第十章② ルキフェル
ソフィーの足音が遠ざかってからも、ルキフェルはしばらく動かなかった。鉄格子の向こう、夜明けへ変わりつつある空。淡い光が牢内へ差し込み、石床に細長い影を落としている。ルキフェルは壁へ背を預けて天井を見上げた。頭の中はすっかり空っぽだ。ソフィーとの会話、スザンヌのこと、仲間たち、脱獄計画、色んなものが一気に押し寄せたせいで、逆に感覚が麻痺している。その時、廊下の向こうから監視官が、鍵束をジャラジャラと鳴らして近づいてきた。監視官は鉄格子の前で立ち止まると、どこか気まずそうに頭を掻く。
「……最期に食いたいもんとかあるか?」
ルキフェルは数秒だけ考えて鼻で笑う。
「ない。腹減ってねぇし」
監視官は怪訝な顔をした。処刑前の囚人がもっと取り乱すと思っていたのかもしれない。ルキフェルは空を見上げてぶっきらぼうに言う。
「もういいだろ」
監視官は肩をすくめると、「変な奴」と呟いて踵を返した。彼が廊下を歩いていくと別の牢からおずおずと声が飛んでくる。
「……あの」
監視官が面倒そうに顔を向けると、旧マクシム隊の牢のでジョルジュが困惑した顔を浮かべている。
「……なんで今日は誰も外に出してくれないんですか?」
「は? 今日は処刑される奴がいるからだよ。外はバタついてんだ」
「えっ。じゃ、じゃあ今日は誰も出られないんですか?」
「当たり前だろ。今日は特別警戒日だ、大人しくしてろ」
監視官は呆れたように鼻を鳴らして立ち去った。足音が遠ざかり、ジョルジュの顔がみるみる青ざめていく。
「……え、待ってください……誰も出られないってことは……ボク、震撃砲に触れないじゃないですか……!」
ジョルジュは膝から崩れ落ち、頭を抱えて半泣きする。
「え、ちょ、えっ、どうするんですか!? えっ!?」
シャルルは思わず額を押さえ、こめかみから汗をタラタラと流していく。
「……早速困ったことになった。頼むから、誰か想定外を増やさないでくれ……」
一方、少し離れた牢でルキフェルは目を閉じる。
「……流れに身を任せろって、波じゃあるまいし」
やがて、牢獄の奥から複数の足音が近づいてきた。重い靴音に鎖の擦れる音、短く交わされる監視官たちの声。ルキフェルは壁へ預けていた背を離す。
「……来たか」
数人の監視官が牢の前へ集まり、鍵を取り出した。ガチャリという鈍い音がして鉄格子が開く。これから始まるのは悪を晒し、断罪し、恐怖を植え付けるための時間。そして、その悪として歩かされるのが自分だ。
「立て」
監視官の低い声がし、ルキフェルは抵抗せず立ち上がる。五日間の監禁生活を経ても動きに衰えはなかった。監視官の一人が警戒したように距離を取りながら手枷を差し出す。金属の冷たい感触が肌に触れ、カチャッと音を立ててルキフェルの両手首に嵌められた。重い。拘束には慣れている。海賊として生きてきた以上、こういう瞬間を一度も想像しなかったわけではない。ルキフェルは視線を落とした。手枷、鎖、石床。そして、監視官たちの張り詰めた顔。まるで猛獣でも扱うみたいな空気だとぼんやり思う。
「……行くぞ」
監視官に促されてルキフェルは牢を出て廊下を歩き始める。左右の牢から囚人たちの視線が突き刺さる。ざわめき、小さな息遣い、誰かが呟く声。だが、ルキフェルは振り返らなかった。前だけを見る。これから、自分は民衆の前へ引きずり出される。国家にとっての悪として、見せしめとして。海賊とはこうだと民へ教えるために。港には、もう人が集まり始めているはずだ。自分を一目見ようとする連中、ある者は恐怖で、ある者は好奇心で、ある者は歓声を上げるために。ルキフェルは薄く目を細めた。
「……くだらねぇ」
正義も悪も、結局は立場だ。国家がそう決めれば、自分は悪になる。海を守ろうとしたことも、仲間を守ろうとしたことも、自由を守ろうとしたことも。全部、罪として処理される。だが、ルキフェルの足は止まらない。鎖を引きずりながら歩き続ける。まるで、自分の最期くらいは自分の足で選ぶと決めた男のようにに。ルキフェルの姿が牢獄の奥へ消えてから、残された空気は妙にざわついていた。ジャスパーは壁にもたれて額へ浮いた汗を乱暴に拭う。
「……頼むから、まだバレんなよ」
彼の視線は何度も廊下へ向いていた。コリンがいない今、ここへ監視官が来て人数確認でもされたら一発で終わる。一方、ニールは膝の上に肘を置いて俯いていた。こういう時、自分はどう動くべきなのか。先に飛び出すべきか、待つべきか。もし失敗したら、もし間に合わなかったら。頭の中で選択肢が増え続けて思考が渦を巻く。
「……いや、落ち着け……」
マテオはピッキング道具を指先で弄んでいた。カチカチと金属音が鳴る。今なら開けられるが、早すぎれば終わる。監視官に見つかった瞬間、全部崩壊する。分かっている、分かっているのに身体の奥が命令を聞かなかった。一方、旧マクシム隊の牢では別方向の地獄が発生している。
「シャルル!! あんた説明しなさいよ!!」
「だから、ぼくだって聞いてないんだってば!!」
「こんな作戦聞いてないわよ!!」
ロザリーの蹴りがシャルルの膝裏に飛ぶ。
「痛っ!!」
次の瞬間、今度はアニータの足が彼の脛へめり込んだ。
「うぐっ!?」
シャルルは壁際へ追い詰められ、サンドバッグ状態にされた。
「ちょ、待っ、落ち着いて!? 今いちばん混乱してるの、ぼくだからね!?」
「だったら、なんでその顔で汗かいてんのよ!!」
「それは困ってるからだよ!! ロザリーやめて!!」
牢の隅ではジョルジュが膝を抱えて呟きながら丸くなっている。
「震撃砲……外……触れない……終わった……」
完全にメンタルが砕けている。リゼーヌとスザンヌは鋭い目つきで廊下に目を走らせていた。別々の牢で囚人たちが騒ぎ始めている。
「おい! 誰かいねぇのか!」
「酒持ってこーい!!」
「今なら逃げ放題じゃねぇか!!」
それでも誰も来ない。監視官どころか、人影そのものがなかった。リゼーヌは数秒黙り込んだあと真顔で呟いた。
「……これ、今なら手薄だ」
どうやら、監視官たちは悪名高い海賊の公開処刑を見るために軒並み外へ出払っているらしい。その瞬間、別の牢からガチャッと金属音が響いた。マテオはとうとう我慢できなくなったらしい、自力で牢を開けると別区画のジャスパーとニールの鍵まで外した。
「行くぞ」
「早っ。いやでも、おれも限界だった」
ジャスパーが苦笑し、ニールも息を吐きながら牢を出た。三人は足音を殺しながら廊下を進み、角を曲がったところで旧マクシム隊の牢前に立った。
「あ……」
スザンヌが声を漏らすと、マテオは牢の奥で阿鼻叫喚となっている光景を睨んだ。
「……ひでえ。特にジョルジュが枯れてる」
リゼーヌが首を横に振って語る。
「計画に狂いが生じたんです。ジョルジュさんが震撃砲を操れないの、確定したので」
「なるほどなぁ」
ジャスパーはニヤニヤしながら萎びているジョルジュの背を眺めた。悲鳴が飛び交う中、ニールがやや声を張ってリゼーヌに言う。
「震撃砲って東洋兵法ベースのやつだっけ?」
「そうです! 衝撃波のやつ!!」
リゼーヌの返答が、シャルルの悲鳴と囚人達の騒ぎに紛れた。マテオは腕を組んで鉄格子向こうの石壁を見つめた後、リゼーヌとスザンヌに告げる。
「オレたちが行ってくる。なるべく鉄格子に寄ってろ」
三人は視線を交わした。震撃砲、ヤンが話していた作戦、リュウが修理した一台が頭の中で駆け巡る。
「……外か」
「ああ、行くぞ」
ジャスパーが呟き、マテオが廊下を進み出した。ジャスパーとニールも彼に続こうとした時、スザンヌが彼らの背を目で追いながら鉄格子を掴んで言う。
「どうか、ご無事で!」
ジャスパーは振り返らず片手を上げて応えた。鈴みたいな音が、野郎どもの吃る声より早く心に染み渡っていく。やがて、三人は牢獄を抜けると徒刑所の外庭へ向かって走り出した。
その頃、処刑用コルベット船が徒刑所から出航した。甲板には監視官たち、船倉には搬送箱。そして、箱の中には息を潜めるコリン。さらに監視官の制服へ身を包んだダミアンが、何食わぬ顔で船員たちの中へ紛れ込んでいた。
朝の光は容赦がない。夜の冷たさを押し流すように昇ってきた陽が、トゥーロンの石畳を白く照らしている。海風に混じる潮の匂い、遠くで鳴る鐘の音、ざわめき。人、人、人。ルキフェルは手枷を鳴らしながら補導を歩かされていた。監視官たちに囲まれている、まるで猛獣の護送だ。左右から飛んでくる視線が肌へ突き刺さる。好奇、嫌悪、恐怖、興奮。民衆の感情が濁流のように押し寄せてくる。
「……あれが五鬼衆、思ったより若い……」
「傷、すご……」
「怖。人殺しだろ」
囁き声が耳へまとわりつく。見られているだけで呼吸が浅くなる。肺が上手く空気を吸えない。視線という視線が、自分の皮膚を剥がして内側まで覗き込んでくるみたいだった。
——嫌だ。
喉の奥で本能が軋む。逃げたい、隠れたい、消えたい。傷を見られることも、顔を見られることも、自分という存在を他人の目で値踏みされることも怖い。けど、ここで折れるわけにはいかなかった。翡翠の瞳を伏せ、ルキフェルは深呼吸した。胸の奥で別の感情が疼いてくる。
——このあと、あいつら絶対に暴れる。
ルキフェルは口元を歪めた。もう思い出すだけで頭が痛いが、見たい。あの連中がこの状況をどうひっくり返すのか。自分のためか、自由のためか。ただ意地で暴れるだけなのか。たぶん、全部だ。だから、まだ終われない。恐怖に飲まれるには、少し惜しいものが増えすぎていた。手枷を鳴らし、監視官に促されるまま、ルキフェルは歩みを早める。
やがて、歩道の先で海が見え始めた。トゥーロン港帆柱。軍、艦、ざわめく群衆の一角に、赤を基調にした来賓席が設けられている。国家の威信を示すための席、正義を眺めるための場所。ルキフェルは視線を流すと、来賓席の端にソフィーがいた。張り詰めた顔、こちらを見つめる青い瞳。来賓席の中央付近では、エリオットが朝の光を受けてもなお威圧感を失わず座っていた。エリオットと視線が交わりかけ、ルキフェルの呼吸が止まりそうになった。
——駄目だ。
ルキフェルは反射的に目を逸らす。見られなかった。父親の顔も、ソフィーの顔も。今、誰かと目を合わせたら何かが崩れる気がした。だから、ただ前だけを見る。船着場へ続く道、停泊するコルベット、その先に待つ処刑。ルキフェルは両手を握りしめて慎重な足取りで進んだ。まるで、自分自身を海へ返しにいく男のように。
海賊三人が庭へ飛び出した瞬間、冷たい空気が肺へ流れ込んだ。石畳、外壁、潮風。遠くから微かに聞こえる港のざわめき。そして、庭の茂みがガサリと揺れる。
「あ、どうも」
ポーランがひょこっと顔を出した。相変わらず緊張感の薄い声に、ジャスパーが目を細める。
「……生きてたか」
「そっちも」
次の瞬間、ポーランの視線が三人の顔を捉えて首を傾げる。
「……あれ? 聞いてた話と違うけど」
「オレたちも今それ思ってる」
マテオが即答し、ポーランが瞬きを繰り返す。
「え、あのジョルジュ君とやらは?」
「牢」
「は?」
「牢」
ポーランが目をパチクリしていると、ニールが額を押さえた。
「……いや、正確には出られなかったかな」
処刑日、当然ながら監視体制が変わる。本来なら昼間に旧マクシム隊が外へ出されたタイミングで、ジョルジュが震撃砲へ向かう予定だった。
「今日は処刑される奴がいるからだよ」
監視官の言葉が脳裏を過る。誰も外へ出されない。つまり、作戦の前提が開始前から崩れていた。ポーランが乾いた笑みを浮かべる。
「……うわぁ」
「笑えねぇ」
マテオは片眉を引きつらせた瞬間、全員の脳裏に同じ男の顔が浮かぶ。あるいは、もう一人も。胡散臭く笑うシャルル、もしくは彼の伝言を説明していたヤン。
——まず外部三人で震撃砲をゲットしたら、ぼくたちが牢の位置を外にいる君たちへ知らせる。旧マクシム隊は昼間、外へ出られるからね。以前、震撃砲へ触れたことがあるジョルジュが君たちの元へやってくる。合図は処刑船から白煙が上がったら。
それから、震撃砲で無差別に壁へ穴を開けまくる。自分たちはその隙にピッキングで牢を出て、囚人たちも解放して内部混乱を起こす。……え? 最初から全部ピッキングにすればいいじゃないかって?
いやいや、ピッキングは便利だけど全ての牢を開けるのには時間がかかるんだ。爆破した方が短時間で済む。砲弾の最後は旧マクシム隊の牢、あたかも自分たちは壁から脱出したように見せるため。
まあ実際、その通りなんだけど。囚人たちは壁でも室内でも自由にさせよう。自分たちは処刑船が戻ってきたところで空いた壁から外へ出て、そのまま港へ向かって船を乗っ取るという……極めて簡単な作戦さ。
……。…………。庭に妙な沈黙が落ち、ジャスパーが空を見上げる。
「今思うと、どこが極めて簡単なんだろ」
「全部だろ」
マテオが真顔で返し、ニールは乾いた笑みを漏らす。
「『途中で前提が崩れないこと』前提の作戦だったんだねぇ……」
「雑すぎるだろ」
マテオが溜め息混じりに返し、ジャスパーはケタケタ笑いながら言う。
「でも、あの二人なら『なんとかなる』で通してそう」
「それが怖ぇんだよ」
マテオが眉間を抑えると、ポーランが吹き出した。
「でも、逆に言えばまだ詰んでないっすよね?」
三人が視線を向けると、ポーランは親指で背後を示した。茂みの奥には布を被せられた震撃砲が鎮座し、側ではマルクとチャンが軽く手を振っている。
「予定の人いなくても、撃つだけなら出来るんで」
チャンの言葉にマテオの眉がピクリと動く。
「当たるのか?」
「知らないです」
「おい」
「でも……外壁に穴開けるだけなら、何発か撃てばどうにか」
チャンがにこやかに笑うと、マテオは盛大に舌打ちした。
——もう、やるしかねえ。
潮を裂きながら進んできたコルベット船が、ついにトゥーロン港の船着場へ横付けされる。鎖の音、帆がはためく音、監視官たちの怒号。港は処刑という異様な催しに浮き足立っていた。甲板の隅、ダミアンは帽子を深く被って視線を上げる。船着場、兵士たちに囲まれながら歩いてくる男が見えた。暗褐色の髪、傷だらけの顔、手枷、それでも崩れない歩き方。
——ルキフェルさん。
ダミアンは思わず喉を鳴らした。
「……本当に来た」
当たり前だ。処刑されるのだから。だが、実際に彼の姿を目にすると妙な現実感があった。あの男が今、国家に連行されている。しかも本人は妙に静かだ。逃げる様子暴れる様子も、焦る様子もない。その姿が逆に不気味だった。
一方、船内の奥。空の搬送箱の中でコリンは膝を抱えてガチガチに固まっていた。暗い、狭い、暑い。そして何より、心臓がうるさい。ドクドクと耳の奥で暴れている。手の中には白煙爆弾、チャン特製の絶対ヤバいやつ。
「……うぅ」
思わず情けない声が漏れた時、脳裏に浮かぶのは面会へ来たヤンの顔だった。相変わらず感情の読めない穏やかな顔。
——シャルルさんからの伝言です。まず外から宣告官の高らかな声が聞こえたら、船内へ白煙爆弾を爆破させなさい。煙が船内へ回るまで時間がかかるかもしれませんからね。それから、どこか適当な場所から甲板へ向かって、もう一つ投げ込むこと。船上が混乱している間にルキフェルさんの拘束を解いて、二人で船内へ逃げ込みなさい。あとは、その辺でじっとしていれば大丈夫です。
……。…………。コリンは箱の中で顔を顰めた。
「適当な場所ってどこなのよ……じっとしてれば大丈夫って何……?」
意味が分からない。そもそもこの作戦、全員ふわっとしすぎている。コリンはグシャグシャになった前髪を掻いた。怖い。正直、めちゃくちゃ怖かった。失敗したら終わる。見つかったら終わる。でも、脳裏にルキフェルの顔が浮かぶ。いつも通り「ま、なんとかなるだろ」とでも言いたげに笑っていた男。コリンは唇を噛んだ。
「……ほんと。なんで、ぼくまで……」
ぼやきながらも白煙爆弾を握る手は離さなかった。
午前の光が海を白く照らしている。ルキフェルは監視官に促されて船上に足を踏み入れた。靴裏が甲板を叩く乾いた音が響き、海風が頬を撫で、潮の匂いが濃くなった。空は青く高く、あまりにも穏やかだ。
——皮肉だな。今日、自分は死ぬ筈だったのに。
甲板の中央には、既に処刑台が据えられていた。分厚い木材で組まれた低い台、手首と足首を縛る鎖があり、周囲には血抜き用の溝まで刻まれている。船の揺れを抑えるためなのか、台座は鉄と木材で厳重に補強されていた。黒い頭巾を被った執行人が、幅広の処刑刀を手に仁王立ちしている。執行人の隣には国家高官たち、彼らの背後に監視官と武装兵が並ぶ。どいつも緊張していた。表情を取り繕っていても空気が硬い。ルキフェルは鼻を鳴らした。海賊一人殺すだけで大層なことだ。ルキフェルは監視官に肩を押され、処刑台の前へ立たされる。両手の手枷が鳴り、金属音が妙に鮮明に耳へ残る。
「膝をつけ」
ルキフェルは片膝をつき、もう片方もつくと木の感触が両膝に伝わる。潮風が髪を揺らし、一度鎖を外された。手首が軽くなって涼しくなるも、すぐに処刑台の鎖が手首と足首へ嵌められていく。ルキフェルは視線を上げると港が見えた。船着き場を埋め尽くす群衆。遠すぎて、もう一人ひとりの顔までは見えない。……いや、一瞬だけ亜麻色が消えていくのを見た気がした。ルキフェルはすぐ視線を逸らして海を見る。その時、号鐘が鳴った。港に重い音がひとつ響き、追うように甲板からボースン・ハイプの鋭い音色が走る。水兵たちが一斉に持ち場へ散っていく。
「出港!」
監視官の怒鳴り声に呼応するように錨が上がっていく。係留索が解かれ、帆が風を孕む音と共にトゥーロンの街並みが少しずつ遠ざかる。歓声とも怒号ともつかない民衆の声が、潮風に混ざって薄れていった。ルキフェルは目を細める。数百メートル先、そこが処刑地点になる。監視船が既に周囲を巡回し始めていた逃亡防止のためか、砲門までこちらに向いている。国家は本気で自分を殺すつもりらしい。妙に滑稽だった。ルキフェルは息を吐く。緊張はなかった。あるのは奇妙な静けさだけ。牢の中でソフィーと話した時間、ジャスパーたちの顔、色んなものが波のように脳裏を行き来する。
——まだ終わってない。
沖合の風は強かった。船体が波に合わせて揺れるたびに処刑台の木材が軋むが、宣告官の声は鋭く海上へ響き渡っていく。
「——国家に仇なす大罪人。五鬼衆の頭目ルキフェル! 貴様は——」
高らかな声音、民衆へ聞かせるための芝居じみた抑揚だが、ルキフェルの耳には入ってこなかった。潮風、波音、遠くの海鳥。聞こえるのはそんなものばかり。ルキフェルは項垂れて浅く息を吐く。……まだか。
一方、船内では積荷の搬送箱が揺れていた。ギギッと木箱の蓋が開き、暗闇の隙間からコリンの片目がキラリと覗いた。
「……っぷは」
コリンは箱から顔を出して天井を見上げ、指をパチンと鳴らして白煙爆弾の導火線に火をつける。
「よし」
コリンが爆弾を床へ転がすと、ボンッという間抜けな音と共に白煙がぶわりと膨れ上がった。
「うわっ、煙すご……っ」
煙はみるみる船倉内へ広がっていった。コリンは頭上から響く宣告官の声へ耳を澄ませる。処刑台は上、船の中央寄りだ。コリンは砲台口へ駆け寄り、薄暗い開口部を除いた。青白い海が見える。ここから身を乗り出せば、外から見つかる危険も高いが、やるしかない。
「落ちるなよ、ぼく……!」
コリンは足を砲台口へ引っ掛け、細い身体を外へ滑らせた。風が吹きつける。海面が遠い。コリンは歯を食いしばって懐の白煙爆弾を握りしめる。
——残り二つ。
その頃、甲板では宣告官の問いが響いた。
「最期に何か言い残すことはあるか」
ルキフェルは顔を伏せて沈黙を貫き、宣告官が頷くと執行人が前へ出た。巨大な処刑刀が持ち上がり、陽光を受けて刃が鋭く煌めいた。処刑人がキリッと刃の角度を変えると白い光が筋のように走る。
それと同時に、コリンがもう一度指を鳴らして白煙爆弾の導火線へ火が灯る。
執行人が刃を振り下ろそうとした瞬間、ルキフェルの口元が歪んだ。
コリンは船縁を片手で掴むと壁を蹴って身を乗り出す。
「——いっけぇ!!」
コリンが爆弾を持つ手を大きく振りかぶると、執行人の足元に白煙爆弾が転がり込んだ。
「なっ——」
——ボンッ!!!!
爆ぜて一瞬で白煙が噴き上がる。さらに処刑台の背後、床へ落ちた二つ目が炸裂し、白煙が暴風みたいに広がった。
——ブォンッ!!
「げほっ!?」
「なんだこれ!!」
「煙だ、視界が——!!」
甲板が一瞬にして真っ白に染まると同時に船内からも煙が溢れ出した。階段、船倉、砲台口、あらゆる隙間から白煙が噴き出し、船全体が白い霧に飲み込まれていく。監視官たちが怒鳴り合い、執行人が咳き込み、兵士たちが互いにぶつかる混乱の中、コリンはするりと甲板へ這い上がって白煙に飛び込む。
「げほっ……! やばっ……!」
コリンは涙目になりながらも、小柄な身体を活かして人と人の隙間を潜り抜け、転びかけた兵士の脚の下を滑り、監視官の背後を抜けて白煙の中心へ駆けた。
「ルキフェル!!」
「……遅ぇ」
「文句言うな!!」
煙の中から翡翠の瞳がこちらを見るも、コリンは叫びながら足元の鎖に飛びついた。
「うわ硬っ……!」
「待ってろ」
ルキフェルも立ち上がって振り解く勢いで暴れ、次の瞬間には足元の鎖が引きちぎれた。
——ガシャン!!
「走って!!」
「言われなくても!!」
コリンがルキフェルの手を引っ張り、二人は煙の中へ転がり込むように走った。視界は白い、まともに前が見えない。誰かと肩がぶつかる。怒号、咳、悲鳴が飛び交う中、二人は階段へ飛び込んで転げ落ちるように船倉へ向かった。
「こっち!!」
コリンが搬送用の木箱を開け、ルキフェルは白目を剥いた。
「はあ!?」
「早く入って!!」
「狭ぇだろこれ!!」
「黙ってよ!!」
二人は無理やり箱へ身体を押し込む。ぎゅうぎゅうだった。脚が当たる、肩がぶつかる。息苦しい。コリンが蓋を閉じるとガコンという衝撃音が鳴り、一気に暗闇が訪れた。外ではまだ怒号が響いている。箱の中で二人して咳き込んでいる。狭い、暑い。煙臭いが、ルキフェルは暗闇で口元を歪めた。
——なるほど。流れに身を任せろって、こういうことか。




