第十章① 運搬、変装、潜入
徒刑所の空気は夜の冷たさを引きずっていた。海風が石壁の隙間を抜け、湿った塩気を帯びた空気が廊下を這うが、その裏では、すでにいくつもの影が動き始めていた。ヤンの部屋の扉が開き、ポーランが最初に現れた。彼の後ろから、斧を背負ったマルクとチャンが続き、最後にダミアンが部屋から出てくる。ダミアンは牢獄方面へ。ポーラン、マルク、チャンは外へ向かう計画となっていた。
「では、行ってきます」
「とっておきだからね」
別れ際、チャンがダミアンに小さな袋を投げて寄越す。中には白煙爆弾が三つ。丸く白い球体は掌に収まるほど小さい。それから、ピッキング道具が一本。ダミアンは袋を懐へ押し込んで身を翻した。服装は最低限、薄いシャツとズボンだけ。春とはいえ、夜明け前の空気は骨に刺さるように冷たいが、そんなことを気にしている場合ではない。服なんて、あとでどうとでもなる。ダミアンは裸足だった。石床へ直接触れる足裏の感覚を頼りに摺り足で進む。ぺたり、ぺたりと湿った床を踏む音だけが微かに響く。
影から影へ、監視官たちの視線を避けながら、ダミアンはするりと牢獄内部へ滑り込んだ。警備は甘い。夜勤の看守たちは眠気に負け、壁にもたれて欠伸を噛み殺している。鉄格子の向こうで囚人たちの寝息が続いていた。ダミアンは奥へ進む。最初の目的地はコリンの牢だった。薄暗い牢内、壁にもたれたコリンが起きている。表情が硬い。年相応の緊張が顔にありありと出ていた。ダミアンは膝をついて細い工具を差し込み、鍵穴を探る。カチカチっと金属音が鳴って錠が外れた。コリンが息を吐く。
「……ありがと」
「礼はあとで」
ダミアンが小声で返すとコリンは頷いて素早く牢を抜ける。二人が廊下を進んだ時、マテオの牢を通りかかった。マテオが二人に声をかける。
「おい、お前ら」
ダミアンが牢の前に立つと、マテオは暗がりの中でも美貌だけは異様な圧を放っていた。マテオはダミアンの手に握られたピッキング道具を指差す。
「それ、まだ使うか」
「いいえ」
「だったら、くれ」
ダミアンは鉄格子越しにピッキング道具を差し出し、マテオはて伸ばして受け取る。
「自分で開ける」
「了解です」
ダミアンとコリンは出口へ向かって再び廊下を進む途中、遠くの牢獄区画から微かに話し声が聞こえた気がした。低く落ち着いた男の声と、控えめに応える女の声。ルキフェルの牢の方向だったが、二人とも立ち止まらない。今は感傷に浸っている場合じゃない。奇抜で無茶苦茶で、成功する保証なんてどこにもない作戦。でも、誰かがやらなければならなかった。コリンが前を見据えて囁く。
「絶対、成功させる」
ダミアンは裸足のまま、冷たい石床を蹴るように進んでいった。
その頃、徒刑所の外。港周辺は慌ただしく動き回る人影で溢れていた。軍関係者に監視官、処刑執行の準備を進める役人たち。船の配置変更、警備経路の再確認、斬首船への物資運搬。処刑当日の混乱を避けるため、港全体が稼働している。怒号に足音、波止場へ響く鉄鎖の音。誰もが公開処刑へ意識を向けているからこそ、徒刑所内部の警備は今までになく手薄になっていた。この混乱を利用するため、トゥーロン司令部側の搬入口から三つの人影が滑り込む。ポーランとチャン、それにマルクは物音を極力殺しながら、暗い通路を進んでいく。
向かう先は兵器点検区域。四日前……いや、もう五日前になるか。リュウが司令部内の兵器点検を行った際、一台の震撃砲に対して『修理が必要』との判断を下していた。翌日には組織側の人間も交えて修理作業が始まり、一時的に兵器点検区域へ留め置いた。そして今日、その震撃砲が復帰する。
「……ほんとにやるんですか?」
「今さらっす」
チャンが小声で呟いてポーランが即答した。マルクは巨大な砲台へ両手をかけ、慎重に押している。車輪が少しずつ軋み、三人は息を合わせながら震撃砲を移動させていった。兵器点検区域から搬入口へ、搬入口から徒刑所外壁のある庭へ。夜明け前の薄暗さが味方だ。やがて、徒刑所外壁の前でポーランが足を止める。高い石壁、並ぶ格子窓。彼は視線を上へ滑らせ、一つ一つ確認していった。
「……どこだ」
その時、ある格子窓から細い腕が飛び出して、ぐっと親指が立った。ポーランが一瞬目を細める。
「……いた」
牢内、サミュエルが壁際で踏ん張り、彼の肩へ乗ったペネロペが格子窓から腕を出している。
「落ちるなよ!」
「黙って支えて!」
サミュエルが小声で呻き、ペネロペが鋭い声で返したて腕を伸ばし続ける。外から見れば目印だ。ポーランは窓の位置を確認すると頷き、再びチャンとマルクの元へ戻った。
「あそこっすね。位置確認完了」
「よし」
三人は再び震撃砲へ手をかけて移動を再開した。まずは庭の茂み、一目につかない場所へ砲台ごと身を隠す。遠くでは港の喧騒がまだ続いていた。
港側では停泊する船の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。海はまだ暗いが、空は次第に朝を連れてくる。ダミアンとコリンは荷台の陰へ身を潜め、じっと港を観察していた。処刑用の船、黒々とした船体、周囲に配置された監視官。乗り込み口付近で忙しなく動く軍関係者たち。ダミアンは物陰から視線を滑らせる。
「……警備、多いですね」
「まあ、公開処刑だし」
コリンが唇を尖らせた時、ダミアンの視線が止まる。少し離れた倉庫裏で若い監視官が一人、木箱へ腰掛けて俯いていた。妙に落ち着きがない。不安そうに指を弄り、何度も周囲を見回している。新人だな。ダミアンは目を細めたあと、懐から白煙爆弾を取り出してコリンへ押しつける。
「持ってて」
「え?」
「ここにいて」
ダミアンは荷台の陰から倉庫脇へ、樽の裏からロープ束の影へ、蛇が這うようにスルスルと移動していく。新人監視官は気づかない。ダミアンの腕が首元へ滑り込み、監視官の後頭部を打った。
「……っ」
監視官は声も上げられず崩れ落ち、ダミアンは素早く監視官の身体を支えて倉庫内へ引きずり込んでいく。数分後、倉庫から出てきたのは監視官の制服を着たダミアンだ。ダミアンは帽子を深く被り直して呟く。
「……落ち着かない」
ダミアンがコリンを手招きし、コリンは息を殺して陰から陰へかけた。この頃には空もかなり明るくなり、港の人員は徐々に司令部側へ集中し始める。処刑前の最終確認に点呼、警備配置。人の流れが偏る今、ダミアンは空の搬送箱を引き寄せ、コリンを中へ押し込んだ。本当は樽にしようか逡巡したが、船倉にぶち込まれる恐れがあったので前者にした。
「狭っ」
「我慢してください」
「雑ぅ!」
「喋んないで」
蓋が閉まり、中から「むぐっ」と不満げな声が漏れた。ダミアンは深く息を吐いて箱を荷車に詰み、荷馬車を引くと車輪がギィと軋む。
「っ、はあ……」
監視官の制服に慣れていないせいで動きづらい。しかも、コリンが入ってるせいで予想以上に重量がある。船まであと少し。タラップを目前に捉えると、ダミアンの背後から荒い声が飛ぶ。
「おい!」
ダミアンの肩がびくりと震えて振り返る。年季の入った監視官が立っていた。日に焼けた顔、太い腕、いかにも現場慣れしている男。ダミアンの脳裏に最悪の想像が走る。
——バレた。
監視官はダミアンを頭からつま先まで見て笑った。
「お前、新人だな?」
「……はい?」
「今日、新しく赴任する奴がいるって聞いてたんだ。お前か」
ダミアンは一瞬思考停止したが、慌てて身なりを整える。
「は、はい……」
「そうかそうか。いやなに、さっき同僚と話してたんだよ。『新人が寝坊したのか、集合時間過ぎてんのに来ないな』ってな。なるほど、それ運んでたわけか」
「え、あ、まあ……」
「真面目じゃねぇか。運ぶの手伝うぜ」
「……え」
男は豪快に笑って箱の反対側に手をかけ、ダミアンの背中に冷や汗が伝った。
「ほら、ぼさっとすんな新人」
「あ、はい!」
二人でコリン入りの箱を持ち上げ、ギィギィと音を立てながら船へ運んでいった。途中、箱の中から微妙に物音がしてダミアンの胃が死にそうになる。
「緊張してんのか?」
「……まあ」
「最初は皆、そうだ。そのうち慣れる」
絶対慣れない。ダミアンは心の中で叫んだ。やがて、搬送箱は無事に船内へ運び込まれる。
——入った。
「よし。新人、お前こっち来い」
「……はい?」
監視官が手招きし、ダミアンの笑顔が引きつる。
「お前、今日からこっちの持ち場だろ。案内してやる」
終わった。ダミアンは監視官の帽子を被り直しながら、ぎこちなく頷く。
「……よろしく、お願いします」




