第七章② 牢獄にて
一方、ルキフェルは二人の監視官に両腕を乱暴に掴まれ、徒刑所の廊下を歩かされていた。石壁に囲まれた通路は薄暗く、湿った冷気が肌へまとわりつく。鉄靴の音が硬質な反響を繰り返し、鎖の擦れる音が不快に耳へ残った。
「さっさと歩け」
監視官がルキフェルの肩を強く押す。ルキフェルは舌打ちひとつ返さず、沈んだ瞳で前を見据えていた。途中、別の通路から戻ってきたペネロペがふと足を止める。
「……あ?」
彼女の視線が、監視官たちに挟まれたルキフェルへ向く瞬間、監視官の一人が苛立たしげに吐き捨てた。
「退け」
監視官に肩を乱暴に押され、ペネロペがよろめく。
「チッ……」
ペネロペが睨み返そうとした時、ルキフェルの両手に食い込む拘束具に気づいた。普段より明らかに荒い扱い、そして周囲に漂う、異様な緊張。ペネロペが問いかける前に、監視官たちはルキフェルを連れて通り過ぎていった。旧マクシム隊が収監されている区画では、鉄格子に寄りかかっていたジョルジュが、遠くから聞こえてきた諍いの音に顔を上げる。
「ん?」
ジョルジュが何気なく廊下へ目を向けると、視界を横切った人影に思考が止まった。
「……え?」
二人の監視官に乱暴に挟まれたルキフェル、強引に押し歩かされる姿。理解が追いつかず、ジョルジュの顔から血の気が引いた。
「え、え、なんで!?」
「……っ」
サミュエルが冷たい鉄が軋むほど強く握りしめながら、ルキフェルたちが消えた方向を凝視した。額から嫌な汗が伝い、胸の奥が一気に冷えていく。まずい。直感が叫んでいた。何かとんでもないことが起きている。
「……おい、待てよ……なんで、あいつが……あんな扱い……」
ジョルジュの声は震えていた。遠ざかる鉄靴の音だけが廊下に残響していく。やがて、ルキフェルは徒刑所のさらに奥へ連れて行かれた。かつてマクシムが収監されていた重厚な扉付きの独房ではない。鉄格子だけで仕切られた牢だった。監視官が鍵を乱暴に回す。
「入れ」
背中を押され、ルキフェルは数歩よろめきながら中へ入った。鉄格子が閉まり、重い金属音が冷たい空気を震わせた。海賊にはこの程度で十分という認識なのか。あるいは、まだどこかにエリオットの恩情が残っているのか。ルキフェルには判断がつかなかった。興味もない。監視官たちの足音が遠ざかっていく。薄暗い牢の中、鉄格子の隙間から夜の風が吹き込んでくる。湿った冷気が頬を撫で、衣服の隙間へ入り込んだ。ルキフェルはゆっくりと壁へ背を預ける。石壁は冷たかった。ルキフェルは膝を立てて目を閉じる。処刑まで、あと五日。死を待つ時間が始まった。遠くで波の音が聞こえる。鉄格子の向こうに見える細い闇をぼんやり眺めながら、ルキフェルは浅く息を吐いた。
——最期まで誰も巻き込まない。
その後、先ほどルキフェルを連行した監視官二人が廊下の奥から戻ってきた。鉄靴の音が硬く響き、ジョルジュは反射的に鉄格子へ駆け寄った。
「あの!」
監視官が怪訝そうに目を向ける。ジョルジュは鉄格子の隙間から腕を伸ばし、片方の監視官のズボンの裾を掴んだ。
「さっきの人……!」
「離せ」
監視官は苛立ったように足を振り上げ、ジョルジュの手を乱暴に払った。
「っ……!」
指先に鈍い痛みが走るもジョルジュは食い下がった。
「お願いです! さっきの海賊……何があったんですか!?」
「あいつ?」
監視官は鼻で笑うと吐き捨てるように続けた。
「あの五鬼衆の一人か。死刑だよ、死刑」
「……え」
ジョルジュの背後でサミュエルの目つきも鋭く変わった。ジョルジュは鉄格子を握り締めたまま震える声で問う。
「あ、あの人だけ……? それとも、全員ですか……!?」
監視官たちは顔を見合わせ、舌打ちを残して廊下を歩き去っていく。
「ま、待ってください!」
ジョルジュの声が石壁に虚しく反響する。鉄靴の音が遠ざかり、残ったのは嫌になるほど重い静寂だった。
「……っ」
ジョルジュは鉄格子に額を押し付けた。呼吸が浅い、頭の中で先ほどの光景が何度も反復される。乱暴に扱われるルキフェル、監視官の言葉——死刑。
「……そんな……」
サミュエルが険しい顔で腕を組んでいた。いつもの穏やかな空気は完全に消えている。その時、通路側からペネロペが戻ってきた。
「ねえ、今の……」
「ああ、事態は最悪だ」
サミュエルが呟いた。ジョルジュはまだ鉄格子の向こうを見つめ、監視官たちが消えた暗い廊下に視線を固定して譫言のように呟く。
「そんな、じゃあ……マテオさんも……?」
やがて、一人二人とメンバーが帰ってきては重苦しい沈黙が牢内を満たしていた。石壁に寄りかかって目を閉じる者、腕を組んで黙って床を見つめる者、鉄格子の向こうを睨み続ける者。そして、廊下の向こうから足音が近づいてくる。雑務を終えた残りのメンバーたちだ。
「……あれ?」
リゼーヌが最初に異変に気づき、牢の中に視線を向けて眉を寄せる。
「どうしたんですか……?」
彼女の後ろからスザンヌも足を止めた。いつもならジョルジュの声が響いているはずだった。サミュエルが苦笑していてアニータが呆れ、ペネロペが文句を言っている。なのに、今は誰も何も言わない。スザンヌの胸に嫌な予感が走った。
「……何が、あったんですか」
サミュエルは言葉を選ぶように視線を落として低く告げる。
「……ルキフェルが、死刑になった」
「……え?」
スザンヌの表情から感情が消えた。死刑、ルキフェル。頭の中で二つの言葉が上手く結びつかなかったが、数秒遅れて意味が胸へ落ちてきた。
「……嘘」
ジョルジュが鉄格子へ額を押し付けたまま首を振る。
「……嘘じゃない」
牢の隅、壁へ背を預けていたシャルルが片眼鏡をクイッと押し上げる。いつもの余裕めいた笑みはない。
「っ……」
スザンヌは目眩がして身体から力が抜けかけた。リゼーヌが慌てて彼女を支え、崩れ落ちそうになる身体を抱き留める。
「スザンヌ!」
「しっかりして!」
アニータもすぐ駆け寄って半ば強引にスザンヌを壁際へ座らせる。
「座って!」
スザンヌは呆然としたまま呼吸を繰り返していた。顔色は真っ青で指先が小刻みに震えている。
「……そんな」
生きろと告げた声、あの穏やかな声が耳の奥で反響する。胸の奥が締め付けられ、吐き気に似た感覚が込み上げた。アニータは何も言わずスザンヌの隣に座り続け、リゼーヌも彼女の背中にそっと手を添えていた。ロザリーとペネロペがちらりと目を合わせた。本当は詳しく聞きたいが、今のスザンヌを前にそんな話を切り出せる空気ではなかった。ペネロペは舌打ちを飲み込んで壁へ背を預ける。ロザリーも目を伏せた。やがて監視官が人数を確認し、無愛想に鍵を閉める。ガシャンと重たい音と共に鉄格子が閉ざされ、再び牢内へ沈黙が落ちた。ジョルジュは落ち着きなく鉄格子の周囲をうろつき、シャルルはため息をついて目を閉じた。
その時、複数人の足音が廊下の奥から近づいてくる。全員の視線が一斉に向き、ヤンと四人の海賊が鉄格子の前で立ち止まった。シャルルが壁から身を離すと、ヤンは穏やかな微笑を浮かべて告げる。
「この方たち、皆さんにお話があるそうです」
その瞬間、ジョルジュが勢いよく鉄格子へ駆け寄って隙間から必死に腕を伸ばす。
「師匠!! ルキフェルが死刑になったって聞きました! 師匠も殺されるんですか!?」
マテオはジョルジュの手から逃れるように半歩後退した。
「……ルキフェル、はな。オレたちは知らん、保留中だ」
ジョルジュの顔がさらに青ざめ、彼の横でロザリーが冷静な声を落とす。
「裁判で何があったの? また悪の海賊ってレッテル貼りかしら」
ジャスパーは肩をすくめて生真面目な顔で言う。
「まあ、結果的にはな。けど、そもそもの議題は血筋問題だ」
「……血筋?」
シャルルの片眼鏡がキラリと煌めく。興味が一気に表へ出ていた。ヤンが苦笑して告げる。
「ああ。今、説明するとややこしいので。……明日にでもお話ししますよ」
ヤンの言葉にサミュエル、ロザリー、ペネロペの三人がほぼ同時に反応した。
「ああ……」
「なるほどね」
「そういうこと」
三人とも察した顔をしている。ルキフェルの血筋問題、以前から断片的に把握していた情報がここで一本に繋がった。サミュエルは息を吐いて天井を仰ぐ。
「……その為の裁判だったのか」
一方、アニータとリゼーヌ、ジョルジュはついていけていなかった。
「え?」
「血筋……?」
「どういう意味……?」
三人の頭上に疑問符が浮かぶ空気を切り替えるように、サミュエルが海賊たちを見る。
「君たちのことだ。まさか、ここで終わるなんて考えてないよな。わざわざ僕たちへ会いに来たのも、そのためだろう」
ニールが感心したように眉を上げた。
「さすがサミュエル、経験値が豊富」
「褒めてるのか、それ」
サミュエルが怪訝な顔で即座に返すが、ニールはすぐ真顔へ戻って言う。
「ルキフェルは全部終わらせる覚悟だ。けど、僕らは終われない」
ペネロペが壁へ寄りかかったまま顎をしゃくる。
「で? 何が言いたいわけ」
ニールは一度牢内全員を見回して二段階ほど声を落とす。
「単刀直入に言う。ルキフェルの救出を手伝ってほしい」
「……はいい?」
ペネロペが目を見開き、リゼーヌも息を呑んだ。アニータが眉を寄せ、ジョルジュが慌てて言う。
「え。でも、ボクたち囚人……」
「いや、自由な囚人だ。昼間、出歩けるだろ」
マテオは鉄格子越しに鋭い目を向け、自分たちを指差す。
「んで、オレたちはこれから制限がかかるはず。だから、お前たちが主体になってくれると助かる」
「……なるほど」
シャルルの声自体は落ち着いているが、妙に意味深なイントネーションだった。内側から湧き出る高揚の温度が隠せていない。ニールはヤンを指しながら続きを話す。
「ここにいるリー・ウェンも協力してくれる。彼が外部との橋渡し役になってくれるはずだ」
ニールはサミュエルたち三人を見て怪訝な顔をする。
「……あと、裁判の審議役にダラス家が来た」
「……うわぁ」
ペネロペが心底嫌そうに顔を顰め、ロザリーに至っては嫌悪感を剥き出しに舌打ちした。
「誰?」
ジョルジュが首を傾げるとニールは答える。
「当主のシルヴェストル・ダラスだ」
「あの男が出てきた時点で碌な話じゃないわね……」
「最悪だな」
ロザリーがイラついた調子で吐き捨て、サミュエルも深く溜息を吐く。ペネロペが鼻で笑った。
「じゃあ、ダラス家にやられたってわけね。やられたらやり返す。……でも、その前に救出ってことか」
「うーん……でも、具体的な方法がまだなくて。でも、僕らとしてはルキフェルを放っておけないんだ」
ニールは苦笑して両手を上げている。一方、シャルルは明後日の方向に目を輝かせていた。ダラス家の名前を聞いた時点で、相当黒い話題だと理解している。理解しているのに、むしろ知的好奇心が刺激されていた。
「想像以上に面白そうな話だな」
シャルルが口角を上げて声を漏らした。コリンがじっとシャルルを見つめている。薄暗い牢の灯りの下、コリンの茶色い瞳が妙に鋭い。
「……ずいぶん食いつきがいいね。さっきから」
シャルルは片眼鏡の奥で目を細めると肩をすくめる。
「さて、どうだろうか」
ジャスパーが呆れ半分に眉を寄せる。
「お前、絶対楽しんでるだろ」
「失礼な。ぼくは常に真面目だよ」
即答したが声色にまるで説得力がない。シャルルは立ち上がると鉄格子へ歩み寄って海賊たちを順に見た。
「それで? 作戦は?」
「……なんもできてない」
「ふむ」
ニールが苦笑混じりに頭を掻くと、シャルルは顎に手を添えて数秒考え込んだ。
「なるほど……でしたら、優秀な参謀が必要ですね」
シャルルは片眼鏡をクイッと押し上げた。声音は妙に毅然としているのに、目は隠しきれないほど輝いている。彼はにこやかに言った。
「いいでしょう。ここは、ぼくが計画を練ります」
「……はい?」
牢内と廊下、ヤン以外の全員が素っ頓狂な声を上げた。マテオも思わず眉を顰める。
「おい待て、お前……」
シャルルは鉄格子へ指先を添えて寄りかかる。
「ただし、条件付きです。ルキフェルを救出したら、ぼくたちも連れて行ってほしい。共に、この腐った徒刑所を抜け出しましょう」
少し遠出でも提案するかのようだ。四人の海賊は揃って「こいつやばい」と口々に言って額に汗を浮かべ、ヤンが額に手を当てて深いため息を吐いた。
「あなた、楽しみたいだけでしょう」
「いやいや、ちゃんと動機はあるよ」
シャルルの片眼鏡の奥、隼のような目つきがすっと細くなった。
「ぼくは常日頃から、この国の正義は危険だと密かに提唱していた。そして今、自分たちがその毒沼に浸かっている」
シャルルは牢の石壁を見渡して肩をすくめると、海賊たちを見返る。
「こんな国に処刑されるくらいなら……君たちについていくよ。その方が面白い」
「ここにいたぞ。面白いからって理由で乗ってくるやつ……」
「最悪」
マテオが頭を抱え、ロザリーが呆れたように息を吐く。しかし、シャルルは意に介さず指を一本立てた。
「安心したまえ。ルキフェルの名誉にもかけて、最小限の犠牲で抑える作戦を立てると約束する」
ジャスパーの表情が少しだけ引き締まり、数秒、シャルルと視線を交わすと低い声で言う。
「……時間がないんだ、もうお前に任せる」
シャルルは満足そうに頷くとニールを流し目で見る。
「運に任せる作戦は考案しないから」
「それ、喧嘩売ってるね?」
「そこ、張り合わない」
ニールが即座に爽やかな笑顔を浮かべるも、ロザリーがぴしゃりと二人の間を遮った。シャルルは再び真顔へ戻るが、片眼鏡の奥で知性が妖しく光る。
「とにかく、ぼくとしてはダラス家について知りたいことも山ほどある。ここで死ぬわけにはいかないのだよ」
コリンがじっとシャルルを見つめて呟く。
「もう仲間みたいなこと言ってるけど、ぼくは忘れてないからね。ルキフェルを撃とうとしたの」
嵐の日、銃口、響いた銃声。そして、庇うように飛び出したコリン。コリン自身の腕に走った熱と痛み。シャルルの表情から色が消えた途端、目を伏せて声をしおらせた。
「……許してくれとは言わない。ぼくはあの時……間違えた」
コリンは瞬きをしてから呟く。
「あ、これ……めっちゃ後悔してるやつだ」
「分かりやすいな、お前」
ジャスパーが苦笑する。マテオは腕を組んでシャルルを見た。
「……この男が参謀でいてくれるなら任せてもいいかもな」
「うん。僕もそう思う」
ニールがこくりと頷くと、ヤンは苦笑しながら肩をすくめる。
「では、悪巧みを始めましょうか」
「そこ。ぼくの台詞、取らない」
シャルルはヤンを指差して周囲が失笑した時、スザンヌがふらりと立ち上がった。まだ顔色は白いが、瞳は熱を帯びている。彼女は鉄格子の向こうにいるジャスパーをじっと見つめた。
「……私も助けたい。助けてくれたから」
ジャスパーは数秒、ぱちぱちと瞬きをして内心で理解する。
——ああ、この子。あいつのこと好きなんだ。
その瞬間、十年前の光景がジャスパーの脳裏をよぎった。昼の港、勝手に船を抜け出していくルキフェル。
「ちょっと行ってくる」
「お、今日もか」
ジャスパーは駆け抜けていく背に向かって、面倒くさそうに手を振っていた、まだ若かった自分たち、あの頃のルキフェルは今より少しだけ人間臭くて、あの子に会いに行っていた。ジャスパーは視線を細める。
……ま、この子が昔を覚えてるかは知らんけど。生きろって言ってくれた男が処刑されるんだから、そりゃ放っておけないよなあ。
そう結論づけてからジャスパーは微笑みを浮かべた。
「ああ、大歓迎だよ」
スザンヌは目を見開き、それから声を漏らして笑った。さっきまで絶望の底に沈んでいた瞳に柔らかい光が差す。穏やかな空気が牢に満ちかけるが、空気を読まない声が全部ぶち壊した。
「ボクも協力しますからね!!」
ジョルジュが鉄格子を掴み、尻尾をぶんぶん振る犬みたいな勢いでマテオに身を乗り出す。
「地獄でも銃教えてくださいよ! マテオさんのためなら何でも全力でやります!!」
マテオが心底嫌そうな顔をした。
「……お前、なんでそんな犬みたいなんだ」
「えっ!? 褒め言葉ですか!?」
「違う」
ジョルジュはまったく堪えた様子もなく、瞳をキラキラさせている。マテオは深いため息を吐いて額を押さえた。
「……勝手にしろ」
「やったー!!」
「いや許可してねえんだが?」
「うるさ……」
ジョルジュの横でペネロペが呆れ返る。サミュエルが鉄格子へ寄りかかり、冷えた目で抑揚たっぷりに言う。
「ま、ダラス家のことはシンプルに赦せないからな」
「ええ。また協力するわ」
「借りもあるしね」
ロザリーも腕を組んで険しい顔で頷き、ペネロペも鼻を鳴らした。リゼーヌがおずおずとヤンを見て、しどろもどろになりながら言う。
「あ、あの……私、まだ事情が全部飲み込めてなくて……でも、リー・ウェンさんまで動くってことは……裏では相当ヤバいというか、複雑な事情が絡まってるんですよね……?」
ヤンは苦笑しながら頷いた。
「まあ、そうですねえ」
「でしたら、私も力になります!」
リゼーヌは胸元で拳を握って立ち上がった。突然の勢いに皆の目が瞬く。
「わ、私、航海天文学士で! 戦闘もそんな強くないですけど! 得意分野は占星術なんで! 星読みできます! あと、それなりに知識はあります! 東洋方面でしたら!」
熱弁するリゼーヌを見て、ニールが首を傾げる。
——なんだこの子、ちょっと面白いな。
ニールは壁へ寄りかかりながら口元を緩める。
「へえ、星を読める知識人か」
リゼーヌが少し身構えるも、ニールはわざとらしく感心した声で続ける。
「歓迎するよ。今の僕ら、進む航路も見えない状態だからさ。道に迷った時、星を読める人間は貴重だ」
「……!」
リゼーヌは目を丸くし、ニールは肩をすくめて言う。
「それに東洋知識持ちなら、ヤンとも話合いそうだしね」
「ええ。ぜひまたお話しましょうか」
ヤンがくすりと笑い、リゼーヌの顔がぱっと明るくなる。
「は、はい!」
彼らの様子を見てコリンがぼそっと呟く。
「なんか急に知識人サークル始まった」
「やめたまえ」
シャルルが片眼鏡を裾で拭きながら真顔で返す。
「知性は世界を救うんだよ」
「絶対今、世界征服とか考えてたでしょ」
「失礼な。脱獄だよ」
「もっとダメじゃん」
牢のあちこちで小さな笑いが漏れた。本来なら絶望しかない話のはずなのに。それでも、この牢には生きようとする空気が満ち始めていた。その時、鋭い声が牢内に漂っていた空気を切り裂く。
「ちょっと待って」
全員の視線が向き、牢の隅でアニータが一歩後ずさっていた。彼女の表情は強張り、四人の海賊を射抜いている。
「……海賊を信用する気? リー・ウェンも、みんなも」
ジャスパー、ニール、コリン、マテオ。四人とも一瞬視線を交わした。
——まあ、そりゃそうだよな。
むしろ、ここまで誰も言い出さなかった方がおかしい。
……なんだ、この女。敵意が露骨すぎる。
マテオは腕を組みながら内心で首を傾げる。
「この人たちは海賊よ。敵なのよ? 罠かもしれない」
アニータは仲間たちを見回した。声音には警戒が滲んでいるが、語尾が弱かった。ジョルジュが違和感に気づいて困ったように眉を下げる。
「アニータ……今それを言うの、ちょっと無理があるんじゃないかな」
「無理?」
アニータが睨むとジョルジュは真っ直ぐに見返した。
「口では強がってても、君だって分かってるはずだよ。これ、わざわざ言う必要ないかもしれないけど……マテオさんに少しでも良いところ見せたいんだ、敢えて言うね」
「いらねえよ」
マテオが即座に切り捨てるがジョルジュは止まらない。
「ボクたちって、今まで“海賊は敵”って認識だったじゃない? でも、国家は腐ってるし、海賊にも理由があって海賊やってるし……」
「っ、けど!!」
アニータが遮って一瞬躊躇うも再び声を荒げる。
「……その海賊が、ベルナルドを奪ったのよ!!」
四人の海賊が一斉に口を噤んだ。ベルナルド。その名前だけで三年前の記憶が蘇る。血の匂い。そして、アントワーヌの復讐の秘密を知ってしまった男が、自分たちの目の前で殺された瞬間。助けられなかった、止められなかった。あの時の無力感が一気に胸を抉る。コリンはニールの背後に隠れ、ニールは目を伏せた。マテオの眉間に深い皺が刻まれ、ジャスパーは目を閉じる。アニータは唇を噛んでから声を震わす。
「赦せるわけないじゃない。奪われたのに……」
ジョルジュとリゼーヌだけが困惑していた。
「……ベルナルドって?」
「誰、ですか……?」
他の隊員たちの表情は重かった。三年前の悲劇を皆知っている。その時、シャルルがアニータへ歩み寄った。
「……目が泳いでる」
アニータの肩がぴくりと震えてシャルルを睨んだ。
「な……」
「本当は君も気づいてるはず」
シャルルの片眼鏡の奥の視線が鋭くなった。
「君は、ただの海賊嫌いじゃない。まだ言葉にできないだけで」
アニータがシャルルを睨み返して背筋を伸ばす。
「……私の何を知ってるっていうの?」
「何も? けど、仲間として放っておけないだけさ」
シャルルの穏やかな口調にアニータは返せなくなる。一方、ジャスパーはずっとアニータを観察していると直感が働いた。
——この女、ルキフェルに感謝してる。
スザンヌを救ったからか。あるいは、もっと別の何か。その核心には、きっとベルナルドがいる。ジャスパーはアニータに向かって声をかける。
「ベルナルドは海賊に殺された、と言ってたな」
アニータが顔を上げ、ジャスパーは真っ直ぐに彼女を見る。
「悪いが、違う。おれたちの目の前で、あいつは殺された」
アニータの瞳が揺れ、マテオとコリンとニールも驚いたようにジャスパーを見上げた。ジャスパーはジョルジュたちをチラリと見てから言う。
「犯人も知ってるけど、ここじゃ言えない。ベルナルドを知らない奴がいる以上、話すなら二人きりだ」
張り詰めた沈黙の中でアニータは俯いて目を閉じ、長い時間をかけて息を吐く。
「……脱出できたら、詳しく聞かせて」
ジャスパーはようやく肩の力を抜いて溜め息を吐く。
「……ああ」
空気を見計らったようにヤンが軽く手を叩き、海賊たちに声をかける。
「おっと。そろそろ立ち退くとしましょうか。今頃、軍関係者は貴方がたを探している頃でしょうし」
「だね」
ニールが壁から背を離し、ヤンは続けてシャルルを見る。
「では、明日のお昼にでも話し合いましょうか。まずは、わたしから情報を渡します」
「ああ、了解」
牢の中と外、海賊たちと旧マクシム隊が互いに視線を交わす。不安も疑念も残っている。それでも、今は同じ方向を向いていた。ルキフェルを死なせないために。ヤンが踵を返し、四人の海賊も彼に続く。遠ざかっていく足音、牢に残された者たちは、靴音が消えるまで耳を澄ましていた。
その後、四人の海賊は廊下を歩いていく。夜の徒刑所に靴音が乾いて響いた。ヤンと途中で別れ、張り詰めた空気の中を進んでいた時、低い声と同時に前方の角から複数の海軍兵が現れる。
「——止まれ」
ランタンの灯りが剣帯や軍靴を鈍く照らし出した。ニールが目を細め、ジャスパーは肩を竦める。
「……お迎えか」
兵たちは四人を取り囲み、無言で歩かせた。連れて行かれた先は見覚えのある扉、エリオットの執務室だった。扉が開くと室内は静まり返っていた。重厚な机、淡いランタンの光。窓の外には夜の海が黒く広がっている。そして、執務室の中央でエリオットが立っていた。顔が疲弊している、とジャスパーは真っ先に思った。大元帥としての威圧感は確かにあるが、今の彼は何日も眠っていない男のように顔色が悪い。肩には重たい影が落ち、視線の奥には拭いきれない疲労が滲んでいた。ルソーもイザベルも、アルフォンスもいた。全員、限界寸前らしい。沈黙の後、エリオットが四人に告げる。
「……悪いが、君たちも牢で過ごしてもらう」
ジャスパーは黙ったままエリオットを見つめ、茶色い瞳の奥にあったものを見逃さなかった。
——これ以上、誰かを壊したくない。
「……なるほどねぇ」
「海軍側も、かなり余裕ないみたい」
ニールの呟きにイザベルの眉がぴくりと動くが、反論はない。ルソーは腕を組んで険しい顔を崩さず、アルフォンスは四人から視線を逸らしていた。ジャスパーは内心で確信する。
——冷静さを失ってる。
だから拘束する、だから閉じ込める。壊れる前に、あるいは壊れた後に備えて。
「行くぞ」
兵士たちに促され、四人は再び歩き出した。一人ずつ、別々に収監される。鉄格子型の牢、湿った石壁、隙間風、最低限の寝台と孤独。ジャスパーは牢へ押し込まれたあと、遠ざかる足音を聞きながら舌打ちした。
「……徹底してんな」
どうやら、海軍側も自分たちを纏めて置く危険性くらいは理解しているらしい。別区画、接触制限、監視付きだが。ジャスパーは壁にもたれて目を閉じた。尋問、移送、面会、処遇検討。海軍は必ず動く。その度に監視は揺らぐ。完全拘束など不可能だ。そして、自分たちはまだ死刑ではない。つまり海軍側にも迷いがある。そこが綻びになる。別区画の牢では、ニールも同じように考えていた。コリンは鉄格子を触りながら、監視の巡回間隔を耳で測り始めている。マテオは寝台へ腰掛け、看守の癖や足音を記憶していた。誰一人、諦めていない。まず、探すべきは監視が甘くなる時間帯。それさえ見つければ——。静まり返った徒刑所の夜、四つの牢の中で同じ方向を見据えながら、海賊たちは爪を研ぎ始めていた。




