第二章② 旧バティーユ邸での一日
翌日、旧バティーユ邸の応接間はすでに半ば物置と化していた。
「だから、潜入側は最低限に絞るべきなんだよ。人数が増えれば、その分だけ見つかる危険も増える」
シャルルが机に地図を広げながら言う。向かい側で、ルキフェルが腕を組んだまま思案していた。彼の隣にはニールもいる。
「夢蛇側と証拠回収側で人員を分けるにしても……」
ニールが呟いたところで、彼の背後をドタドタと複数人の足音が通り抜けていった。
「そこ置いといてー!」
「おい、それ落とすな!」
リー・ウェンの組織の者たちが、次々と屋敷へ出入りしている。どうやら船内へ置きっぱなしにしていた、重要書類や貴重品を運び込んでいるらしい。木箱、巻物、書類束、奇妙な金属器具、用途不明の瓶が次々と応接間の隅へ積み上がっていく。
「……おい、邪魔だぞ」
マテオが呆れたように言うが、東洋人たちは気にしない。
「すぐ終わる!」
「終わらない気がするんだけど」
コリンがぼそりと呟いた時、ワンが小さな木箱を抱えて蓋を開き、中身を確認する。透明な注射器の中で妖しく揺れる液体、残る二本の天眼滴だ。ワンは薬棚へ歩み寄ると、慣れた手つきで勝手に奥へ保管する。
「……それ、そんな雑に扱っていいやつ?」
ニールが若干引いた顔をする。
「厳重には扱ってる。君たちの感覚がおかしいだけだ」
「いや絶対違いますよね」
ワンは真顔で言い、シャルルが即座に返す。そんな騒がしさの中、部屋の隅へどんどん追いやられていたダミアンの元へ、チャンが近づいて肩に掛けていた鞄を放り渡す。
「ほら、君の荷物。ずっと放ったらかしにしてたやつ」
ダミアンは慌てて受け取った。
「あ……」
「なんか重厚な本も入ってたけど、書物関係は大切にしなよ〜」
チャンがそういうと、また次の荷物を迎えに応接間を出ていった。ダミアンは肩掛け鞄を見つめ、テーブルに置いて中を漁る。まず出てきたのはシトリンの指輪、ピエールが所有していたものだ。そして、簡素な装丁の本。東洋の予言の原典、核心部分と詳細を古代文字で複写したもの。ダミアンは顔を上げた。
……そういえば。
以前、ドミニクと共にマルセイユへ来た理由。この本の内容を解読し、予言の正体を明らかにするためだった。その後、次々と事態が転がり落ちていき、気づけばずっと忘れていた。ダミアンは本の表紙を撫でる。
——もう、影として兄の後ろを歩かなくていい。
ダミアンは鞄を抱え直し、指輪と本をテーブルへ置きっぱなしにして応接間を後にした。
二階の客室。ジャスパーはアニータと向かい合って座っていた。先ほどまで彼は過去を話していた。ベルナルドを殺した張本人が、アントワーヌであること。そこへ至るまでの五人組とフランソワと、ベルナルドとの交流。そして、ベルナルドが最期に何を見ていたのかを。語り終えたあと、ジャスパーは息を吐いた。
「……おれたちは何もできず、ベルナルドを死なせた」
アニータはずっと窓の外を見て、ジャスパーは拳を膝の上で握った。
「当時はマクシミリアンを赦せなかった。なんでベルナルドを殺したのか、分からなかったから。けど今なら分かる。あんたらの隊長は……大元帥への復讐っていう大きな秘密を抱えていた。ベルナルドは知っていたんじゃないか」
窓の外、マルセイユの街並みが広がっている。だが、アニータはきっと違う景色を見ていた。もっと遠く、戻れない過去を。ジャスパーは頭を下げた。
「……助けられなくて悪かった」
アニータは窓辺に置いた指先を握りしめ、首を横に振った。
「……ベルナルドは隊長の復讐を望んでなかった。そうかもしれないわね。ずっと海賊に殺されたと思っていた。……いいえ。そう思いたかった、の間違いなのかも」
ジャスパーが思わず顔を上げ、アニータは彼を振り返って呟く。
「隊長の話をする時だけ、いつも悲しそうだった。隊長の中にある何かを止めようとして、サン・マロへ向かった。——ベルナルドが日記に書いていたわ」
彼女は記録の断片を一つずつ掬い上げるように、何度も読み返して心へ刻んだ覚えた言葉を紡ぎ始める。
「一五二二期生による夏期航海実習 乗船記録/ベルナルド・シルバ」
風が狂っていた。帆が裂けて舵も利かず、天蓋は鉛色に沈んで世界のどこにも出口がなかった。
例年の航海実習は、春の沿岸訓練。穏やかな航海だったはずが……この七月初旬、我々の乗った実習艦《マルタン号》は突如発生した嵐に巻き込まれ、航路を外れて通信を絶った。風速は想定を遥かに上回り、測深も不能。教官は死亡し、指揮権が宙に浮いた。
艦の全権を握ったのは一人の士官候補生、マクシミリアン・ブーケだ。
彼は何も語らなかったが、命令には誰もが従った。強さでも理屈でもない、ただ彼が率先していたから。操帆索のもつれを解き、浸水の進む艦底を這い回り、負傷者を引き上げ、羅針盤の代わりに星の欠片すら探していた。夜明けを越えて二昼夜にわたる漂流の末、我々はついに「セルティック・シェルフ」の外縁へ流れついた。
そのとき、艦底に亀裂が走った。浮力を保つためには、隔壁を閉じるしかなかった。彼は決断して隔壁を閉じた。そこに数名の仲間が取り残されていたと知りながら。その瞬間、我々は生還して彼は沈んだ。生還者の中に彼を責める者はいなかった。責める言葉すら口にする余裕がなかったのかもしれないが、彼の決断がなければ艦は沈んでいたと理解している。彼が誰よりも先にその重さを引き受けていたことも。
救助された港で彼は何も語らず、ただ一人海を見ていた。風もなく、波も穏やかな昼だった。あれほどの嵐があったことすら嘘のようだったが……あの日以降、彼の目は変わった。冷静さはそのままに、何かが凍りついたようだった。上層部はじめ誰もが彼を讃える。勇敢な判断、若き指揮者、未来の逸材。だが、そんな言葉が彼に届くはずもない。
俺は書いておく。
彼が犠牲にしたものは命ではない。選択だ、全員を救おうとする選択肢を手放した。だが、彼が人を救えることも知っている。たとえ俺の声が届かなくても、誰かがいつか彼を止めてくれると信じている。命を救うことを選んだ彼が、また生かす未来を選べることを願っている。
アニータが語り終えると部屋に静寂が落ちた。ジャスパーは瞬きをした後、笑みを浮かべて言う。
「よく覚えてるね。おれ、一行たりとも覚えられないのに」
アニータは涙を堪えたまま微笑んだ。
「……好きな人が書いた文字だもの。目に焼き付けたいじゃない」
アニータは窓の向こうを見つめて続ける。
「今でも苦しい。ベルナルドの願いを、ルキフェルが命懸けで叶えたって気づいて……どう気持ちを整理すればいいのか分からない。あれだけ憎んでいた海賊が、ベルナルドの願いを継いでいたから」
ジャスパーは首を横に振った。
「……たしかに。ルキフェルは結果的に、ベルナルドの願いを叶えたかもしれない。けど、あいつは継いだ覚えないよ。あんたらの隊長を止めるのに命懸けだっただけだ」
アニータが弾かれたように振り向き、ジャスパーは彼女を見つめながら淡々と言う。
「失った悲しみも、憎しみも、感謝も。どれも本物なんだろう。けど、全部抱えたまま前を向きたいように見える。……何かを怖がってるんだな」
アニータは口を噤んでいると、ジャスパーは控えめに笑った。
「まあ、無理に整理する必要もないと思う。だって、全部本物じゃん。全部、存在してるんだろ。揺れたままでも、いいと思う。——あいつも揺れたまま進んでいた」
ジャスパーは立ち上がって扉へ向かう途中、背後からアニータの声が届いた。
「……話してくれて、ありがとう」
ジャスパーは不意に足を止めたが、再び歩き出して部屋を後にした。
一方、応接間ではまだ細かな調整が続いている。
「潜入側は結局、ダミアン含めて六人か」
シャルルがメモへ羽根ペンを走らせ、ルキフェルは腕を組んだまま頷いた。
「ああ。多すぎても動きづらい」
「必要なものはあるか」
ワンが尋ねるとルキフェルは少し考えてから伝える。
「鉤縄とピッキング道具をいくつか。あと武器、全員分」
「分かった。今日中に揃える」
「助かる」
ワンは席を立つと東洋人たちの輪へ戻っていった。彼女の後ろ姿を見送っていたルキフェルだったが、不意に玄関側から騒がしい声が聞こえて顔を顰める。
「いやだから! 高いって!」
「これでもだいぶ譲歩してんだぞ!」
「馬車一台でこの値段はぼったくりだって!」
ティエンはまた街へ繰り出していたらしい。数分後、疲れた顔のティエンが応接間へ戻ってきた。
「……はあ。終わったぁ」
ティエンがソファへ倒れ込むと、ヴィクトルが呆れたように眉を顰める。
「また金をばら撒いてきたのか」
「必要経費だよ、必要経費」
ティエンはぐったりしたまま片手を振る。
「馬車をいくつか押さえた。これなら犯罪者でも内陸を歩かず移動できる」
シャルルが感心したように口笛を吹く。
「仕事が早いですね」
「まあねぇ」
ティエンは得意げに笑うとヴィクトルが深いため息を吐いた。
「まったく、お前も少しはブルボン本家の——」
その瞬間、ティエンが凄まじい勢いでヴィクトルの口を塞いだ。
「うおっ!?」
ヴィクトルが目を見開くも、ティエンは引き攣った笑顔で汗を流している。
「ハハハハハ!! いやぁ!! モテる男も大変でさぁ!!」
ティエンがヴィクトルの口を押さえたまま無理やり笑う。ルキフェルは首を傾げた。
「……?」
意味分からないが、ティエンが妙に必死なので深く聞かない方がいい気がした。
「……まあ、いいけど」
ルキフェルは興味を失ったように踵を返し、再び机へ向かっていった。
「お前、離せ!」
「シーッ!! シーッ!!」
ティエンとヴィクトルは小声でもみ合っている。ルキフェルは椅子に腰掛けると紙へ視線を落とし、羽根ペンを手に取った。
「ダミアンは屋敷構造の把握。ジャスパーは潜入と索敵。マテオは制圧役」
ルキフェルは独り言のように呟きながら、次々と紙へ書き込んでいく。筆致は異様に速かった。かつてフランソワ海賊団でクォーターマスターを務めていた頃の癖だろう。人員、武器、役割、動線、逃走経路頭の中で組み上げながら、各々の得意分野と欠点を紙へ落とし込んでいく。
「ニールは後方支援向き……いや、待て」
ルキフェルは手を止めて目を伏せた。ドミニクに関する記憶、あの日のこと。ニールの怯えた表情が脳裏を掠める。
「……無理はさせない方がいい」
ルキフェルは「クレマン家侵入作戦」の欄にニールの名前を書いた。彼がまた別の欄へ視線を落とした時、優しい声と共に机に紅茶が置かれる。
「はい」
「ありがとう」
ルキフェルはカップに口をつけた。温かい、ほっと息が抜ける。運んできた人物に目を向けた瞬間、ルキフェルは目を見張った。
「——っ!?」
スザンヌがニコニコと見下ろしている。ルキフェルの手元がブレてカップが傾き、慌てて戻したものの唇と舌へ熱湯が直撃した。
「熱っ!?」
「え、あ、ごめんなさい!!」
スザンヌが慌てて身を乗り出し、ルキフェルは咳き込みながら口元を押さえる。
「げほっ……!」
「え、火傷した!?」
「いや、大丈夫」
「絶対大丈夫じゃないでしょ!?」
「大丈夫だから」
ルキフェルが口元を隠して目を逸らすと、スザンヌはおろおろしながら覗き込む。
「水持ってくる?」
「いらない」
「いやでも——」
「大丈夫」
ルキフェルの耳がほんのり赤い。応接間の隅で、ヴィクトルが眉間に深い皺を寄せて腕を組んでいる。彼の周辺だけ空気が重いが、当のルキフェルは珍しく気づいていない。
一方、ニールは近くで書類整理をしている。眩しそうに目を細めて見つめたあと、目を伏せて再び書類に視線を戻した。
こうして、準備は粛々と進んでいく。夜になれば、応接間へ全員が集められた。メンバー発表はニールが担当、シャルルが地図と書類を広げて作戦概要を説明する。
「こちらがダラス家侵入組。そしてこちらがクレマン家侵入組です。各自、自分の役割を改めて確認してください。失敗すれば全員まとめて終わります」
すでに計画は最終段階へ入っていた。あとは馬車移動中の食料や休憩地点の確認、細かな逃走経路の再調整が残っている。ルキフェルはダラス家侵入作戦へ同行することになっていた。
クレマン家側の参謀はシャルル。ニールにはクレマン家側の現場指揮を任せることにした。だからこそ、ダラス家側の現場指揮はルキフェル自身が取る。
各班の話し合いは深夜まで続き、最後にはルキフェルの一言でようやく解散となった。皆、頭を冷やすように部屋を後にしていく。
翌朝、妙に穏やかな空気が流れていた。食堂では皆が呑気に朝食を食べている。パンを齧る者、スープを啜る者、眠そうに机へ突っ伏している者。今日を越えれば、いよいよ実行段階へ入る。朝食後、ルキフェルが木剣を肩に担いで庭に出ると、先に待っていたマテオが肩を回していた。ルキフェルは彼の背に向かって声をかける。
「久々だな。最近ずっとバタバタしてたから」
「手加減しろよ」
「無理」
「だろーな」
次の瞬間、木剣同士が激突して乾いた音が庭に響く。互いに一切躊躇がない。踏み込み、回避、斬撃、体術。数分後には勝負がついていた。
「くっそ……!」
マテオが息を切らしながら木剣を地面に突き立てる。ルキフェルは汗を流しつつも笑みを浮かべていた。マテオが不貞腐れたように言う。
「やっぱ、銃が一番だな。銃だったらお前より強い」
「否定はしない」
ルキフェルが真顔で頷いて辺りを見回すと、いつの間にか見物人が増えていた。
「おお……」
ジョルジュにシャルルにサミュエル。それから、ニールとコリンまでいる。
「今の動き、どうなってたんです?」
「足運びだ。踏み込みの瞬間に重心を——」
ジョルジュが興奮気味に聞き、ルキフェルが答える。そこから、何故か男連中による戦闘談義が始まった。
「いや、実戦だと間合いの読みが重要で」
「銃は初動が全てだから」
「体格差を覆すなら重心移動を——」
「結局、ルキフェルがおかしいって話では?」
「まあ、それはそう」
シャルルが冷静に結論づけるとニールが頷く。
ルキフェルは眉間に皺を寄せて唇を尖らせた。すると、ペネロペが庭に勢いよく飛び出しロザリーとリゼーヌまで木剣を持って現れる。
「あたしもやりたーい!」
「少し身体を動かしたかったの」
「私も興味あります!」
一気に庭が騒がしくなる中、ジャスパーは少し離れた花壇の段差へ腰掛けて、足を投げ出して皆をぼんやり眺めている。コリンがルキフェルの隣に腰掛けながら切り出す。
「マクシミリアン隊って女性陣も強いよね。あの嵐の日とか、背が高い女の人がなんか強かった」
「ああ、リラさんだ。リラさんは単独でも強いんですけど、ダヴィットさんと組ませるともっと強いんです」
「二人は血の繋がってない姉弟だったんだよ」
ジョルジュがすぐ反応し、シャルルが海賊たちを見ながら補足する。
「へえー」
コリンが素直に目を丸くした時、マテオがふとリゼーヌを見た。
「……嵐の日といえば、このちんちくりんを見た覚えがないな」
リゼーヌが鋭い目つきでマテオを見上げて食いつく。
「ちんちくりん!? 誰がちんちくりんですか!!」
「お前以外に誰がいる」
「ありますー! ちゃんとありますー!」
「何が」
「身長が!!」
「誤差だろ」
「むきーっ!!」
サミュエルが腕を組みながら口を開く。
「ああ。そういや、リゼーヌはまだ加入していなかったな。てっきり、もういたものだと思っていた」
リゼーヌは不満げに頬を膨らませた。
「まだトゥーロン司令部で、星の専門家呼ばわりされてました」
ロザリーがくすりと笑ってリゼーヌの肩に手を置いた。
「でも、剣はちゃんと強いのよ。私仕込みの『コツ』も、ササッと伝授したし」
「君のは不意打ちと小細工だろう」
シャルルが涼しげに言うと、ロザリーの拳が彼の脇腹へ綺麗にめり込んだ。
「うぐっ!!」
「今のが不意打ちよ」
「暴力だろ……!」
シャルルが蹲ったまま呻き、ペネロペが笑いながら海賊たちを見る。
「そうそう。リゼーヌ、強いから」
「へえ」
ニールが立ち上がってリゼーヌの前まで歩み寄ると、右足を斜め後ろに引き、右手を胸に当てた。
「よろしければ、お相手になってくれますか」
ニールが上体を軽く傾けて左手を水平に差し出し、爽やかに笑う。リゼーヌはぽかんとするも、目つきをギラつかせて勢いよく木剣を構える。
「やります!!」
「……こいつ、大丈夫か?」
「煽り耐性ゼロだな」
ルキフェルがぼそっと言い、マテオが苦笑する。一方、旧マクシム隊は妙にニコニコしていた。やがて二人は向かい合う。ニールが剣を構え、リゼーヌも応じて木剣同士が打ち合う。お互いに西洋剣術だ。踏み込み、受け流し、刺突、間合い管理と流れるように応酬が続く。
「おお……」
「普通に互角だ」
ジョルジュとサミュエルが感嘆している。ニールは技巧派、対するリゼーヌは軽快さと反応速度が異様。リゼーヌが急に体勢を崩したように見え、ニールの意識が一瞬逸れると足払いを食らった。
「うわっ!?」
ニールがバランスを崩して地面に倒れ、リゼーヌの木剣が彼の喉元を突きつけた。
「どうですか!」
ニールはリゼーヌの得意げな顔に数秒呆然し、体の力を抜いて苦笑する。
「……参りました」
「やったぁ!!」
リゼーヌが飛び跳ね、ロザリーが満足げに頷く。
「だから言ったでしょう? コツだって」
「絶対違うだろ、それ……」
シャルルがまだ脇腹を押さえながら呻いていた。ニールはむくりと上半身を起こすと、リゼーヌがすっと手を差し出す。
「はい」
「ありがとう」
ニールは少し目を瞬かせて彼女の手を取り、勢いよく立ち上がるとリゼーヌが反射的に声を漏らした。
「……あ」
「え」
思った以上に距離が近かった。ほとんど密着に近い。すぐ目の前にニールの顔がある。思ったより背が高い、思ったより近い。そして、思ったより顔が良かった。リゼーヌの頬が一気に熱くなる。
「っ、あ……」
ニールも今更状況を理解してすぐ手を離し、二人同時に飛び退く。
「す、すみません!」
「いや、こちらこそ!」
「わ、私、今ちょっと引っ張りすぎ——」
「違う、僕が勢いよく立ったせいで——」
「いやでも!」
「本当に申し訳ない!」
二人揃って赤面しながら謝り倒している。ジャスパーは堪えきれず、ケラケラ笑い始めた。
「ふっ、ははっ……!」
他の連中は誰一人として気づいていない。別の話題で盛り上がっていたから。
「そういや、マクシミリアン隊で一番強かったの誰だ」
ルキフェルが木剣を肩に担ぎながら聞いた瞬間、元海軍組がほぼ同時に答えた。
「グウェナエルさん」
満場一致にルキフェルが少し目を細める。
「……そんなにか」
「ああ。剣術も強かったが、それ以上に戦闘を見る目が異常だった」
サミュエルが真っ先に頷き、ジョルジュも続く。
「隊長が前線に出る前に、もうグウェナエルさんが危険察知してたこと多かったです」
「夜目も異常だったしね。暗闇の海戦なんて、彼がいるだけで安心感が違った」
シャルルが肩を竦め、ロザリーもこくりと頷く。
「……敵の動きだけじゃない。味方の動きも見えていたわ。だから連携が崩れなかった」
「……二番は?」
ルキフェルがぽつりと聞くと、今度は少し意見が割れかけたが、最終的にまた同じ名前へ落ち着いた。
「マクシム隊長。元々強かったけど……双剣になってから、もっと威力が増した」
ペネロペが答え、ジョルジュが何度も頷きながら言う。
「隊長は元々片手剣だったんですけど、あの時期から戦い方変わったんですよ」
「攻撃範囲と速度が噛み合い始めたんだ。あと迷いが減った」
シャルルが分析するように言った後、ルキフェルは目を伏せた。
「それにしても、あの時のグウェナエルさんの動きマジでおかしかったですって!」
「だから言っただろう。グウェンは勘が異常なんだ」
「勘というより、もはや野生では?」
「サミュエル、それ本人に聞かれたら怒られるわよ」
彼らやり取りを聞き流しながら、ルキフェルは別のことを考えていた。
——シュアン・イン。
アントワーヌの二振りの愛剣、今はヤンへ預けている。ちゃんと手入れされているだろうか。ヤンのことだ、雑には扱っていないだろうが。
ルキフェルはぼんやり空を見上げた。春の陽射しが眩しい、耐えきれず視線を戻すと仲間たちが好き勝手に戦闘談義をしていた。木剣を振り回す者、笑っている者、誰かへ技を説明している者。
ルキフェルは俯瞰するように眺めていたが、スザンヌの姿がないことに今更気づいた。アニータについては聞いている。元々、後方支援寄り。戦闘へ積極的に参加するタイプではない、とシャルルが言っていた。だが、スザンヌは違う。戦闘員だったはずだ。ルキフェルは何でもない風を装いながら、草地へ座り込んでいるペネロペに声をかける。
「……そういや。スザンヌは、こういうの参加しない人間なのか。姿が見えないが」
ルキフェルは庭を見回すような振りをし、ペネロペが顔を上げる。
「あー、スザンヌね。いやぁ、スザンヌも強いんだけど……なんか本人、剣術にあんまり自信ないみたい」
「……へえ」
「『自分は剣よりペンの方が強い』って、頻りに言うようになったし」
ルキフェルは少し目を細めた。
——相変わらずな女。らしいけど。
剣ではなく言葉を選ぶ。戦うより、書くことを選ぶ。そういうところは、最初に出会った頃から何も変わっていない気がした。ルキフェルは再び遠くへ視線を向ける。庭ではまだ笑い声が続いていた。




