第七章① 五人組
石畳を踏みしめるたび、硬い感触が靴底から脛へ響く。潮風は湿って重く、肺に入るたび胸の奥を鈍く撫でた。空は赤く焼け、海面には血のような光が揺れている。両脇を監視官に挟まれながら、ルキフェルは前を向いて歩いていた。痛みはすでに全身に染みついていて、いまさら一つ増えたところで変わらない。拘束具が手首に食い込み、擦れた皮膚が熱を持っている。それでも足は止めない。
——五日。短いな。
死刑宣告を受けた瞬間、恐怖がなかったわけじゃないが、驚くほど静かだった。怒りより先に来たのは「ようやくか」という感覚だ。復讐を抱えて生きてきた時点で、どこかでこうなる未来は理解していた。だから受け入れた。少なくとも、自分ではそう決めた。だが……。
「ルキフェル……どうしたの……!」
聞こえた声に、ルキフェルの肺の奥が軋んだ。夕陽の中に立つソフィーの顔色は白く、今にも崩れそうな目をしている。指先が震えているのが、この距離からでも分かった。
——来るな。
ルキフェルは思わず歯軋りした。口にしたところで彼女が止まる人間じゃないことも知っている。だから、余計な言葉は捨てる。
「死刑だ」
それだけ告げた瞬間、ソフィーの表情から色が消えた。監視官たちの気配、潮風、波音、全部が遠い。妙に鮮明なのは、ソフィーの瞳だけ。泣きそうで、それでもまだ諦めていない目。
「……他でもない。俺だ。俺が処刑される」
終わりだ。少なくとも、ルキフェルとしての人生は。だが、それでいい。問題は自分が死ぬことじゃない。——こいつまで壊れることだ。
「……そんなの……っ、間違ってる……!」
ソフィーが駆け寄ろうとした瞬間、監視官が彼女を乱暴に突き飛ばした。石畳へ倒れる細い身体を見て、ルキフェルの中で何かが跳ねた。
「……っ、やめろ!」
次の瞬間、監視官の拳がルキフェルの肋骨に叩き込まれる。鈍い衝撃に肺の空気が強制的に吐き出され、ルキフェルの膝が地面につく。拘束された彼の腕が背中へ引かれ、関節が軋んだ。痛みより先に怒りが来る。
——違う。俺に何しようが構わない。そいつに触るな。
呼吸を整えろ、乱れるな。ここで感情を見せれば、余計にソフィーが止まらなくなる。ルキフェルは顔を上げると、涙を滲ませたソフィーの青い瞳が真っ直ぐ見ていた。ルキフェルは肋骨の軋みと焼ける喉を堪えながら言う。
「……よせ。今……俺を助けようとか、考えただろ。……やめとけ」
図星だ。分かる、こいつは本気で飛び込んでくる。だから駄目だ。言いながら、アントワーヌの声が脳裏に浮かぶ。
——できれば、あの子を守ってやってほしいな。
あの時は軽く流したが、今なら分かる。守るっていうのは、剣で敵を斬ることじゃない。この女が自分のせいで壊れていくのを止めることだ。
「……俺はもう受け入れた。介入するな」
受け入れた。そうだ。受け入れたはずだ。だが、ソフィーは違う。彼女はまだ自分を見捨てていない。それが苦しかった。
「俺のせいで、お前に何かあったら……絶対に許せない」
怖い、この女が自分のために人生を壊すことが。復讐も、死刑も、自分の人生が終わることも、ある意味では覚悟していたが、ソフィーまで巻き込む未来だけは耐えられなかった。
「俺のために、自分の人生を投げるな」
ソフィーが何か言い返そうとする。泣きながら、それでも諦めていない。眩しい、どうしようもなく。だからこそ、距離を取らなきゃいけなかった。
「……腹を括った。お前の命を賭けるな。……俺のために、生き方を壊すな」
潮風が吹き抜け、ルキフェルは荒い呼吸を押し殺しながら膝に力を込めた。肋骨が悲鳴を上げる、それでも立つ。監視官たちが一瞬息を呑む気配がした。
——知らねえよ。こんな程度で折れてたら、もっと前に死んでる。
ルキフェルが顔を上げると夕陽が視界へ差し込み、赤く濁っていた世界の中で、ソフィーの姿が妙に鮮明に見えた。ルキフェルは監視官二人に向かって口元を歪める。強がりだが、それでいい。最後まで“弱った姿”だけは残したくなかった。
「……はっ、俺がここで潰れると思ったか? 死ぬなら、もっとマシな舞台だ」
ルキフェルは監視官に押されて再び歩き出す。ソフィーの叫びが背後から聞こえた。
「連れて行かないで!!」
ルキフェルの胸が軋む。振り返りたくなるが、振り返れば終わる。足を止めれば、この女は本当に飛び込んでくる。だから、前を見た。夕陽、海、処刑場へ続く道。
「行かないで……置いていかないで……!」
ソフィーの声に喉の奥が焼けつくが、ルキフェルは前を向いたまま囁く。
「……聞こえてる。だが、俺はもう決めた。今は……このまま連れて行け」
本当は聞こえすぎるくらいだった。耳じゃない、胸の奥に直接刺さってくる。背中越しに泣き声が聞こえる。石畳に崩れる気配、拳を握る、爪が掌へ食い込む。それでも、ルキフェルは前へ進んで行った。夕陽の中を、処刑台へ向かう男の顔で。
一方、裁判所を後にして歩いてきた仲間たちが、歩みの先で聞こえてきたのはソフィーの悲痛な叫びだった。海軍総司令部の連中とソフィーの諍いが遠目に見える。
「海賊だとしても……彼が何をしたって言うんですか……!」
ソフィーがエリオットを前に涙を浮かべて必死に訴えている。コリンは思わず息を呑み、ジャスパーは目を細めてマテオは舌打ちし、ニールは目を伏せて眉間に皺を寄せた。エリオットは顔を伏せて沈黙を選び、イザベルが毅然とした態度で言う。
「海賊だからだ、ソフィー。国にとって犯罪者は悪。海賊は、正しく『悪』と定義される存在よ。我々が掲げる『海賊撲滅』の使命を果たすためには、ルキフェルの死刑は不可欠なの」
ソフィーの叫びはほとんど泣き声だった。
「それなら、そんな正義いらない! 国家の正義より、仲間を優先する! 私には……彼を守る義務があるんです!」
イザベルの目つきが氷のように冷えた瞬間、鋭い音が空気を裂いた。ジャスパーは思わず身をすくめ、コリンはいつの間にかマテオの背後に隠れている。ソフィーは歯を食いしばり、震える手で頬に触れて声を張り上げた。
「……そんな理屈、認められません! ルキフェルは……あの人は、私たちを助けてくれたじゃないですか! それなのに……それなのに、どうして……!」
ソフィーが上層部に詰め寄ろうとしたとこで、マテオは歯軋りすると地を蹴った。
「ソフィー!!」
ジャスパーも舌打ちして駆け出す。
「やめろ、ソフィー!」
「落ち着け!」
マテオとジャスパーが同時に彼女の腕を掴んだ。
「離して……!」
ソフィーは必死に振りほどこうとするが、マテオが彼女の背後から腕を抑え、ジャスパーが肩を押さえた。ソフィーの叫びは海風に攫われ、空へ溶けていく。
「ルキフェルを……連れて行かないで……!」
「無理だ、今は……!」
「助けに行ったら、あんたも終わりだ! 理性を失うな!」
マテオが必死に声を絞り出し、ジャスパーも声を荒げた。ソフィーはなおも抗おうとし、声が嗚咽に変わる。
「……でも……私は……」
「いい加減にしろ!! これ以上、命令に従えないと言うなら……覚悟はあるのか?」
ルソーの怒声が海岸に叩きつけられ、彼が一歩前に出て鋭い視線を向ける。
「海軍を辞職するか? それとも……あの海賊と一緒に処刑されたいのか!」
ソフィーが息を呑み、マテオとジャスパーも動きを止めた。ルソーは声を押し殺しながら続ける。
「聞け、ソフィー。感情だけで動けば、守りたい者すら守れなくなる。あの海賊を想う気持ちは否定しない。だが、今は冷静になれ」
「……わかりました……」
ソフィーが絞り出すような声で答えると、エリオットが掠れた声で囁く。
「……部屋で休みたい」
「大元帥……!」
アルフォンスが慌てて彼の支えに入った。エリオットの顔色は灰色で肩は落ち、威厳は影を潜めている。エリオットは頷くとアルフォンスに身を預けて歩き出した。足音が波音と混ざり、遠ざかっていく。二人の背中を見送りながら、ジャスパーが息を吐いた。
「……うちのソフィーが悪かった」
イザベルとルソーは一瞬視線を交わして頷くと、エリオットたちの後を追って去っていった。その後、四人はソフィーと言葉を交わすと、彼女もふらつくように立ち上がり、海岸の向こうへ歩いていく。四人はソフィーの背を見送り、やがてニールがため息を吐いた。
「さて、どうしよう。今回ばかりは、僕らも簡単には動けない。下手をすれば、すぐ牢行きだろうしね。ルキフェルを助けるなら……多分、かなり多くの人間の協力がいる」
ジャスパーが鼻で笑う。
「だな。やるなら、もっと自由に動ける奴が主体じゃねえと無理だ」
マテオが腕を組んだまま低く唸る。
「……歩きながら考えてたんだが。リー・ウェンを組織ごと使うのはどうだ? 今日の裁判の結果見て、あいつらも黙ってられねえだろ。特に……男の方のリー・ウェン」
穏やかな笑みを浮かべる東洋人の顔が、四人の脳裏に同時に浮かんだ。あの妙に人当たりのいい男。柔らかい口調のくせに、どこまで本心か分からない目をしている情報屋。マテオは肩をすくめる。
「あの男、この徒刑所をほぼ自由に出入りしてる。協力させられりゃ、相当デカい」
数秒の沈黙。やがてニールが苦笑し、コリンがぱっと顔を上げて声を弾ませる。
「たしかに。こういう時、一番頼りになるタイプかもね」
「え、じゃあさ! ぼくたち、牢にぶち込まれる前に探そうよ!」
「お前、状況分かってんのか?」
「分かってるよ。でも今しかないじゃん!」
ジャスパーが呆れたように眉を寄せてコリンが言い返した時、穏やかな声が風に混ざる。
「——おや」
四人が同時に振り向くと、少し離れた石畳の先にヤンが立っていた。彼は細い目をさらに細め、困ったような笑みを浮かべている。
「随分と物騒なお話をしてますねぇ」
ヤンは海岸の空気を眺めるように視線を巡らせ、四人に柔らかく目を向ける。
「諍いが聞こえたので来てみれば……なるほど。やっぱり、こうなりましたか」
コリンは弾かれたように駆け出した。石畳を蹴る足音が乾いた海風に散り、揺れる外套の裾が夕暮れの光を切り裂く。
「リー・ウェン!」
ヤンは黒い瞳で状況を測り、コリンは勢いのまま彼の着物にしがみつく。
「大変なんだよ、ルキフェルが処刑されちゃうんだ! 準備に五日ある。その間に助けたい! お願い、今回も協力して!」
ヤンは一瞬目を伏せて頷いた。
「……そうですか。それなら、わたしもできることをしましょう」
ジャスパーが片眉を上げ、呆れ半分の声を漏らす。
「お前さん、サラッと言ってるけどな。関与してるのバレたら、そっちの組織もただじゃ済まねえって理解してるよね?」
「ええ、もちろん。ですが、共に何度も死線を潜り抜けた友を見捨てる方が、わたしには耐えられませんので」
ヤンは穏やかな笑みを崩さない。危険だからやめるという選択肢自体、最初から存在していないらしい。ニールが目を見開き、コリンは着物を掴んだまま名を呟く。ヤンは四人を見渡して芯のある声音で言う。
「それに、組織の同僚たちも言っておりますよ。あなた方は、国が恐れるほどの悪党には見えない、と」
「……必ず恩は返す」
マテオが息を吐くが、ヤンはゆるく首を横に振る。
「計画が成功してから仰ってください」
しばらく沈黙したあと、ニールが腕を組みながら口を開く。
「今回ばかりは、僕らも今までみたいに自由には動けないと思うんだ。他に協力してくれそうな人は? まだ具体的な作戦は立ってないけど……できれば、マルクたちにも協力を仰ぎたい」
「なるほど……まず作戦ですか」
ヤンは顎に手を添えて考え込んだ瞬間、脳裏に浮かんだのは鮮やかなオレンジ髪。片眼鏡を指先で押し上げながら、妙に楽しげに笑う変人参謀の顔。
——面白そうですねぇ!
頭痛がしそうなほど騒がしい声が記憶の中で勝手に響く。ヤンは息を吐いて顔を上げた。
「……この徒刑所内で、味方になってくださりそうな方々ならいますよ」
「誰?」
ニールが眉を顰め、ヤンはにこやかに答える。
「旧マクシミリアン隊の皆さんです」
「…………は?」
潮風が虚しく吹き抜け、四人の声が綺麗に重なった。ジャスパーが思いきり顔を顰めて片手を振る。
「いや待て待て待て、そいつら元敵だろ!? 協力してくれる流れある!?」
マテオも珍しく瞳に困惑の色を浮かべて汗をかいている。
「海軍側につく可能性の方が高くないか……?」
ニールが頭を抱えて眉間に皺を寄せる。
「いや、サミュエルあたりは乗ってきそうな気も……いやでも、あの人だしな、美の判定基準が……」
コリンはきょとんとして首を傾げている。
「え。でも、あの人たちって面白そうなら普通に乗ってこない?」
「それが一番怖いんだよ」
ジャスパーが真顔で即答した。ヤンはそんな彼らを見ながら相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「大丈夫ですよ。少なくとも、“あの参謀殿”は、放っておかないでしょうから。それと、実はお昼頃にこんなことがありましてね」
四人が怪訝そうに顔を上げ、ヤンは声を落として語り出す。
「食堂で、旧マクシミリアン隊の皆さんと昼食を取っていた時のことです。わたしは隅で様子を見ていたのですが……そこへ、スザンヌさんが戻ってきました」
「スザンヌ?」
コリンが瞬きをし、マテオの顔が強張る。
「……まさか」
ジャスパーの表情が消え、ニールが息を吐いてコリンは言葉を失っていた。ヤンは息を吐いてから続ける。
「ルキフェルさんに助けられた、とスザンヌさんは言っていました。海の中で意識が遠のく中、ルキフェルさんに生きろと言われた。あの声で、あんなふうに言われたら、もう自分の命を絶とうとは思えなくなった、と。その後、彼女は、自分がしたことを悔いていました」
マテオが唸るように呟く。
「……あの女。ちゃんと仲間の元に戻ったのか」
ジャスパーが目を細めて続きを促す。
「……つまり?」
「現時点で、彼らの中にあるルキフェルさんの印象は、国が言う悪しき海賊ではありません。仲間を救ってくれた男、悲しみの連鎖を止めようとした男。少なくとも、かつて信じていた『海賊は悪』という言葉だけで見ることは、もうできないはずです」
ニールが腕を組み直して空を見上げる。
「それだけで、協力してくれるかな」
「足りないでしょう。ですが、彼らもまた国から犯罪者の烙印を押された者たちです。アントワーヌさんの謀反事件をきっかけに、社会から切り離された人たちでもある。黙ってはいられないと思います」
ヤンは顔から笑みを消すとマテオが拳を握る。
「ルカが国家の正義で処刑されるって知ったら、か」
「ええ。彼らには怒る理由があります。動く理由も。そして何より……あなた方と同じく、もう後戻りできない場所に立っています」
ジャスパーは潮風に赤髪を揺らし、海の向こうを睨むように目を細めた。波音だけが耳へ届く。
「……ジャスパー?」
ニールが怪訝そうに声をかける。ジャスパーはポケットへ手を入れ、指先が触れた小さな感触を取り出す。イヤリング、アントワーヌのものだ。夕陽を受けた黒ずんだ石が鈍く光る。ジャスパーはイヤリングを見つめて声を落とす。
「……話をしてみる価値はありそうだ」
ジャスパーはイヤリングをポケットへ戻してヤンを見る。
「あいつら、夜になったら牢に戻れって話だよな」
「ええ」
「あいつらの牢、どこか分かるか?」
「わたしが案内しましょう」
ヤンが穏やかに頷くと、四人は互いに視線を交わした。潮風が吹き、遠くで波が砕ける音がする。ジャスパーは三人に告げて踵を返す。
「行くぞ。時間が惜しい」
海岸から離れ、五人は徒刑所へ向かって歩き出した。夕暮れの光が石畳を長く染めている。




