第二章① ルキフェル
旧バティーユ邸はすっかり寝静まっていた。廊下には蝋燭の淡い灯りが揺れている。
ルキフェルはエントランスを一人、落ち着きなく歩き回り、時折玄関扉へ視線を向けた。
——まだ来ない。
その時、一階側の廊下からパタパタと軽い足音が聞こえてくる。ルキフェルが顔を上げると、入浴上がりらしいスザンヌとアニータがいた。二人とも髪が少し濡れている。石鹸の匂いと仄かな花の香りがふわりと漂ってきた。ルキフェルの思考が一瞬止まる。
「ルキフェル? どうしたの」
スザンヌが瞬きをして近づいてくる。まずい。妙に目のやり場に困る。しかも香りが近い。やめろ。近い。ルキフェルは反射的にぶっきらぼうになる。
「べ、別に」
「本当に?」
スザンヌが首を傾げて一歩近づき、ルキフェルは目を泳がせた。
——どうすりゃいいんだこれ。
すると、ルキフェルはぞわりと妙な視線を感じて反射的に顔を上げる。少し離れた場所で、アニータが腕を組みながら遠巻きに見ていた。さらにルキフェルの背後からもう一つ、別の気配。振り返らなくても分かる。たぶん、妹へ近寄る不審男を見る目をしたヴィクトルだ。腹立たしさと憎々しさが混ざったような圧を、ルキフェルの背中に突き刺してきている。
——うわ、面倒くせえ……。
ルキフェルは心底嫌そうに顔を顰め、スザンヌから目を逸らして冷たく言い放つ。
「だから、何でもねえよ。早く寝ろ」
スザンヌがぴたりと足を止め、瞼に深い哀愁がこもった。ルキフェルは思わずギクリとする。アニータが溜息を吐いてスザンヌの肩を軽く押した。
「ほら、行くわよ」
「……おやすみ、ルキフェル」
スザンヌは眉を八の字にして笑いかけ、アニータと階段を上がっていった。それと同時に別階段側から重たい足音が聞こえてくる。ヴィクトルは監視を終えて自室へ戻るらしい。ルキフェルは盛大に顔を顰めた。
「マジで怠いな、あの兄貴……」
静まり返ったエントランスに、控えめなノック音が響いた。ルキフェルの肩が揺れる。来た。彼はゆっくり玄関扉へ歩み寄り、深く息を吐いてから扉を開けた。夜風が吹き込み、ランタンを掲げたディッキーとカルロータが現れた。
「久しぶりです」
ディッキーが軽く片手を上げ、カルロータも会釈した。二人の背後から一人の男が姿を現す。
トルチュ島の長老。相変わらず、三十代半ばほどにしか見えない。浅黒く、太陽と潮風に焼けた褐色の肌。整った顔立ちだが、笑みのない目元が妙に若さを感じさせなかった。カリブの血を感じさせる風貌、野外育ちの精悍さがある。琥珀色の目は相変わらず鋭く、どこか野生の獣じみた光を宿していた。
暗褐色の髪も艶があり、後ろで一つに束ねられている。引き締まった体格。鍛え抜かれていることは、外套や生成りの麻シャツ越しでも分かった。喉元では、いつものように羅針盤の欠片や何かの牙がジャラリと小さく音を立てて揺れている。
ルキフェルは何か違和感を覚えて長老の左腕に目を向ける。長衣の左袖、いつも巻かれていた銀糸の腕章——トルチュ島の秩序を預かる者の印がない。それだけでなく、あの妙な煙吐き棒——煙管も持っていなかった。当然だ。トルチュ島という海賊の楽園から来たと知られれば、この国では命がない。つまり、この男もまた命懸けで海を渡ってきた。ルキフェルはそんな事実を噛み締めていた。
一方、長老は目の前のルキフェルを無言で見つめ、低く落ち着いた声を夜気に溶かす。
「久しぶりだな、ルキフェルの坊や」
「……ご無沙汰しています」
ルキフェルは一礼すると長老が頷く。ディッキーとカルロータは妙に気まずそうな顔をしていた。どうやら二人もこの訪問の意味を何となく察しているらしい。ルキフェルは扉を大きく開ける。
「場所を移しましょう。俺たちの部屋に案内します」
長老は何も言わずルキフェルの後へ続き、ディッキーとカルロータも黙ってついていった。四人はエントランスを横切って二階へ向かう。蝋燭の灯りが揺れる中、ルキフェルは前を歩きながら無意識に拳を握っていた。五人組の部屋へ辿り着くなり、ルキフェルが長老を先に通すと室内で待機していたニールが素早く椅子を引き、丁寧に揃えた指先で促す。
「どうぞ」
ニールが後退すると壁に背をつけ、マテオとジャスパーも壁際へ下がる。窓辺へ座っていたコリンもひょいと飛び降り、四人は壁際へ固まった。長老は用意された椅子に腰掛ける。ルキフェルも近くにあった椅子を引き寄せ、長老と向かい合うよう配置して腰を下ろした。カルロータとディッキーは扉付近で落ち着きなく立っている。室内にしばし沈黙が落ち、不意に長老がふっと笑って低い声を響かせる。
「……外の世界も悪くない」
ルキフェルが呆気に取られて目を瞬かせた。長老は膝の上で肘を置き、頬杖をついて目を細める。
「生まれてこの方、カリブを離れたことがなかった。バッカニアの血を引くくせに、帆船へ揺られたこともなかった。あれは実にスリリングだな。お前たちは、あれにいつも翻弄されながら暮らしていたのか」
ジャスパーが壁際で肩を竦める。
「まあ、慣れるとそうでもないっすよ」
「嘘つけ。嵐の日とか毎回地獄だろ」
「それはそう」
マテオが即座に返し、コリンもこくりと頷いた。長老は窓の向こう、夜のマルセイユを見やる。
「アゾレスで補給をしたあと、ゼフィランサスの故郷だという島にも立ち寄った。トルチュ島やポート・ロイヤルとは、また違う地形で興味深い。それとこの街、フランス。目に入るもの、聴くもの……全てが俺にとって新鮮だ」
長老の横顔を見ながら、ルキフェルは妙な違和感を覚えていた。
——今まで一度も自分の世界を持てなかった人間みたいだ。
海賊の楽園、秩序を預かる長老、絶対的な存在。そう思っていた男が今だけは只の人に見えた。長老は姿勢を正してルキフェルを見据え、ルキフェルは黙って長老を見つめ返した。
「さて……約束の件だったな。後ろの二人から事情は聞いた」
長老は扉側に立つディッキーとカルロータに視線を向ける。カルロータが気まずそうに目を逸らし、ディッキーも珍しく口を閉ざしている。長老の瞳がルキフェルに向く。
「お前が二人に伝言を託した段階で胸騒ぎはしていた。まさか……海軍大元帥が父だったとは」
ルキフェルは唇を噛んで目を伏せると、長老はふっと小さく笑う。
「ま、ゼフィランサスやフランソワがお前の過去へ関わっている時点で、ただ者じゃないとは思っていたさ」
ルキフェルは長老に目を向けて息を潜めるように訊く。
「……嫌になりませんか、俺のこと。海軍の……国家側の血を引いているんですよ」
壁際にいた四人の表情が揺れるが、長老は呆れたように鼻で笑って頬杖をつき直す。
「誰の血を引いていて、誰が育てたかなんぞ……今更知ったところでお前の見え方は変わらん。——お前らは海の上を漂う野良犬」
室内がしーんと静まり返った。ルキフェルが固唾を呑んで見つめていると、長老は盛大にため息を吐いて言う。
「ただ、部下や他の連中は感心しなかったな。内密だってのに、誰が告げ口しやがったのか」
ディッキーとカルロータが同時に顔を顰めた。ルキフェルは一瞬二人に気を取られそうになるも、長老の語りの続きに耳を傾ける。
「ポート・ロイヤルへ赴いて、他の管理人たちと緊急会議になったくらいだ。お前ら五人組の噂は、トルチュ島にもポート・ロイヤルにも届いていた。その一人が海軍の血を引いていると知れば……一族としては看過できない、と。……所詮、俺たちは血に縛られた人間だ」
長老はルキフェルを見据えたまま言った瞬間、ニールが拳を握る。ジャスパーは壁に寄りかかり、コリンが不安そうに視線を泳がせていた。ルキフェルは静かに長老を見つめて口を開く。
「……その会議、どうなったんですか」
長老はしばらく黙っていたが、琥珀色の瞳がギラリと光ってルキフェルを見据えた。
「——結論、お前は海賊社会から追放だ。俺たち管理人は、中立であること。そして、島へ争いを持ち込ませないこと。それが一族の使命だ。海軍の血を引くお前を島へ迎え入れれば、お前の存在そのものが海賊たちとの争いの火種になる。過激な連中は、『島へ立ち寄ったら抹殺しろ』と声高に叫んでいた」
「は……?」
マテオの顔から血の気が引いて声を漏らしたが、長老は淡々と続ける。
「手遅れになる前に。何より、お前がまた海へ繰り出す前にここへ来た」
ルキフェルの全身が鉛のように重くなった。理解はしていた。頭ではずっと前から分かっていたが、実際に言葉として突き付けられると違う。
「俺は、もう海賊にすらなれないのか」
海と船が自分の居場所だった。国家にも陸にも居場所なんてなかった。なのに、その最後の場所すら失った。ルキフェルは俯き、膝の上で拳を震わせた。長老はそんな彼を見つめて低く告げる。
「もう海賊社会に戻るな。逃げろ、海へ戻れば殺されるぞ」
ルキフェルの胸に空いた風穴を冷たいものが抜けていく。追い出される、まるで自分という存在そのものを否定されたみたいだ。その時、低い声が沈黙を切り裂く。
「ちょっと待てよ」
マテオが壁際から離れて長老を睨みつけている。ジャスパーが「おい」と制止しようとしたが、もう遅い。マテオの目には明確な怒気が宿っていた。
「いつから海賊は血筋社会になったんだ?」
長老は黙ってマテオを見ていた。マテオは拳を握り締め、声に少しずつ熱を帯びていく。
「海賊って居場所がない奴らの集まりだろ。血筋じゃなく、契約で結ばれる仲だ。こいつも、その一人だったはず」
マテオがルキフェルを指差して声を荒げる。
「誰も共感者はいなかったのか? なんで追放になる」
「マテオ」
ジャスパーが低く呼ぶもマテオの耳には入っていない。長老は息を吐いた。
「……その追われた奴らの中には、海軍や国のせいで人生を潰された者もいる。そんな奴らがルキフェルを見たらどうなる? 怨みを買われるだけだ」
マテオの顔の底に憤りを湛えるも、長老は平坦な口調で言い切った。ルキフェルは驚愕で喘ぐような呼吸になる。
——ルキフェルとして生きるだけで、復讐される側になるのか。
血、名前、父親。どこへ逃げても付き纏ってくる。やり場のない憤りが胸の奥で軋んだ。一方、マテオはまだ引かず歯を食いしばって睨みつけている。
「だからって——」
「マテオ、もういい」
ルキフェルが鋭い語気で言い放ち、マテオは思わず口を噤んだ。ルキフェルはゆっくり顔を上げる。翡翠の瞳には疲労とどうしようもない諦めが滲んでいた。
「この人に八つ当たりするな」
ルキフェルの顔を見た瞬間、マテオは歯を食いしばって顔を逸らした。
「……クソが」
マテオは吐き捨てるように呟くと、壁に背中を打ち付けるように寄りかかった。長老はしばらく黙ってルキフェルを見つめて口を開く。
「今後、どうするんだ」
「……やることがあるから、フランスにいる」
「そうか」
ルキフェルは目を伏せて答え、長老は椅子に深く座り直した。
「実は……アーシャ・ストームブレードとかいう小娘海賊船の他に、帆船がもう一隻ある」
カルロータが「小娘って言わないであげて」と小声で不満そうに呟いたが、長老は無視した。
「ネーデルラント船団に見えるよう、偽装してあるものだ。それと金も積んである。金塊や宝石の類だがな。換金すれば、しばらくは逃亡生活にも困らん」
「……なぜ、そんなものを?」
ルキフェルの問いに長老は笑って指を一本、二本と立てていく。
「トルチュ島滞在に関する掟。その一、武器の持ち込みは自由。ただし、抜けば殺し合いになる覚悟が必要だ。その二、島内での死者は管理人の管轄。どんな理由があれど、報復戦は全面禁止」
長老は三本目の指を立てて声を落とす。
「その三、金さえ払えば整備と治療。そして、逃亡支援と何でも受けられる。腕の良し悪しは運次第。……俺が自分の懐を全部叩いて、一族に無理を言って通したものだ。一方的に突き放すより、せめて逃げ道くらいは用意してやろうと思って」
ルキフェルの顔が花崗岩のように強ばった。長老は窓の外、夜の海の方向を見る。
「船はマルセイユの造船所に保管してある。海を渡りたければ、ネーデルラント船団を装って逃亡しろ。ただし、カリブ海に居場所はない。ヨーロッパでもアフリカでもいい。あるいは……東洋へ逃げろ」
まるで世界の果てへの追放宣言みたいだ。長老は椅子から立ち上がると木椅子が小さく軋んだ。
「さて、俺からの要件は以上だ」
長老が外套の裾を払って告げると、ルキフェルは彼を見上げたまま訊ねる。
「あんたは帰ってしまうんですか」
長老はどこか楽しげに口端を緩めた。
「そうだな。……もう少し、この街を堪能するとしよう」
ルキフェルは目を見開くも、長老は踵を返して扉へ向かう。カルロータとディッキーも慌てて姿勢を正した。
「じゃ、じゃあね!」
「……失礼します」
カルロータは少し気まずそうに笑い、ディッキーは軽く片手を上げる。そうして、三人は部屋を後にした。扉が閉まって室内に静寂が落ち、夜風が窓を鳴らしている。やがて、ジャスパーがぽつりと呟いた。
「……逃亡、か」
ルキフェルは俯いていたが、ゆっくり立ち上がると平静な声で言う。
「まずは休もう。それから、明日はメンバー決めと作戦会議。全部終わってから……また考えよう」
ルキフェルは蝋燭の灯りへ手を伸ばした時、コリンが掠れた声で問いかける。
「……大丈夫?」
ルキフェルは思わず動きを止め、眉間に皺が寄りかけるも四人を振り返って笑う。
「立ち止まる方が勿体ないだろ。できること、やらないとな」
苦い色が混じる笑顔を前に、コリンは何か言いかけるも口を閉じた。やがて、ルキフェルが息を吐くと灯りが消えた。暗闇の中、床へ毛布を敷いて五人は雑魚寝になる。時折、誰かの寝返りの音がした。ルキフェルは目を閉じる度、長老の言葉が蘇ってくる。
——カリブ海に居場所はない。
胸の奥が軋む、息苦しい。ルキフェルが寝返りを打った、誰かが隣に入り込んで毛布が擦れる気配がした。振り向かずとも分かる。
「……何してんだ」
ルキフェルが小声で問うと背後からぶっきらぼうな声が返ってきた。
「別に」
マテオが背中合わせになるよう寝転がる。ルキフェルは呆れたように息を吐いた。
「狭いんだが」
「うるせえ」
背中越しに伝わる体温が不思議と現実へ引き戻してくれる。ルキフェルは目を閉じると、強張っていた呼吸が少しずつ緩んで眠気が押し寄せ、ようやく浅い眠りへ落ちていった。




