第三章② 仲間たち
陽が昇っていたが、旧バティーユ邸の空気は夜のままだった。
ジャスパーは離れの前に立ち尽くしている。木製の扉は固く閉ざされたまま、庭の草は朝露に濡れ、冷えた空気が足元を流れていく。ジャスパーはしばらく扉を見つめていた。どう声をかければいいのか。ルキフェルが壊れる瞬間など想像したこともなかった。あの男はどれだけ追い詰められても立つ人間だった。だからこそ、昨夜の叫びが耳から離れない。ジャスパーはぎこちなく手を上げ、軽く扉を叩いた。コンコンと乾いた音が庭に響く。
「……ルキフェル。ここにいるんだろ」
沈黙、中から物音一つ聞こえない。ジャスパーは眉を寄せる。扉を開けるべきか一瞬迷ったが、結局手を伸ばせなかった。
「……飯くらい食えよ。せめて水だけでも」
言いながら、自分でもひどく不器用だと思った。もっと気の利いた言葉くらいあるだろうに。だが、ジャスパーにはこれが限界だった。静寂が扉の向こうに沈んでいる。やがて、ジャスパーは目を伏せて踵を返した。
ジャスパーがエントランスに戻った瞬間、そこにいた全員の視線がジャスパーに向く。マテオがジャスパーに近づくも、ジャスパーは彼を見て首を横に振った。ジョルジュが壁に背を預けて座り込んでいる。
「……どうしよ」
屋敷の外では、東洋人たちが黙々と馬車へ荷を積み込んでいるが、エントランスの中は時間が止まっていた。ルキフェルがいないだけで空気がこんなにも変わるのかと誰もが痛感している。サミュエルが腕を組んだまま低く呟く。
「……それにしても大元帥が、か」
ペネロペがそわそわと皆を見渡す。
「これ……諦めるやつ? ルキフェル、行けなさそうじゃない?」
何人かが顔を上げ、ジャスパーは頭を掻いた。
「声はかけたんだけどね。返事はない」
「指揮系統に穴が空くな。出てくるまで待とうか?」
シャルルが片眼鏡を押し上げる。ジャスパーは考え込んでから小さく首を振る。
「……どうだろうね。あれは、時間かかるな。もしかしたら、一生出てこないかも」
アニータが唇を引き結んだまま呟く。
「……そんなに追い詰められていたの」
マテオが机の上に視線を落とす。ルキフェルが置き去りにしたカットラスがあった。磨きかけのまま放置された刀身が、朝の光を鈍く反射している。マテオはカットラスを手に取って自分の剣帯に収め、屋敷の外へ向かって歩き出した。
「……どこへ行く気ですか?」
ワンがマテオの背に声をかけた。ヤンとチャン、それからポーランも一緒に固まって見ている。マテオは立ち止まると皆を振り返った。彼の目には昨夜までとは違う熱が宿っている。
「……これも全部、ダラス家のせいじゃないか。あいつと親父を引き離して、また引き裂いた。親もガキも壊れる必要なんてないのに」
マテオは拳を握り締め、押し殺された怒気を声に滲ませる。
「オレはダラス家を赦せない。あいつが壊れて……黙っていられるか」
「……お前が一人で暴走したら、誰が止めるんだよ」
ジャスパーはポケットに手を入れる。取り出したのはアントワーヌのイヤリングだ。ジャスパーはしばらくイヤリングを見つめて微笑する。
「おれも行くよ。あいつらに言ってやりたいこともあるし」
「ぼくも! ルキフェルは心配だけど、ここに居ても変わらないから!」
「僕も行こう。僕がいないと、君たちうろちょろするから」
コリンが勢いよく立ち上がり、ニールも腕を捲って二人を見つめる。ジョルジュも慌てて立ち上がり、ロザリーが肩を竦める。
「あ、あの! マテオさん行くって言うなら、ボクも行きたいです!」
「ほんとにね。こうしてる間にも、ダラス家が好き放題しそうだもの」
サミュエルも頷き、ペネロペは拳を突き上げた。
「やるなら今だね」
「でも、ルキフェルさんがやるはずだった役割は……?」
リゼーヌが不安そうに声を上げ、シャルルがエントランス中央まで進み出て皆を見渡す。
「空いた穴は埋めよう。ぼくがダラス家侵入作戦の現場指揮を取る。ルキフェルが動けないなら、ぼくたちでやるしかない。メンバー編成も移動中に再編しようか」
停滞していた空気が再び動き始め、階段に腰掛けていたティエンが軽い調子で笑った。
「よーし、決まりっぽい。オレも決着つけなくちゃ」
ティエンの瞳の奥で青い炎が燃えていた。旧ブルボン派であるダラス家。そして、自分はブルボン本家の長男。ならば、終わらせる責任がある。ティエンの近くで、ヴィクトルとグレゴワールも頷いていた。
やがて、皆が出立準備へ動き出す。怒りと覚悟が結束へ変わっていく中で、マテオは皆から離れて応接間へ入り、薬棚の前で立ち止まった。小さな木箱が置かれている。マテオは木箱を手に取って蓋を開いた。中には二本、天眼滴入りの注射器。淡く光を反射する液体を見つめ、マテオは呟く。
「……これだ」
マテオは二本とも手に取ると、腰に下げた銃弾用ポーチに忍ばせた。空になった木箱を元の場所へ戻し、マテオは表情を消して応接間を後にした。沈んでいる暇などないとでも言うように、屋敷の外では馬の嘶きと木箱のぶつかる音が絶え間なく響いている。皆がエントランスで待機している時、玄関扉が開いて朝の光を背にマルクが中へ入ってきた。
「荷物、全部積めたぞ。準備できた奴から乗り込め」
マルクの声に屋敷の空気が一段階動き出す。シャルルは周囲を見渡したあと、固まっている東洋人たちに視線を向けた。
「リー・ウェン」
ヤン、ワン、チャン、それから周囲にいた東洋人たちが一斉に振り返る。シャルルは「あー……」と言葉を探したあとヤンを指差した。
「君。一緒に来てくれないか? 力になってほしい」
「わたしは動けません。海軍の動きだとか、まだ気になることがありますので」
ヤンは首を横に振り、隣にいたワンとポーランに視線を向ける。
「ここにいるワン・ユーリンと、ポーランをお供させましょう。わたくし、ヤン・ジュンジャーはマルセイユへ留まります」
シャルルは少し考えたあと頷いた。
「……分かった。助かるよ」
エントランスの隅では妙な緊張感が漂っていた。ジャスパーがサミュエルに肩と腕をがっちり拘束されている。額にはうっすら汗。ジャスパーの目の前ではロザリーが細い針を摘んでいた。
「ほんとにやっちゃっていいの?」
ロザリーが確認すると、ジャスパーは引き攣った笑みを浮かべた。
「あい。一思いに頼むよ」
「じゃあ、遠慮なく行くね」
ロザリーがにっこりと微笑んだ瞬間、騒々しい悲鳴がエントランス中へ響き渡った。ジョルジュが真っ青になって耳を塞ぎ、我先に玄関へ飛び出していく。マテオも顔を顰めながら外へ出ようとして、アニータと鉢合わせた。アニータは肩にバッグを掛けており、マテオは目を丸くした。
「お前、居残りじゃなかったっけ」
「……これ以上誰かが傷つくなんて嫌。私がいなきゃ、誰が治療するの。誰が大喰らいさんたちの食事量を考えるの」
アニータは真っ直ぐ彼を見て笑みを浮かべる。
「もう、誰も失いたくない」
「……そうかよ」
二人は並んで屋敷を後にした。一方、作戦内では医療担当を担うはずだったレオンがシャルルの前へ立っている。
「申し訳ないが……俺は残る。ルキフェルが心配だ」
「……分かりました。よろしく頼みます」
武器を抱える者、荷を運ぶ者、馬車へ飛び乗る者、それぞれ覚悟を胸に屋敷を出ていった。馬たちが落ち着かなさげに蹄を鳴らしている。積み荷を固定する音、革紐の擦れる音、東洋人たちが交わす短い声。出立前特有の慌ただしさが広がっていた。コリンは一台ずつ馬車を見て回っている。というより、馬を見て回っている。
「うーん……」
コリンは真剣な顔で馬の顔を覗き込んでいく。栗毛、黒鹿毛、青毛。一頭一頭、律儀に感想を漏らしていく。途中、コリンは御者台に座っているマルクに声をかけた。
「ここ、まだ空いてる?」
「重量オーバーだ」
「えー」
「馬にも限界あるんだよ」
マルクに追い払われ、コリンはぶつぶつ言いながら次の馬車へ向かう。すると、近くで荷物を運んでいたチャンが笑った。
「どの子も同じだよ」
「違うよ! 顔も違うし、目も違うし、性格も違うもん!」
「はいはい」
コリンはむっと頬を膨らませ、最後尾の馬車まで辿り着く。そこではティエンが御者台に腰掛けていた。
「ここ、まだ余裕あるよ」
ティエンが軽い調子で手を振るも、コリンは返事もせず馬を見つめていた。
「……可愛い」
白馬だ。朝日に照らされた白い毛並みが淡く光っている。
「この子にしよう」
「馬車とかメンツじゃなくて、馬で決めるんだ」
「うん」
コリンは真顔で頷き、白馬を見上げながら何気なく言う。
「前から思ってたけど、ティエンって王子みたいだよね」
ティエンの表情が一瞬固まった。脳裏に実家の顔が過る。鬱陶しいくらい豪奢だった屋敷と政治と権力の匂い。頭の中の映像を振り払うように、ティエンは顔を顰めた。
「やめてよ。反吐出そう」
コリンはきょとんとして「変なの」と呟き、ひょいと馬車へ乗り込む。ニールがすでに座っていて苦笑している。
「結局、ここにしたんだ」
「白くて可愛いから」
「理由が一貫してるね」
グレゴワールも同じ馬車に乗り込んでくる。ティエンが御者台で伸びをすると、ニコラが駆け寄ってきて神妙な顔をした。
「ボク、残ることにしたよ」
「……そっか。行ってくる」
「気をつけて」
ニコラが馬車から離れると、ティエンは軽く手を上げた。ヴィクトルが馬車の後方で荷を積み込み、リゼーヌとスザンヌが屋敷から姿を現す。先を歩くリゼーヌは真っ直ぐに馬車へ向かおうとしたが、途中でスザンヌの足が止まった。
「どうしたの?」
リゼーヌが振り返って尋ねた。スザンヌは屋敷を見つめ、リゼーヌに向き直って物憂げな顔で告げる。
「私、ここにいたい」
「……分かった」
リゼーヌは一瞬目を瞬かせるも、すぐに微笑んで馬車に乗り込んだ。ヴィクトルも手を止めてスザンヌを見つめる。
「……じゃあ、行くよ」
「お兄様。どうか、ご武運を」
ヴィクトルは何か言いかけたが、スザンヌの憂いのきく寂しい目元を前に、結局口を閉ざして馬車へ乗り込む。先頭馬車、ダミアンが飛び込むように乗ってくると勢いよく扉を閉めた。
「全員、乗り込み完了です」
「よし、出発だ」
シャルルが小窓から東洋人の御者に合図を出した。やがて、馬たちが動き出して蹄の音が石畳を打つ。荷車が軋み、馬車の列が角ごと怒りを乗せて屋敷前を離れていった。スザンヌは馬車の群れが、道の向こうへ見えるまで見送っていた。屋敷前にはレオン、ヤン、イヴォンとニコラも残っている。
それぞれ胸の内で仲間たちの無事を祈りながら、去っていく馬車の群れを見つめ続けていた。
先頭を走る馬車の中は決して広くはなかった。マテオとジャスパー、シャルルとダミアンが向かい合うように座っている。しばらく沈黙が続いたあと、シャルルが顎に手を添えて言う。
「なるほど。じゃあ君はピエールの影の影として、ダラス家に使われていたと。……虐待だなあ」
ダミアンは膝の上で指先を握りしめた。
「でも、ボクには命令に従うことしか、生きる道がなかったので」
馬車が大きく揺れる。ダミアンは一瞬目を伏せてぽつりと続ける。
「けど……兄さんが皆さんを殺すって言った途端、我慢できなくなって。気づいたら無理やり捕まえて……一緒に海へ飛び込んでいました」
「……二人とも流されてたところを、アーシャ海賊団が拾ったわけか」
マテオが眉を寄せ、ダミアンはこくりと頷いた。ジャスパーは窓の外を眺めて言葉を零す。
「それにしても……あれだけ荒れ模様だったピエールが、最期は海の冷たさで呆気なく死ぬなんてな」
ダミアンの肩がぴくりと震え、ややあって俯いたままさ呟く。
「……ボクが、殺したんです。ボクが海へ飛び込まなければ、兄さんは死ななかった。だから、ボクが……」
ダミアンは自分の掌を見つめている。当然、血など付いていないが、今でも兄の腕を掴んだ感触が焼き付いて離れなかった。
「でも、君は仲間を守って生き延びた」
ダミアンが顔を上げると、シャルルは窓の外に目を向けた。曇天の向こう、細い光が僅かに雲間を裂いていた。
「海へ飛び込んでなお助かったなら、君にはまだ使命があるってことだろう。天がそう仰ってるのかも。君の使命はこの作戦のキーパーソンになることだったのかもしれない。ピエールは……罰が下っただけだ」
ダミアンは息を呑み、胸の奥で長年澱のように沈殿していた何かが揺れた気がした。馬車も石を踏んでガタンと大きく揺れ、ダミアンはシャルルを見つめながら首を傾げる。
「……それ、因果応報ってことですか?」
シャルルは目を細めてダミアンをチラ見した。
「まあ、そうとも言えるかな」
「なんだぁ、そのインガオーホーって」
ジャスパーが妙な発音で繰り返し、ダミアンは息を吐いた。
「マクシムさんが最期に教えてくれたんです。自分のやったことは、巡り巡って返ってくるって。マクシムさんも仲間から言われたことがあるらしくて」
「ほう。お前が教えたのか?」
マテオが低く呟き、シャルルに視線を向ける。
「いやぁ言葉自体は知ってるけど、隊長に教えた記憶はないなあ」
シャルルは腕を組んでなお窓の外に目を向けていた。灰色の景色が後方へ流れていく。
マクシムたちの中で東洋知識がある人間は自分とリゼーヌ。けれど、リゼーヌはあくまで天文や占星術方面の人間だ。東洋文化にも興味はあるが、知識としては一般人より少し詳しい程度。となると別の誰か。東洋文化へ強く傾倒していたのはベルナルド、あるいはマルセロ。どちらかなら、あり得る。
シャルルがそんなことを考えている間にも、ジャスパーはどこかぼんやりした顔で穴の空いた右耳に触れていた。
「へえ、そんな考え方があるんだ。本当に世界がそんな風にできてるなら、復讐なんて要らなそうだけどな。マクシミリアン、他に何か言ってた?」
ジャスパーはダミアンに顔を向け、ダミアンは少し目を伏せた。
「……自分の代わりに色々な世界を見てほしい、と言ってくれました」
ダミアンは口を噤んで窓の外に目を向けた。流れていく森景色、遠ざかっていく街、灰色の空。
「……たぶん、マクシムさんの願いを継ぐために生き延びたんでしょうね」
馬車の揺れる音だけが続き、ジャスパーは自分の耳たぶに再び触れた。
——因果応報。
聞き慣れない言葉が、なぜか妙に頭から離れない。




