第九章 ルキフェルとソフィー
四月十四日、朝日はまだ昇らない。薄暗い牢の中、ルキフェルは壁にもたれて天井を見上げていた。あの裁判以降、エリオットは一度も会いに来なかった。立場上の理由か、あるいは単純に忙しいのか。どちらでもよかった。今さら確認したところで、どうにもならない。法廷で自分が叫んだ言葉。あれでもう、父親との縁は切れたようなものだった。
——俺はルキフェルで、俺の父はフランソワだ。
あの瞬間の空気を思い出す。エリオットの顔、揺れた瞳、壊れかけた呼吸。ルキフェルの胸の奥がわずかに軋んだ。
「……まあ」
ルキフェルは瞼を閉じる。別に、これで終わりにするつもりはなかった。ここを抜け出して、ダラス家を沈めて。全部終わらせたあと、もう一度戻ってくるつもりだった。その時になって初めて謝罪すればいい。法廷で言ったこと。それから、これからやること。脱獄なんぞされたら、エリオットはまた頭を抱えるだろう。想像すると少し気まずいが、それでもシルヴェストルに全てを握られたまま死ぬ気はなかった。遠くで波の音が響く。
——静かな夜だな。
ルキフェルはぼんやりと鉄格子を見る。仲間たちが何を企んでいるのか。正直全部は知らないが、碌でもないことは分かる。シャルルが絡んでいる時点で嫌な予感しかしないし、ニールも止めていない。マテオは勢いで突っ込むだろう、コリンはどこかで危険物を作っているのだろうか。
「……不安しかねえ」
けれど、不思議と絶望はなかった。あいつらは来る。本当に来る。
「……馬鹿ども」
低い呟きが牢の闇に溶ける。自分は生き延びるために、今は朝を待てばいい。潮の匂いを含んだ夜風が鉄格子を抜けていった時、不意に気の流れが変わった。ルキフェルは視線を彷徨わせる。誰かが来る。監視官ではない、足音が軽い。呼吸も荒くない、殺気も無いが……近づいてくる気配を感じ取った瞬間、ルキフェルは顔を顰めた。
「……はぁ」
数秒後、鉄格子の向こうに現れたソフィーを見て、やっぱりなと内心で毒づく。夜の薄闇の中、ランタンの灯りに照らされた白い顔。どこか疲れ切った様子なのに、それでも来たらしい。ルキフェルは心底面倒くさそうに眉間を押さえた。
——この後に及んで来るのか、この女。
数秒沈黙したあと、ルキフェルは低く押し殺した声を落とす。
「……なんで来た」
思ったより怒気が混じり、ソフィーの肩が揺れるも一歩近づいてくる。
「処刑の時、見るなって……あなたが言ったでしょ。我慢できなくて来ちゃった」
「……来るなって言ったはずだ」
ルキフェルは睨み返すと、ソフィーは視線を落として自分の手を握り締める。
「でも、ただ待ってるだけなんて、できない」
「できるだろ」
「できないよ。あなたのことを見ないふりなんて……できない」
「……見るなって言ったのは理由がある。大人しく言うこと聞いとけ」
ソフィーが唇を噛むが、顔を上げて真っ直ぐ見返してくる。
「それができないの、知ってるでしょ。今さら言うこと聞くような性格じゃないって」
ルキフェルは思わず目を細めた。
——ほんと面倒くせえ。こいつはずっとこうだ。一度決めたら動く。
「……この状況で、まだ俺を助けたいとか思ってんのか」
ソフィーは少し黙ってから口を開く。
「無力でいたくないだけ。仲間を失うのに……何もできないまま離れてるのが嫌なの。……離れてる方が、無理」
ルキフェルは思わず顔を歪める。その言葉が妙に胸へ刺さった。
「誰のためだ。俺のためか、それとも自分のためか」
ソフィーが息を詰まらせて胸に手を当てる。
「……どっちも。でも今は……ここにいることしか、私にはできない」
ルキフェルの翡翠の瞳が格子越しに彼女を見る。ほんと、馬鹿だ。しかも自覚無しに飛び込んでくる。だから嫌なんだ。巻き込みたくないのに。ルキフェルはとうとう折れるように息を吐いた。
「……わかった。だが、それでも俺を巻き込むな」
「え?」
「勝手に危ねえことすんなって意味だ」
ソフィーが一瞬きょとんとしてから笑った。彼女の顔を見た瞬間、ルキフェルはさらに眉間を押さえる。
——ああ、もう。うぜえ、調子狂う。こいつは止まらない。そして、自分も突き放せない。
ソフィーは夜風に揺れる髪を押さえながら息を吐いた。
「……ねえ。どうして、そんなふうに壁を作るの? どうして、心を閉じるの?」
ルキフェルは彼女を見つめ返す。普通、ここまで拒絶されたら少しくらい距離を取るだろうに。
「壁、か……守るためだ。俺自身をな。誰かを巻き込む前に、壊れる前に……もう、俺は壊れても取り返しのつかない場所にいる。お前には余計なもの背負わせたくない。俺の罪や絶望で、お前の心まで汚したくない。……俺はもう、誰かを守れる立場じゃない」
自分でも驚くほど素直な言葉だ。ソフィーの前だと妙に誤魔化しが効かない。
「……それでも、私はここにいる」
ソフィーは引かなかった。ルキフェルは盛大なため息を吐く。だから、そういうところだ。しかも本人は善意だから余計タチが悪い。
「そうやって、お前は何人見送ってきた? 本当に……感謝されたと思ってるのか」
ソフィーの視線が一瞬落ちるが、すぐ顔を上げる。
「みんな言ってくれた。そばにいてくれるだけで心強いって、みんな言ってくれた」
フェルナンド、マクシム、メリッサ、彼女の口から零れる死者たちの名前を聞きながら、ルキフェルはぼんやりと思う。
——ああ、この女はずっと死を見送ってきたんだな。
「……でも、ひとりだけ、そばにいるなって拒んだ人がいた。グウェナエルさん」
「……グウェナエルか」
あいつは不器用で芯が強い。そして、多分——。ルキフェルはぽつりと言う。
「そいつも……お前の気持ちは、ちゃんと受け取ってたんだろう。拒んだのは……弱さを認めたくなかっただけだ。……お前がそばにいるだけで、救われるやつはいる。俺も……少しな」
その瞬間、自分でも少し笑いそうになる。何を分かったような口利いてんだ。明日には脱獄する予定の男が。しかも今、ソフィーに対しては死ぬ側の台詞を吐いている。我ながら酷いが、まあいいか。どうせ明日には全部ひっくり返る。今くらいは、この女の気が済むまで付き合ってやってもいい。ソフィーが息を呑む音が聞こえた。
「彼はね、死ぬ瞬間を私に見せたくなかったって言ってた。生きていた記憶だけを、私に残したかったんだって。それが彼の願いだった」
ルキフェルはソフィーから目を逸らした。
「……生きていた記憶だけ、か。……それでいい。死ぬ瞬間なんて、見せるもんじゃない。目に焼き付いたら……お前まで壊れる。だから、生きてた俺だけを覚えてろ。絶望の顔なんて、残す気はない」
言いながら、ルキフェルは内心で少し苦笑する。
——いや、残す気も何も。そもそも死ぬ予定じゃねえんだけどな。
明日には、たぶん騒ぎになる。マテオたちが静かに終わるはずがない。もう嫌な予感しかしないが、その馬鹿騒ぎを少し楽しみにしている自分がいるのも事実だった。夜明け前の淡い光が鉄格子を細く縁取っていく。太陽はまだ見えないが、空は少しずつ灰色から青へ変わり始め、牢の輪郭が薄闇の中に浮かび上がっている。ルキフェルは壁にもたれて天井を見ていた。眠ってはいない。処刑前日にぐっすり眠れるほど図太くもなかった。
「……これから死に行く人には見えない」
ルキフェルは視線を移すと、ソフィーが顔を歪めている。
——そんな顔するくらいなら来るな。
「どうして、そんな顔ができるの……」
ソフィーの声が震えている。ルキフェルは答えない代わりに彼女を見返した。
「……ルキフェル」
ソフィーが一歩ずつ鉄格子へ近づき、彼女は膝を折ってしゃがみ込んだ。
「……ごめん。触れても、いい?」
ルキフェルの身体がわずかに強張り、警戒心が一気に跳ね上がった。
——顔か?
彼の胸の奥で黒いものが渦を巻く。来るな、触るな、見んな。ソフィーはそっと手を伸ばし、鉄格子の隙間から彼の手首へ触れた。
「……ここにいる」
ルキフェルは彼女を見てぼんやりと思う。
——ああ。こいつも結局、顔には触れないんだな。
みんなそうだった。誰も顔には触れない。傷だらけの皮膚、裂けた痕、左眉から右頬へ走る古い傷。視線は向けるが触れはしない。気を遣っているのか、恐れているのか。あるいは、単純に触れてはいけないものと思っているのか。……いや、違う。自分が触らせないだけだ。無意識に拒絶している。近づかれる前に、自分から壁を作っている。
「……お前さ。こんなとこで何やってんだよ。大人しく寝てりゃいいのに。わざわざ時間を無駄にして」
「……無駄じゃない。あなたのそばにいる時間は全部意味がある」
ルキフェルは一瞬視線を逸らした。ソフィーの指先の温度が妙に生々しかった。なのに、その温度を少しだけ心地いいと思ってしまった自分も腹立たしい。
「……ほんと、厄介だな。最後の最後まで」
薄く色づき始めた空を眺めながら、ルキフェルは口角を上げた。
「明日……いや、もう今日か。観客、どれくらい集まるんだろうな」
「縁起でもないこと、言わないで」
「だってさ。巷じゃ俺たちのこと、“五鬼衆”なんて呼んでるらしいじゃないか。……何だよ、その名前。センスなさすぎだろ」
法廷での上流貴族どものざわめき。東洋だの呪術だの、分かったような顔で語る連中。思い出しただけでうんざりする。ソフィーは少し考えてから訊ねた。
「でも……鬼って、必ずしも悪いものだけじゃないの。東の方では、人の想いを映す存在だったり、魂の在り方を試す存在だったり……怖いけど、意味を持つ存在として語られてる。だから、鬼って呼ばれるからってただの化け物ってわけじゃない。人が人であることを突きつける役割でもあるのよ」
「なるほどな……ほんと、お前らしい視点だ。まあ、そんな深い意味まで考えて“五鬼衆”なんて呼んでる連中は、まずいないだろうがな」
ソフィーが苦笑し、ルキフェルは視線を空へ戻した。
「しかしな……鬼なんて概念だけの言葉を軽々しく使うのは、正直どうかと思う」
ルキフェルの脳裏に、あの夢が蘇る。黒い靄、脈打つ塊。
——あれはね、君なしだとただ欲望に忠実な動物なんだよ。
あの靄と塊、確かに自分だった。死を避けるため、痛みを避けるため、欲望に従う本能。生き残るためだけの獣。そして、その奥底からさらに思い出す。六歳の頃に見た夢。暗闇で怯えた狼、翡翠色の瞳。
……これ、ボクだ。
あの後に母を失い、自分自身を見失い、気づけば、あの狼と混ざり合ったまま生きていた。理性と欲望、人と獣。境界が曖昧なまま、どちらも自分で、どちらも切り捨てられなかった。だからこそ、分かる。獣という言葉の方が、よほど本質に近い。
「だったら、いっそ“獣”の方がまだ分かりやすい。恐怖も伝わるし、嘘がない」
ソフィーが少し驚いた顔でルキフェルを見る。
「……確かに、あなたらしい言い方ね」
ルキフェルは冷たく笑った。
「まったく。この国の上の連中は、ちょっと何かあれば東洋がどうのって言い出す。自分たちの文化にそんなに自信がないのかね」
「今は東洋文化が流行りなの。お金持ちの間でね……正直、仕方ない部分もあるわ」
ルキフェルは首を横に振って毅然とした態度で言う。
「だからこそだ。自分の足元をちゃんと見ろって話だろ」
「……東洋文化、嫌いなの? 否定派?」
「否定はしてない。問題なのは、影響を受けてる自分に酔って、何も考えなくなる奴らの器の小ささだ」
「じゃあ……流されるんじゃなくて、自分たちの価値観とちゃんと向き合え、ってことね」
夢の中のもう一人の自分の言葉が脳裏を過ぎる。お互いを理解して均衡を保つんだ。獣を否定するな。だが、飲まれるな。従わせろ。均衡を保て。ルキフェルは空を見上げ、翡翠の瞳が薄明を映す。
「そうだ。折り合いをつけるってのは、ただ従うことじゃない。自分の信念を手放さずに、外の世界とやっていくことだ。文化も流行も否定せずに飲み込む。でも、振り回されない。それが本当の器だろ」
ソフィーが頷く顔を見ながら、ルキフェルは漠然と思う。結局、自分もずっとやってきたのかもしれない。狼を抱えたまま、欲望を抱えたまま。それでも、人として生きようとしていた。だから、まだここにいる。ルキフェルは妙に落ち着いて会話している自分に苦笑した。夜明け前の空はまだ薄暗い。海面が鈍く光を返し、潮の匂いを含んだ風が牢の奥まで流れ込んでくる。ソフィーがぽつりと言った。
「……今、トルチュ島で過ごした時のこと思い出してた。舞って言うのかな。西洋の剣術とは、全然違う動きだったね……」
ルキフェルはほんのわずかに口角を上げた。
「ああ。あれは俺にしかできないやり方だ。舞とも言えるし、戦い方とも言える。意識が一つにまとまる瞬間だ」
トルチュ島、あの頃はまだ今より平穏だった気がする。ルキフェルの脳裏にも、あの夕暮れの庭が浮かぶ。風、葉擦れ、石畳の熱。あの時、自分は剣を振っていた。敵を斬るためではない、揺らぎかけた自分をもう一度繋ぎ止めるために。掌を巡らせ、呼吸を沈め、世界と自分の境界を均していく。
——周りが変わっても、俺は変わらない。
そうやって自分に言い聞かせていた。海が乱れ、自由が脅かされていた。均衡が崩れようとしていたから、決めなければならなかった。何を守るのか、誰を守るのか。そして、自分はどう在るのかを。
「……あの時のあなた、怖くなかった?」
「怖がってる暇なんてなかったさ。やることが、ただ一つだったからな」
戦争には参加しない。誰かの野望のためには剣を振るわない。それでも、守るべきもののためなら刃を抜く。海を、自由を、仲間を。そして——巻き込みたくない光を。銀色の髪がルキフェルの脳裏を過ぎる。浅瀬のような瞳。あの時、自分の胸に浮かんだ感情の正体を、今も言葉にできなかった。ソフィーは夜の余韻を胸に抱えて聞いてくる。
「ねえ、ルキフェル。あなたの強さって……何なの?」
ルキフェルは少しだけ目を細めた。
「秘密、か。簡単に言葉にできるもんじゃないな。俺の強さは、腕力とか技だけじゃない」
「……どういう意味?」
ルキフェルはソフィーから視線を外し、牢の空気を確かめるように言葉を選ぶ。
「西洋の剣術も、東洋の剣舞も、太極拳も、中華剣も……全部使ってる。でも、一番大事なのは型じゃない。縛られないことだ」
彼の脳裏に浮かぶはフランソワとリュウ。幼い自分に剣を教え、生き方を叩き込んだ二人。怒鳴られたこともある。殴り倒されたこともある。だが、あの二人がいなければ自分はとっくに死んでいた。リュウの低い声が今も蘇る。流れを見ろ、力むな、剣を振るうな、流せ。
「重心、呼吸、体の軸。それに周りの空気や足場、音……全部まとめて使う。一瞬だけ、剣と体と環境が一つになる瞬間がある」
「……じゃあ、周り全部を味方にしてるってこと?」
「そうだな。敵の刃を見るんじゃない。相手が動こうとする前を見る。意識の揺れ、呼吸の乱れ、心が動く瞬間。そこに先に入る。体が剣になって、剣が体になる感覚だ」
ルキフェルは低く笑った。フランソワの実戦的な剣、リュウの流れるような体術。どちらも自分の中に残っている。ソフィーが少し身を乗り出した。
「なんでも武器にできそう」
「何を使うかじゃない。どう使うかだ。流れに乗れれば、全部が武器になる」
ルキフェルは肩をすくめ、ソフィーはしばらく彼を見つめたあと問いかける。
「……じゃあ、そんなあなたを作ったのは、誰?」
ルキフェルは目を逸らして、胸の奥が少し熱くなって笑う。
「西洋剣術ならフランソワだ。基礎から応用まで……必要なことは全部、あいつに叩き込まれた」
死にたくなきゃ立てと怒鳴る声。あれは訓練というより生存方法だった。
「それと、もう一人。師範みたいな東洋人がいた。とにかく強かった。動きも、呼吸も、剣の扱いも……全部、俺の想像の外だった。体術も剣術も、考える前に体が動くようになるまで徹底的に鍛えられたよ」
リュウの背中を思い出す。静かで、厳しくて、でも不思議と安心感があった。あの二人は自分を強くした。誰かを守れるように、生き延びられるように。そして、結果的に自分は強くならざるを得なかった。
「……だから、あんなに強いんだ」
ソフィーが小声で呟き、ルキフェルは彼女の握られた手を一瞥して目を細めた。
「強さは俺一人のもんじゃない。教えてくれた連中の積み重ねだ。だから、勘違いするな。俺は無敵じゃない。俺の強さは……孤独の代償だ。誰も信じられず、誰にも頼れず、全部を自分で背負ってきた奴の……ただの生き残り方だ」
強くなりたかった。誰かを失わないように。だが同時に、強くならなければ自分が死ぬ世界だった。だから、剣を取った。だから、戦った。だから、今も生きている。
「……だからこそ、仲間には……感謝してる。あいつらがいなきゃ、俺はとっくに生きちゃいない」
ジャスパー、マテオ、ニール、コリン。死線を潜り抜けた連中の顔が浮かぶ。馬鹿ばかりだが……あいつらがいて、ここまで来れた。ルキフェルはまっすぐソフィーを見据える。
「……お前もだ。お前も俺にとっては大事な仲間だ。最初はな、正義を振りかざす鼻につくお嬢さんだと思ってた」
ソフィーが少しむっとする。ルキフェルの脳裏には一年前の嵐の日が蘇っていた。スザンヌの喉元へ突きつけた刃、自分の手は震えていた。復讐のためだ、ここで引けば全部無意味になるのだと言い聞かせながら、それでも決定的に踏み切れなかった時、人混みを割ってソフィーが前へ出てきた。軍服、濡れた髪、恐怖で止まるでもなく、激情に呑まれるでもなく、真っ直ぐ自分を見ていた。
「スザンヌを解放して」
——なんだ、こいつは。戦場だぞ、人質がいるんだぞ。普通なら止まる。普通なら怯える。なのに、こいつは迷いなく来た。しかも、自分を責めるのではなく、フランソワの最期を伝えて。
「彼は……自分で飛び込んだの」
あの瞬間の衝撃を今でも覚えている。胸の奥で何かが崩れた。怒りでも復讐でも埋められない場所を真正面から抉られた。
「その手で、彼の願いまで壊さないで」
まるで刃だった。自分の復讐を否定されたからではない。自分でも見ないふりをしていた痛みを、こいつだけが真っ直ぐ見抜いてきたから。なのに、責めなかった。理解しようとしてきた。あんな状況で、敵同士だったのに。意味が分からなかった。だからこそ、妙に印象に残った。
「……今は違う。こんなどうしようもなく愚かな世界でさ。なんでこんな場所に生まれちまったんだって思うくらい……お前は誰よりも清らかだ」
泥だらけの戦場を平然と踏み込み、血と怒りの真ん中で人を人として見ようとした。そんな狂った真っすぐさを、ルキフェルは他に知らなかった。ソフィーの瞳が揺れ、声が震えて涙が溢れる。
「……ルキフェル……」
——ほんと泣くな、この女は。
ルキフェルはため息を吐いてそっと手を伸ばし、彼女の頭へ触れた。
「泣くな。俺を見ろ。ほら……こうして、まだ生きてるだろ」
ソフィーが息を吐き、触れられる感触へ身を委ねる様子を見ながら、ルキフェルは失笑しかけた。
——こいつ、一年前から何も変わってないな。危険だろうが戦場だろうが、勝手に踏み込んでくる。だから厄介だし……だから、多分信頼できた。
「……ありがとう……」
ソフィーが掠れた声を漏らすと、ルキフェルは手を引いて壁に背を預け直す。
「……もう少しだ。耐えろ、ソフィー」
——まあ、あと数刻すれば大騒ぎになるんだろうな。だから今は、せめてこの女が少しでも落ち着けばそれでいい。
ルキフェルは肩をすくめて苦笑した。
「あー、こんなことしてたら、グウェナエルの亡霊に後ろから刺されそうだな」
自分でも少しだけ可笑しくなる。あの男なら本当に無言で刺してきそうだった。ルキフェルは軽く首を振る。
「やめだ、やめ。らしくねえ」
ソフィーが涙を拭いながら息を吐く。しばらく沈黙が落ち、夜明け前の薄い青が格子窓の向こうで広がっていく。
「……最後に。ひとつだけ、聞いてもいい?」
ソフィーの声が震えていた。ルキフェルは眉を動かして訊く。
「なんだよ」
「ルキフェル。人を……愛したこと、ある?」
「…………は?」
ルキフェルは思わず肩を揺らして吹き出した。
「……なんで今それ聞くんだよ。しかも最後にって」
——ほんと、この女は急に変な方向へ話を飛ばす。
ルキフェルは視線を外し、薄明へ目を向けた。
——考えたことなかった。よくわからないが……たぶん自分より他者を思う気持ちが、等倍になったものだろうか。
ルキフェルの中で両目で見ているように心の中に浮かび上がる。
「……愛、か。恋だの色事だのを期待してるなら、悪いな。俺が最初に思い浮かべるのは、そういうのじゃない。——フランソワだ。俺の面倒見て、食わせて、叩き上げて、逃げ場も覚悟も全部教えてくれた。あいつは……恋人でも恩人でもない。家族だった」
ルキフェルが言い切ったあと、今度は別の顔が浮かんだ。ジャスパー、マテオ、コリン、ニール。気づけばずっと隣にいた。ルキフェルは口元を緩め、指を軽く折る仕草をする。
「それから、今の連中だ。ジャスパー、マテオ、コリン、ニール。あいつらとも、家族みたいに生きてきた。血は繋がってないし、性格もバラバラだ。喧嘩もするし、腹立つことも山ほどある」
マテオの騒がしさ、ジャスパーの飄々とした態度、ニールの妙な冷静さ、コリンの危なっかしさ。思い出すだけで頭が痛い。それでも、恋愛感情とは違う。もっと根深くて、生存に近い感覚だ。一人では生き残れなかった。
「背中を預けられる。死に際を見せてもいいと思える。……それ以上、何がいる」
「……それが、あなたにとっての愛なんだね」
ソフィーは息を呑んでいた。ルキフェルは肩をすくめる。
「他に知らないだけだ。でも、俺にはそれで足りてる。……守る相手がいるってことだからな」
結局、自分はずっと誰かと生きてきた。守れなかった後悔も失った怒りもある。それでも、まだ守りたいと思ってしまう自分がいる。多分、それが自分の生きる理由なのだろう。その時、ルキフェルは身震いして額に汗を浮かべた。
——ちょっと待てよ。
頭の中で人数を数え始める。あの四人だけじゃない。旧マクシム隊の連中までいる。あの変人参謀、大男、うるさい帆船オタク、妙に肝が据わってる女たち。外にはリー・ウェンたちもいる。レオン達も動いているはずだ。
——なんで、こんな大事になってんだよ。
処刑されるのは自分一人のはずだったのに、気づけば馬鹿みたいに人が動いている。思わず胃が痛くなる。それから、不意にある顔が浮かんだ。銀髪に海色の瞳。
——スザンヌ。あいつ、どうするつもりなんだ。旧マクシム隊と一緒にいるなら、当然あの脱獄騒ぎに巻き込まれる可能性が高い。いや、あの連中のことだ。むしろ普通に船へ乗ってきそうで怖い。それと……。
「それと……」
ぽろっと口から零れ、ルキフェルは「あっ」と声を上げた。 当然ソフィーは逃がさず目を細める。
「……それと?」
ルキフェルは舌打ちして目を逸らす。
「いや、今のは忘れろ」
「忘れられると思って言った?」
「……聞くな」
「聞く」
「聞くなって言ってるだろ」
「今さらそれ言われて引き下がるほど、私の物分かりよくないの知ってるでしょ」
数秒、二人が鉄格子越しに睨み合う。夜明け前の静寂が妙に張りつめ、ルキフェルはついに天井を仰いた。
「……あー……クソ」
最悪だった。この女はこうなると絶対引かない。ルキフェルはソフィーに視線を戻さないまま、ぶっきらぼうに言い放つ。
「……昔な、好きな女がいた」
「……え?」
ソフィーの目が思い切り見開き、ルキフェルは少し眉を寄せる。
「何だよ。その顔」
「いや……その……無愛想で、冷たくて、堅物で、感情とか全部切り捨てて生きてそうなルキフェルが……?」
「余計な修飾語が多い」
「だって!」
ルキフェルは深くため息を吐く。……そんな顔するほど意外か。いや、自分でも少しそう思う。
「……一目惚れだ」
ルキフェルが投げやりに言うと、ソフィーは正直な感想を述べる。
「……想像つかない……」
ルキフェルは若干ムッとしながら続ける。
「本来なら、好きになっちゃいけない相手だった。住む世界が違ったし、一緒になっていい関係でもなかった」
「……それ、もしかして……」
ソフィーの額が青ざめ、ルキフェルは諦めたようにこくりと頷いた。
「ああ。貴族の娘だ。俺は後から知った。一目惚れだったからな、完全に不可抗力だ。言っとくが、ちゃんと距離は保った。手も出してないし、変なこともしてない」
「……聞いてないけど?」
「念のためだ」
「誰に対する念のためなの?」
「……知らん」
ルキフェルはソフィーから目を逸らす。顔が妙に熱い、ほんと何なんだこの会話。
「どう考えても続くわけがなかった。だから、始まる前に終わらせただけだ」
ルキフェルは言い切ると、ソフィーはしばらく黙ってから言う。
「……でも、ちゃんと好きだったんだね」
「……ああ」
否定はしない。冷徹で合理的で、割り切って生きているつもりだったが、自分も普通に誰かへ心を向けてしまう人間だった。しかも厄介なことに、相手がスザンヌになると調子が狂う。思考は鈍るし、感情は乱れるし、妙なことまで口走る。ほんと最悪だ。
「意外。ほんとに意外」
「言うな」
「でも……なんか安心した」
ソフィーが微笑んでいる。ルキフェルは怪訝そうに眉を顰めた。
「何がだ」
「人を好きになる人なんだって」
ルキフェルは一瞬言葉を失うも溜め息混じりに言う。
「……だから、言っただろ。俺は清廉な聖人じゃねえ。ただの、どうしようもない人間だ」
鉄格子の影が夜明け前の床へ長く伸び、ソフィーの言葉が牢に落ちる。
「……ねえ。今でも、その人のこと……好き?」
ルキフェルは顔を強張らせるも、またぶっきらぼうな声で返す。
「……馬鹿言うな。とっくの昔に終わった話だ」
終わった。そう決めたはずだった。十六の時、波止場で海へ落ちた少女を引き上げた時から何もかもが間違っていた。濡れたシルバーブロンド、薄く開いたターコイズブルーの瞳、鈴のような声。自分の傷だらけの顔を見られたくなくて、背を向けて名も告げずに去った。それで終わりにしたはずだった。
一年前の嵐の日もそうだ。腕の中にいた彼女が荒波へ落ちかけた瞬間、考えるより先に身体が動いた。あの時、海を初めて憎んだ。フランソワを飲み込んだものと同じものが、また目の前の命を奪おうとしている気がした。
——まだ死に方を決めてない。
そう叫んだのは、自分のためではなかった。そして数日前、裁判前の桟橋。縛られた手、傾く身体。海、へ落ちていく白い影。あの瞬間、胸の奥が凍った。またかまた奪われるのか。だから飛び込んで助けた。怒鳴って、生きろと言った。あの時、喉まで出かかった言葉があったが、言えなかった。今も同じ。
「……そうは見えない」
ソフィーは彼の瞳を見てぽつりと言い、ルキフェルは反射的に眉を顰めた。
「何がだ」
「あなた。前より、ずっと穏やかになった。人の話も聞くし、怒りも抑えられるようになった。でも……まだ、自分の心の中にある『怖さ』と、ちゃんと向き合いきれてない」
ルキフェルの喉がゴクリと動いた。
「……何の話だ」
「わかってるでしょ。何かから、どうしても目を逸らしてる。気づいてないふりをしてるだけで……あなたが一番わかってるはず」
ルキフェルは目を逸らした。桟橋で彼女の肩を掴んで言った。生きろ、仲間のためにも約束してくれ。あれは命令ではなかった、祈りだった。自分でも認めたくないほど切実な。
「だから言うね。終わってないと思う。その人への想い。もう『恋』じゃないのかもしれない。でも……消えてない」
ソフィーは胸に手を当て、声音を柔らかくする。
「あなたの中に、ちゃんと残ってる。だから、そんな目をする」
沈黙が落ち、牢の中の空気が少し重くなった。ルキフェルは低く吐き捨てる。
「……余計なこと言うな」
「余計じゃない。……これはね、ルキフェルが自分で、ちゃんと見つめてあげなきゃいけないこと」
ルキフェルは苦笑にも似た息を漏らす。
「……処刑前の人間に言うことか、それ」
「だからよ。死を前にしてるからこそ。最期くらい……自分の心に、素直になってもいいと思う」
ルキフェルは怪訝な顔でソフィーを見据えた。格子窓から差し込む光が、ソフィーの輪郭を鮮明に、暗がりの中でも亜麻色の髪は柔らかく浮かべている。
——今でも朝は嫌いだ。隠れたくても逃げられない。
「……お前は本当に厄介だな。人の心を……夜明けみたいに照らしてくるんだよ」
ソフィーは眉を八の字にして笑う。
「そう? ただ……あなたが目を逸らしてるのがわかるだけ」
ルキフェルは口から息を吸いながら天井を仰いだ。
——逃げ続けてきたもの。終わったと決めつけてきた想い。
ルキフェルは思わず唇を噛んだ。素直になる。そんなことをしたらどうなる。今、自分には倒すべき相手がいる。ダラス家、二十年前から続く腐った鎖を断たなければ、何も終わらない。なのに、あの銀髪が頭から離れない。海へ落ちていくたびに手を伸ばしてきた。十六の時も、一年前も、数日前も。そのたび、自分の中の何かが変わった。ルキフェルはゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に、ひとつの色がよぎる。陽にきらめく海と、その中へ落ちていく影。
「……今、ここで認めたら、たぶん……取り返しがつかない」
「……どうして?」
ルキフェルは鉄格子にかけた手に力を込めた。言えば、全部が崩れる気がした。今はまだ駄目だ。この感情に名前を与えたら、剣の向きが鈍って覚悟が濁る。守りたいという願いが、あまりにも個人的なものになってしまう。ルキフェルはゆっくり目を開け、ソフィーを見ずに朝の空を仰いで言う。
「……俺の気持ちはどうでもいい。生きていてくれればいい。どこで、どうやってでもいい。名前を変えても、俺のことなんて忘れても。……生きていてくれさえすれば……俺は十分だ」
自分でも馬鹿げていると思う。それでも、本心だった。傍にいなくていい、振り返らなくていい。自分を選ばなくていい。ただ、どこかで息をしていてくれればいい。海に沈まず、誰かに奪われず、自分の死に方を自分で選べる場所で、生きていてくれれば。ソフィーは胸を締めつけられたような顔で告げる。
「……それって、すごく重い愛ね」
ルキフェルは口角を上げてソフィーを見た。
「さあな。俺はそういう生き方しか知らないだけだ」
それを何と呼ぶのか、まだ知らない。知っていても、今は認めない。生きていろ。そのためにまず、自分はダラス家を沈める。空の色が変わり始めていた。夜の青は薄れ、東の端から白い光が滲み出す。潮風はまだ冷たいが、世界は朝へ向かっていた。
「……もう空が明るい。そろそろ戻れ」
ルキフェルは鉄格子に背を預けたまま言った。ソフィーは名残惜しそうに鉄格子へ視線を残し、ためらうように口を開く。
「ねえ……本当に見ちゃダメ?」
「ダメだ」
ソフィーは唇を噛んで小声で言う。
「船上での斬首だって聞いた。だったら……せめて、あなたが船に乗るところまで見届けさせて。そこまで行ったら、ちゃんと自分の部屋に戻るから」
ルキフェルの視線が落ちた。見せたくない。本音を言えば、それすら嫌だった。ソフィーが処刑場へ近づくほど、何かの拍子で巻き込まれる可能性も上がる。シャルルたちがどこまで仕込んでいるのか分からない以上、余計な人間は離れていた方がいい。——いや。そもそも自分が一番、何も知らされていない。そこまで考えて少し眉間が痛くなったが、結局ルキフェルは口角を上げて言う。
「……ちゃんと戻るならな」
「うん。約束する」
ルキフェルは片手を上げて指先を軽く揺らしながら低く告げる。
「期待しとけ。……俺はまだ死に方を決めてない」
ソフィーは彼の指先を見つめたまま唇を震わせる。
「……どういう意味?」
「いいから。そのうち分かる」
「……わかった」
ソフィーが立ち上がると、冷たい石畳に足音が落ちる。彼女は一度も後ろを振り返らなかった。ルキフェルは鉄格子の奥から彼女の背を黙って見送り、やがて気配が消えると息を吐く。
「……で、俺は? 流れに身を任せればいいんだよな」
昨日の面会がルキフェルの脳裏に蘇る。面会に来たヤンはいつも通り淡々としていた。
「あなたは何もしなくて大丈夫です。シャルルさんを中心に、計画はすでに練られていますので」
「……大丈夫なのか、それ」
「大丈夫ですよ」
ルキフェルは眉を顰めて唸ると、ヤンは平然と返した。
「あなたは堂々としていればいいんです。仲間を信じなさい」
その言葉だけ残して、ヤンはさっさと去っていった。残されたのは何も知らされていない自分だけ。牢の中で、ルキフェルは頭を抱えた。
「……いや、作戦内容は少しでも教えてくれよ」
ヤンもヤンで説明不足だ。ジャスパーたちは多分知ってる。マテオも多分知ってる。コリンもニールもなんか絶対ノリノリで参加してる。なのに、自分だけ知らない。
「……なんなんだよ、あいつら」
深く息を吐くが、仲間を信じろというヤンの言葉が胸に残っている。ルキフェルは鉄格子へ背を預け直して目を閉じた。もうすぐ朝だ。処刑の朝、そして……自分にとっても、多分あいつらにとっても、今日は人生の大一番だ。




