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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第十章「——だから言ったでしょう? これは極めて簡単な作戦だと」
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第十章④ 逃亡者たち

 民衆たちの混乱はもはや港だけに留まってはいなかった。


「消えた!? 処刑船から!?」

「白煙だ、悪魔の術だ!」

「海賊が逃げたぞ!!」


 港から街へ、市場へ、酒場へ。石畳を駆ける伝令兵たちの靴音と共に、騒乱はトゥーロン全体へ伝搬していった。やがて、刷りたての号外が街角へ投げ込まれる。


 ——海賊ルキフェル、海上処刑中に消失。

 ——処刑船大混乱、徒刑所脱獄発生。


 紙束が風に煽られ、ひらひらと空へ舞い上がる。一枚の号外が、トゥーロン司令部の宿泊棟の窓から吹き込んだ。ヤンは机の前で顔を上げる。白い紙が風に流され、部屋の床へ落ちていった。


「……始まりましたね」


 ヤンの瞳は冷えている。計画通り、すべて想定通り。それでもヤンは眉間をわずかに寄せた。


「まだです」


 窓の外では軍関係者たちが慌ただしく駆け回っている。部屋の扉向こうでも扉が乱暴に開閉され、誰かが叫んでいた。


「処刑船が帰投する!」

「徒刑所側の応援を回せ!」

「街へ逃げた囚人を追え!!」


 ヤンは聞き流しながら窓辺へ歩み寄る。遠く海の向こう、白煙の残滓がまだ薄く漂っている気がした。


「さて、ここからが本番ですよ」



 海上捜索を一時中断した処刑船は、急ぎトゥーロン徒刑所側の港へ帰投していた。


「港側の支援へ向かえ、徒刑所の制圧が先だ!」

「海賊どもを街へ出すな!!」


 監視官たちが次々と船を飛び出していく。彼らの背中をダミアンはぼんやり見送っていた。彼は帽子を脱ぎ、ぐしゃりと濡れた髪を掻き上げる。


「……すご。ほんとに大騒ぎになってる」


 港からは怒号が聞こえる。街からは鐘の音、誰も船内など気にしていなかった。皆、外へ意識を向けている。ダミアンは視線を徒刑所の建物を見上げた。




「そっち持ち上げろ、車輪跡消せ!」

「瓦礫戻せ、瓦礫!」


 牢獄棟内部、マテオたちは震撃砲を建物内へ運び込んでいた。崩れた壁に砕けた石材、散乱した砂埃を内側から破壊されたように見せかけるため、即席の偽装工作が進められていく。ポーランが汗だくになりながら瓦礫を押し戻した。


「なんで壊したもん戻してるんすかね、おいらたち……」

「工作ってのはそういうもんだ」


 ジャスパーが笑いながら縄を引く。ニールは車輪跡へ砂を撒き、足跡を消していた。マルクは震撃砲の位置を微調整しながら鼻を鳴らす。


「完璧だ。誰が見ても『中から撃った』」

「いや普通、誰も中から撃たねぇだろ」


 マテオが即座に突っ込む横で、シャルルは崩れた壁際から港を覗き込んで片眼鏡を指で押し上げる。彼の視線の先、港側にはほとんど人影がない。海軍も監視官も街の混乱と徒刑所制圧へ散っていった。


 ——空いた。


 シャルルは口角を持ち上げ、くるりと振り返った拍子にオレンジの髪を陽光で煌めかせる。


「はい、第三ステップ。——船、乗っ取りましょうか」


 シャルルが声を発した途端、囚人たちと海賊たちが一斉に駆け出した。崩れた壁を飛び越え、庭を横切り、いざコルベット船へ。


「おおおおおお!! やっと海に戻れる!」

「静かに行けって!!」


 ジャスパーが笑い、ニールが慌てて怒鳴る。ペネロペは既に全力疾走して先陣を切っていた。


「一番乗りぃぃぃ!!」

「待ちなさい、危ないでしょうが!!」


 ロザリーが叫んでペネロペの背を追い、サミュエルも加速する。


「ボク、本当に海賊になっちゃうの……!?」

「今さら!?」


 ジョルジュが涙目で喚き、アニータがゼエゼエと息を切らして言った。マルクとポーラン、チャンの三人は徒刑所の建物を見上げながら駆けている。リゼーヌとスザンヌは仲間たちの背を見つめ、互いに顔を見合わせてから後を追った。シャルルは仲間たちの最後尾から悠々と歩き、風に揺れる港を見つめる。沖ではまだ白煙が薄く漂っていた。そして、その向こう。処刑船が無防備なまま停泊している。シャルルは満足そうに鼻を鳴らし、片眼鏡が昼日に光る。


「たしかに……ぼくたち、海賊としては一流ですねえ」


 一行が港へ辿り着いた瞬間、誰かの叫びと同時にタラップへ駆け込んだ。


「急げ!!」


 先頭を走っていたペネロペが軽やかにタラップを駆け上がる。


「っと」


 彼女が甲板へ飛び乗った瞬間、周囲を見回して監視官姿のダミアンを見つけた。


「あ、お疲れ」


 ダミアンは帽子を押さえながら振り返った。


「あ、うん……」


 その直後、ペネロペは彼を上から下まで眺める。


「てか、その服似合わないね」

「え」

「東洋の服の方が似合ってたよ」


 ダミアンの顔が一瞬で赤くなった。


「い、いきなり何……!?」

「いや、なんか監視官服だと真面目すぎる」

「真面目だよ!!」

「そうかなぁ」


 そんなやり取りをしている間にも、次々と人影が船へ雪崩れ込んでくる。


「ロープ外せ!!」

「錨だ、急げ!!」

「帆はそのまま使う!」


 ジャスパーが叫び、サミュエルが太い腕で鎖を引く。マテオが固定具を蹴り飛ばし、ニールが滑車を確認しながら素早く縄を渡していく。


「ポーラン、そっち押せ!」

「はいっす!」

「チャン、補助!」

「任せてください!」


 ジョルジュまで必死に綱へぶら下がっていた。


「う、うわ重っ……!」

「帆そのまま生かせるぞ! 右舷確認! ロープ絡むなよ、その樽どけろ!!」


 マルクの怒鳴り声が甲板へ飛ぶ。元海賊船長の声が響いた瞬間、船全体が一気に生き返ってテキパキと指示が飛ぶ。一方、女性陣は甲板で散乱した荷や布を片づけ始めていた。ロザリーが風で飛びそうな布を押さえる。


「リゼーヌ、それ結んでくれる?」

「はい!」


 スザンヌは転がっていた道具箱を足で止めて端へ寄せる。アニータは甲板の血痕を見つけ、一瞬目を細めると桶を掴んだ。やがて、ジャスパーが船尾へ立って片手で舵輪を握る。海風が赤髪を揺らし、彼はゆっくり目を細めた。帆、波、潮の匂い、船体の軋みを感覚で掴み取っていく。


「……いける」


 次の瞬間、ジャスパーは舵を切った。コルベット船が向きを変え、港の水面が揺れる。帆が風を孕み、膨らんだ。


「出るぞ!!」


 ジャスパーの声が轟き、船体が前へ滑り出して岸を離れていく。怒号と鐘の音が遠ざかり、港の混乱も煙も人々の喧騒も、背後へ置き去りにするように船は海へ進み始めた。船首付近でシャルルは風に髪を揺らし、周囲を見渡していた。港、海軍船、見張り、潮流。片眼鏡の奥で視線が鋭く動く。


「さて、目指すはマルセイユ。油断はできませんね」


 シャルルの隣にジョルジュが肩を並べる。彼はしばらく空を見上げていた。青い空に白い雲、穏やかな風。それから、ジョルジュは海を見た。陽光を反射する水面がキラキラと揺れていた。ジョルジュはようやく息を吐き、どこか夢を見る子供みたいに柔らかく笑う。


「……大丈夫。海の神はボクたちの味方みたいだ」


 シャルルはジョルジュを流し目で見る。ジョルジュは真剣だった。ファンシーだとか楽観的だとか、そういう顔ではない。本気で、「海が味方してくれている」と信じている顔だ。シャルルは微笑を浮かべて前方の海に目を向ける。


「……それはそれは、心強いね」


 船はさらに沖へ出る。潮風が吹き抜け、ようやく誰かが笑った。続いて別の誰かも。張り詰めていた空気が少しだけ緩む。生き延びた。まだ終わっていない、追っ手も来るだろう。この航路の先で戦いも続く。それでも、今だけは自由の海へ戻っていた。



 スザンヌは甲板の端で息を吐いた。皆、忙しなく動き回っている。錨の確認に帆綱の固定、見張りと進路。脱獄直後とは思えないほど、航海の空気を取り戻し始めている。皆が役割を持って動いているなら、自分も何かした方がいい。彼女は船内へ向かうことにした。物資の確認でもしよう、水と布と薬箱の場所くらいは把握しておきたい。スザンヌが階段を下りる途中、ニールとマテオの声が聞こえた。


「いた?」

「いや。てか、ダミアンの野郎、どこだ。あいつに聞けば分かるだろ」

「さっきまで甲板いたけど……」


 二人の会話は遠ざかっていく。スザンヌは首を傾げたが、深く考えず船倉へ足を進めた。


「……少し暗いわね」


 スザンヌが呟いた時、奥の方で突然木箱が音を立てる。


 ——ガタン。


「っ……!」


 スザンヌの肩が跳ね、口から悲鳴が飛び出しかけた。


「……まさか」


 スザンヌは恐る恐る歩みを進める。薄暗い船倉、木箱の一つが揺れていた。スザンヌは声を押し殺すと、木箱の蓋に両手をかけて引いていく。重い。スザンヌが歯を食いしばって蓋を退けた瞬間、中から二つの影が飛び出した。


「っはぁ……!!」

「し、死ぬかと思ったぁ……!!」


 コリンとルキフェル。二人とも苦しそうに木箱の縁へ身体を預け、激しく咳き込んでいる。


「ダミアン……!! 我慢してじゃないのよ!! 棺桶かと思った!!」


 コリンが涙目で怒鳴る横で、ルキフェルも深く息を吐いた。前髪が乱れ、白煙の残り香がまだ服に染みついている。スザンヌは不安そうに二人の顔を覗き込んだ。ルキフェルが顔を上げると、スザンヌと目が合った。一瞬、時間が止まったようだった。船の揺れも波音も、上の喧騒も遠い。スザンヌは目を潤わせて膝を吐くと、胸に手を当ててルキフェルを見つめた。


「よかった、生きてて……」


 ルキフェルは数秒黙ると、犬歯を見せて肩を竦める。


「……そりゃそうだろ。俺はまだ死に方を決めてない」


 ルキフェルは手首に残っている手枷を持ち上げ、スザンヌに見せびらかした。金属がガチャンと鳴り、スザンヌが鈴の音を転がすように笑う。彼女の笑顔を見た瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが解けた。


 ——ああ、自分の選んだ結果がこれなら……まあ、悪くない。


 コリンは唸りながら立ち上がり、足音たちが遠ざかっていく方を見つめる。

 耳をよく澄ませば……鎖と風と波の音に紛れて、笑声がハーモニーを奏でていた。




 ——物語は、第十巻へと続く。

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