第十章③ Montage
トゥーロン港は一瞬で地獄みたいな騒ぎになっていた。
「煙だ!!」
「船が!!」
「何が起きた!?」
沖合に停泊していた処刑船が突如として白煙に包まれていく。まるで巨大な白い怪物に呑み込まれるみたいに、船影そのものが曖昧になっていた。民衆たちが悲鳴を上げ、監視官たちが一斉に怒鳴る。港全体がざわめき、波紋のように混乱が広がっていった。来賓席でエリオットが勢いよく立ち上がる。
「何だ、あれは……!」
エリオットの顔は血の気が引いていた。白煙の向こうにいるはずの息子が、一瞬で見えなくなった。彼の隣ではルソーが眉間に深い皺を刻み、海を睨んでいる。
「おい、監視船は何をしている!」
「まさか……襲撃?」
イザベルも立ち上がっている傍ら、アルフォンスが即座に周囲へ指示を飛ばす。
「警備隊を港へ! 全員配置につけ!」
肝心の処刑船、甲板では未だ怒号と咳き込みが入り乱れている。
「げほっ、視界が!!」
「どこだ!? どこへ行った!!」
ダミアンは袖で口元を覆いながら目を細める。煙が濃くて視界はダメになっているが、耳は研ぎ澄まされていた。怒鳴り声と剣が落ちる音、誰かが転ぶ音に船員たちの悲鳴。そして、鎖が外れた金属音。ダミアンの口元が緩む。
……よし、二人とも生きてる。
その頃、トゥーロン徒刑所。外壁沿いの庭に隠された震撃砲の前で、マルクが沖合を見ていた。白煙が船を包んでいる。
「——今だ!!」
マルクが目をギラリと光らせ、叫び声を庭に轟かせた。ジャスパーとニールが一斉に動いて砲台の配置につく。
「砲弾っす!!」
「持ってきました!」
ポーランとチャンが二人がかりで特殊弾を運んでくる。丸みを帯びた金属弾の内部には、共鳴板が仕込まれていた。火薬量は少ないが着弾した瞬間、振動そのものを壁へ叩き込む。マテオが砲身横に膝をついた。
「角度、もう少し下げろ」
ジャスパーが即座に砲身を操作し、ギギギッと重い金属音が鳴った。マテオは視線だけで距離を測っている。徒刑所外壁、旧マクシム隊の牢。衝撃を与えすぎれば中にいる連中が死ぬ、弱すぎれば壁が崩れない。必要なのは破壊じゃない、崩壊だ。
「……そこだ。固定」
ニールが砲身固定具を締め、マテオは細く息を吐いた。
「壁に共鳴だけ通す。吹き飛ばすなよ」
「了解」
ジャスパーが口角を上げ、マルクが導火へ火を近づけた。
「行くぞォ!!」
——ドゴォンッ!!!!
震撃砲の砲身全体が激しく震え、特殊弾が空気を裂いて飛んだ。
徒刑所内部、旧マクシム隊の牢。隊員たちは皆、鉄格子にへばりついていた。ジョルジュがびくりと肩を震わせる。
「えっ」
ドグン……!!
壁が鳴った。内部から揺さぶられるみたいな低い衝撃、石壁へ一瞬で巨大な亀裂が走る。
ミシ、ミシミシミシ——!!
「えっ、えっ!?」
ガラガラガラガラッ!!!!
シャルルが目を見開く瞬間、壁が崩れた。支えを失ったように崩落し、石片と砂煙が牢内へ流れ込み、その向こうに草木が揺れる庭が見えた。外、空、自由。ジョルジュとサミュエルが揃って口を開ける。
「…………」
「…………」
数秒後、二人して叫ぶ。
「開いたぁぁぁぁぁ!!!」
「成功してる!! 本当に成功してるじゃないか!!」
牢内が一瞬で歓声に包まれた。崩れた壁の外でマテオが腕を組み、ドヤ顔している。
「オレに砲触らせりゃ、こうなる」
崩れた壁の向こうから風が吹き込んでくる。石粉が舞う牢内で、シャルルはずれ落ちた片眼鏡を指先で押し上げた。橙色の髪が砂埃に汚れているのに、本人はまったく気にしていない。むしろ、異様なほど目が輝いている。
「——よし!」
シャルルが高らかな声をあげ、牢内の全員が一斉に彼を見る。シャルルは崩れた壁の前へ立って片手を広げ、ビシィッと指を突きつける。
「次のステップです。我々は今すぐ囚人たちを解放しましょう! 鎖を引きちぎり! 鉄格子を破壊し! 国家に向かって『自分たちは自由だ』と叫ばせるのです!!」
「了解!!」
サミュエルが即座に拳を握り、ロザリーがにやりと笑う。アニータは既に腕まくりしていた。リゼーヌが髪を払って立ち上がる。ジョルジュはまだ若干混乱した顔のまま叫ぶ。
「りょ、了解です!!」
マテオはピッキング道具を放り投げ、ペネロペがキャッチして床へしゃがみ込み、ピッキング道具を鍵穴へ差し込んだ。
「お、おいペネロペ。待てって——」
「大丈夫大丈夫。昔取った杵柄ってやつ」
「その杵柄、たぶん誇っちゃダメなやつだぞ」
サミュエルが眉を顰め、ペネロペは舌舐めずりしながら妙に手慣れた音を響かせる。
ガチャ。ガチャガチャ。——カチッ!
「あ」
ペネロペが目を瞬かせると鉄格子の扉が情けなく鳴いて全開になる。秋秒、空いた格子扉を前に、牢内で風が吹き抜けた。
「……開いた」
「開いたな……」
リゼーヌとジョルジュが呟いた瞬間、ペネロペがピッキング道具をぶん回して飛び出す。
「うおおおおおお!!」
「待ちなさい、ペネロペ!!」
「待つ理由ある!?」
ない。すっかり脱獄テンションだ。ペネロペはアニータの制止を振り切って別牢の鍵穴へ突撃していく。
ガチャガチャガチャ!!
「実に素晴らしい行動力ですね」
「君が焚きつけたんだろうが」
シャルルは満足げに頷き、サミュエルが呆れた声を漏らす。マルクは震撃砲から離れて牢内に足を踏み入れると、背負っていた斧に手をかけて不敵に笑う。
「……面白え、気に入った」
その後、牢の錠をぶち壊す金属音が廊下に激しく木霊していった。そんな騒ぎの間、シャルル本人はもう次を見ている。崩れた壁の向こう、庭には震撃砲とマテオたち。まだ次弾装填中だ。シャルルは破顔して外へ向かって大きく手を振る。
「あ、皆さんは気が済むまで撃っててくださーい!!」
マテオが顔で嫌悪感を示し、ジャスパーがケタケタと笑う。
「気軽に言いやがって……」
「ははっ、でも嫌いじゃねぇぞこういうの」
ニールは苦笑しながら次弾確認を始めていた。その間にも、ガシャァンと別牢の鍵が開いていく。
「お、おい!? 開いた!!」
「何が起きてんだ!?」
囚人たちの叫び声が徒刑所中へ響き始める。自由を前にした獣みたいな熱気。シャルルは騒ぎの音を聞きながら満足げに口角を上げた。片眼鏡が朝日を反射する。
「さて、ここからが本番ですよ」
次々と囚人たちが廊下へ雪崩れ込んでいく。誰かが床を蹴り飛ばし、誰かが鉄格子を殴り、誰かが「自由だァ!!」と喉を裂くように叫ぶ。混乱の中で、なぜか囚人たちの視線が一斉にロザリーへ向いた。
「お、お嬢さん……!」
髭面の大男が神託でも受けるみたいな顔で駆け寄ってくる。
「あたしらに何かできることはありやせんか!? 恩返しがしたいんで!!」
「そうです姐さん!! 命の恩人ですから!!」
「指示ください!!」
ロザリーはきょとんと瞬きをした。
「……まあ」
彼女はふわりと微笑んだ。長い睫毛が伏せられ、唇がゆるやかに弧を描く。崩れた壁から差し込む朝の光が彼女の横顔を照らし、囚人たちは思わず息を呑んだ。ロザリー本人にその自覚はまるでない。艶やかな声音が騒然とした徒刑所へゆっくり落ちる。
「そうねえ……せっかく自由になるのですもの。できれば、徒刑所内を散々荒らしてから逃げてはどうでしょうか?」
囚人たちがごくりと唾を呑む。一瞬の静寂、次の瞬間には歓声が爆発した。
「うおおおおおおおお!!!!!」
「姐さん最高だァ!!」
「やってやる!! 全部ぶっ壊せぇぇぇ!!」
さらにロザリーは扇でも持っていそうな優雅さで続け、ふわりと髪を払って靡かせた。
「それと……外壁から逃げるよりも、内部から門を突き破っていく方が……趣がありませんこと?」
「趣!!!!!」
「確かに!!!!」
「分かるぜ姐さん!!!!」
「正門突破だァァァ!!!!」
誰かが机を持ち上げ、誰かが鉄パイプを振り回し、誰かが監視官室へ突撃していく。もはや暴動だった。ロザリーは「まあ、元気ねえ」とでも言いたげに微笑んでいるだけである。彼女の隣でアニータが頭を抱えた。
「……ロザリー、絶対こういう時に発言しちゃダメなタイプよ」
「え? どうして?」
「無自覚を装うワザとらしさが一番怖いのよ!!」
一方、シャルルが片眼鏡を押し上げながら感動したように頷いている。
「素晴らしい統率力です。カリスマというのは理屈ではないですねえ」
「感心してる場合か!!」
サミュエルのツッコミが飛ぶ間にも、囚人たちは本当にロザリーの言葉通りに動き始めていた。監視官室へ突撃する者、武器庫を漁る者、門へ向かって丸太を運び始める者。そして誰かが叫ぶ。
「門をぶち抜けぇぇぇぇぇ!!!!」
トゥーロン徒刑所に爆発みたいな歓声が轟いた。徒刑所側から響き始めた騒乱は、すぐにトゥーロン司令部へ伝播する。
「脱獄だと!? 何人だ!」
「まだ不明です! 内部で暴動も発生している模様!」
怒号が飛び交う。夜明けから処刑警備へ人員を割いていたせいで、司令部内は一瞬で混乱へ沈んだ。海軍士官たちは青ざめた顔で命令を飛ばし合い、武装した監視官たちが慌ただしく港と徒刑所を往復し始める。
「至急、増援を回せ!」
「港側にも伝令を! 処刑船にも連絡を急げ!」
若い士官が書類を抱えたまま駆け出す。石畳を打つ軍靴の音が朝の街へ反響していった。
一方、トゥーロン港。白煙に包まれていた処刑船は、ようやく輪郭を取り戻し始めていた。民衆のざわめきは収まらない、誰もが沖合を凝視していた。甲板では監視官たちが咳き込みながら煙を払い、互いの姿を確認し合っている。ダミアンも袖で口元を覆いながら、周囲と同じように視界の回復を待っていた。煙越しに見える人影が徐々に鮮明になっていく。
「おい、見ろ!!」
誰かの叫びが甲板を裂いた。煙の向こう、無惨に壊れた処刑台だった。斬首用の鎖は半ば砕け、木片が甲板へ散乱している。黒頭巾が脱げた執行人は尻餅をついて顔面蒼白になっていた。
「……は? い、いない……」
「そんな、馬鹿な……さっきまで、ここに——」
海風が白煙の残滓を攫っていく。最初に沈黙壊したのは一人の監視官の悲鳴だった。
「……悪魔だ。あいつは、やっぱり東の悪魔だ……! 鬼だぁ!!」
「やめろ!! そんな馬鹿な話があるか!!」
別の監視官が怒鳴るも、混乱は一気に連鎖した。
「だったら説明しろよ!! 煙に包まれた次の瞬間に消えたんだぞ!?」
「海だ! 飛び込んだ可能性がある!」
「周囲を捜索しろ、見張り船へ伝令を送れ!」
「港湾封鎖だ! トゥーロン周辺すべてだ!!」
「絶対に逃がすな!!」
国家の威信を示すはずだった船は、今や理解不能な何かに襲われた現場へ変わり果てている。ダミアンはその渦中でわざとらしく海へ視線を走らせた。
「み、見つかりません……!」
「もっと遠くを探せ、新人!!」
「は、はい!!」
ダミアンは慌てたふりをし、内心で冷や汗を掻いた。
……しばらく港に戻れなさそう。
船内のどこかには、今頃ルキフェルとコリンが息を潜めているはずだ。ダミアンは必死に真顔を保ちながら、再び望遠鏡を構えるふりをした。彼の背後ではなお、監視官たちの錯乱した怒号が止まることなく飛び交っている。
「消えた!? そんな馬鹿な!」
「さっきまで、あそこにいたんだぞ!?」
トゥーロン港はすっかり混乱へ沈んでいた。民衆たちのざわめきが波のように広がっていく。恐怖、興奮、困惑、誰もが自分の見たものを信じきれず、互いへ怒鳴るように言葉をぶつけ合っていた。
「東の悪魔だ……!」
「海に消えたんだ!」
「違う、船の下へ潜ったんだろ!」
もはや収拾はつかない。騒ぎの中心から少し離れた来賓席、エリオットは呆然と立ち尽くしていた。翡翠の瞳を持つ青年が、白煙の中に消えた時から呼吸の仕方すら分からなくなっている。
「……そんな、ラウル……」
エリオットの胸の奥で何かが嫌な音を立てた。遠い昔、まだ小さかった背中、届かなかった時間、守れなかった家族。取り戻したと思った。ようやく、もう一度——。
「……また。また俺は、失ったのか……?」
世界の音が遠のいていく。港の喧騒も波音も人々の叫びも、水の底みたいに曖昧だった。脳裏に浮かぶのは失ってきたものばかり。ゼフィランサス。崩れていった関係、壊れていった家族。名前を変え、傷だらけになって、それでも生きていた息子。——そして、また消えた。エリオットの胸の内で何かがポキリと折れた。積み上げていたものが崩れていく。大元帥としての理性も、英雄としての矜持も、父として抱えていた最後の希望も……音を立てて崩壊していく。
「エリオット!? おい、しっかりしろ!」
異変に最初に気づいたのはルソーだった。巨体の男が慌ててエリオットの身体を支える。イザベルも駆け寄り、二人で両脇からエリオットを支えた。エリオットの身体はひどく冷えている。視線は定まらず、呼吸も浅い。イザベルは彼の顔を覗き込んで息を呑んだ。
「顔色が……!」
その時、港へ向かって全力疾走してきたベルリオーズが、息を切らせながら来賓席に叫ぶ。
「アルフォンス!! 大変だぁ!!」
アルフォンスがベルリオーズを振り返り、来賓席の縁を掴んで身を乗り出す。
「何があったんです!?」
「徒刑所が……やばいことになってる!!」
ベルリオーズは来賓席を見上げ、肩で息をしながら続けた。
「囚人たちが脱獄した、門がぶち抜かれた!!」
「何……!?」
「もう街へ逃げ始めてる!! 監視官たちだけじゃ止めきれない!」
アルフォンスの顔色が変わった。白煙事件に処刑囚消失。大元帥の異変に囚人暴動。情報が一気に押し寄せ、指揮系統が軋み始める。
「まずい……まずいまずいまずい……!」
アルフォンスは頭を抱えて狼狽した。ルソーとイザベルはエリオットを支えて動けない。港は混乱、処刑船も機能停止。この状況で自分が回さなければ。アルフォンスは半ば錯乱しながら叫ぶ。
「ベルリオーズくん! まずは港の騒ぎを落ち着かせるのが先決です!!」
「は、はい!」
「司令部側には、囚人たちの捕縛と街中への捜索を至急行うよう伝えてください!!」
アルフォンスは逡巡して息を荒げながら続ける。
「元マクシミリアン隊や残りの海賊たちが、この騒ぎに乗じて逃走している可能性があります!! 急いで!!」
「わ、分かった!!」
ベルリオーズはすぐさま伝令へ駆け出したが、アルフォンスは気づいていなかった。
いや、気づけるはずもなかった。
シャルルたちの作戦は、最初から陸路逃走など前提にしていない。囚人解放も徒刑所暴動も、門の破壊も。すべて、街中へ逃げたと思わせるための陽動だ。海軍側の視線を街へ散らすため、混乱を拡散させるため。そして本命——海へ意識を向けさせないため。
もし今、この光景をあのオレンジ髪の片眼鏡野郎が見ていたなら、きっと結い上げた髪を潮風に靡かせて満足げに鼻を鳴らすことだろう。
「——だから言ったでしょう? これは極めて簡単な作戦だと」




