第一章① 死闘の余韻
*偉人の言葉
人生って自分で創るもの。うつむかず、上を向いて。何よりも大切なのは、笑うこと
——マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)
屋上での応急処置が終わり、ルキフェルとアントワーヌは担架で特別治療室へと運ばれた。
石の廊下を進むたび、足音と担架の軋む音が反響する。夜明けの光が高窓から差し込み、ルキフェルの白くぼやけた視界の中で天井が流れていく。どこか遠くで人の声がする。命令、応答、慌ただしい気配が薄い膜越しに聞こえてくる。やがて、重い扉が開いて薬品の匂いが鼻腔を刺した。担架が下ろされ、布が剥がされる感触と同時に冷たい空気が剥き出しの傷に触れる。ルキフェルは眉を寄せた。視界の端で、アントワーヌも同じように血と傷にまみれて横たえられている。医療班の人間たちが次々と周囲に集まって声が飛び交った。
「右腕、明らかに骨折だ。固定具を——」
「出血が多い、先に止血を優先する!」
「呼吸浅いぞ、胸部の損傷確認!」
エリオットはいつの間にかルキフェルの傍に立っていた。ルキフェルが顔を向けると、視界に入るのは切り裂かれた紺色のコートと血で染まった包帯。それでもなおエリオットは背を伸ばして立っていた。現場の頂点として、何も崩れていないかのように。この人はこんな姿になっても止まらないのか、とルキフェルは内心で思う。
「仲間の安全は保障する。君は治療に専念するんだ」
エリオットが踵を返すと扉が閉まった。医療班の動きと器具の触れ合う乾いた音が反響して治療が始まる。まず衣服が切り裂かれ、固まった血が剥がされた。傷口に触れられるたび、鈍い痛みが遅れて追いかけてくる。そして、右腕に触れられた瞬間、世界が一瞬だけ白く弾けた。
「——っ」
ルキフェルの口から声にならない息が漏れる。骨の位置を確かめるために動かされるたび、内部で何かがズレて軋む。
「固定するぞ、動かすな!」
押さえつけられた瞬間に骨を戻すための力が加わって、鈍く深い痛みが腕から肩へと駆け上がる。ルキフェルは歯を食いしばって耐えた。やがて、固定具が当てられて布で巻かれる。自分の腕じゃないみたいで重い。ルキフェルは息を吐いて右手をチラ見した。しばらく剣は握れないな。不思議なことに焦りはない。止めたかった奴は止められた。あの屋上で、あの瞬間に終わらせた。この腕がこうなったのも無駄じゃない。重さも痛みもあるが、折れたならまたくっつければいい。ルキフェルは隣のベッドに目を向けた。アントワーヌも同じように押さえつけられ、低く押し殺した呻きを漏らして顔を歪ませている。同じ空間にいる、同じように生きている。ルキフェルは石造りの白い天井を見上げた。薬品の匂いがまだ鼻に残っている。外では朝が訪れているはずだったが、光はここまでは届かない。代わりにあるのは、静かな白と規則的な音だ。
簡素な部屋だ。石壁に囲まれ、必要最低限の寝台と椅子が置かれているだけの空間。窓は高く、小さな格子越しに外の光が差し込んでいる。ジャスパーは一度、部屋を見渡して息を吐いた。ようやく止まった、という感覚が胸に落ちる。ジャスパーが視線を横へ移すと、ニールが壁に背を預けて座っていた。ニールは斬られた腕に包帯を巻いていた。口で布を引き、もう片方の腕で押さえて結んでいる。
「……よく自分できるな」
ジャスパーがぼそりと呟くと、ニールは顔も上げずに肩をすくめる。
「こうでもしないとね。誰も代わってくれないから」
少し離れたところで、マテオが義手を外していた。金属の留め具が外れる音が乾いた響きを残す。
「ほら」
マテオが義手を差し出すと、コリンが受け取ってまじまじと覗き込んだ。
「あちゃー……ここ、意外と深く刺さってたんだね」
コリンは金属の表面を指でなぞった。ルソーの連結剣によって抉られた傷跡が残っている。削れ、歪み、少しひびが入っていた。コリンはしばらく見つめたあと、そっと親指で撫でる。
「……無茶するなあ、ほんと」
マテオは鼻で笑った。四人とも限界の少し手前で踏みとどまっているだけ。エリオットの指示で彼らはこの部屋に収容された。重要参考人という名目での保護。拘束ではないが、自由でもない。扉の外には見張りの気配がある。ジャスパーは顔についた血と汚れを袖で拭った。乾きかけた血がざらりとした感触を残す。ジャスパーが窓へと歩み寄ると、格子の向こうに海が広がっていた。ブレストの沖が朝の光を受けて揺れている。夜の名残はもうない、波は穏やかで風も弱い。ジャスパーはしばらく景色を眺めていた。アンバーの瞳には陽光も海の煌めきも、誰かの言葉も受け付けていないらしい。
エリオットが中庭に足を踏み入れると、思わず顔を強張らせた。まだ熱の残る戦場の匂いが石畳の上に張り付いている。倒れた者、運ばれる者、血の跡を洗い流す水の音が混ざり合って騒然としていた。エリオットの脳裏に屋上の光景がかすめる。ラウル、アントワーヌ。エリオットの胸の奥にまだ残っているが、すぐに息を吐いた。今、優先すべきは目の前だ。アルフォンスが彼のすぐ隣で支えるように一歩寄ると、エリオットはアルフォンスを流し目で見た。
「状況を報告しろ」
「負傷者の搬送は進行中です。捕縛したマクシミリアン・ブーケ隊は、ただちに牢へ収容しました」
アルフォンスの簡潔な報告にエリオットは頷く。肩に巻かれた包帯の下で鈍い痛みが脈打っていた。その後、彼はイザベルとルソーも合流し、三人で現場の整理にあたる。
「外周の警備を増やせ。まだ混乱に乗じた動きがあるかもしれん」
「了解しました」
「医療班の動線を確保しろ、無駄な滞留を作るな」
指示が飛んで現場が少しずつ整っていく。混乱は消えないが、収束へと向かっている。エリオットはアルフォンスに小声で問いかけた。
「ソフィーはどうした」
「証人として別室に収容しました。単独です」
「……そうか」
エリオットは目を伏せて赤く染まった草地を見つめた。中庭の一角が騒めき、見慣れない装束の一団が通り抜けていく。東洋の衣、統一された動き、異質な気配。東洋組織リー・ウェンだった。彼らは周囲の騒ぎに構うことなく一定の歩調で進んでいく。その中に、レオン・マルヴォワも混じっていた。彼は歩みを止めず、周囲を鋭く見渡している。フランス海軍の本拠、そして戦いの跡。石畳に残る血、運ばれていく遺体、崩れた秩序の痕跡を受け止めていた。
「……ここが、そうか」
ヤン・ジュンジャーからの依頼、ある遺体の防腐処置だけの目的で来たはずだったが、簡単に気を許せる場所ではない。レオンの視線の先で海軍の兵がこちらを警戒しているのが分かる。当然だ。異国の人間、しかもこの状況、警戒されない理由がない。レオンは目を細めて神経は研ぎ澄ました。ここは敵地だ。それに、何かがまだ終わっていない空気がある。その後、海軍士官の案内でレオンは城内へと足を踏み入れた。石の廊下はひんやりとして、外の騒ぎが空間に吸い込まれていく。彼らはいくつか角を曲がり、重い扉の前で足を止めた。
「こちらです」
士官が扉を開けると、中央に一つのベッドが待ち受けていた。ベッドの上に白い布をかけられた遺体が安置され、傍らに二人の男が立っている。ヤンともう一人、年上の穏やかな印象の紳士。整えられた身なりだが、その顔には疲労と沈痛が滲んでいる。
「来てくれたのですね」
ヤンが言ったあとレオンは一歩進んで軽く頷き、紳士の方に目を向けた。
「そちらの方は?」
「わたしの友人、その叔父にあたる方です」
ヤンの言葉にレオンは眉を寄せた。友人、その言葉はどこか曖昧で指し示す先が一つではないように聞こえた。紳士が一歩前に出て丁寧に頭を下げる。
「ジャン=バティストと申します」
彼の礼儀正しい所作に、レオンは一瞬だけ言葉に詰まって慌てて会釈を返す。
「あ……レオン・マルヴォワです」
レオンは簡潔に名乗ると、ヤンは二人を見比べてから口を開く。
「では、ルノアール氏。あなたは奥様の元へ行ってあげてください」
ジャンは目を伏せて遺体を見た後、もう一度ヤンとレオンを見た。
「……よろしくお願いします」
ジャンが部屋を出ると、レオンはベッドへ歩み寄って白布に手をかける。一瞬指が止まるが、躊躇は長く続かず布を払った。現れたのは、損傷の激しい遺体だ。切創、打撲、裂傷、無数の痕跡が全身に刻まれている。まるで最後まで退かなかった者の体。レオンは眉を寄せた。
「……損傷がひどいな。まるで、一人で戦ったみたいだ」
「この方はマクシミリアン隊の戦士であり、先ほどのルノアール氏の姪が愛した方でもあります。……眠りにつけるよう、墓を立てるためです」
ヤンの言葉を受け、レオンは遺体を見下ろしたまま目を細めた。
「……できることはしよう」
レオンは振り返って同行してきた東洋の者たちに声をかける。
「手を貸してくれ。準備に入る」
数人が無言で頷き、器具を広げていく。水、布、薬剤。淡々と作業の準備が整えられていく。レオンは手袋をはめて再び遺体へと向き直った。傷の状態を確認し、必要な処置を見極める。戦いの痕跡をひとつずつ拾い上げるように。ヤンは部屋の隅に移動して壁際に立ち、目の前の光景を見守った。布の擦れる音、水の滴る音、そして死を整えていく音が部屋に満ちていく。
ジャンが城内の暗がりを抜けた瞬間、光が容赦なく目を刺して思わず手をかざした。視界一杯に眩しさで白く滲んだ中庭が広がっている。ジャンが石畳を横切っている時、落ち着いた声が彼の背を引き留めた。
「……ジャン」
ジャンが振り返ると、そこに立っていたのはエリオットだった。皺も増え、肩に積もったものの重さも違う。それでも立ち姿の芯は変わらず凛々しく、どこか脆い。エリオットの背後、遠目にルソーとイザベルが口元を緩めて二人を見ている。旧友同士の再会だ、からかう理由には事欠かない。ジャンは気づかない振りをして、エリオットに歩み寄ると手を差し出した。エリオットも力のこもった握手応じる。
「相変わらず、疲れた顔をしているな。おまけにボロボロじゃないか」
ジャンがエリオットの頭からつま先まで視線を滑らせ、エリオットが苦笑する。
「君に言われたくはない」
ジャンは中庭を見渡しながら深刻そうな顔で言う。
「城の外ではずっと民衆が騒いでいるよ。私も気が気じゃなくて」
「……ジャン。ソフィーのことなら心配はいらない。彼女を脅かす者は、もういない」
「そうか……それでも、あの子は無理をする。折れたまま進んでいくようなやつだ」
ジャンが顔を伏せて、安堵とも諦めともつかない声で言った。エリオットも中庭に目を配っていると、隙間を埋めるようにジャンが顔を上げて言う。
「そういえば、昨日で二十年経ったんだな」
「……双星の海戦か。昨夜も、二十年分の重さを持った鎖みたいな戦いだった」
「鎖、か。うまいこと言う」
ジャンは苦く笑い、エリオットは話題を変えるようにジャンを見る。
「イザベルから聞いた。これからエトルタに移り住む、と」
「ああ、パリを追い出されたよ。まったく、貴族社会の慣習というのは面倒くさい。ルノアール家には正式な嫡男がいなくて断絶確定だとさ。まあ……面倒な連中から離れて、自然の多い場所で暮らせるなら清々するね」
ジャンが肩をすくめて言った。風が吹き抜け、中庭の騒めきが少し遠のいたように感じた。
「このあと支度をして、ブレストを発つ。妻もこの街に来ているんだ。昨夜から戻っていないものだから……早く顔を見せてやらないと」
ジャンは踵を返し、数歩進んでからエリオットを振り向いて手を軽く上げた。
「では、また。そのうち手紙でも送るよ。大変だろうが、君たちなら乗り越えられるさ」
それだけ言ってジャンは去っていった。エリオットは彼の真っ直ぐな背を見送り、胸の奥で言葉が一つ浮かんでは沈んだ。
——アントワーヌは生きているよ。
告げるべきか、告げていいのか。逡巡がエリオットの呼吸を乱すが、先ほどのアントワーヌの震え声が脳裏に過ぎる。
「ソフィーには、何も言わないでください」
あの懇願、あの目。ソフィーに言えないのなら、ジャンにも言うべきではない。エリオットの口から息が深く漏れ、空へ溶けていった。中庭の喧騒はまだ続いているが、エリオットの耳にはもう届いていない。
レオンの手による防腐処置が終わる頃、部屋の空気はすっかり冷え切っていた。血の匂いも薬草の香りも沈んでいる。海軍士官たちが手際よく棺の準備に取りかかるのを横目に、レオンは一度だけベッドへ視線を落とした。布に覆われた姿はもはや戦士ではなく、眠りについた者のように見える。レオンが荷物をまとめて踵を返し、ヤンもまた部屋の隅から歩み出て、二人は言葉を交わすことなく処置室を後にした。廊下は薄暗く、外の光が遠くに滲んでいる。
やがて抜けると、視界が一気に開けた。中庭の隅、落ち着きなく蹄を鳴らす黒馬ヘイロンがひっそりと繋がれていた。ヤンはヘイロンの首筋を軽く撫でると、馬は鼻を鳴らして静まった。二人は城門をくぐって外へ出る。石畳の上に朝の光が細く差し込んでいた。城門を抜けてすぐ、ヤンは足を止めて穏やかな声音で言う。
「……わたしは、先ほどの紳士と共に遠出します。同僚によろしくお伝えください」
「ああ」
レオンは海沿いの道へと続く方向へ歩き出した。背後で革の擦れる音が微かに響く、ヤンが馬具を整えているのだろう。レオンはふと足を止めて振り返った。ヤンはすでに鐙に足をかけていた。レオンは息を吐いて再び前を向いて歩き出した。遠目に東洋人たちの背中が疎に広がっている。伸びをしたり、あくびをしたりと背中越しでも苦労が見えていた。
「はあああ、それにしても無事にフランス帰れたー。エル・イエロがあったかすぎたからさ、温度差で風邪引くかと思ったけど全然そんなことなかった。てか、今日あったかくね? 海岸沿いでも風当たりいいわ」
「これ、貝寄せと涅槃西風どっちなんだろ」
「ばーか、まず陰暦と陽暦をごっちゃにするな」
「強いて言うなら、花信風ってやつですかね。ま、ただの晨風だと思いますけど」
レオンは右手側に広がるラド・ド・ブレストに目を向けた。浦風が彼の束ねた濃い茶髪を靡かせる。次第に海の匂いが強くなってきた、ブレスト港はもうすぐ。レオンは足を止めて振り返り、空へと伸びるように聳えるブレスト城を眺めた後、東洋人たちの背を追って足を早めた。朝陽が石の鋪道にいくつもの影を落としている。
エリオットの執務室は普段と変わらぬ静けさを取り戻していたが、決して安らぎではない。戦いの残響が壁の奥にまで染み込んでいるようだった。エリオットとアルフォンスが机を挟んで向かい合っていた。被害状況の報告は淡々と進んだ。損耗した兵力、負傷者の数、城内外の被害。どれも重く現実的な数字として並べられていく。やがて扉が開き、ルソーとイザベルが遅れて室内に入った。二人とも衣服にはまだ戦いの名残が色濃く残っている。イザベルの白い制服の裾は泥と埃でまみれ、ルソーに至っては紺色の制服に自分のものではない血もこびりついている。
「遅れました」
イザベルが告げると、ルソーと共に席に着いた。エリオットは一度だけ全員の顔を見渡して口を開く。
「……屋上での件について共有しておく」
エリオットの口から語られたのは事実だけだ。自らが負傷したこと、ルキフェルとマクシミリアン・ブーケ——そう通達された男との死闘と、両者が深刻な傷を負ったこと。そこまで言ったところで、エリオットは少し間を置いてから厳かに告げる。
「……息子は生きていた。あのルキフェルこそ……ラウルだった。彼の言葉から察するに、記憶喪失らしい」
ルソーの眉が深く寄り、イザベルもまた目を細めて口元に手を当てた。アルフォンスは口を開けたまま額を青くしている。やがて、ルソーが低く息を吐いて信じ難いと言外に滲む声で呟く。
「……あの男が、か。そんなことが……あるのか」
イザベルは言葉を発さず俯き、アルフォンスはまだ整理が追いついていない様子で視線を彷徨わせていた。エリオットは椅子に深く腰掛けて言う。
「詳しい話は……彼が回復してから。今は休ませたい」
「では……五鬼衆は我々の保護下に正式に置く、という理解でよろしいでしょうか」
イザベルが実務的な確認を取ると、エリオットは一瞬視線を落とした。
「……場合によっては、五鬼衆という名も撤廃せねばならんかもしれん。彼らは私を窮地から救った。敵地に踏み込み……マクシミリアン・ブーケを止めてくれた」
アルフォンスが控えめに口を開く。
「あの……王宮への報告は、いかがいたしましょう」
イザベルとルソーも顔を上げてエリオットを注視した。エリオットは背筋を伸ばして三人を順に見つめてから言う。
「事件そのものは直ちに報告を上げる。ルキフェルに関する件は……後ほど改めて協議しよう」
大元帥としての顔は崩れていない。父としての時間が動き始めていた。




