第八章② Montage Part2
午前中。シャルルたちは雑務へ駆り出され、徒刑所の中庭には石を運ぶ音と怒号が響いていた。
一方、ヤンは一足先に情報共有へ向かうため、徒刑所を後にしている。馬舎でヘイロンを連れ出して港へ向かった。港へ近づくにつれ、船具の軋みや波止場の喧騒が耳へ届き始め、やがて見慣れた帆船が視界に入る。もはや彼らの根城と化している船だ。ヤンがタラップを上がると、甲板にいたポーランが真っ先に顔を上げた。
「お、ヤンさんじゃーん。戻ったんすか」
ポーランの声に反応して次々と仲間たちが顔を出す。ワン、イヴォン、ダミアン、マルク、レオン。皆、どこか張り詰めた空気をまとっていた。ヤンは甲板を軽く見渡したあと穏やかな声で切り出す。
「徒刑所内で、脱獄計画が持ち上がっています」
「……ん?」
最初に声を漏らしたのはレオンだった。ヤンは簡潔に続ける。
「五鬼衆側と、元マクシミリアン隊側の共同です。作戦そのものは、まだ未完成ですが」
「共同ォ?」
ポーランが眉をひそめる。
「いや、待ってくださいよ。最近まで敵同士だったんすよね?」
「ですが、状況が状況ですので。現時点で、彼らはルキフェルの処刑を看過できないようです」
ヤンは険しい顔を見せると、マルクが腕を組んで低く唸る。
「……まあ、あの連中ならそうなるか」
ワンはヤンを見つめながら訊く。
「で、作戦は?」
「まだです。ただ……おそらく、かなり突拍子もないものになります」
その場に微妙な沈黙が流れ、イヴォンが思わず顔を顰める。
「それ、絶対その通りに行くやつだろう」
その後、ヤンは甲板を見回した。
「リュウ・ヨシマサ殿は?」
ポーランが親指で街側を指す。
「鍛冶場っすよ。仕事だとさ」
「なるほど」
「あ、あの……」
皆が振り向くと、ダミアンが遠慮がちに手を上げていた。
「ボクにも……何かできることがあれば、協力したいです」
「君が?」
レオンが瞬きをし、ダミアンは少し気まずそうに目を逸らした。
「その……ボク、ダラス家の元では隠密みたいなことしてたので」
「隠密?」
イヴォンが聞き返すとダミアンは頷いた。
「ほら……双子の片割れって、表に出しちゃいけなかったから。だから、兄の振りして変装したり……何度も不法侵入してました。潜入とか鍵開けとかも、一応」
ポーランが目を丸くする。
「え、あんた。そんなスキル持ちだったの?」
「まあ、嫌でも身についたというか……」
ダミアンが苦笑する。ヤンはダミアンの横顔を好奇な眼差しで見つめた。今度はマルクがぶっきらぼうに言う。
「オレも協力するぞ。あいつらには借りがある」
「……まあ、ここまで来たら付き合うしかないか」
「そうだね」
ワンが小さく息を吐き、レオンも頷く。イヴォンも肩をすくめ、ヤンは皆を見渡したあと頷いた。
「ありがとうございます」
そう言うと、ヤンは再びタラップへ向かった。
「どこ行くんすか?」
「もう少し情報を集めてきます」
ポーランが聞くとヤンは振り返らず答えた。
ヤンはヘイロンとともにリュウの鍛冶場へ向かった。石畳を踏みしめながら進むと、やがて炭の匂いと金属を打つ乾いた音が風に混じり始める。鍛冶場の煙突から細い煙が空へ伸びていた。店先でヘイロンを停め、ヤンは扉を開くとカラン、と小さな鐘が鳴る。
「いらっしゃ……あ、リー・ウェンの一人」
ティエンがカウンターの向こうで頬杖をついている。相変わらず気怠げな態度だ。
「おはようございます」
「おはよーございます」
ティエンは欠伸混じりに返した。
「ヴィクトルさんとグレゴワールさんは?」
「市場っす。朝飯買いに」
「なるほど。リュウ・ヨシマサ殿は?」
「奥っすよ。今日は朝からずっと篭ってる」
ヤンは店奥の暖簾をくぐると熱気が一気に押し寄せた。赤々と燃える炉、散る火花、鉄を打つ音。リュウが槌を振るっていた。上半身には熱気で汗が滲み、白い長髪は手拭いで無造作に束ねられている。ヤンが近づく気配に気づき、リュウは顔を上げた。
「来たか」
「はい。……ルキフェルさんの処刑が決まりました」
リュウの身体が揺れ、槌を持った手で作業台へ身体を支える。
「……っ」
目眩。昨日、ヤンから裁判結果を聞かされた時と同じ反応だったが、今は違う。リュウの目には沈むだけではない熱が宿っていた。
「……そうか」
リュウは槌を置いて頭の手拭いを外すと、長い白髪が肩にサラサラと落ちた。
「それで?」
「五鬼衆側と元マクシミリアン隊側で、脱獄計画が持ち上がっています」
リュウは作業台に軽く腰を預けながら言う。
「……それなら、私もできることをしよう。実は以前、トゥーロン司令部とは少し交流があった」
「交流、ですか」
「ああ。新しい軍事兵器の開発だ。兵器開発を担う第六艦艇部隊の元へ、技術顧問のような形で何度か通っていた」
その瞬間、リュウの脳裏にリゼーヌの顔が浮かぶ。星を語る、あの航海天文学士。
「……いや、あの子は兵器開発担当じゃなかったな。ただの学者枠か」
リュウの呟きを聞きながら、ヤンの記憶が自然と遡っていった。
昨年十二月、元マクシミリアン隊の食堂。ジョルジュが嬉々として読み上げていた新兵器の報告書。東洋の兵法理論。気の流れと共鳴、柔の体術。ヤンはふっと目を細めた。
「なるほど。震撃砲と連結剣。あれ、あなたがアドバイザーしていたんですね」
リュウは目を見開いて苦笑した。
「気づくか」
「ええ。説明を聞いた時から、どこか東洋武術の思想に近いとは思っていました。特に力を一点に通す理論。あれは、あなたの癖が出ています」
リュウは鼻で笑った。
「第六の連中、頭は柔らかかったからな。こちらの理論も意外と理解が早かった」
「なるほど」
「……もっとも、その兵器がルキフェルたち相手に使われるとは思わなかったが」
炉の火が揺れ、赤い光が二人の横顔を照らしていた。しばし沈黙が落ちたあと、リュウが口を開く。
「それで、計画はどうなっている」
ヤンは腕を組んで穏やかに答える。
「これから立案されます」
「まだか」
「ええ。ただ、お昼頃に徒刑所内で接触予定です。わたしの方から、作戦考案者へ情報共有を行うつもりでして」
「そうか」
リュウは息を吐いたあと目を伏せて思案し、再び手拭いを頭へ巻き直した。
「……ならば、私も行こうか」
「よろしいので?」
「司令部側で武器と兵器の点検もしたいと思っていた」
兵器点検。つまり司令部内部へ自然に入り込める。そして、徒刑所と司令部は隣接している。
「……なるほど。でしたら、ご一緒しましょう」
ヤンが穏やかに誘うと、リュウは槌を置いて炉の火を確認してから外套を羽織る。二人で暖簾をくぐって店内へ戻ると、ティエンが怪訝そうに彼らを見た。
「どっか行くんすか?」
「少しな」
「また面倒事?」
リュウは微笑みを浮かべると、ティエンは「あー」とだけ呻いて頬杖へ戻る。ちょうど市場帰りのヴィクトルとグレゴワールが入店した。
「お、親父。どこ行くんですか?」
「仕事だ」
「絶対仕事じゃない顔していますよ」
ヴィクトルの言葉を背中で流しながら、リュウとヤンは店を出る。ヤンが軽く手綱を引き、ヘイロンは低く鼻を鳴らした。二人は再びトゥーロン徒刑所へ向けて歩き出す。
シャルルは古い航海誌を抱えながら、雑務として与えられた本棚整理をしていた。……が、ほとんど上の空だった。
——どうやって助ける。
シャルルは本を棚へ押し込みながら思案する。まず、どうやって首斬り人の刃を止めるか。いや、止めるだけでは足りない。船上には当然、護衛がいる。視線が集中したままでは、仮に縄を断ち切れても逃げ場がない。
「一瞬でいいんだよな。一瞬だけ視線を逸らせれば……」
シャルルの手がピタリと止まった。彼の脳裏にあの戦争後の会話、あの隊長の声が蘇る。
「さらに、コリンは目眩し用にわざわざ白煙が出る爆弾を作っていました。あれがなければ、僕を取り巻く混乱はここまで完璧ではなかったでしょう」
シャルルの片眼鏡がきらりと光り、数秒停止した。
「……もう一度作ってくれないかなあ」
その瞬間、シャルルの後頭部にペちんと軽い衝撃が襲う。
「痛っ」
シャルルが振り返ると、ロザリーが呆れた顔で立っていた。
「シャルル」
「ん?」
「手、止めない」
ロザリーの冷ややかな声に、シャルルは「あ」と間の抜けた声を漏らす。気づけば、本を抱えたまま硬直していた。しかも、棚に戻すはずの本を逆向きに差し込んでいる。ロザリーは深いため息をついた。
「さっきから悪巧みしてる時の顔なのよ」
「失礼だなあ。ぼくは常に知的探究心に満ちているだけだよ」
「余計タチ悪い」
シャルルはまったく堪えていない、むしろ片眼鏡を押し上げてブツブツと独り言を漏らす。
「白煙、視界遮断、港……いや、船上なら風向きも考慮する必要があるな……」
「聞いてないし」
「それに処刑台の構造次第では、一瞬の混乱だけで縄まで辿り着ける可能性が……」
「聞いてないって言ってるでしょう」
ロザリーは再び本で軽く彼の肩を叩いたが、シャルルの脳内では白煙の中で混乱する港と、処刑船の甲板を駆ける人影が組み上がり始めていた。雑務が終わる頃、徒刑所の中庭には昼の光が満ちていた。遠くからは食堂の喧騒も聞こえてくる。ロザリーが本を抱えたまま振り返った。
「シャルル。ご飯、行かないの?」
「んー」
シャルルは片眼鏡を押し上げながら適当に返す。
「後で行くよ。ちょっと確認したいことがある」
「また?」
「また」
ロザリーは呆れたように肩をすくめた。
「倒れない程度にしなさいよ」
「努力はする」
ロザリーが食堂側へ向かうのを見送ったあと、シャルルは踵を返して牢獄区画へ向かう。石造りの廊下、湿った空気、鉄格子。昼間だからか、監視もやや緩い。シャルルは周囲を見渡しながら歩いていく。
「さて、問題はどこに放り込まれたか……」
海賊たちは全員別区画となれば探すしかない。途中、シャルルがある牢の前を通り過ぎた時、鉄格子の向こうでマテオが床にふんぞり返っていた。彼は腕を組んで壁へ背を預け、不機嫌そうな顔で天井を睨んでいる。シャルルは歩きながらちらりと視線を向けるとマテオも気づいた。
「……何だ」
「いや、別に」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「今の動物園見てる顔だ」
シャルルは吹き出しかけた。
「失礼だなあ」
「てめえが一番失礼だ」
シャルルはひらひらと手を振って先へ進み、マテオは心底面倒くさそうに舌打ちした。
「……変人参謀め」
さらに奥、別区画。シャルルはようやく目的の人物を発見する。コリンはベッドの上で親父みたいな格好になっていた。片膝を立て、口を半開きにし、腕を腹へ乗せている。しかも、微妙に寝息まで聞こえる。シャルルは鉄格子の前で数秒沈黙した。
「君、本当に十代半ば?」
返事はない。シャルルは鉄格子をコンコンと軽く叩くと、コリンの耳がぴくりと動いた。
「……んぁ……?」
「起きたまえ、天才爆弾魔」
コリンはうっすら目を開け、ぼんやりした視界の中でシャルルを見る。
「……何」
「相談だよ」
「やだ」
「まだ内容言ってない」
コリンはのそりと起き上がり、寝癖だらけの頭を掻きながら険しい顔をする。シャルルは声を落とした。
「以前使った白煙爆弾。あれをもう一度——」
「無理」
「……即答だね?」
「だってぼく、動けないもん」
シャルルは瞬きをすると、コリンは鉄格子を指差す。
「見て。囚人」
「うん。まあ、それはそう」
「材料もないし、道具もないし、監視もいるし。あと今めんどくさい」
「最後が本音だな?」
「だから無理」
コリンは悪びれもせず欠伸をし、シャルルは顎に手を当てて俯いた。
「……ふむ、わかった。じゃあ、他に作れる人を探さなきゃ」
シャルルは踵を返すと、コリンは寝台の上で親父寝をして手を振る。
「がんばってー」
「他人事だと思って」
「他人事じゃないけど、今は牢の中だからねえ」
シャルルは苦笑して先ほどのルートをなぞるように歩いていく。今度こそ、食堂へ向かうために。自分たちに与えられた憩いの場、紺色制服達から忌避するような視線を向けられないオアシスへ参るとしよう。
食堂へ足を踏み入れた瞬間、シャルルは思わず目を細めた。
「……いるなあ」
旧マクシム隊が密集する長テーブルの中に、ヤンが紛れ込んでいた。しかも妙に馴染んでいる。最初からこの部隊の一員だったみたいに、穏やかな顔で茶まで飲んでいた。シャルルは思わず苦笑してヤンに近寄った。
「順応性が高すぎるだろう、君」
「どうも」
「褒めてない」
「知っています」
全然堪えていなかった。まあいいか、とシャルルは肩をすくめる。まずは腹ごしらえだ。彼が配膳台へ向かうと、アニータが黙々と昼食をよそっていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取ったのは温かなスープと黒パン、それから簡素な煮込み料理。徒刑所の食事としては悪くない。シャルルはヤンの向かい側へ腰を下ろした時、背後で椅子が引かれる音がした。
「美味しかった。アニータ、ありがとう」
ソフィーの声だった。疲れている。それでも、できるだけ普通に振る舞おうとしている声。アニータが彼女を振り返って声を張る。
「本当にもういいの?」
「うん。あんまり、お腹空いてなくて」
シャルルはスプーンを持つ手を止め、なんとなく背後を振り返った。ソフィーは皿を持ち、流し台のある厨房へ消えていく。少し猫背、足取りも重い。やがてソフィーは食堂を出て行き、シャルルは彼女の背中をぼんやり見送った。
——当然だ。あの男があと四日で処刑される。しかも、自分では何もできない。
それでも彼女はまだ壊れていない。壊れそうなまま、踏み止まっている。シャルルは視線を落とした。ソフィーは自分たちと違う。罪を背負っていない。少なくとも、こちら側の人間ではない。国から責任を押し付けられ、利用され、振り回されてはいるが、それでも脱獄計画に巻き込むには、あまりにも真っ直ぐすぎた。
「……巻き込めないな」
シャルルがぽつりと呟くと、ヤンがカップから顔を上げた。
「ソフィーさんですか」
「ああ。ぼくたちと違って、あの子はまだ戻れる側の人間だから……色々な意味で計画には入れられない」
ヤンがカップを傾ける。シャルルはスプーンでスープを掬うと湯気が揺れ、片眼鏡のレンズが曇った。昼食が半分ほど減った頃、ヤンがカップを置いてシャルルを見据える。
「運良く、総司令部の執務室へお邪魔できまして」
シャルルは黒パンを齧りながら顔を上げた。
「ほう?」
「ルキフェルさんの執行日時ですが……四月十四日。処刑用船は小型コルベット。朝、トゥーロン港へ向けて出航するそうです」
シャルルはもぐもぐしながら聞いていたが、頭の中では既に処刑当日の港の光景が組み立てられている。民衆。護衛。甲板。首斬り台。海風。逃走経路。
「ふむ……」
シャルルはパンを飲み込むとヤンが続ける。
「それから、わたしたちの仲間の中に隠密行動が得意な者がおります」
「へえ」
「変装や侵入が得意だそうで」
シャルルの片眼鏡がきらりと光る。
「便利だなあ、君たちの組織」
「人材の偏りが激しいだけですよ」
「それを便利って言うんだよ」
シャルルはスープ皿を傾け、置いてから尋ねる。
「じゃあ、爆弾作れる人いないか?」
「ぶふっ」
近くで水を飲んでいたジョルジュが盛大に咽せた。
「ゲホッ、ゲホッ!! 急に何の話!?」
「静かにしたまえ」
「今の会話で静かにできる人います!?」
ロザリーが呆れ顔でジョルジュに布を投げる横で、ヤンは遠い目をして溜め息を吐きながら頬に手を当てた。
「……いますねえ」
「お?」
「ちょうど暇そうな人が」
ヤンの脳裏に浮かぶのは、チャン・ジンテン。組織内でも比較的年若いリー・ウェンの一人。本来なら商人業や諜報活動へ力を注ぐべきなのに、なぜか錬金術方面へ情熱を燃やしている問題児だ。しかも、無駄に才能がある。組織内でも頭を抱える者は多い。
——頼むからそっちに本気出すな。
——成長方向を間違えている。
——お前は商人兼情報屋だ。
ヤンはカップの中身を飲み干してシャルルに言う。
「白煙系でしたら、たぶん喜んで作りますよ」
「ほんと? じゃあ白煙爆弾、お願いできるかな。必要なんだ」
「伝えておきましょう」
「助かる。それと、他に使えそうな手があれば教えてほしい。何でもいい」
シャルルが少し前のめりになると、ヤンは天井を仰ぎながら言う。
「うーん……そういえば、司令部側に震撃砲があると聞きましたね」
「……震撃砲」
「ええ。もっとも、ルキフェルさんを救えるかは分かりませんが」
ヤンは苦笑し、シャルルは険しい顔で首を傾げる。
「……と言うと?」
「下手をすれば、ルキフェルさんごと吹き飛ぶでしょう。さすがの彼でも、震撃砲の衝撃には耐えられないと思います」
「…………」
シャルルは椅子に深く座り直した。実は、ほんの今しがた彼の脳内では一つの案が浮かんでいた。震撃砲で処刑船へ衝撃を与える。混乱の中、ルキフェルを海へ落とす。あとは本人に泳いでもらう。完璧だと一瞬思ったが、今の脳内でその案に大きなバツ印が描かれる。
「……そうかあ」
ルキフェル救出。つまり、死なせないことが絶対条件だ。ギリギリを攻めすぎて本当に死んだら意味がない。シャルルはスプーンを持ってまた新しい盤面を組み立て始める時、少し離れたテーブルでサミュエルが席を立った。
「……ちょっといいか」
サミュエルがヤンの隣へ腰を下ろした途端、シャルルの眼前に圧が増した。単純に体格の問題だ。百九十センチ近い屈強な男が真正面へ座って、シャルルは思わず喉を鳴らす。しかも、サミュエルの顔が真面目だ。やばい、これは久々に見る先輩仕官としての顔だ。いつも通り美学でも語ってりゃいいのに、こういう時だけ前衛兵の思考回路に切り替わっている。サミュエルは腕を組み、向かい側のシャルルを見据えた。
「だいたい、昨日言っていただろう」
「何をかな」
「最小限の犠牲に抑える、とか。ルキフェルを救出したら自分たちも連れて行け、とか」
シャルルのスプーンが止まるもサミュエルは淡々と続けた。
「リー・ウェンの話を聞く限り、まず僕たちが残り四人と合流して脱出しないと意味がない」
「うん」
「おまけに舞台は海上だ。どうやって処刑用船へ近づく? 巡回船もいるだろう」
「…………」
「それと逃走経路。港から脱出した後、街中を駆け抜けることになる」
シャルルはぐうの音も出ず口を閉ざした。ロザリーとペネロペが腕を組みながらシャルルの顔を覗き込む。
「しかも人数が多いのよね」
「海賊四人に、あたしたち。加えて外部協力者」
「目立つわねえ」
ジョルジュがパンを齧りながら青ざめる。
「え、待って。改めて聞くと普通に無理じゃない?」
「今さら?」
アニータが呆れたように返し、シャルルはパンを置いて天を仰いだ。今の戦力、四人の海賊と旧マクシム隊とヤンに外部協力者。頭の中で一人ずつ並べていく。海、船、港、潮風、逃走。
——海を相手にしてきた者ばかりだ。
その時、シャルルの中で芝居の暗転のように意識が急速に切り替わり、気づけば囁き声を漏らしていた。
「いや……待てよ」
「何だ?」
サミュエルが眉を顰めると、シャルルは視線を宙へ向けたまま笑う。
「わざわざ、陸へ逃げる必要はないんじゃない?」
一瞬食堂が静まり返り、ジョルジュがシャルルを振り返って瞬きをした。
「……え?」
シャルルの脳内でトゥーロン港のジオラマが組み立てられ、彼の手がミニチュアへと伸びて遊ばれていった。港、処刑船、巡回船、煙、混乱。そして——海。自分たちの領域、自分たちが最も自由になれる場所。シャルルは思わず失笑した。我ながら馬鹿げている。まだ穴だらけだ。詰めも甘いが……不可能ではない。片眼鏡の奥で青い紫陽花色の瞳が妖しく光る。
「…………ふふ」
ロザリーがシャルルの横顔を見るなり柳眉を逆立てる。
「……その顔やめて」
「安心したまえ」
「その台詞が一番不安なのよ」
シャルルは不敵に笑ったまま皆を見渡して呟く。
「少し……見えてきたよ」
ヤンの周囲に旧マクシム隊の面々が自然と集まり始めた。ぞろぞろ、わらわら。怪しい見世物でも囲むような距離感、しかも全員がシャルルを見ている。
「うわぁ、また始まる」
「この人、もう変なこと言う顔してる……」
ペネロペとジョルジュが悪魔に追われたように青ざめている。シャルルは机へ両肘をついて指を組み、顎を乗せて口元を吊り上げた。
「さてさて。ぼくの計画だと、こうだ」
「出た、嫌な前置ききた」
「静かに」
ジョルジュが声を震わせるもシャルルは気にせず続ける。
「まず、白煙爆弾を目眩しに使う。船上を混乱させるわけだ。小型コルベットとはいえ、船内区画はあるはず。煙が広がれば、視界は死ぬ」
シャルルの脳内には再びミニチュア帆船、甲板の構造が浮かんでいた。混乱する兵士、咳き込む看守、煙に飲まれる処刑台を置き、頭の中で人形遊びを続けながらシャルルは淡々と語る。
「その隙に白煙の中でルキフェルの拘束を解く。で、すぐ船内へ逃げ込んでもらう。船上は『ルキフェルが逃げた』と大混乱になるさ」
脳内には無人の小型コルベット、徒刑所から自分たちを模したフィギュアがわらわらと登場したところで、シャルルの腕がジオラマを払いのけて思考を遮断した。それと同時に、シャルルはテーブルに手をついて勢いよく立ち上がり、仲間達の顔を順に見つめて告げる。
「おそらく船は処刑を中断、調査のためにトゥーロン徒刑所へ引き返すだろうね。そこを……ぼくたちが乗っ取る」
食堂がしんと静まり返る。ジョルジュが口をぱくぱくさせ、アニータは頭痛でも起きたような顔をし、ロザリーはこめかみを押さえた。ペネロペが最初に口を開く。
「……え、どういうこと? あたしたち、どうやって抜け出すの」
当然の疑問にシャルルは意気揚々と即答する。
「——震撃砲で壁をぶち壊せばいい」
再び長い沈黙。そして、食堂全体から深く長いため息が漏れた。
「はぁぁぁぁぁ…………」
「もうやだ、何でそうなるの……」
ジョルジュが両手で顔を覆い、アニータが遠い目をする。だが、シャルル本人は違った。彼の頭の中で再びジオラマが輪郭を持ち始めていた。真っ青な海、その上に小型コルベット。シャルルはジオラマに手を伸ばして小型コルベットを摘んで滑らしていく。
「…………ふふっ、見えてきた」
久々だ、この感覚。盤面が一気に動き出す瞬間。不可能だったものが、成立するかもしれないものに変わる瞬間。シャルルは怖いものに触れかけ、午後の雑務でロザリーに罵倒されるまで心が落ち着かなかった。
四月十一日、ルキフェルはあの裁判から常に寝て過ごしていた。隙間風の吹き込む薄暗い牢の中、彼は壁にもたれながら時間が過ぎるのを待つ。処刑まで、あと三日。これで終わる。連鎖が断たれるなら、これでいい。復讐も憎しみも、自分の代で終わるなら。少なくとも、生きてきた意味はあった。そこまで考えが至った時、ガチャンという重い音がしてルキフェルが顔を上げる。鉄格子の扉が開いた先、監視官が立っていた。
「おい。お前の仲間だ」
ルキフェルが立ち上がると、監視官は鼻を鳴らした。
「これは大元帥からの情け。死ぬ前に、ちゃんと別れを言えってさ」
監視官が外に待機させていたマテオを乱暴に牢に押し込む。
「入れ」
ドンッと背を押されたマテオが舌打ちし、監視官は鉄格子越しに顎をしゃくる。
「ほら、お前たちのリーダーだぞ」
「…………?」
マテオは微妙な顔をしていた。当然だ、監視官はフランス語で喋っている。数秒の沈黙、監視官は今さら気づいた。
「……通訳連れてくんの忘れた」
——こいつ、ほんと何も考えてないな。
ルキフェルはこっそり溜め息をつくと、監視官は面倒くさそうにルキフェルを見る。
「おい、お前」
「……あ?」
「カスティーリャ語、話せるだろ。こっち睨むなって伝えろ」
ルキフェルは監視官を見る。
——カスティーリャ語も分からないのか。よく異国の海賊相手に威張れるな。
ルキフェルは半ば呆れながらも、マテオに向かってカスティーリャ語で言う。
「気にすんな、あれは嫌がらせ」
マテオは一瞬目を細めて口元を歪ませる。
「……へえ、好都合だな」
ルキフェルは思わず怪訝な顔をした。
——こいつ、別れを言いに来たんじゃない。
牢の外では監視官が退屈そうに欠伸をし、二人はしばらく見つめ合っていた。先に口を開いたのはマテオだ。
「もう自分は死ぬんだ、とか考えていたんだろ」
ルキフェルは押し黙って目を逸らすも、マテオはルキフェルの顔を覗き込んで言う。
「自分で終わらせるって。また全部背負って」
ルキフェルはため息を吐き、マテオは眉を寄せて声音に苛立ちを滲ませる。
「ルカ。お前はダラス家に嵌められたんだよ。あいつらにとって、お前は生きてるだけで都合が悪い。だから消そうとしてるだけだ」
ルキフェルはマテオを流し目で見て囁く。
「……だからと言って、今更どうしろと。俺は死刑囚だ。明後日には死ぬ」
マテオが突然距離を詰めてきてルキフェルは一歩後ずさる。
「……おい」
マテオがぎゅうっと真正面から抱きついてきた。締め付ける力が異常に強い、肋骨が軋む。
「ぐッ……! おま、やめ……ッ」
ルキフェルが低く唸るも、マテオは一切離さず彼の耳元で囁く。
「生きよう。……オレたちが必ず救ける。今度こそダラス家をぶっ飛ばそう」
ルキフェルの心臓がドクンと鳴り、驚きと喜びで興奮して体を熱くする。死ぬ覚悟を固めていたはずなのに。なのに、こいつらはまだ終わらせる気がない。
「……お前ら」
ルキフェルは頬を紅潮させ、息を吐くと震える手でマテオを抱き返した。
「……わかった」
ルキフェルがマテオの肩に顔を埋め、何回か深呼吸したところで、マテオはようやく身を離す。
「よし」
マテオが踵を返して牢の出口へ向かい、ルキフェルは彼の背に声をかける。
「頼みがある」
マテオが振り返ると、ルキフェルは少し目を逸らして小声で言う。
「お前たちが何を考えてるか知らねえが……ソフィーを巻き込むのだけはやめろ。これはアントワーヌの願いだ」
マテオは鼻を鳴らして応える。
「安心しろ。巻き込むつもりはねえよ」
ルキフェルは少し肩の力を抜くも、顎に手を当てて思案する。
「それと万が一、処刑当日にソフィーがいたら……あいつ、暴走して計画狂わせるかもしれないだろ」
マテオが吹き出しかける。
「否定できねえな」
「だから、俺のことは見るな。見学は禁止って誰か伝えとけ」
ルキフェルが顔を顰めるとマテオは苦笑した。
「わかったよ。じゃあ、リー・ウェン経由で伝えるわ」
そう言ってマテオは牢を出ていった。ガチャンと鉄格子の扉が閉じられ、監視官がマテオを連れて去っていく。ルキフェルは立ち尽くしていた。胸の奥が熱い。さっきまで死ぬつもりだった。終わらせるつもりだったのに、身体の奥からまるで別の感情が湧き上がってくる。生きたい、生き延びたい。あいつらと、もう一度。ルキフェルは顔を上げ、格子窓の向こうに広がる青空を仰いだ。
「……そうだ。死に方を決めるのは、いつだって俺だ。シルヴェストルなんぞに、やられて堪るかよ」
ルキフェルの翡翠色の瞳が鋭く光り、胸の内では獣が毛繕いをしていた。
一方、旧マクシム隊の牢。ジョルジュは壁にもたれながら頭を抱えていた。
「……大体の計画は把握できましたよ。でも……逃亡先はどうするんですか。コルベットですよ? 遠くへは逃げられませんよ、てか無理です」
現実的な問題だ。小型コルベット、足は速いが長距離航海向けではない。補給も限界がある。
「どうしよう……やっぱり不安だぁ……」
ジョルジュはずるずると壁を滑り落ちると床に座り込んだ。サミュエルは腕を組みながら黙っている。逃走、脱獄、救出、そこまでは話していたが、その先はどこへ向かうか。そこはまだ決まっていない。その時、サミュエルの中で一見馬鹿げたような妄想のような考えが浮上した。
「……あ。マルセイユに、バティーユ家の屋敷がある。使用人たちも早々に出払ったから……たぶん空き家になってるはずだ」
牢内が静まったと思いきや、シャルルの片眼鏡がキラリと煌めいた。彼は弾かれたように立ち上がり、片眼鏡ブリッジ部分を押さえ、空いた手で宙を指差す。
「決まりです!! 誰かそこ買い取ってください!!」
アニータがシャルルを冷めた目で見上げながらぼやく。
「そんな都合よくお金持ってる人いないでしょう」
チャリン、チャリン。袋の中で硬貨が擦れ合う音がする。
「ほら」
ティエンが恰幅の良い男の手のひらへ革袋をぽんと置いた。ずっしりと重い。男の目が見開く。
「へ、へへ……毎度あり!」
多額の金を受け取った男は、跳ねるような足取りで坂道を下っていった。ティエンは振り返って目の前の遺物を見上げた。立派な屋敷だ。蔦こそ這っているが、陽光を受けた白壁が輝いている。
「よっしゃ!! ここはオレたちの拠点だぁ!!」
ティエンが拳を突き上げる横で、ヴィクトルが少し軽くなった袋を振りながら通り過ぎていく。
「まったく……こういう時にブルボン本家の財力を使ったとか、親父さんが知ったら泡吹くんじゃないか?」
ティエンはけろりとしている。
「別に父上は何とも思わないだろー。屋敷の一つや二つ買ったところで、別荘地増えたなくらいにしか思わねーって」
「本家は怖いなあ」
ヴィクトルはため息を吐きながら屋敷へ入っていった。
今は処刑前日、マルセイユ。海風の吹く坂道、少し離れた場所でグレゴワールが馬車業者を見送っていた。
「……ほんと胡散臭い男も人が悪い」
グレゴワールは荷物を持ち直す。彼の脳裏に浮かぶのは、数日前のヤンの穏やかな笑顔だ。
——マルセイユのある邸宅を買い取ってもらいたいです。これ、あなたの弟さんからのお願いなんで。
グレゴワールは顔を顰めた。次に脳裏に浮かぶは、あの人騒がせなオレンジ髪の弟。
「知らぬ存ぜぬ……は、通用しないか」
グレゴワールは心底うんざりした顔で呟きながら歩き出す。
向かう先はかつてサミュエルが当主を務めていた、旧バティーユ邸だ。




