↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第二章「よろしければ、お相手になってくれますか」
46/73

第二章③ アルフォンス

 ルキフェルたちが旧バティーユ邸で計画を練っている頃、海軍側では別の地獄が始まっていた。


 ——時はルキフェル失踪の日に遡る。


 トゥーロン司令部。消えた処刑船騒ぎの対応に追われていたアルフォンスたちは、ようやく執務室へ戻ってきた。廊下を歩く間も怒号と報告が飛び交っている。


「まだ港を封鎖しろ!」

「目撃情報は!? 監視官どもは何をしていた!!」


 混乱は収まっていなかったが、アルフォンスが執務室の扉を開けた瞬間に全て吹き飛ぶ。


「——っ」


 最初に異変へ気づいたのは、ルソーだった。彼が目を見開き、続いてイザベルが息を呑む。アルフォンスはその場で凍りついた。執務室の奥の窓際、エリオットが崩れていた。整えられていた髪は乱れ、肩は細かく痙攣し、嗚咽が止まらない。泣いているが、次の瞬間には引き攣った笑いが漏れる。


「……は、ははっ……ゼフィール……ラウル……ミレーユ……あの日……俺が、殺した……」


 エリオットの爪が自分の腕へ食い込み、アルフォンスは思わず目眩を起こしかける。エリオットの側には、ソフィーが呆然と立ち尽くしている。だが、アルフォンスにはどこか違和感があった。冴えているようにも見えた、あまりにも静かだったから。ルソーもイザベルも長年の戦友が壊れていく様を見ていることしかできない。その時、遅れて執務室へやってきたベルリオーズが中の光景を見た瞬間、真っ先に叫んで踵を返し、廊下を駆け出していく。


「医療班、医療班を呼べ!! 急げ!!」


 彼の怒鳴り声でアルフォンスは立っていられた。その後、エリオットは突然糸が切れたように崩れ落ち、医療班が駆け込んでくる。


「大元帥閣下! 担架を!」

「呼吸確認!」


 執務室が慌ただしくなり、意識を失ったエリオットは担架へ乗せられ、トゥーロン市内の医務局へ直ちに送られていった。


 その後、トゥーロン司令部は戦時下のような空気に様変わりする。五人組海賊と旧マクシム隊による、脱獄事件の大規模調査と捜索網が直ちに敷かれた。港は封鎖、検問強化、海軍施設への出入り制限。街では憲兵と監視官が駆け回っている。士官たちは徹夜で調査に追われた。翌朝には、現時点で判明している情報を纏めた調査報告書が、次々と執務室へ運び込まれてくる。さらには若い士官が新聞を抱えて飛び込んできた。


「失礼します! 市内で配布されていたものです!」


 机へ叩きつけられた新聞の見出しには、大きくこう書かれている。


 ——ルキフェル脱走劇の特集記事。


 アルフォンスが頭を抱える。


「なんでこんなに仕事が増えるんだ……」

「知らん」


 ベルリオーズが即答した。こうして、イザベルとルソー、アルフォンスとベルリオーズの四人はエリオットが使っていた執務室で延々と書類仕事へ追われる羽目になった。ソフィーはイザベルの遣いで、トゥーロン市内の医務局へ向かっている。エリオットの様子を確認するためだ。そして、ソフィーがいなくなった頃合いを見計らったように、ヤンが執務室に入室した。デスクワークが壊滅的に向いていないルソーが開始早々癇癪を起こした結果、ソフィーが「せめて気を逸らす相手でも」と半ば呆れながら呼んできたのである。


「おお、来たか!」


 ルソーは露骨に機嫌を直してヤンをソファへ案内する。


「座れ座れ!」

「はあ……」


 ヤンは苦笑しながら腰掛け、そこからまた東洋談義が始まる。


「ほう、それでその武人は山を斬ったのか!?」

「いや、比喩表現です」

「なんだ、比喩か!」

「ですが、軍を単独で突破したという話は実在します」

「それ本当に人間か?」


 アルフォンスとベルリオーズは、ルソーから押し付けられた書類の山を消化するため、無言で羽ペンを走らせている。イザベルも同じだった。執務室には紙を捲る音だけが響く。ヤンが東洋に伝わる武人たちの逸話を語り終えたところで、ルソーが豪快に笑った。


「いやあ、やっぱりお前の話は面白いな!」

「それはどうも」


 ヤンが穏やかに返すが、ルソーの顔から笑みが消える。


「そういや、オレからも面白い話があるんだ」


 ルソーは戦場で敵を射抜く時と同じ目でヤンを見据えた。


「リー・ウェンって名前、東洋じゃよくある名前なのか?」


 ルソーの脳裏に、あの日の法廷の記憶が蘇る。



 法廷が静まり返った時、東洋人の男——男装女子、ワン・ユーリン——が傍聴席から立ち上がった。


「……補足しましょう。私はリー・ウェン。こちらの船医殿ともう一人。当時、ゼフィランサス海賊団でクォーターマスターを務めていた男から、数々の証言を記録しております」

「ああ、あの情報屋の……」

「神出鬼没と聞いていたが……」


 貴族席がざわつくが、男は気にも留めずルキフェルに目を向ける。ルキフェルも無言で頷いた。



 あの時、ルソーは最初、名前が同じなだけだと思ったが、役職まで一致している。おかしい。何より、法廷で見た男と目の前のヤンが一致しない。法廷の男はもっと中性的で線が細く、どこか掴みどころがなかったが、目の前のヤンは違う。穏やかな物腰、柔らかな笑みなのに得体の知れない危険さがある。


 ——こいつ、何か隠している。


 ルソーの直感がずっと警鐘を鳴らしていた。執務室が静まり返り、イザベルは手を止めていた。アルフォンスとベルリオーズも、もう書類どころではない。ヤンはしばらくルソーを見つめていた。穏やかな笑みは崩れないが、瞳だけが細くなる。


「……同じ名前でも、同じ人間とは限りませんよ」


 東洋組織でしばしば用いられる、半ば常套句のような返答。しかし、ルソーは引かなかった。


「同じ役職でもか? もう一人もそう名乗っていたぞ」


 ヤンは舌打ちしたい衝動を堪えた。


 ——やはり、この男は侮れない。


 最近は組織ぐるみで動くことが増えている。そのせいか皆、少し気が緩んでいた。名前と役職と情報共有。本来なら、もっと慎重に切り分けるべきだった。ワンもチャンも、そして自分もリー・ウェンという看板を使いすぎていた。このままでは、いずれ綻びが出る。だが、今ここで誤魔化し切るのは難しい。ヤンは肩の力を抜いた。


「さすが、准将殿。聡いですね」


 ルソーは視線だけで続きを促し、ヤンは苦笑した。


「やれやれ。ここまで追い詰められたとあれば仕方がない。くれぐれも内密にお願いしたいのですがね……わたし達、組織で動いているのですよ。リー・ウェンは組織の名です」


 アルフォンスが目を見開き、ベルリオーズも姿勢を正した。ルソーはふうんと鼻を鳴らす。


「なるほど。東洋の情報屋集団ってわけか」

「そのようなものです」


 ヤンは曖昧に笑い、ベルリオーズは感心したように頷いた。情報屋の血筋を引く者として、こういう名前を継ぐ組織の概念には覚えがあるのだろう。そして、アルフォンスが少し遅れて額に手を当てた。額にはじっとりと汗が滲んでいる。


「……気づかなかった」


 法廷の時、自分は役目と情報量、状況整理へ向き合うことに必死で他人を見る余裕などなかった。だから同じ名前、同じ役職、微妙な違和感を何一つ拾えなかった。アルフォンスは目を伏せてため息を吐く。


 ——未熟だ。


 ルソーは腕を組んでヤンを見据えていた。


「……で、ルキフェルたちの脱獄には関与してるか。もしくは、何か情報はあるか」


 その直後、ベルリオーズが補足するように口を開く。


「准将。その方は昨日、ずっと宿泊部屋へ篭っていたと確認が取れています」


 ルソーがちらりとベルリオーズを見る。


「監視してたのか」

「最低限は。現状、海軍施設内へ出入りしている以上、当然でしょう」


 ベルリオーズは淡々と返答し、ルソーは盛大にため息を吐く。


「……それもそうか」


 ——とりあえず、命は取られないらしい。


 ヤンは胸を撫で下ろしていると、イザベルがヤンに向かって言う。


「……あの場にいたリー・ウェンだけじゃなく、組織全体がダラス家のことを共有済みなのであれば……ルキフェルたちと共に行動していたというのも本当なの?」


 ヤンの指先が膝の上で軽く重なる。


「はい。あの五人組とダラス家が過去に何を行い、今どんな罪を抱えているのか。彼らは記憶、わたし達は情報という対価を交換し合い、利害の一致のもと行動していたわけです。ダラス家は共通の敵ですから」


 ルソーが机に肘をついて苦々しく舌打ちする。


「……ダラス家。二度と聞きたくねえ名前だ。けど、あいつらが王の側にいて国の理念を掲げてる以上、オレ達はあいつらの僕だ。秘密を抱えたまま、それでも国に尽くすしかねえ」


 アルフォンスが顔を伏せた時、イザベルが小声で言う。


「……本当にそれでいいの」


 アルフォンスは思わずイザベルを見る。イザベル自身も口にしたあとで気づいて目を伏せた。執務室が静まり返り、ルソーがヤンに向けて言う。


「お前は怪しい奴だが、ジャン=バティストとソフィーの友人となっちゃ、簡単には斬り捨てられん。もう少し居てもいいが、今日を限りにここへはあまり来るな」


 ヤンはしばらくルソーを見つめていたが、やがて深々と頭を下げた。


「……ご配慮、感謝します」


 ソフィーが医務局から戻ってきた頃、執務室は再び書類の海になっていた。紙を捲る音、羽ペンの擦れる音、インク壺の蓋が触れ合う小さな音。誰も大声を出していないのに、空気は妙に重たい。アルフォンスは書類へ視線を落としていた。徹夜続きで目が痛い、それでも手は止められない。ルキフェル脱獄、監視官失踪、港封鎖、処刑船消失。次から次へと報告書が積み上がる。机の向こう側で、ルソーとヤンがまた東洋談義をしていた。


「ほう、それでその武人は崖から飛び降りたのか」

「ええ。生還したそうです」

「人間か?」

「伝承ですので」


 時折漏れる笑い声が張り詰めた空気を少しだけ和らげていた。一方、イザベルはエリオットの執務机へ座り、黙々と書類へ目を通している。表情は硬い。


 ——立て直そうとしている。


 アルフォンスには痛いほど分かった。そこへ、ソフィーが部屋へ入ってくる。


「副司令官。大元帥の様子を確認してきました」


 ソフィーの声でアルフォンスの羽ペンが一瞬止まった。イザベルは顔を上げて問いかける。


「……状態は?」

「想定より深刻です。意識はありますが、視線は定まらず……こちらを部下として認識している様子はありませんでした」


 アルフォンスは書類を見つめたまま耳を澄ませていた。紙を持つ指にじわりと力が入る。


「担当医師の見解では、長年抑え込んできた精神的負荷が限界を超えて表面化した状態だそうです」


 アルフォンスは顔を歪めて目を伏せる。


 ——やっとだったのに。


 ようやく、エリオットは過去と向き合おうとしていた。ゼフィランサス、ラウル、ミレーユ。逃げ続けてきたものを、やっと真正面から見ようとしていた。なのに、その末路がこれか。胸の奥がじくじく痛むが、今ここで感情へ呑まれるわけにはいかない。アルフォンスは再び羽ペンを走らせた。


「医師としては職務から切り離し、穏やかな環境で過ごさせるべきだと。補足ですが……今の大元帥には何をさせるかより、誰がそばにいるかの方が重要だそうです。日常の世話。無理のない会話。急な情報や責任を背負わせないこと。安心できる人間が近くにいることが、回復へ繋がると」

「……なら、私がそばにいよう」


 アルフォンスは思わず顔を上げる。イザベルは真っ直ぐ前を見ていた。言い訳も躊躇も一切ない、あれは覚悟だ。イザベルもまたエリオットと共に過去を抱えてきた人間だ。アルフォンスは書類へ視線を戻すも文字が滲んで見える。イザベルが椅子から立ち上がり、アルフォンスは反射的に羽ペンを止めた。ベルリオーズも書類から顔を上げ、ルソーは壁際から視線を向けた。ソフィーは背筋を伸ばし、部屋の隅ではヤンが音もなく様子を見守っている。イザベルは執務室を見渡して告げる。


「みんな、少し手を止めて。大元帥が公務に戻れない以上、この混乱を収める責任は、私が引き受けます」


 落ち着いた声にアルフォンスの背筋が伸びる。ああ、この人はこういう時に立てる人間なんだ。誰かへ委ねる響きは一切ない。


「これからすぐ、国王陛下へ書簡を送ります。内容は二点。ルキフェル脱走の経緯と、エリオットの現状について。同時に海軍内部の混乱を抑えるため、人事と指揮系統の整理も進めます。トップが空白のままでは、現場が先に崩れます。それは避けなければならない」


 イザベルが続けて言い、アルフォンスは即座にメモを取りはじめた。ルソーが拳を握って声を張る。


「了解だ、副司令官! オレたちは現場でも机の前でも、全部やる!」

「私もです! 書類整理でも連絡調整でも、何でも指示をください!」


 ベルリオーズが即座に声を上げ、ソフィーも一歩踏み出して言う。


「私も動きます。情報整理や各所への連絡、必要なら引き受けます」


 イザベルは一人ひとりへ視線を向けて頷く。


「ありがとう、心強いわ。では役割分担を。まずは国王陛下への書簡。その後すぐ内部体制の整理へ移ります。時間はありません。遠回りもしない」


 アルフォンスは必死に思考を回した。誰へ何を回すか、どの部署を優先するか。港に憲兵に監視官、それと補給線。考えることが多すぎる。


 ——ピィ。


 部屋の隅でヤンの横笛の音が鳴り、アルフォンスは肩を震わせた。澄んだ音色にイザベルが肩の力を抜いて息を吐く。


「……とはいえ、休憩も必要ね」


 アルフォンスも肩を落とした。自分が思っていた以上に力が入っていたらしい。ヤンは横笛を手に控えめに微笑んでいる。イザベルは皆を見渡して微笑んだ。


「短い休憩よ。その後はまた全力で行きましょう」


 ルソーは書類を抱え、ベルリオーズは連絡確認へ走り、ソフィーは机の端で資料を整理し始める。アルフォンスもまた黙々と紙を捌いていた時、イザベルがぽつりと呟く。


「……少し外の空気を吸ってくるわ」


 彼女は振り返らずやや前傾姿勢で扉に向かう。アルフォンスは彼女の背中を見送っていた。


 ——あの人も限界に近いが、それでも立ち止まらない。イザベル・ボナパルトとは、そういう人間だった。


 扉が閉まり、アルフォンスは書類整理を続けると不意に声が降ってきた。


「おい、少しは休めよ」


 アルフォンスが顔を上げると、ベルリオーズが側に立っていた。


「お前まで倒れたら、誰があの人を支えられる?」


 ベルリオーズは呆れたように眉を寄せる。アルフォンスは一瞬目を見開いた。普段は少し情けなくて、慌てることも多くて、どこか頼りない後輩なのに、こういう時だけは妙に冷静で、ちゃんと周りが見えている。アルフォンスは視線を落とした。


「……わかってる」


 イザベルとソフィーが執務室に戻ってきた頃、室内は再び仕事の空気へ戻った。今、この部屋で交わされる判断一つ一つが海軍の今後を左右する。アルフォンスの眠気はもう感覚として消えていた。疲労だけが鉛みたいに身体へ沈んでいる。


「オレの役目は変わらん、現場で部隊を率いるだけだ」


 ルソーは第一艦隊の作戦報告書を片手に持って言い切る。戦場へ立つことを恐れていない。いや、恐れていても行く覚悟を決めている声だ。


 ——この人は本当に変わらない。だからこそ、今の海軍には必要なのだろう。


 アルフォンスは書類から目を離さないまま息を吐いた。


「私は引き続き、総司令部で補佐に回ります。混乱を最小限に抑えるためにも、内部調整は任せてください」


 自分は前線へ立つ人間ではない。その代わり、崩れかけた組織を少しでも繋ぎ止める。それが自分の役目だ。ベルリオーズは今後の配置案に目を落として息を呑む。


「……情報部ですか」

「君の家系と能力を考えれば適任よ」


 イザベルの言葉にベルリオーズは目を丸くしたが、すぐに重々しく頷く。


「承知しました。できる限りの情報を集めます」


 イザベルは机に手を置き、ソフィーとベルリオーズに目を向ける。


「配置は決まった。次はどう動くかよ。二人は組んで動いてもらう。情報収集。そして、和解への足がかり作り。感情論へ流されるな。必要なのは、現実を動かす行動よ」


 アルフォンスはソフィーの横顔を見つめる。ソフィーもまた変わった。もう理想だけで動く女ではない。現実を見て傷を知って、それでも進もうとしている。執務室へ再び作業音が戻る。イザベルは指揮系統の整理へ取り掛かり、アルフォンスは膨大な書類を処理し続け、ルソーは現場配置を確認し、ベルリオーズとソフィーは情報整理へ移り、ヤンを目の前に情報を求めている。目的は「多民族集団との和解」に向けて。ヤンは横笛を机に置いて視線を落とした。


 ——エル・イエロ島。


 ヤンの脳裏に鮮やかな海の色が浮かぶ。最近、組織と共に再びあの島へ赴いたが、それは組織の機密事項だ。ここで話すべきではない。ヤンは口角を上げて言う。


「……エル・イエロ島、懐かしいですね。以前、マクシムさんと接触した時のことを思い出します」


 ソフィーはすぐメモを取り始め、ベルリオーズも身を乗り出す。ヤンは机上の地図へ視線を落とした。


「島の住民は外部との関わりに慎重です。特にフランス海軍には警戒心が強い。派閥もいくつかありました。全員が同じ考えではありません。それと、島へ向かうには隣国の許可が必須です。無断で入れば外交問題になります」

「……やっぱり、一筋縄じゃいかないか」


 ベルリオーズが苦笑し、ソフィーはメモから顔を上げる。


「ええ。でも……進まなければ何も変わらない」


 ヤンは二人を見つめて穏やかに笑う。


「慎重に行くことです。ですが、君たちならやれると思います」


 ベルリオーズとソフィーは顔を見合わせて少し苦笑する。


「……長い旅になりそうですね」


 窓から差し込む光が執務室を柔らかく照らした。険しい道だが、進むべき航路は見えている。しばらくして、ソフィーとベルリオーズが頭を下げた。


「情報提供、ありがとうございます」

「助かりました。今後の方針整理に使わせてもらいます」


 ヤンは目を細めたあと立ち上がって深く一礼した。


「では、わたしはこれで」


 執務室には絶えず紙の音が響き続けている。ヤンは執務室を出ると、足早に宿泊部屋へ戻り、扉を閉めてようやく息を吐いた。


 ——危なかったですね。


 ヤンはすぐに荷物をまとめ始めた。滞在はここまで。最低限の衣類に地図、手帳と横笛。そして、部屋の隅へ立てかけていた二振りの剣。シュアン・イン、アントワーヌの愛剣。ヤンは双剣を背負った。重いが、これはあの男の人生そのものだ。簡単に手放していいものではない。荷を整え終えると、ヤンは部屋を後にして廊下を歩いていく。もう、この場所へ足を踏み入れることはないだろう。トゥーロン司令部、そしてトゥーロン徒刑所。歩くたび、ヤンの額にじわりと汗が滲んでいた。頭から離れない。エリオットの精神崩壊、あの海軍大元帥が倒れた。ヤンは唇を薄く結ぶ。


 ——よりによって、このタイミングで。


 やがて門を抜け、馬舎へ辿り着くとヘイロンが嘶いた。


「ヘイロン」


 ヤンが名を呼ぶと、ヘイロンは主人を見つけるなり鼻を鳴らした。ヤンは素早く鞍へ跨る。向かう先は決まっていた。マルセイユ、当初の脱獄計画通りなら逃亡者たちは旧バティーユ邸へ身を潜めているはず。ヤンは手綱を強く握った。ルキフェルに伝えなければならないが、エリオットの件を聞いて彼がどうなるのか。ヤンにはなんとなく想像がついてしまっていた。


「……急ぎますよ」


 ヘイロンが地を蹴り、トゥーロンの街を駆け抜けていく。


 ——これがルキフェル脱獄当日から翌日にかけて、海軍側で起きていた出来事である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。