第一章① ルキフェル
*偉人の言葉
人生は選択の連続である。
——ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)
ルキフェル消失の報せは、トゥーロン全域を瞬く間に混乱へ叩き込んでいた。
「どこへ消えた!?」
「離れろ! 押すな!」
怒号と悲鳴、波音と足音が入り混じる。港に集まった民衆たちは白煙騒ぎの余韻から立ち直れず、誰もが不安げに海を見ていた。その群衆の中をアルフォンスは護衛たちを引き連れ、強引に切り裂くように進んでいく。
「道を空けてください! 海軍です!」
アルフォンスの額には汗が滲んでいる。冷静でいるべき立場だと分かっていても、胸中は焦燥で満ちていた。彼の背後には、ルソーとイザベルに両脇を支えられたエリオットの姿がある。大元帥の足取りは明らかにおかしかった。顔色は蒼白で視線も定まらない。
普段ならば民衆の前で微塵も崩れを見せない男が、今は歩くことすら危うい。この場へ留めておくのは危険だった。主君の安全を最優先して一度トゥーロン司令部へ退却する、これがアルフォンスの判断だった。本来なら馬車を用意すべきだが、今の港は混乱の只中にある。暴走する民衆、街中へ逃げた囚人たち、飛び交う流言。馬車を無理に通せば、更なる混乱を招きかねない。ゆえに徒歩、危険は承知の上だった。
「……アルフォンス」
アルフォンスの背後から掠れた声が聞こえる。彼が振り返ると、エリオットが虚ろな目で海の方角を見ていた。
「ラウルは……」
「今はお身体を優先してください、大元帥」
イザベルが険しい顔で彼の肩を支え直し、ルソーもまた不安げに周囲へ視線を走らせている。アルフォンスは唇を引き結んだ。ベルリオーズには先行して徒刑所へ向かわせている。
目的はただ一つ、ソフィー・ルノアールの確認だ。あの軍医がまだ徒刑所内に残っている可能性がある。それに加え、徒刑所側の混乱も異常だった。囚人脱獄、壁の崩壊、監視官の失踪。報告は断片的で全容がまるで掴めない。アルフォンスは舌打ちしたい衝動を堪える。自分が、ここまで事態に振り回されるなど想定していなかった。
やがて、一行はようやく民衆の波を抜け出す。背後の喧騒はまだ続いているが、先ほどよりは幾分か落ち着きを取り戻し始めていた。見物に来た民衆たちは、しばらく港周辺へ留め置く。街へ解き放たれた囚人たちから市民を守るため、少なくとも今は港の方がまだ安全だ。
アルフォンスは振り返らない。護衛たちもまた一切立ち止まらず進み続ける。エリオットだけが時折ふらつきながら、まるで何かを探すように海の気配を振り返ろうとしていた。トゥーロン司令部まで、まだ距離はある。それでも、彼らは歩みを止めるわけにはいかなかった。
一方、海上。トゥーロン徒刑所を脱獄し、処刑台ごと乗っ取ったコルベット船は白煙と混乱を抜け、今や海賊たちの逃走船として青い海を滑っている。昼の光が甲板を照らす中央で、ルキフェルはようやく自由になった両手首を擦っていた。最後まで外れなかった手枷は結局、マルクが力任せに捻じ曲げて外した。鈍い音と共に金具が歪み、赤く擦れた手首に風が触れる。
「……助かった」
ルキフェルが呟くと、マルクは斧を肩に担いだまま鼻を鳴らした。ルキフェルは苦笑しながら甲板を歩き始める。一人ずつ、礼を言うためだ。ジャスパーは船尾で舵を握りながら肩越しに笑う。
「礼なんざ後でいい。今度から一人で全部抱え込むな」
「こっちは巻き込まれる覚悟でついて来てんだからよ」
マテオが砲撃で煤けた指を振る隣で、ニールが苦笑しながら腕を組んでいた。
「勝手に死のうとしすぎ」
ルキフェルは何も返さず目を伏せた先で、コリンが箱に腰掛けたまま頬を膨らませている。
「ぼく、今回かなり重要な役割だったんだけど」
「知ってる」
「しかも箱詰め! 煙まみれ! 責任重大!」
「悪かった」
ルキフェルが素直に返すとは思っていなかったのか、コリンは一瞬だけ目を丸くして不貞腐れたようにそっぽを向いた。
「……まあ、結果的に成功したからいいけど」
ルキフェルは甲板を縫うように歩みを進める。今度は旧マクシム隊の面々だ。
「皆も感謝する」
ルキフェルが告げると、シャルルが片眼鏡を押し上げながら髪を払った。
「まあ、多少アクシデントはありましたが……こんなぼくを信じてくれた皆さんに感謝ですね」
次の瞬間、ロザリーの足がシャルルの膝に飛ぶ。
「誰のせいで増えたと思ってんのよ!!」
「計画を聞かされる度に寿命が縮んでるんですけど!?」
続けざまにアニータの蹴りがシャルルの腹に炸裂し、シャルルは甲板に崩れ落ちた。ジョルジュが珍しく真顔で言う。
「いつもあなたに付き合わされる、こっちの身にもなってください」
「本当に死ぬかと思ったー」
ペネロペが呆れたように吐き捨てる。シャルルが「いやしかし結果的には大成功で——」などと反論し始め、甲板は再び騒がしくなった。サミュエルだけが彼らを見て、口元を隠して肩を揺らしている。ルキフェルは息を吐くと喧騒に背を向けた。途中、監視官服姿のダミアンとすれ違う。
「助かった」
「……とんでもないです」
ダミアンは帽子を押さえながら顔を赤くし、ルキフェルは彼を頭から足先まで眺めて眉を顰める。
「……やっぱりその服、似合ってないな」
「えっ」
「東洋服の方がマシだ」
ダミアンが目をパチクリさせ、ルキフェルは小さく口元を緩めると甲板に散らばる囚人服姿の面々を見回した。
「マルセイユに着いたら、まず服探しだな……」
ルキフェルはリゼーヌとスザンヌを見つけた。二人は船尾近くの階段で話し込んでいる。スザンヌが彼に気づいて目を見開き、ルキフェルは少し視線を逸らす。
「……助かった。二人とも」
リゼーヌが微笑みながら「いえいえ」と返し、スザンヌもどこか安心したように頷いたが、ルキフェルはそれ以上そこへ留まらずササッと踵を返し、足早に歩き去っていく。顔が妙に熱かった。スザンヌが首を傾げて彼の後ろ姿を見送っている。張り詰めていた空気も、マルセイユの海が近づくにつれて少しずつ緩み始めている。やがて、望遠鏡を覗いていたチャンが声を漏らした。
「あ、みっけ」
一羽の黒いカラスが、マルセイユ港近くの海上を旋回していた。波と風を読むように円を描いている。ポーランがチャンから望遠鏡を借りて覗き込み、すぐに口角を上げた。
「おー、いるっぽい」
あのカラスは合図だ。旋回する真下に組織リー・ウェンの帆船が停泊している。ルキフェルたちを迎え入れるための逃走経路、その終点がようやく見えた。ポーランは肩を回しながら甲板を見渡す。
「港に着いたら、まず仲間探しかぁ」
「その前にポーランは寝てください」
「いや、今寝たら海に落ちる気がする」
船は徐々に港へ近づいていった。陽光を浴びたマルセイユの街並みが見えてくる。白い建物群、並ぶ帆柱、忙しなく動く荷役人たち。トゥーロンの騒乱とは対照的に、この街はまだ日常の喧騒を保っていた。やがて船体がゆっくりと桟橋へ寄せられる。ロープが投げられ、船が軋みながら停止した。チャンが徒刑所帰りの面々へ振り返る。
「いいですか、しばらくここから動かないでください。囚人服の集団がぞろぞろ歩いてたら、一発で終わりますからね」
「あとマルクさんは……まあ、見た目がね。とりあえず甲板で見張り、お願いしやす」
ポーランが遠慮なく言い、マルクは斧を背負ったまま鼻を鳴らした。その後、チャンとポーランは桟橋へ飛び降りる。ほどなくして港の役人らしき男が近づいてきた。
「おい、お前たち。この船は——」
「観光だよ」
チャンがにこやかに遮った瞬間、ポーランが慣れた手つきで金銭を握らせた。役人は周囲をサッと見回し、咳払いを一つする。
「……長居はするなよ」
「はーい」
役人はそそくさと去っていった。彼の背中を見送りながら、ポーランが呟く。
「マルセイユって便利だなぁ」
「港町は金で回るからね」
二人は人混みの中を進み、港の外れに停泊していた一隻の帆船へ辿り着いた。甲板上にいた東洋人の男が二人に気づき、目を見開いて声を飛ばす。
「……戻ったぞ!」
帆船の中から次々と東洋人たちが姿を現した。誰もが慌ただしく動き始める。
「服は!?」
「持ってこい! 怪我人はいるのか!?」
船内から抱えられてきたのは、大量の衣服だ。シャツ、外套、ズボン、帽子など、逃亡者たちのために用意されたものばかりだ。東洋人たちは衣服を抱えて急ぎ足でコルベット船へ向かっていく。それから程なくして、逃亡者一行はようやく人前へ出られる格好へと整えられた。旧マクシム隊の面々は、東洋人たちが持参してきた一般庶民用の服へ着替えている。シャルルだけは髪色がどうにも誤魔化せず、深く帽子を被っていた。
「ぼくの美しい髪が隠れてしまうとは……」
「その髪のせいで真っ先に見つかるんですよ」
ジョルジュが呆れた声を返した。一方、海賊たちはそこまで大きく姿を変えていない。元々、街に紛れる術を知る者たちだ。自分たちの服装の上から外套を羽織る程度で十分だ。
ルキフェルは深く被ったフードの下から港を見渡していた。潮の匂い、人々のざわめき、荷車の軋む音。マルセイユ港はいつも通り動いていた。少なくとも、ここにはまだトゥーロンの狂乱は届いていない。今日の朝に国家規模の混乱が起きたことなど、知らぬ顔で行き交っている。ルキフェルは息を吐いた。追手が来るのは時間の問題だろうが、今だけはこの港に平穏が残っている。
「行くぞ」
サミュエルが低く声を掛け、一行は人混みを避けながら港と街中を抜け、坂道へ入っていった。高台へ続く石畳の道、街の喧騒は少しずつ遠ざかる代わりに潮風が耳を抜けていく。
その時、彼らの頭上で羽音が響く。一羽のワタリガラスが上空を旋回していた。ルキフェルが目で追っていると、カラスは大きく円を描いて高台の屋敷の一つへ降り立つ。古びたベランダで、セドリック・モンレザールが佇んでいる。セドリックはカラスに餌を与えながら遠くを歩く一行へ視線を向けていた。ルキフェルは足を止め、フードの奥で翡翠の瞳を細める。
「……また世話になってしまった」
セドリックはカラスを撫でていた。ルキフェルは再び歩き出し、先へ進む仲間たちの背を追った。高台の上——旧バティーユ邸へ向かって。
旧バティーユ邸が見えてきた頃、陽はすっかり傾き始めていた。古びた石造りの屋敷の前に、三人の男たちが並んで立っている。ティエンは長い袖を揺らしながら、坂道を上がってくる一行を見つけると大きく手を振った。
「こっちこっちー!」
ティエンの隣にはヴィクトル、グレゴワールが一行を見つめている。サミュエルは目を細めて屋敷を見上げた。
「それにしても……僕の無茶な思いつきが本当に叶っていたとは」
「無茶だった自覚はあるんですね」
ジョルジュが小声で呟く横で、リゼーヌがティエンを見ながら首を傾げた。
「あの方、何者なのでしょうか。お若そうですけど……」
「ぼくも全部は知らない。ただ顔が広くて、お金があって変な人らしい」
「説明になってませんよ」
シャルルが帽子を押さえながら言い、リゼーヌが顔を顰めた。そんな会話をしているうちに、一行は屋敷前へ辿り着く。スザンヌの足が止まり、ヴィクトルを見た瞬間に瞳が大きく揺れた。
「……お兄様?」
ヴィクトルは妹の姿を見るなり、張り詰めていた表情を崩して駆け寄った。
「スザンヌ……!」
スザンヌも弾かれたように彼の元へ向かい、ヴィクトルは妹の肩を掴んで彼女の顔を覗き込む。
「本当に無事なんだな」
「お兄様……」
スザンヌは泣きそうな顔で俯く。
「ブルボン家の名や、お父様とお兄様の名誉に恥じるようなことをして……申し訳ありません」
ヴィクトルは一瞬目を見開いたが、すぐに眉を寄せて呆れたように息を吐く。
「そんなもの、どうでもいい」
「え……?」
「お前が生きている方が大事だ」
スザンヌの瞳が潤み、ヴィクトルは妹の頭を軽く抱き寄せた。
「まったく、心配で飛んできたんだぞ」
「ふふ……お兄様らしいです」
再会を喜び合う兄妹を見て、周囲の空気も少し柔らかくなる。ロザリーが微笑み、アニータが「よかったじゃない」と肩を竦め、サミュエルも目を細めていた。彼らの少し後ろでルキフェルはヴィクトルを見ながら内心で呟く。
……あれがスザンヌの兄か、よく似ている。整った顔立ちも、どこか柔らかな雰囲気も。
でも……できれば関わりたくねえな。妙な威圧感がある。妹を傷つけた男を許さない兄の目だ。
ルキフェルは額から一筋の汗を流して目を逸らした。
一方、少し離れた場所ではシャルルとグレゴワールが向かい合っていた。沈黙が妙に長い。やがて、シャルルが帽子の鍔を指で弄りながら言う。
「……とりあえず、ハグする?」
「しない」
グレゴワールは冷めた目で弟を見る。
「お前は昔から、問題を起こしてから帰ってくるな」
「いやあ、今回は国家転覆未遂くらいで済みましたよ」
「済んでない」
シャルルは肩を竦め、グレゴワールは疲れ切った顔で額を押さえた。
「……とにかく中へ入れ。話はそれからだ」
屋敷内へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が一行を包み込んだ。およそ三ヶ月間、人の手が入っていなかったとは思えないほど内部は整えられている。どうやらティエン側が既にある程度手を加えていたらしい。
「まずは応接間だ。作戦会議に使う。全員、そこで一旦休め」
サミュエルが低く告げると一行はそのまま屋敷の奥へ進んでいく。途中、ルキフェルはエントランスの壁に掛けられた一枚の肖像画に目を止めた。
若い頃のサミュエルだ。今より髪色は濃く、まだ皺も少ない。隣には、柔らかな微笑みを浮かべる若い女が座っている。奥方だろうか。どこか穏やかな空気を纏った絵だ。
ルキフェルは一瞬だけ眺めて仲間たちの後を追う。応接間に入室すると皆一気に気が抜けた。広い応接間には重厚なソファや長椅子が並び、陽の光が大きな窓から差し込んでいる。ジャスパーはソファへ倒れ込むなり腕で顔を覆い、そのまま動かなくなった。
「死んだ?」
「寝てるだけだ……」
ニールが覗き込むとジャスパーの気の抜けた声が返ってきた。ポーランは床で大の字になり、チャンは窓際で金貨を弄びながら外を眺めている。ペネロペは勝手に菓子棚を漁り始め、アニータに頭を叩かれていた。
「だからお前は昔から——」
「兄上、今は休戦ということで」
「休戦できる内容じゃない」
シャルルはグレゴワールから説教を受けている最中だ。少し離れた場所では、ヴィクトルが未だスザンヌの無事を確認するように話し続けている。応接間は賑やかで生きている音がするが、ルキフェルは少し落ち着かなさを覚えていた。人が多い。視線も声も今は妙に近く感じる。彼は息を吐くと壁際へそっと移動した。マテオが気づいて顔を上げる。
「どこ行くんだ」
「少し屋敷の中見てくる」
「お、いいな」
マテオは面倒臭そうな顔のまま立ち上がる。
「広い屋敷って探索したくなるよな」
完全に男の子の顔である。すると、マテオの横でコリンの目もきらりと光った。
「ぼくも行く」
興味津々といった様子。ルキフェルは少しだけ眉を上げる。
「……疲れてないのか」
「疲れてる。でも気になる」
コリンは真顔で言い、マテオも頷く。
「こういう屋敷、隠し通路とかありそうだしな」
「いや、知らんけど」
ルキフェルは呆れたように返しながらも、二人を追い返しはしなかった。三人は騒がしい応接間を後にし、静かな廊下を渡っていく。古い屋敷特有の軋む床音が空間に響いていた。
「広……」
コリンが廊下を見回しながら呟く。客室らしき部屋を一つずつ開け、軽く中を確認していく。どの部屋にも最低限の家具は残されていた。白布を被せられた机、薄く埃を被った椅子、閉じられたままの窓。書庫もあった。壁一面に本棚が並び、革張りの古書が整然と収められている。マテオが適当に一冊引き抜いて難しそうな文字列を見てそっと戻した。
「読めねえ」
「最初から読む気なかっただろ」
——それにしてもマテオが本に触るとは。
ルキフェルは腕を組んで息を吐く。コリンは逆に興味津々といった様子で本棚を見回していたが、結局「あとでちゃんと見よう」と呟きながら離れた。やがて三人は一階へ降りる。食堂、厨房。使われなくなって久しいはずなのに、生活の気配は残っていた。埃っぽい空気の中に木材と香草の匂いが混じっている。
「なんか、人がいた家って感じするな」
マテオが辺りを見回しながら言った。そりゃ王族三人組が昨日まで使っていたんだから、そんな感想にもなる。
その後、三人は屋敷の裏手へ出た。花壇の花はすっかり枯れていたが、周囲の草木は青々と茂っている。海風が吹き抜けるたび、葉がざわざわと揺れた。庭先からはマルセイユの街並みが一望できる。赤茶色の屋根、港に並ぶ帆柱、その向こうで陽光を反射する海。コリンが思わず感嘆の声を漏らした。
「うわ……」
その途中、応接間の窓が開いてニールが顔を出し、気怠そうに片手を振る。
「やあ」
コリンだけが元気よく振り返した。ルキフェルは庭を見渡すと隅の方、木々の影に半ば隠れるようにして、一棟の小さな離れが建っていた。古びた石造りの建物、母屋とは少し距離がある。
「なんだ、あれ」
マテオも気づき、ルキフェルは目を細めた。
「……使用人用か何かじゃないか」
今日はそこまで踏み込まない、ただでさえ皆疲弊している。今は休息の方が優先だ。三人は離れを遠目に眺めたあと再び庭を歩き始めた。しばらく海風に当たりながら気ままに散策し、それから元来た石畳の小道を引き返していく。騒がしい応接間へ戻るために。
夜が訪れた。旧バティーユ邸の窓から、マルセイユの街明かりがちらちらと見える。応接間の喧騒も少し落ち着き始め、玄関扉が重く数回ノックされた。ティエンが「はいはーい」と気の抜けた返事をしながら扉へ向かう。開いた瞬間、外の冷たい夜風が流れ込んできた。
「お、きたきた」
ティエンが迎え入れたのはイヴォン、更にレオンとワン、ニコラとマルクに、少し疲れた顔のダミアンもいる。ルキフェルは偶然エントランス付近を歩いていたが、彼らの姿を見つけるとすぐに告げる。
「食堂へ。話がある」
全員が頷いて食堂へ移動した。蝋燭の火が揺れ、室内へ静かな影を落としている。しばし沈黙、ルキフェルが低く口を開く。
「……処刑の時、シルヴェストルの姿がなかった。あいつ、帰ったな」
ダミアンが頷いた。
「恐らく、パリです。ダラス家の屋敷があります」
ワンが懐から小さな手帳を取り出す。
「同僚から聞いた。脱獄計画ができる前、あのシャルル・ヴィトンとかいう男が興味深いことを言っていたと」
「……なんて?」
ルキフェルが嫌そうに顔を顰め、ワンは手帳をぱらぱらと捲って読み上げる。
「ええと……あった。『例の長男が二十年前の事件に関しては時効だと言い張るなら、夢蛇の件と海賊戦争は時効じゃないよね?』。残っている罪を表に出せばいい、とも言っていた」
ティエンが「なるほどねえ」と呟きながら椅子へ深く腰掛けた。
「つまり、スキャンダル狙いってわけ」
「……どう狙えと?」
ルキフェルは眉間を押さえ、ティエンは軽い口調のまま続ける。
「安心して、人材はいるんだ。あのヴィクトル・ブルボン、王宮じゃ“航路監査官”って立場でね。海の記録係やってる。夢蛇が密輸されている件も、以前から調査していた。港と交易の記録帳簿を何度も洗ったけど……ダラス家の名前だけが一字たりとも出てこない」
ルキフェルが目を細める。
「隠してるってことか」
「記録操作はほぼ確実。でも、逆に言えば不自然すぎる。記録の裏付けは揃ってて、あとは物的証拠だけってわけ」
ティエンが指を鳴らすと、ワンがルキフェルを見て口を開いた。
「君を襲った天眼滴は残り二つある。エル・イエロを発つ時、ロザリーさんとペネロペさんが我々へ預けた。現在は組織側で厳重保管している」
「あれが証拠になるのか」
「十分になる。加えて、ダラス家内部にある幻覚剤を押さえれば話は早い」
その瞬間、全員の視線がダミアンへ向いた。ダミアンは少し肩を竦める。
「……屋敷の奥に保管室があります。そこで調合してるんです。香として加工する前の材料も、全部」
「……あれ? 思ったより、あっさり終わりそうじゃない?」
ティエンがぽつりと呟いた。ルキフェルは椅子へ深く凭れかかり、指先でこめかみを軽く押さえる。
「……海賊戦争。エドガーが巻き込んだ、あの戦いについてはどうする。俺たちの証言だけじゃ薄いぞ。そもそも、こっちは脱獄者だ。話を聞いてもらえるとも思えない」
食堂に短い沈黙が落ち、ワンが頷いた。
「正直……ヴィトン殿なら容易いと言いそうだが、無理だな。あれこそ物的証拠が存在しない」
ティエンが「そこなんだよねぇ」とぼやいた時、イヴォンが手を挙げた。
「それに関しちゃ、俺に考えがある。セドリック経由で匿名の情報提供者を装う」
「匿名?」
「海軍に直接情報を流すんだ」
ニコラが眉を上げ、イヴォンは落ち着いた声音で言う。
「海賊戦争そのものじゃなく、ダラス家が現体制に仇なす旧ブルボン派の中枢であると伝える。政治的立場を利用だ。海軍としては、王政に牙を向ける可能性がある勢力を放置できない。だから、王宮へ報告が上がる」
ティエンが口角を上げた。
「結果的に、ダラス家は国家反逆の線で追及されるってわけね」
ルキフェルはテーブルに視線を落とす。脳裏に浮かんでいたのは、あの法廷での出来事だ。海軍と国家とダラス家の力関係も想像できる。ダラス家が海軍すら容易に動かせないほど深く政治へ食い込んでいるのだとしたら、国家反逆の単語一つで簡単に崩れる相手なのか。ルキフェルは長く息を吐いた。
「……簡単にはいかなそうだな」
蝋燭の火が小さく揺れ、壁へ長い影を映していた。マルクが腕を組んだまま口を開く。
「オレ、バカだからよく分かんねえけどよぉ。今できることって、夢蛇の件だけだよな。実物を抑えるために、ダラス家に忍び込む必要があるってわけだ」
「忍び込む?」
ニコラが顔を顰めると、マルクはワンを見る。
「最近、サン・マロの密輸港は一隻たりとも船が入ってこないんだろう?」
「監視を強めた結果だ。連中も警戒している」
「だったら、ダラス家に侵入するしかねえ」
ティエンは「うわ、急に海賊っぽい話になった」と笑い、イヴォンは腕を組んで黙り込む。ダミアンは目を伏せていた。その後、ルキフェルは思い出したように口を開く。
「それと……元海軍の奴らだが。あいつらも、知ってる情報と知らない情報が入り乱れて錯乱すると思う。動くなら全部共有し終わって……あいつら自身が咀嚼できてからだ」
「だねぇ。今は全員、脳みそ限界だ」
ティエンが頷き、ルキフェルは額へ手を当てる。頭が痛かった。一日で詰め込まれたものが多すぎる。
「……ちょっと、今日は色々ありすぎた。早いところ休みたい。皆も疲れてるだろ、今夜はこの辺でお開きだ」
ルキフェルは椅子に凭れて集まった面々を見回す。
「引き留めて悪かったな。集まってくれて感謝する」
椅子が引かれ、人々がそれぞれ散っていく。ルキフェルは誰よりも早く食堂を後にして二階へ上がり、適当に選んだ客室の扉を開けると、室内は薄暗かった。ジャスパーは既にベッドへ突っ伏して寝息を立てている。ニールも壁際の椅子に座ったまま眠っていた。コリンに至っては、毛布に半分埋まりながら気絶している。唯一起きていたのはマテオだった。窓際に立ち、夜のマルセイユを眺めている。
「寝ないのか」
ルキフェルが声を掛けると、マテオは振り返らず肩を竦めた。港の灯りが窓硝子へ映っている。
「なんか、まだ頭が海の上なんだよな。静かすぎて逆に落ち着かねえ」
「……分かる」
夜風が薄くカーテンを揺らし、マテオがぽつりと呟く。
「生きてるな、オレら」
ルキフェルは窓の外へ視線を向けた。マルセイユの夜景に遠くの海。処刑台も白煙も血の匂いも、今はもう遠い。
「……ああ」
それから二人は疲れ切った身体をベッドへ沈める。
旧バティーユ邸の夜は、ようやく静かに更けていった。




