第三章③ ベルリオーズ
トゥーロン司令部。ベルリオーズは情報管理室の前で溜め息を吐いた。ここ最近、司令部内の空気はずっと張り詰めている。海軍内部の再編の余波は現場だけでなく、裏方にも押し寄せていた。今のベルリオーズもその渦中にいる。彼は現在、情報担当として総司令部内でも第二部隊、第八部隊をはじめとした各部隊の情報を総括する中枢寄りの役職へ就いていた。もっとも、今となっては喜ぶ余裕など無かった。
「……失礼します」
ベルリオーズが管理室へ入ると、第二部隊所属の士官が積み上げられた木箱の前で頭を抱えていた。
「ああ、来てくれたか……!」
心底助かったとでも言いたげな顔だ。長机の上には山積みにされた書類の束、紐で括られた報告書、封蝋付きの機密文書、雑に積み上げられた資料箱が、部屋の奥まで延々と並んでいる。ベルリオーズはその光景を前に思わず顔を引き攣らせた。
「……うわぁ」
彼の隣に立つ第二部隊所属の士官が、疲れ切った顔で頭を掻く。
「総司令部がトゥーロンへ移る際、ブレスト側でまとめていた情報資料も全部一緒に運ばれてきてな……どれが総司令部保管で、どれがトゥーロン所属のものか分からなくなった。悪いが、手伝ってくれ」
「まあ……総司令部側の書式なら見分けつきますし」
ベルリオーズは袖を軽く捲った。元々、自分は書記官だ。それに、大元帥やイザベルの近くで実務を回していた期間も長い。誰がどんな癖で書類を処理するか、どの部隊がどういう形式を使うか大体覚えている。結局、自分がやるのが一番早い。
「じゃ、始めます」
ベルリオーズが長机の前に立つと紙束を一つ掴み、ざっと中身へ目を通す。日付、部隊印、決裁印、保管番号に視線を走らせながら、ベルリオーズは次々と仕分けていった。総司令部、第二部隊、第八部隊、要再確認。途中、ベルリオーズの指先が一枚の資料の上で止まる。
——ブレストにおける士官及び捕虜毒殺未遂事件。
心臓が嫌な音を立て、ベルリオーズは紙をめくる。被害者欄には自分の名前があった。フェルナンドの名前も。あの日の記憶が脳裏へ蘇る。焼けつく喉痺れる身体。肺に入り込む毒、死の臭い。
被疑者欄には「ピエール・ダラス」の文字。ベルリオーズは資料を見つめた。知っている。この事件の真相も、ダラス家が旧ブルボン派へ助力していた件も、海軍上層部が秘匿したことも、全部知っていた。あの時、自分も納得したつもりだった。国家を守るためには必要な判断なのだと。王宮まで巻き込めば混乱が広がる。海軍内部の士気も崩壊する。だから、伏せるしかなかった。そう思い込もうとしていたが、ベルリオーズの指先が震えて視界の奥にエリオットの崩壊した姿が浮かんだ。泣きながら壊れていく大元帥、混乱しきった海軍。全部、隠し続けた結果じゃないのか。
「……何だったんだよ」
国家のため、混乱防止のため。そうやって被害者を黙殺して、真実を沈めた結果、何が残った。エリオットは壊れ、海軍は崩れかけている。自分だって死にかけた。他にも、どれだけの人間が踏み潰されたか。
「……ふざけるな」
ベルリオーズの中で、怒りがじわじわと腹の底から込み上げてくる。自分たちは何を守っていた。誰を守っていた。被害を受けた人間の命すら、国家の都合で押し潰すのか。ベルリオーズは資料を掴むと周囲の士官が驚いたように顔を上げる。
「悪い、続きあとでやる!」
ベルリオーズは仕分けた資料を箱へ押し込み、情報管理室を飛び出した。石床を革靴が打つ。向かう先は一つ、アルフォンスの元だ。ベルリーズは廊下を足早に進み、気づけばエリオットの執務室前に辿り着いていた。彼は勢いよく扉を押し開けると、ギィッが軋む音が静かな室内に鋭く響いた。中には案の定、アルフォンスがいる。机の上へ積み上げられた書類を整理している最中だったらしい。アルフォンスはペン先を止めて顔を上げた。
「……ベルリオーズくん?」
ベルリオーズは真っ直ぐアルフォンスへ歩み寄る。
「ダラス家が関与していたという資料、どこにある?」
アルフォンスの眉が寄った。
「……何ですか、急に」
「惚けるな。海賊戦争の裏で、奴らが暗躍していた件だ。あの秘匿情報の原本はどこにあると聞いている」
室内が静まり返り、アルフォンスはしばらくベルリオーズを見つめていたが、やがて息を吐いた。
「……僕が持っています。というのも、あれは僕とボナパルト副司令官、それにルソー准将と大元帥しか知り得ないものですから。……ああ、そういえば。サン・マロ奪還作戦の会議、君もいましたね。あれも遠い昔みたいだけど……せいぜい四ヶ月くらい前だったかな」
アルフォンスは乾いた笑みを浮かべると、ベルリオーズは彼に指差して語気を強める。
「今こそ王宮へ知らせなければ」
アルフォンスの顔が強張るも、ベルリオーズは机に手をついて身を乗り出す。
「またダラス家の好き勝手にさせる気か!? あいつらを止めなければ、また誰かが踏み潰される!」
「落ち着いてください」
ベルリオーズが息を呑むと、アルフォンスは立ち上がって真っ直ぐ彼を見る。
「君は今、感情的になっている」
「感情的で何が悪い! 俺は死にかけた。フェルナンドだって巻き込まれた! なのに『全て国家のため』で押し潰して……その結果どうなった!? 何も守れてないじゃないですか! 被害を受けた人間の命すら、国家の都合で握り潰すのか!?」
アルフォンスは目を伏せて拳を握り締めた。
「……君の言いたいことは分かる。ですが、王宮に告発すれば全て解決するわけじゃない。今の海軍は、少し刺激を間違えるだけで崩壊する。だからこそ、僕たちは慎重でなければならない」
ベルリオーズはアルフォンスをじっと睨みつけて吐き捨てる。
「……お前は国に飼われるのか? 飼い主を失って、今度は国そのものに尻尾振るのかよ。忠犬野郎め」
鈍い音が執務室へ響き、ベルリオーズの頬に焼けるような痛みが走った。書類が数枚、床へ散る。ベルリオーズは数秒遅れて顔を上げると、アルフォンスは肩で息をして額に青筋を張らせていた。
「……シャトレ家の役割を、誇りを愚弄するな」
ベルリオーズは頬を押さえてアルフォンスを睨み返す。
「……じゃあお前は、誰の側にいた時が一番誇りだったんだ」
「エリオット・レオパード、あの方に決まっているだろう!!」
アルフォンスは息を乱して机に手をついた。
「僕は……! あの方を支えるために……! ……でも、あの人はもういない」
アルフォンスは声を失い、机に片手をついたまま俯いた。
「僕は……誰の隣に立てばいい」
海軍大元帥直属補佐官。アルフォンスは目を閉じて自嘲気味に笑う。
「海軍のトップを支える側近として生きてきた。シャトレ家の誇りだった。なのに……支える相手が、もういない。尊敬していた人も、もう支えられない。だったら……僕は、何なんだ」
ベルリオーズは目を見開いて耳を傾けていた。肩を震わせて俯く男。今まで、どれだけ罵倒されようが皮肉を投げられようが、ここまで感情を露わにしたことはなかった。ベルリオーズは頬を押さえたまま息を吐く。
「……ああ、答えはシンプルだよ。お前はただの男だ。なんの役目も負ってない、普通の人」
アルフォンスが顔を上げて顔を顰め、ベルリオーズは真顔のまま続ける。
「あと童貞」
「は? な、何を突然……!」
「それと、たぶん将来禿げる」
「ベルリオーズ!!」
アルフォンスの顔が一瞬で赤くなり、ベルリオーズは少しだけ口元を緩めた。
「でも、トップの顔を一番近くで見てきた男だ。大元帥は公務へ戻れなくなった。けど……お前、まだあの人にしてやれることあるんじゃないか? それか、親しい人間でもいい」
アルフォンスは反射的に口を開きかけて、言葉に詰まらせた。脳裏に浮かんだのは翡翠の瞳。
あの裁判、ルキフェルの血筋問題を巡る法廷。エリオットが何度も立ち上がり、シルヴェストルに意見していた姿を。あの人は、あれほど感情を露わにする人間だっただろうか。思えば、あの時からもう壊れ始めていたのかもしれない。アルフォンスは目を伏せた。エリオット・レオパード。海軍大元帥、神童、英雄。本来、あの人は家族や仲間へ深い愛情を向け、人の成長を穏やかに見守る人だったはず。二十年前までは、ダラス家による惨劇へ巻き込まれるまでは。
アルフォンスは父アルマンから聞かされた話を思い出した。父は先代補佐官、若き日のエリオットを支えた人間だ。
——あの人から目を離すな。
父の口癖だった。復讐へ呑まれた若き大元帥。家族を失い、親友ゼフィランサスを自らの手で殺した男。その苦悩と葛藤を父は間近で見続けてきた。だからこそ、自分へ託した。支えろ、見失わせるな、と。もし、家族を失ったことがきっかけでエリオットが歪んだのなら、その歪みを作った元凶はダラス家だ。そして、ダラス家は息子であるルキフェルの人生まで歪めた。歪みの延長線上に今がある。エリオットの崩壊も、海軍の混乱も、全部。アルフォンスは拳を握り締めて顔を上げた。
「……そうか。僕にまだできることがあるなら、ダラス家を終わらせることか。ただし、直接手を下すわけにはいかない。でなければ……ご子息が望んだものを踏み躙ることになる」
ルキフェルは復讐の連鎖を断とうとしていた。ならば、自分たちが同じやり方で堕ちては意味がない。ベルリオーズはアルフォンスを見つめたまま眉を寄せる。
「ご子息?」
アルフォンスの肩がぴくりと揺れるも、ベルリオーズは満足げに頷いた。
「よく分からんが、まあいい。お前も俺の意見に同意ってことだな」
アルフォンスは一瞬固まるが、焦りを口に出す暇も無かった。ベルリオーズが勝手に執務机へ近づき、引き出しを開け始めたから。
「ちょ、何してる!?」
「原本探してる」
「待って待って待って!! 原本そのまま提出はまずい!! あと、ここには無いし!」
「じゃあどうしろと!? そのまま送れば、ダラス家なんて一発アウトで退場できるだろ!」
「無断提出は駄目だって! 特にボナパルト副司令官にバレたら、僕たち命ないよ!」
アルフォンスも思わず声を荒げ、ベルリオーズが舌打ちする。
「くそっ、じゃあどうしろって言うんだよ!」
アルフォンスは数秒黙り込んだあと息を吐いた。
「……説得しましょう」
「は?」
「特にルソー准将。あの人は情で動く」
「副司令官は? あの鉄の女、国家維持優先しそうだろ」
ベルリオーズは腕を組む。アルフォンスは数日前の記憶を脳裏に蘇らせる。
……本当にそれでいいの。
イザベルの小さな呟き。あれは迷いだったのか、あるいはもう既に答えへ辿り着きかけていたのか。
「……どうだろうか」
アルフォンスは呟いた。ベルリオーズが怪訝そうに眉を寄せるも、アルフォンスは彼を見返して言う。
「理由を外付けしましょう」
「理由?」
アルフォンスは指を折るように言葉を並べる。
「海賊戦争。君とフェルナンドの毒殺未遂事件。それだけじゃない。ダラス家が今まで何をしてきたのか、その非道さを真正面から二人に叩きつけるんです。……軍人は失った命に敏感だ。ダラス家の秘密を抱え続けることは、犠牲者たちの無念を踏み潰し続けることだと教える。あの二人も……もう目を逸らせない」
ベルリオーズは目をパチクリさせていたが、眼光を鋭くさせて口角を上げる。
「なるほどな。お前……案外、性格悪いわ」
「君に言われたくないなあ」
アルフォンスはにこやかに笑うも、すぐに表情を消した。
——今度こそ、ダラス家を終わらせる。




