第三章① ルキフェル
旧バティーユ邸。夜の空気の中、ランタンの灯りに照らされた馬車群は亡命隊のようだった。御者席にはマルクや東洋人たちの姿がある。馬具の確認、荷台の固定、水樽の点検中だ。明日の朝にでも荷物を積み込み、自分たちが乗り込めば出発できる。
一方、エントランスでは、各自が武器の最終調整を行っていた。マテオが床に腰を下ろし、フリントロック式の拳銃を次々と剣帯へ取り付けていく。一丁、二丁、三丁。ルキフェルは眉を顰めた。
「待て。銃は禁止だ」
「はぁ!?」
マテオが声を荒げ、隣にいたジョルジュも顔を上げた。
「えっ、なんでですか!?」
「隠密任務だ。音が響けば全部終わる。目立つな」
ルキフェルは即答し、マテオが不満げに舌打ちする。
「でもよぉ、近距離なら一発で——」
「だからだ。一発撃った瞬間、全員に位置が割れる」
ルキフェルは冷たく言い切った。ジョルジュとマテオが揃って口を尖らせ、渋々と拳銃を外し始めた。ルキフェルは息を吐いてエントランスの片隅へ歩き、東洋人たちが集まる場所へ向かう。床に敷物が敷かれ、剣をずらりと並べていた。細身のもの、重いもの、湾曲したもの。見慣れない東洋剣まで混ざっている。スザンヌが顎に手を当てて見下ろしていた。彼女は今回、クレマン家側の作戦へ参加する。役割は逃走経路の確保、つまり完全な非戦闘員ではない。ルキフェルは少し躊躇い、ぶっきらぼうに言う。
「……手に馴染むやつにしとけ」
スザンヌは剣を見下ろしたまま困ったように笑う。
「全部試したけど……同じ重さに思えて」
ルキフェルは床の武器を見回し、隅に置かれた一本のダガーを拾い上げる。短い、軽い、隠しやすい。ルキフェルはダガーをスザンヌに差し出した。
「ほら、これ。……自分の身くらいは守れるだろ」
スザンヌがそっとダガーを受け取った瞬間、彼女の頬がふわりと桃色に染まる。ルキフェルは眉を顰めた。何故そんな顔をする。理解できない。スザンヌは慌てて目を逸らし、上擦った声で囁く。
「う、うん……ありがとう」
ルキフェルは怪訝そうな顔をした。これ以上考えるのはやめだ、なんだか妙に居心地が悪い。
「……じゃあ、それ使っとけ」
ルキフェルは適当に目をつけたカットラスを手に取り、踵を返してエントランスのソファに腰を下ろし、カットラスの手入れを始める。砥石の擦れる音を小さく響かせ、油に濡れた布で滑らせていく。柄から鍔へ、鈍く灯りを映す刀身へ。何度も何度も、無心になろうとする。
屋敷の外ではマルクたちが馬具を確認し、東洋人たちが荷台の固定具を締め直している声が、時折夜風に乗って流れてくる。ルキフェルは刃先に視線を落とした。海賊として海を渡っていた頃なら、こんな風に陸路で国を越えるなど考えもしなかった。だが今は、海へ戻ることすらできない。
一方、外で見張りをしていたポーランの耳に、微かに蹄鉄の音が聞こえた気がした。彼が暗がりの坂道へ目を凝らした瞬間、目を見開く。夜闇を裂くように駆け上がってくる黒馬、その背に乗る細身の人影。
「あ、ヤンさん帰ってきた!」
ポーランが声を潜めながら仲間を振り返る。ヘイロンが荒々しく前脚を打ち鳴らして停止した。ヤンは馬上から飛び降りる。同僚たちへ最低限の挨拶だけを返すと即座に口を開く。
「水を飲ませてください。かなり飛ばしました」
ヘイロンは激しく鼻を鳴らして泡立つ息を吐き、汗で黒い毛並みが濡れて肩を上下させていた。同僚たちが慌てて馬を宥め始めるが、ヤンは振り返りもせず旧バティーユ邸の玄関へ向かう。普段なら必ず一度は周囲へ笑みを向ける男が、今日は違った。ヤンが扉を開けると冷えた夜気が流れ込み、近くにいたコリンが「あ」と声を漏らした。エントランスにいた全員の視線が一斉にヤンへ向くが、ヤンは眉間へ深く皺を寄せて一人の姿だけを探している。ルキフェルは布とテーブルをカットラスに置き、立ち上がるとヤンの元に歩み寄る。
「ご苦労だった」
ヤンは顔を強張らせ、目を泳がせている。ルキフェルの胸の奥が嫌な音を立て、ヤンの両肩を掴んで揺さぶった。
「おい、何があった? 隠さず言ってくれ」
ヤンは一瞬目を伏せると悲痛な面持ちでルキフェルに向き直る。
「……大元帥が、倒れました」
ランタンの火が揺れ、誰かが息を呑む音がした。ルキフェルの胸を鋭いもので貫かれるような衝撃を感じる。
「……え?」
「……心が壊れたそうです」
ヤンは袖口を握りながらルキフェルを見つめている。ルキフェルはヤンの肩を掴んでいた手を力無く話した。
「……壊れた? どういうことだ」
ヤンはトゥーロン司令部で聞いた、エリオットの様子を語り始めた。髪を掻き乱し、泣いて笑い、海を見つめ、ゼフィールやラウルの名を呼び続けていたエリオットを。聞いているうち、ルキフェルの心が波立ち騒いで落ち着かなくなる。信じられない、あの男が崩れるはずがない。だって、やっとだったのに。やっと会えた。やっと、ラウルと呼んでくれた。ダラス家を倒したら、また会うつもりだった。話したいことがあった。今度こそ、親子として。
「海軍内部では、既に人事と——」
ヤンの声が遠い。ルキフェルの脳裏にエリオットの顔が浮かび、胸の奥で何かが音を立てて崩れていった。呼吸がうまく吸えない、喉が焼けて視界が滲む。
「そんな……父さん……」
海賊としても戻れない、ラウルとして帰る場所もない。守ろうとしたものは全部壊れる。
——いや、全部自分が壊した。
「……俺のせいだ」
ルキフェルが掠れた声を漏らすと、ヤンは口を噤んだ。ルキフェルは歯を食いしばって全身を小刻みに震わせ、乱れた呼吸で踵を返してエントランスを縦断する。マテオが反射的に近寄ってきた。
「一人にしてくれ!!」
ルキフェルはマテオの手を払って声を潤ませる。皆が呆然と見送る中、ルキフェルは足を引き摺るようにエントランスから消え去った。
ルキフェルが扉を力なく押し開けた途端、夜風が吹き込んだ。涙で濡れた頬に冷気が刺さり、肌がひりつく。彼の背後ではまだ誰かが何かを言いかけていた気がするが、もう聞き取れなかった。ルキフェルは扉を開け放ったまま、ふらつく足取りで庭へ出る。湿った土を踏む音だけがやけに大きく聞こえた。夜空には雲が薄く広がって月明かりは弱く、庭木の影が地面へぼんやりと滲んでいた。ルキフェルはどこへ向かうわけでもなく、足を止めたら何かに押し潰されそうで意味もなく庭を彷徨った。が、数歩進んだところで限界が来て止まる。
「……っ、ぁ……」
喉が震えた瞬間、ルキフェルは両手で顔を覆った。嗚咽が漏れる。止まらない。肩が震え、呼吸が細かく途切れていく。視界の奥で、エリオットの顔がちらついた。
——ラウル。
あの呼び方があまりにも優しくて、あまりにも遅すぎた。
「ぅ……ぁ……」
胸が痛い、心臓が軋むように脈打っている。ルキフェルは堪えきれず膝をついた。濡れた土がズボンへ染み込むが、そんなことどうでもよかった。喉が裂けそうなほど嗚咽を漏らしながら、肩を丸めて蹲る。頭の中で何度も同じ言葉が巡っていた。
全部、自分のせいだ。自分が現れたから、自分がラウルだったから、自分がルキフェルとして動いたから。フランソワが死んだ、アランも死んだ。アントワーヌも、ベルナルドも。今度はエリオットまで壊れた。守りたかっただけなのに、どうして自分の周りはこんな風に壊れていく。涙が止まらない、呼吸をするたび喉が焼ける。夜風が冷たい、寒い、苦しい。いっそ、このまま何もかも終わってしまえばいいのに。自分が動けば誰かが傷つく、自分が進めば誰かが死ぬ。なら、もう何もしない方がいいんじゃないか。もう、誰にも関わらない方が。海へ出ない方が、戦わない方が、生きていない方が——。
そこまで考えかけた瞬間、ルキフェルは首を横に振った。
「……っ、ぁ……」
違う。違うのに。頭では分かっているのに、自己嫌悪がじわじわと全身を蝕んでいく。まるで黒い海へ沈められていくみたいだ。喉の奥がひりつき、涙と一緒に熱い息ばかりが漏れていく。指先まで冷え切っているのに、胸の奥が焼けるように痛かった。やがて嗚咽が少し落ち着くと、ルキフェルは涙で滲んだ視界のまま顔を上げる。暗い庭の向こう、木々の影に紛れるように建物の輪郭が浮かんでいた。離れを認識した瞬間、ルキフェルの中で何かがふっと緩んだ。
「……疲れた」
もう、何も考えたくない。誰の顔も見たくない、誰にも見られたくない。慰めも心配も、今は全部苦しかった。ルキフェルはふらつきながら立ち上がる。膝から力が抜けそうになるが、それでも離れへ向かって歩き始めた。あそこなら一人でいられる。外の世界と関わらなくて済む。誰も来ない、誰も自分を見ない。湿った芝生を踏み締めながら、ルキフェルはゆっくり庭を横切っていった。彼の背後では旧バティーユ邸の灯りがまだ揺れているが、今のルキフェルには遠い別世界のように感じられた。自分だけが切り離されてしまったようで。
ルキフェルが離れの前へ辿り着くと、古びた扉が夜闇の中で黒く沈んでいた。ルキフェルがゆっくりと手を伸ばすと、軋んだ音を立てながら扉が開いた。中は真っ暗だ。灯り一つない。空気は冷たく、静まり返っている。深い穴の入口みたいだが、今はその暗さが妙に心地良い。
ルキフェルが暗闇へと足を踏み入れると、外の世界との繋がりを閉ざした音が庭に響いた。




