした、十五代目」
ベルリオーズはその場でぴたりと足を止め、険しい顔でセドリックを見た。
「父さん」
「何だ」
「その呼び方やめて」
「格好良かったんだろう?」
「今それで煽られると普通に傷付く」
セドリックは頬杖をついたまま、再び部屋を彷徨く息子を眺めた。
「それで? 俺を使って、どうやってダラス家の悪事を暴くつもりだ」
「まず、副司令官と准将を説得する」
「ほう」
「そのためには、ダラス家に傷付けられた人間の事例を、二人に伝えなきゃいけない」
ベルリオーズは執務机の前で足を止め、セドリックを見つめた。
「父さんの情報網なら、何か掴めるかと思って。……だから帰ってきた」
セドリックは目を細めた。脳裏を過ったのは、ダラス家によって人生を狂わされた者たちの顔だ。海賊、東洋の情報屋組織、祖国を追われた者、名を奪われた者、家族を壊された者。その思考の流れの中で、不意に一人の男の姿が浮かぶ。退役軍人——イヴォン・ローラン。今は旧バティーユ邸へ身を寄せているはず。
「……一人、いるな。直接ダラス家の被害に遭った人間だ」
「本当?」
「ああ」
セドリックは彼を見上げて問いかける。
「職務はどうした」
ベルリオーズは苦笑して答える。
「軍には『実家へ帰省したい』って伝えてある。数日したら戻るよ」
「よし。その男をここへ呼ぼう」
セドリックは机上の引き出しを開けた。慣れた手付きで便箋と封筒を取り出し、インク壺に羽ペンを浸していく。
「来るとしても、早くて明日だろうな。ダラス家の件となれば、向こうも応じるはず」
さらさらとペン先が紙を滑る音が部屋に響く。その間、ベルリオーズは止まり木へ視線を向けた。数羽のワタリガラスたちが並んで留まっている。一羽だけ見覚えのある顔があった。
「……あ、ノクター」
ノクターが「カー」と鳴いた。ベルリオーズが近付くと、ノクターは当然のように胸を張る。
「お前、まだここにいたのか」
ベルリオーズが苦笑しながら頭を撫でると、ノクターは満足げに目を細めた。ノクターの隣には、もう一羽。ノクターによく似た、小ぶりのワタリガラスが留まっている。目付きだけは妙に生意気で、どことなく子分みたいな面構えだった。
「……何だ、お前。ノクターの舎弟か?」
ベルリオーズが指先を向ける。小ぶりのカラスは警戒する様子もなく、ぴょんとベルリオーズの腕へ飛び乗った。
「うわ、軽っ」
セドリックが一度手を止めて声を張った。
「その子、マイペースすぎて訓練が通じないんだ。自由人気質らしくて、他の奴から距離を取られてる」
「へえー」
「ノクターが仕方なく面倒見てる感じだ」
ベルリオーズが小ぶりカラスの頬をくすぐっていると、ノクターが不満そうに「カー」と鳴く。
「何だよ、嫉妬か? 相変わらず可愛いな、お前ら」
ベルリオーズは笑いながら二羽まとめて撫で回し、セドリックは手紙を書きながら目を細めた。




