第八章① Montage
翌朝、牢の鍵が外される音が湿った廊下に重く響く。旧マクシム隊の面々が食堂へ向かって朝食準備を始める中、シャルルはさっさと廊下へ出ると誰にも告げず当然のように別方向へ歩き出した。
「ちょ、シャルルさん? 朝食は??」
ジョルジュが目を瞬かせて呼び止めると、シャルルは振り返りもせず片手をひらひら振った。
「情報は鮮度が命だよ。パンより優先順位が高い」
「いや、人間は飯食わないと死にますけど!?」
「知識欲でも死ねるぞ」
意味不明な返答だけ残し、シャルルは横道へ消えていった。石畳の上を軽快に進みながら、彼は目を細める。風に乗って細い音色が流れてきた。横笛の音色だ。澄んでいて、どこか遠い異国を思わせる旋律。シャルルは口元を吊り上げる。
「……やっぱりな」
シャルルは歩みを速めた。中庭の大木、その木陰にヤンは一人立っている。黒髪を朝風に揺らしながら横笛を奏でていた。シャルルが近づくと、ヤンは演奏を止めて振り返る。
「おはようございます」
「おはよう。いやあ、実に怪しい待ち合わせだね」
「怪しい話しかしませんので」
二人は大木の陰へ腰を下ろした。朝の空気は冷たく、葉の隙間から零れる光が石畳へまだら模様を作っている。ヤンは次々と語り始めた。自分と五人組の関係、海賊たちとの繋がり。ルキフェルという男がどんな人間だったのか。シャルルは最初こそ興味津々だった。片眼鏡を押し上げながら、「ほう?」「なるほど」「面白い」と、知的好奇心全開の顔をしている。が、ルキフェルの父親の話に入った瞬間、シャルルの隼のような目が丸くなった。
「……待て。今、誰と言った?」
「エリオット・ド・レオパード大元帥です」
「……はい?」
シャルルの額にじわりと汗が浮かぶが、ヤンは止まらない。
「ちょっとま——」
「待ちません」
ダラス家が旧ブルボン派、幻覚剤《夢蛇》の密輸、国家内部への浸食、海賊同盟とフランス海軍の戦争、その裏側で糸を引いていた者たち、国家を内部から破壊するための計画。そして、今なお続いている陰謀。話が進むにつれ、シャルルの顔色が変わっていく。知的好奇心の熱は消えていた代わり、浮かんでいるのは理解と戦慄だ。シャルルが額を押さえる。
「……いや、待て待て待て。それはつまり……」
「国家そのものが、既に内側から食われているということです」
シャルルは言葉を失った。風が木々を揺らし、遠くで誰かの足音が聞こえた。なのに、中庭だけ異様な静けさに包まれている。シャルルは乾いた笑いを漏らした。
「……はは。ぼく、もっとこう……海軍上層部の汚職とか、貴族の利権争い程度を想像してたんだけど……?」
「残念ながら、それより遥かに大きい話です」
ヤンは穏やかに答える。その穏やかさが逆に恐ろしい。シャルルはついに片眼鏡を外し、ぐしゃりと髪を掻き上げる。
「待ってくれ……ダラス家が旧ブルボン派の中核で、国家転覆を企て、海賊戦争すら裏で操って、しかもルキフェルが大元帥の息子?」
「はい」
「はい、じゃないんだよ……!!」
シャルルは声を裏返して顔面蒼白のまま空を仰いだ。知識欲旺盛な男がついに情報量で殴られている。
「なんだこれ……ぼく今、とんでもない国家機密を聞かされてないか……?」
「ええ。恐らく、知っている人間は極めて少数です」
シャルルは両手で顔を覆った。
「……ああ、くそ……面白すぎるだろ、この国」
彼の声には恐怖とどうしようもなく高揚した色が混ざっていた。シャルルは深く息を吐くと片眼鏡を掛け直し、まだ若干青い顔のままヤンを見る。
「……それで、ルキフェル本人とダラス家の関係って?」
「二十年前から地続きですね」
「三行で」
ルキフェルは昔の事件の被害者。
ダラス家が黒幕。
現当主曰く「時効だから自分たちは関係ない」。
シャルルはヤンをじとりと見つめた。
「……今の、昨日聞いたばっかりだね?」
「ええ、同僚経由で裁判内容が共有されましたので」
「情報更新が早いなあ、君たち」
シャルルは額を押さえながら呻いた。
「あー、うん? なるほど」
なるほどでは済まない話だが、もはや脳が現実逃避を始めている。しばらく考え込んだあと、シャルルは我に返ったように顔を上げた。
「……あ、そういえばピエール・ダラスは? たしか、君の協力者の元にいるって話じゃ——」
「ああ、死にました」
「…………」
「逃げられたと思ったら、海に流されてきましたね」
シャルルは口を閉ざした。さらっと言う内容じゃない。ヤンは気にした様子もなく続ける。
「そういえば……サン・マロ奪還作戦の日、なぜピエールがマクシミリアン隊を襲ったのか、明らかにするのを忘れてました」
「うーん……今となっては迷宮入りだろうなあ」
シャルルは眉間を押さえた。彼の脳裏に蘇る、サン・マロ奪還作戦。乱入してきたピエールと黒衣の集団。あの異様な襲撃の時点で、既に裏では何か巨大なものが動いていた。木漏れ日が片眼鏡へ反射し、シャルルは乾いた笑みを漏らした。
「それにしても……ダラス家、思った以上に碌でもない。やっぱり、このまま死ぬのは嫌だなあ。黙ったままなのは悔しい」
ヤンは手帳を取り出してパラパラとページを捲る。
「ちなみに……ダラス家の悪事については、昨日の裁判であの五人が告発したそうです」
「ほう?」
「血筋問題の審議中、なぜルキフェルが事件の被害者となったのか。誰が発端だったのかを明かすために、ダラス家がかつて生業としていた人身売買の過去を持ち出したとのことです」
空気が冷え、シャルルの顔が険しくなった。
「……最低だな」
「ええ。先ほど三行でお伝えしたように……」
「……あー。なるほどね」
シャルルは片手で顔を覆うも、指の隙間から隼のような目が細くなり、声色が嬉々として変わる。
「けど、夢蛇の件と海賊戦争は時効じゃないよね?」
「ええ、そうなりますね」
ヤンが目を丸くした。シャルルは次第に口角を上げていく。今度の笑みは、面白いからではない。獲物を見つけた隼の顔だった。シャルルは片眼鏡を押し上げて木々を見上げる。
「なるほど、これは使えるかも。要は、まだ残ってる罪を表に出せばいい。そうすれば、ダラス家は崩れる」
風が吹き抜け、木々が揺れる。シャルルは立ち上がった。先ほどまでの混乱はもうない、頭の中で既に盤面が組み上がり始めている。
「よし、まずは脱獄計画。ルキフェルを助けないと」
シャルルは額を押さえたまま息を吐いた。
「そういえば。ルキフェルの処刑方法って決まってるの?」
「海上斬首。シルヴェストル直々の指定だそうです」
ヤンは手帳を閉じて穏やかな声音で答えた瞬間、シャルルの眉がぴくりと動いて舌打ちした。
「ちっ、よりによって海の上か」
シャルルの脳裏に知識の引き出しが一つ開いた。——海上斬首。海賊への公開処刑として、古くから用いられてきた見せしめの形式だ。民衆への威圧、他の海賊への抑止。国家が「海を支配している」と誇示するための儀式。罪人は帆船の甲板に設置された斬首台へ引き出される。港を囲む群衆、軍旗、銃を構えた兵士、潮風に混じる怒号。そして、刃が落ちる。国家の威信を示すためだけに。しかも海上斬首となれば、準備期間そのものが厳重警備になる。ルキフェルの牢は当然、今後さらに監視が強化されるだろう。処刑前に単独で抜け出すのは不可能。無理に突っ込めば全員捕まる。最悪、まとめて処刑台送りだ。
「……なるほどなあ。ずいぶんと逃がさない形を選んだものだ」
シャルルは乾いた笑みを浮かべ、ヤンは頷く。
「ええ。シルヴェストルとしても、二度と取り逃がしたくないのでしょう」
「そりゃそうか。血筋問題を抱えた上に、ダラス家の悪事まで知ってる。しかも海賊側の象徴的人物。公開処刑にすれば国家の勝利を演出できるわけだ」
シャルルは肩をそこまで言ってから不意に腹を押さえた。
「……あ」
「どうしました?」
「いや、お腹すいた」
シャルルは大きく伸びをする。
「頭を使うと体力消費するんだよ。ぼくは繊細だからね」
「そういうことにしておきましょう」
「失礼な」
軽口を返しつつも、シャルルは片眼鏡を指先で押し上げて参謀の顔へ戻る。
「まずは処刑の詳細を聞き出そう。船の規模、警備人数、出航時間、ルート、港湾配置……海上斬首なら絶対にどこかに穴はある」
シャルルは歩きながらブツブツと言い、足を止めてヤンを振り返った。
「……でも、その前に食べてくるよ」
「大事なことです」
「うん。空腹の参謀は役に立たないからね」
そう言い残し、シャルルは軽い足取りで木陰を離れていく。彼の背を見送りながら、ヤンは目を細めた。
「詳細、ですか。となると……関係者から直接、話を聞く必要がありそうですね」
ヤンは中庭を後にした。朝の空気はまだ冷たく、石畳には夜露が薄く残っている。遠くで波の音がかすかに響き、徒刑所の壁を越えた先に海があることを感じさせた。さて、とヤンは内心で呟く。まずは同僚たちと情報を整理するべきか。あるいは港周辺の様子でも探っておくか。そんなことを考えながら室内の廊下へ入った時、聞き覚えのある声にヤンが振り向く。
「あ、リー・ウェンさん」
そこにいたのはアルフォンスだった。彼の両手には銀のトレイ。東洋風の茶葉缶と湯気を立てるティーポット、それに人数分のティーカップが丁寧に並べられている。ほのかに甘い茶葉の香りが漂ってきた。
「おや、おはようございます」
ヤンが穏やかに会釈すると、アルフォンスは少し困ったように笑った。
「実はお願いがあるんです」
「お願い、ですか?」
「ええ」
アルフォンスは声を少し落とし、ヤンは表情を変えないまま耳を傾ける。
「ここ最近、大元帥の顔色が優れなくて。もしよければ、何か面白いお話でも聞かせてもらえないでしょうか。大元帥は東洋文化がお好きでして。以前から、あなたに関心を持っておられたんです」
なるほど、これは随分と都合がいい。ヤンは柔らかく微笑みながら頷く。
「ええ、構いませんよ。わたしでよければ、お力になりましょう」
「本当ですか、ありがとうございます!」
アルフォンスは胸を撫で下ろすように笑ってトレイを持ち直す。
「このあと大元帥と副司令官、それに准将が朝食の時間なんです。リー・ウェンさんも、よろしければ一緒にどうですか?」
「いえいえ。わたしは既に食べてきておりますので」
「そうですか。では、執務室へご案内します。御三方が朝食を終え次第、参りますので。少々お待たせしてしまいますが」
「お気になさらず。待つのは慣れております」
二人は並んで廊下を歩き出した。軍人たちが慌ただしく行き交う中、アルフォンスは慎重にトレイを支えながら歩き、ヤンは彼の横顔を見ながら何気ない調子で尋ねた。
「皆さん、相当お疲れのご様子ですねえ」
「……ええ。裁判の件もありましたし、それ以外にも色々と。大元帥も、ほとんど眠れていないみたいで」
「なるほど」
ヤンは頷いた。人は余裕を失った時ほど隙を見せる。そして今、自分はその中心へ向かっている。
——さて、どこまで見せてくれるでしょうかね。
執務室へ入ると、まず右手側に長テーブルと革張りのソファが見えた。朝の光が室内を淡く照らし、重厚な木製家具の輪郭を浮かび上がらせている。潮風を含んだ空気に茶葉の甘い香りが混ざっていた。
「少々、お待ちください」
アルフォンスは長テーブルへトレイを置き、無造作に散らばっていた紙束へ目を向ける。
「ああ、いけない……」
アルフォンスは慣れた手つきで書類をかき集め始めた。数枚の紙が擦れる乾いた音が室内に響く。アルフォンスはまとめた書類を、窓辺近くに置かれたエリオットの机へ移動させ、丁寧に揃えて端へ置くと再び長テーブルのトレイを持ち直した。
「では、後ほど」
アルフォンスは軽く会釈して執務室を後にした。扉が閉まるとヤンはソファへ座らずに室内を見渡しながら彷徨く。窓辺、壁際の棚、海図、インク壺と羽ペン。そして、机の上に積まれた書類。ヤンが目を落とした瞬間、目的の文字列が目に飛び込んできた。
「『五鬼衆の一人、ルキフェル処刑計画書』。ずいぶんと仕事が早いですねえ」
書類はまだ未完成らしく、過去に執行された海上斬首の記録や計画書を雛形として流用した痕跡が見て取れた。赤線、修正跡、書き換え途中の欄。使用船舶、小型コルベット。出航予定時刻、四月十四日の朝。トゥーロン港に向けて……そこから先は空欄が目立つ。警備配置や人員構成など、細部はまだ詰め切れていないらしいが、流れそのものは明記されていた。罪人は公開処刑の見せしめとして街中を歩かされる。群衆へ晒されながら港へ移送後、停泊中の処刑船へ乗船。海上で執行。ヤンは思考を巡らせた。ルキフェルほどの大物海賊なら、今回も同様の動線になるはず。つまり、シャルルの読み通りだ。牢を抜け出す隙はない。少なくとも、処刑当日までは。
「……なるほど」
ヤンは瞬きをした。情報はまだ少ないが、十分に価値はある。あの変人参謀へ投げれば、また何か面白い答えを返してくるだろう。ヤンは書類の中身を脳へ焼き付けていった。メモを取る必要はない。彼にとって記憶とは読むものではなく、置いてくるものだ。目を閉じれば、紙そのものが浮かぶ。やがて、ヤンはソファへ腰を下ろした。数分後、扉が再び開く。
「待たせたな!」
最初に入ってきたのはルソーだった。疲労の色は濃いが、昨日よりは多少表情が柔らかい。続いてイザベル、アルフォンス、最後にエリオットが姿を現した。
「お初にお目にかかります、大元帥」
ヤンは立ち上がって一礼する。エリオットは疲弊した顔のまま頷いた。
「噂は聞いている」
「悪い噂でなければ幸いです」
ヤンの返しに、ルソーが思わず吹き出した。
「ははっ、やっぱ面白ぇな、お前!」
そこから先は穏やかな時間が過ぎた。東洋の山奥に棲む龍の伝承、海霧の向こうへ消える幽霊船、星を読む航海士たちの神話、東方の王朝で語り継がれる不老不死の仙人の話。ヤンは柔らかな声で語り続けるたびにルソーは豪快に笑い、アルフォンスは目を輝かせ、イザベルでさえ時折口元を緩める。そして、エリオットもまた耳を傾けていた。ほんの束の間だけ執務室から重苦しい空気が消え、やがて話が終わる頃にはルソーがすっかり上機嫌になっていた。
「いやあ、面白かった! お前、また来い!」
「ありがとうございます」
ヤンは微笑むと、エリオットも表情を和らげた。
「……感謝する。久しぶりに少し気が紛れた」
「それは何よりです。では、わたしはこれで」
ヤンは一礼すると執務室を後にした。




