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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第七章「では、悪巧みを始めましょうか」
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第七章① 五人組

 石畳を踏みしめるたび、硬い感触が靴底から脛へ響く。潮風は湿って重く、肺に入るたび胸の奥を鈍く撫でた。空は赤く焼け、海面には血のような光が揺れている。両脇を監視官に挟まれながら、ルキフェルは前を向いて歩いていた。痛みはすでに全身に染みついていて、いまさら一つ増えたところで変わらない。拘束具が手首に食い込み、擦れた皮膚が熱を持っている。それでも足は止めない。


 ——五日。短いな。


 死刑宣告を受けた瞬間、恐怖がなかったわけじゃないが、驚くほど静かだった。怒りより先に来たのは「ようやくか」という感覚だ。復讐を抱えて生きてきた時点で、どこかでこうなる未来は理解していた。だから受け入れた。少なくとも、自分ではそう決めた。だが……。


「ルキフェル……どうしたの……!」


 聞こえた声に、ルキフェルの肺の奥が軋んだ。夕陽の中に立つソフィーの顔色は白く、今にも崩れそうな目をしている。指先が震えているのが、この距離からでも分かった。


 ——来るな。


 ルキフェルは思わず歯軋りした。口にしたところで彼女が止まる人間じゃないことも知っている。だから、余計な言葉は捨てる。


「死刑だ」


 それだけ告げた瞬間、ソフィーの表情から色が消えた。監視官たちの気配、潮風、波音、全部が遠い。妙に鮮明なのは、ソフィーの瞳だけ。泣きそうで、それでもまだ諦めていない目。


「……他でもない。俺だ。俺が処刑される」


 終わりだ。少なくとも、ルキフェルとしての人生は。だが、それでいい。問題は自分が死ぬことじゃない。——こいつまで壊れることだ。


「……そんなの……っ、間違ってる……!」


 ソフィーが駆け寄ろうとした瞬間、監視官が彼女を乱暴に突き飛ばした。石畳へ倒れる細い身体を見て、ルキフェルの中で何かが跳ねた。


「……っ、やめろ!」


 次の瞬間、監視官の拳がルキフェルの肋骨に叩き込まれる。鈍い衝撃に肺の空気が強制的に吐き出され、ルキフェルの膝が地面につく。拘束された彼の腕が背中へ引かれ、関節が軋んだ。痛みより先に怒りが来る。


 ——違う。俺に何しようが構わない。そいつに触るな。


 呼吸を整えろ、乱れるな。ここで感情を見せれば、余計にソフィーが止まらなくなる。ルキフェルは顔を上げると、涙を滲ませたソフィーの青い瞳が真っ直ぐ見ていた。ルキフェルは肋骨の軋みと焼ける喉を堪えながら言う。


「……よせ。今……俺を助けようとか、考えただろ。……やめとけ」


 図星だ。分かる、こいつは本気で飛び込んでくる。だから駄目だ。言いながら、アントワーヌの声が脳裏に浮かぶ。


 ——できれば、あの子を守ってやってほしいな。


 あの時は軽く流したが、今なら分かる。守るっていうのは、剣で敵を斬ることじゃない。この女が自分のせいで壊れていくのを止めることだ。


「……俺はもう受け入れた。介入するな」


 受け入れた。そうだ。受け入れたはずだ。だが、ソフィーは違う。彼女はまだ自分を見捨てていない。それが苦しかった。


「俺のせいで、お前に何かあったら……絶対に許せない」


 怖い、この女が自分のために人生を壊すことが。復讐も、死刑も、自分の人生が終わることも、ある意味では覚悟していたが、ソフィーまで巻き込む未来だけは耐えられなかった。


「俺のために、自分の人生を投げるな」


 ソフィーが何か言い返そうとする。泣きながら、それでも諦めていない。眩しい、どうしようもなく。だからこそ、距離を取らなきゃいけなかった。


「……腹を括った。お前の命を賭けるな。……俺のために、生き方を壊すな」


 潮風が吹き抜け、ルキフェルは荒い呼吸を押し殺しながら膝に力を込めた。肋骨が悲鳴を上げる、それでも立つ。監視官たちが一瞬息を呑む気配がした。


 ——知らねえよ。こんな程度で折れてたら、もっと前に死んでる。


 ルキフェルが顔を上げると夕陽が視界へ差し込み、赤く濁っていた世界の中で、ソフィーの姿が妙に鮮明に見えた。ルキフェルは監視官二人に向かって口元を歪める。強がりだが、それでいい。最後まで“弱った姿”だけは残したくなかった。


「……はっ、俺がここで潰れると思ったか? 死ぬなら、もっとマシな舞台だ」


 ルキフェルは監視官に押されて再び歩き出す。ソフィーの叫びが背後から聞こえた。


「連れて行かないで!!」


 ルキフェルの胸が軋む。振り返りたくなるが、振り返れば終わる。足を止めれば、この女は本当に飛び込んでくる。だから、前を見た。夕陽、海、処刑場へ続く道。


「行かないで……置いていかないで……!」


 ソフィーの声に喉の奥が焼けつくが、ルキフェルは前を向いたまま囁く。


「……聞こえてる。だが、俺はもう決めた。今は……このまま連れて行け」


 本当は聞こえすぎるくらいだった。耳じゃない、胸の奥に直接刺さってくる。背中越しに泣き声が聞こえる。石畳に崩れる気配、拳を握る、爪が掌へ食い込む。それでも、ルキフェルは前へ進んで行った。夕陽の中を、処刑台へ向かう男の顔で。


 一方、裁判所を後にして歩いてきた仲間たちが、歩みの先で聞こえてきたのはソフィーの悲痛な叫びだった。海軍総司令部の連中とソフィーの諍いが遠目に見える。


「海賊だとしても……彼が何をしたって言うんですか……!」


 ソフィーがエリオットを前に涙を浮かべて必死に訴えている。コリンは思わず息を呑み、ジャスパーは目を細めてマテオは舌打ちし、ニールは目を伏せて眉間に皺を寄せた。エリオットは顔を伏せて沈黙を選び、イザベルが毅然とした態度で言う。


「海賊だからだ、ソフィー。国にとって犯罪者は悪。海賊は、正しく『悪』と定義される存在よ。我々が掲げる『海賊撲滅』の使命を果たすためには、ルキフェルの死刑は不可欠なの」


 ソフィーの叫びはほとんど泣き声だった。


「それなら、そんな正義いらない! 国家の正義より、仲間を優先する! 私には……彼を守る義務があるんです!」


 イザベルの目つきが氷のように冷えた瞬間、鋭い音が空気を裂いた。ジャスパーは思わず身をすくめ、コリンはいつの間にかマテオの背後に隠れている。ソフィーは歯を食いしばり、震える手で頬に触れて声を張り上げた。


「……そんな理屈、認められません! ルキフェルは……あの人は、私たちを助けてくれたじゃないですか! それなのに……それなのに、どうして……!」


 ソフィーが上層部に詰め寄ろうとしたとこで、マテオは歯軋りすると地を蹴った。


「ソフィー!!」


 ジャスパーも舌打ちして駆け出す。


「やめろ、ソフィー!」

「落ち着け!」


 マテオとジャスパーが同時に彼女の腕を掴んだ。


「離して……!」


 ソフィーは必死に振りほどこうとするが、マテオが彼女の背後から腕を抑え、ジャスパーが肩を押さえた。ソフィーの叫びは海風に攫われ、空へ溶けていく。


「ルキフェルを……連れて行かないで……!」

「無理だ、今は……!」

「助けに行ったら、あんたも終わりだ! 理性を失うな!」


 マテオが必死に声を絞り出し、ジャスパーも声を荒げた。ソフィーはなおも抗おうとし、声が嗚咽に変わる。


「……でも……私は……」

「いい加減にしろ!! これ以上、命令に従えないと言うなら……覚悟はあるのか?」


 ルソーの怒声が海岸に叩きつけられ、彼が一歩前に出て鋭い視線を向ける。


「海軍を辞職するか? それとも……あの海賊と一緒に処刑されたいのか!」


 ソフィーが息を呑み、マテオとジャスパーも動きを止めた。ルソーは声を押し殺しながら続ける。


「聞け、ソフィー。感情だけで動けば、守りたい者すら守れなくなる。あの海賊を想う気持ちは否定しない。だが、今は冷静になれ」

「……わかりました……」


 ソフィーが絞り出すような声で答えると、エリオットが掠れた声で囁く。


「……部屋で休みたい」

「大元帥……!」


 アルフォンスが慌てて彼の支えに入った。エリオットの顔色は灰色で肩は落ち、威厳は影を潜めている。エリオットは頷くとアルフォンスに身を預けて歩き出した。足音が波音と混ざり、遠ざかっていく。二人の背中を見送りながら、ジャスパーが息を吐いた。


「……うちのソフィーが悪かった」


 イザベルとルソーは一瞬視線を交わして頷くと、エリオットたちの後を追って去っていった。その後、四人はソフィーと言葉を交わすと、彼女もふらつくように立ち上がり、海岸の向こうへ歩いていく。四人はソフィーの背を見送り、やがてニールがため息を吐いた。


「さて、どうしよう。今回ばかりは、僕らも簡単には動けない。下手をすれば、すぐ牢行きだろうしね。ルキフェルを助けるなら……多分、かなり多くの人間の協力がいる」


 ジャスパーが鼻で笑う。


「だな。やるなら、もっと自由に動ける奴が主体じゃねえと無理だ」


 マテオが腕を組んだまま低く唸る。


「……歩きながら考えてたんだが。リー・ウェンを組織ごと使うのはどうだ? 今日の裁判の結果見て、あいつらも黙ってられねえだろ。特に……男の方のリー・ウェン」


 穏やかな笑みを浮かべる東洋人の顔が、四人の脳裏に同時に浮かんだ。あの妙に人当たりのいい男。柔らかい口調のくせに、どこまで本心か分からない目をしている情報屋。マテオは肩をすくめる。


「あの男、この徒刑所をほぼ自由に出入りしてる。協力させられりゃ、相当デカい」


 数秒の沈黙。やがてニールが苦笑し、コリンがぱっと顔を上げて声を弾ませる。


「たしかに。こういう時、一番頼りになるタイプかもね」

「え、じゃあさ! ぼくたち、牢にぶち込まれる前に探そうよ!」

「お前、状況分かってんのか?」

「分かってるよ。でも今しかないじゃん!」


 ジャスパーが呆れたように眉を寄せてコリンが言い返した時、穏やかな声が風に混ざる。


「——おや」


 四人が同時に振り向くと、少し離れた石畳の先にヤンが立っていた。彼は細い目をさらに細め、困ったような笑みを浮かべている。


「随分と物騒なお話をしてますねぇ」


 ヤンは海岸の空気を眺めるように視線を巡らせ、四人に柔らかく目を向ける。


「諍いが聞こえたので来てみれば……なるほど。やっぱり、こうなりましたか」


 コリンは弾かれたように駆け出した。石畳を蹴る足音が乾いた海風に散り、揺れる外套の裾が夕暮れの光を切り裂く。


「リー・ウェン!」


 ヤンは黒い瞳で状況を測り、コリンは勢いのまま彼の着物にしがみつく。


「大変なんだよ、ルキフェルが処刑されちゃうんだ! 準備に五日ある。その間に助けたい! お願い、今回も協力して!」


 ヤンは一瞬目を伏せて頷いた。


「……そうですか。それなら、わたしもできることをしましょう」


 ジャスパーが片眉を上げ、呆れ半分の声を漏らす。


「お前さん、サラッと言ってるけどな。関与してるのバレたら、そっちの組織もただじゃ済まねえって理解してるよね?」

「ええ、もちろん。ですが、共に何度も死線を潜り抜けた友を見捨てる方が、わたしには耐えられませんので」


 ヤンは穏やかな笑みを崩さない。危険だからやめるという選択肢自体、最初から存在していないらしい。ニールが目を見開き、コリンは着物を掴んだまま名を呟く。ヤンは四人を見渡して芯のある声音で言う。


「それに、組織の同僚たちも言っておりますよ。あなた方は、国が恐れるほどの悪党には見えない、と」

「……必ず恩は返す」


 マテオが息を吐くが、ヤンはゆるく首を横に振る。


「計画が成功してから仰ってください」


 しばらく沈黙したあと、ニールが腕を組みながら口を開く。


「今回ばかりは、僕らも今までみたいに自由には動けないと思うんだ。他に協力してくれそうな人は? まだ具体的な作戦は立ってないけど……できれば、マルクたちにも協力を仰ぎたい」

「なるほど……まず作戦ですか」


 ヤンは顎に手を添えて考え込んだ瞬間、脳裏に浮かんだのは鮮やかなオレンジ髪。片眼鏡を指先で押し上げながら、妙に楽しげに笑う変人参謀の顔。


 ——面白そうですねぇ!


 頭痛がしそうなほど騒がしい声が記憶の中で勝手に響く。ヤンは息を吐いて顔を上げた。


「……この徒刑所内で、味方になってくださりそうな方々ならいますよ」

「誰?」


 ニールが眉を顰め、ヤンはにこやかに答える。


「旧マクシミリアン隊の皆さんです」

「…………は?」


 潮風が虚しく吹き抜け、四人の声が綺麗に重なった。ジャスパーが思いきり顔を顰めて片手を振る。


「いや待て待て待て、そいつら元敵だろ!? 協力してくれる流れある!?」


 マテオも珍しく瞳に困惑の色を浮かべて汗をかいている。


「海軍側につく可能性の方が高くないか……?」


 ニールが頭を抱えて眉間に皺を寄せる。


「いや、サミュエルあたりは乗ってきそうな気も……いやでも、あの人だしな、美の判定基準が……」


 コリンはきょとんとして首を傾げている。


「え。でも、あの人たちって面白そうなら普通に乗ってこない?」

「それが一番怖いんだよ」


 ジャスパーが真顔で即答した。ヤンはそんな彼らを見ながら相変わらず穏やかに微笑んでいる。


「大丈夫ですよ。少なくとも、“あの参謀殿”は、放っておかないでしょうから。それと、実はお昼頃にこんなことがありましてね」


 四人が怪訝そうに顔を上げ、ヤンは声を落として語り出す。


「食堂で、旧マクシミリアン隊の皆さんと昼食を取っていた時のことです。わたしは隅で様子を見ていたのですが……そこへ、スザンヌさんが戻ってきました」

「スザンヌ?」


 コリンが瞬きをし、マテオの顔が強張る。


「……まさか」


 ジャスパーの表情が消え、ニールが息を吐いてコリンは言葉を失っていた。ヤンは息を吐いてから続ける。


「ルキフェルさんに助けられた、とスザンヌさんは言っていました。海の中で意識が遠のく中、ルキフェルさんに生きろと言われた。あの声で、あんなふうに言われたら、もう自分の命を絶とうとは思えなくなった、と。その後、彼女は、自分がしたことを悔いていました」


 マテオが唸るように呟く。


「……あの女。ちゃんと仲間の元に戻ったのか」


 ジャスパーが目を細めて続きを促す。


「……つまり?」

「現時点で、彼らの中にあるルキフェルさんの印象は、国が言う悪しき海賊ではありません。仲間を救ってくれた男、悲しみの連鎖を止めようとした男。少なくとも、かつて信じていた『海賊は悪』という言葉だけで見ることは、もうできないはずです」


 ニールが腕を組み直して空を見上げる。


「それだけで、協力してくれるかな」

「足りないでしょう。ですが、彼らもまた国から犯罪者の烙印を押された者たちです。アントワーヌさんの謀反事件をきっかけに、社会から切り離された人たちでもある。黙ってはいられないと思います」


 ヤンは顔から笑みを消すとマテオが拳を握る。


「ルカが国家の正義で処刑されるって知ったら、か」

「ええ。彼らには怒る理由があります。動く理由も。そして何より……あなた方と同じく、もう後戻りできない場所に立っています」


 ジャスパーは潮風に赤髪を揺らし、海の向こうを睨むように目を細めた。波音だけが耳へ届く。


「……ジャスパー?」


 ニールが怪訝そうに声をかける。ジャスパーはポケットへ手を入れ、指先が触れた小さな感触を取り出す。イヤリング、アントワーヌのものだ。夕陽を受けた黒ずんだ石が鈍く光る。ジャスパーはイヤリングを見つめて声を落とす。


「……話をしてみる価値はありそうだ」


 ジャスパーはイヤリングをポケットへ戻してヤンを見る。


「あいつら、夜になったら牢に戻れって話だよな」

「ええ」

「あいつらの牢、どこか分かるか?」

「わたしが案内しましょう」


 ヤンが穏やかに頷くと、四人は互いに視線を交わした。潮風が吹き、遠くで波が砕ける音がする。ジャスパーは三人に告げて踵を返す。


「行くぞ。時間が惜しい」


 海岸から離れ、五人は徒刑所へ向かって歩き出した。夕暮れの光が石畳を長く染めている。

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