第六章③ 法廷Part2
張り詰めた法廷の空気を、不意にニールの声が裂いた。
「え、じゃあ……ここにいるルキフェルがラウルだとして、なんで彼は事件を生き延びたんだろう」
妙に爽やかな口調、海賊らしからぬ軽やかな響き。ニールがわざとらしいほど自然に疑問を投げると、ジャスパーは「おいおい」とでも言いたげに片眉を上げるが止めない。貴族たちの視線が再びルキフェルへ集まり始め、ニールは今初めて聞いたかのような顔で続ける。
「ルキフェルの記憶だと、襲われた後に気を失ったんだよね。じゃあ……次に目覚めたのは?」
ルキフェルは数秒黙って押し殺した声で答える。
「……目が覚めたら船にいた」
「船……?」
「どこのだ?」
「まさか……」
貴族たちが次々と疑問を投げつけた瞬間、傍聴席でレオンが立ち上がって声を飛ばした。
「すみません! 俺からも発言、いいですか!」
全員がレオンを振り向き、シルヴェストルが怪訝そうに目を細める。レオンは手すりから身を乗り出して告げる。
「俺は元ゼフィランサス海賊団の船医でした」
一瞬で法廷内が怒号で飛び交う。
「あのゼフィランサスの手下か!?」
「まだフランスにいたのか!」
「海賊風情が法廷に出入りするとは……!」
シルヴェストルは制さず、どこか挑発的な目でレオンを見ている。
「続けろ」
「……ありがとうございます」
レオンは小さく息を吐き、証言台のルキフェルを見ながら語り始める。
「あの日、ゼフィランサス船長が突然船医室へ飛び込んできたんです。血塗れでした。船長は腕の中に子供を抱えて……それが、こいつでした。正直、最初は死体かと思いましたよ」
レオンは苦々しく眉を寄せて、脳裏で船医としての記憶を蘇らせながら続ける。
「顔は血まみれで呼吸も浅い。体温も落ち始めていた。でも、船長は言ったんです。『まだ生きている。急ぎ診ろ』って……頼めるかって俺に頭を下げた。傷は酷かったです。特に顔。額から頬まで深く裂けていた。跡が残るのは避けられない、それでも俺は処置した」
ルキフェルが無意識に古傷へ触れ、レオンは顔を曇らせながら溜め息混じりに語る。
「……で、しばらくしてこいつは目を覚ました。怯えてた。そりゃそうだ。知らない船、知らない大人だらけだ。しかも顔中包帯だらけで、自分がどうなってるかも分かってなかった。俺が包帯を外した瞬間、こいつは自分の顔を鏡で見て……『お前は誰だ』って、自分の顔に向かって言った。そのあと錯乱して船医室中ひっくり返して暴れましたよ。でもな、演技であんな壊れ方はできない。……俺は医者です。人間が本当に壊れる瞬間を嫌というほど見てきた」
レオンは真正面からシルヴェストルを見据える。
「……あの時のコイツは、全部失った子供そのものでした」
法廷は水を打ったように静まり返った。その沈黙の中、シルヴェストルがゆったりと口を開いた。
「……まさか。レオパード家襲撃事件の話から、ゼフィランサスの名が出てくるとは」
シルヴェストルは肘掛けへ頬杖をつきながらルキフェルを見下ろした。アイスグレーの瞳には苛立ちに近い色が宿っている。
——襲撃の夜、ゼフィランサスが現れて商品を攫い、サン・マロの売買網まで壊滅させた。そこまでは、もうほぼ確信している。が、ひとつだけどうしても繋がらない。なぜ、ゼフィランサスがあの屋敷にいた?
そんな疑問がずっと喉に刺さったまま、シルヴェストルはルキフェルを睨みつけている。
一方、当のルキフェルは怪訝そうに片眉を寄せていた。
「?」
何をそこまで睨まれているのか、本気で分かっていない。彼の反応にシルヴェストルは深々とため息を吐く。
「……当時の様子はよく分かった。だが、その線でいくなら屋敷襲撃の犯人はゼフィランサスということになる。……貴方はそれで良いのですか?」
レオンが一瞬言葉を失って目を泳がせた。
「それは……」
レオンの沈黙をシルヴェストルが容赦なく追撃しようとした時、ルキフェルが証言台から睨み返す。
「おい、話が逸れてるぞ。俺の血筋問題はどうした」
シルヴェストルは頬杖をついたまま冷えた目で言い放つ。
「重要なことだ。貴様を抱えたゼフィランサスが屋敷を襲い、母親を惨殺した犯人かもしれないのだから。それとも何だ? 貴様、やはり海賊の味方か」
ルキフェルは奥歯を噛み締めると、ギリッと小さく音が鳴った。
「——その点についても、私から話があります」
エリオットが空気を断ち切るように手を上げた。法廷中の視線がエリオットへ突き刺さっていた。海軍大元帥、英雄、この国の象徴。
エリオットは立ったまま口を開かなかった。もし、この場で言えたなら。ゼフィールと自分、そしてミレーユが親友だったと、あの男がただの海賊ではなかったと、どれほど救われるだろう。だが、それは許されない。国の英雄として、海軍大元帥として、王宮に仕える者として。海賊と友情を結んでいたなど口にできるはずがない。だからこそ、せめて自分は残したかった。
——彼の言葉を、死んだ者たちの声を。
エリオットはアルフォンスへ目を向けた。アルフォンスは察したように頷き、肩掛け鞄から別の書類を取り出す。
——調書だが、ただの記録ではない。死を目前にした生者の言葉を綴った、インク文字。
エリオットは書類を受け取って一瞥した。
「これは事件に関する調書です。……この書類には、もう一人の証言があります。と言っても、その者はすでにこの世を去りました。息子と約束を交わし、事件をきっかけに人生を狂わされた、もう一人の被害者です。……息子とは良き友人でした」
ルキフェルの瞳が揺れ、エリオットは調書へ目を落として読み上げる。
「……約束をしていたんです。ラウルと夜になったら抜け出して、ゼフィールに会いに行こうって」
ルキフェルの喉がゴクリと鳴った。胸の奥が軋む。覚えていない。エリオットは書類から目をあげて続ける。
「アントワーヌ少年は語っています。事件当夜、宿を抜け出してレオパード家へ向かったと。そこで彼が見たのは血に染まった屋敷と、剣を持った大人たちだった。彼らは普通に会話していたそうです。人を殺した後の顔ではなかった。仕事を終えたようだった、と。そして、ゼフィランサスが現れた。腕の中に子供を抱えて。アントワーヌ少年は、『顔は見えなかったがラウルだと分かった』と証言しています。さらに、男たちはゼフィランサスへこう言ったそうです。『助力に感謝する』、『お前が提案した細工の件も、この後ちゃんとやっておく』」
一気に空気が張り詰め、誰かが呟く。
「細工……?」
シルヴェストルの目が鋭くなり、ルキフェルも顔を上げた。エリオットは紙へ視線を落とす。
「アントワーヌ少年も詳細は聞き出せなかったそうです。ゼフィランサスは答えず、笑って誤魔化したと」
ルキフェルが目を伏せ、胸の奥に鈍い痛みが沈んでいく。エリオットはそこで一度読むのを止めて法廷を見渡す。
「まだあります。この後、私はアントワーヌ少年へ直接確認を行っています。レオパード家の裏口は開いていた。——ラウルが、友人を招き入れるために開けていたものだった。付きの小間使いへ頼み、裏口を開けておくよう指示していた。その小間使いこそがアンリ少年です。アントワーヌ少年はこうも語っています。 『今のラウルが聞けば、自分のせいで事件が起きたと責めるだろう』と」
エリオットの声が低く落ちた。父としての迷い、当主としての決断の両方が声に滲んでいる。ルキフェルは歯を食いしばってエリオットを見上げていた。
「……俺のせいで」
エリオットは手にした調書を下ろす。張り詰めた空気の中、コリンはルキフェルの背中をじっと見つめて眉を寄せた。
……なんだろ。今、サラッと流されたけど。ゼフィランサスとルキフェルって……事件前から交流あったの?
さっきから胸の奥に引っかかっているものがある。コリンは思わず目を伏せて頭の中で言葉を反芻した。
——ラウルと夜になったら抜け出して、ゼフィールに会いに行こう。
コリンの指先がピクリと動いた。法廷の貴族たちは恐らく気づいていない。ゼフィールという呼び方が、ゼフィランサスの愛称だということに。そこは幸運だった。もし気づかれていたら、また別の騒ぎになっていただろう。コリンはルキフェルの濡れた黒髪を見つめる。事件当日より前の記憶だけが未だに空白。断片は増えていくのに肝心な部分へ届かない。まるで霧の向こうだ。
——もう一生分からないやつなのかな。
コリンの中で半ば諦めにも似た感情が胸をよぎった時、ジャスパーが囁くように声をかける。
「天才くん。気持ちはわかるけど今じゃない」
「……なんでわかるの」
コリンが顔を上げ、ジャスパーは法廷を眺めたまま飄々と答える。
「勘」
「絶対嘘」
「いや、マジで」
ジャスパーは肩をすくめ、コリンは溜め息を吐いてジャスパーをチラリと見る。それにしても、この男は本当に不思議だった。自分の父——ゼフィランサスがどれだけ多くの人間の人生を掻き乱したのか。どれだけの血と後悔を残したのか。今まさに法廷で散々聞かされている。なのに、ジャスパーはいつも通り飄々としていた。もちろん、何も感じていないわけじゃない。この男は感情を隠すのが上手いだけだが、それにしたってもっと苦しそうな顔をしてもいい。もっと怒ってもいい。もっと取り乱してもいい。なのに、ジャスパーは嵐の中心から半歩外れた場所に立っている。
——この人、よく平気でいられるな。
あるいは平気なふりが上手すぎるだけなのかも。法廷に重たい沈黙が落ちている中、シルヴェストルは肘掛けへ指を添えたまま低く呟く。
「……細工とは、なんなのでしょうね」
「——これまでの情報を繋げりゃ分かるだろ」
ルソーの空気を切り裂くような低い声が反響した。彼は椅子へ深く腰掛けたまま鋭い目で貴族席を睨み返している。
「剣を持った襲撃者たちは開いている裏口から侵入。使用人たちを殺害、小間使いの少年も殺害。エリオットの息子を襲い、奥方も殺害。その後、気絶した息子をゼフィランサスが連れ出し、さらに小間使いのガキにすり替えた。どうだ、“細工”ってのは偽装工作のことだろ。つまり、記録上ではラウル・ド・レオパードは死亡扱い、実際に埋葬されたのはアンリ少年。——これが事件の裏側だ」
ルソーが鼻を鳴らし、イザベルは彼の隣で目を閉じて溜め息を吐く。分かっていた。この男は今、わざとやっている。ダラス家へ、国の裏切り者へ喧嘩を売っている。お前たちの国が見落とした真実をこちらはもう掴みかけている、と。シルヴェストルはしばらく黙り、やがて首を傾げて口を開く。
「では、ゼフィランサスの動機は?」
一瞬、法廷が静まる。シルヴェストル自身が最も知りたがっている問いだった。なぜ、屋敷にいた。なぜ、商品を連れ出した。なぜ、細工をした。ルソーは鋭い声で言い切る。
「知らん! 真相は闇の中だ!!」
シルヴェストルの眉間がピクリと引き攣った。法廷の一部から咳払いが漏れた気がしたが、ルソーは腕を組み直してどこ吹く風で鼻を鳴らしている。シルヴェストルは長く息を吐くとルキフェルを見据えた。
「……では、別の質問を。誰が貴様の顔に傷をつけた。覚えているか?」
ルキフェルの呼吸が止まり、脳裏に暗闇が広がる。白刃、顔を裂く熱。暗闇の中、自分へ刃を振るう男。だが、顔が見えず輪郭が歪む。夢蛇で見た、人攫いの男のようにも見える。あるいはゼフィランサスの影にも見えた。記憶がぐにゃりと歪み、ルキフェルは眉を寄せて低く答える。
「……暗くて分からない」
シルヴェストルは長くため息を吐き、アイスグレーの瞳を鋭くさせてルキフェルに向ける。
「……すべてを明らかにできないのは実にもどかしい。だがこれ以上、真相が明らかにならないのであれば、ここで審議を下すしかあるまい」
法廷の空気が一気に張り詰め、シルヴェストルの裁定を待った。
もちろん、シルヴェストルは認めるつもりなどなかった。ここまで引き延ばしたのも、このためだ。
表向きの理由は単純、ルキフェル本人から決定的な証明が得られなかった。血筋の確証が不十分、審議役としてはそれで終わる話。
——だが、本当は違う。もしルキフェルが正式にレオパード家の生き残りとして認められれば、ダラス家の過去と人身売買の裏ビジネス、王家への謀反が露見する可能性が生まれる。だから、この男は生かしてはいけない。シルヴェストルは立ち上がった。
「これより、結論を下す」
その瞬間、ルキフェルの翡翠色の瞳がギラリと光る。彼の背後、ジャスパーとマテオ、ニールとコリンがお互いに目を合わせた。
——来た。ここから先は自分たちのターン。
シルヴェストルが厳かに告げる。
「五鬼衆の頭目、ルキフェルだが——」
「待て」
ルキフェルが片手を上げ、シルヴェストルは思わず硬直した。貴族たちの視線が一斉にルキフェルへ向く。エリオットもまた目を見開いた。ルキフェルは証言台の前で真っ直ぐ立ったまま法廷を見渡す。濡れた黒髪、額から頬へ走る傷、瞳は鋭く燃えていた。
「まだ明らかにしていないことがある」
ルキフェルの明瞭な声が法廷へ響き、ざわっと貴族席が揺れた。シルヴェストルが目を細める。
「これ以上、話すことはないはず」
「いいや、ある。ゼフィランサスの動機は分からずじまいだが……あの夜、屋敷にいた男たちが何を目的に襲撃したのか。ここが明らかになっていない限り、この場を終わらせることはできない」
エリオットがルキフェルに目を見張る。
——ラウル。お前は何を掴んでいる?
一方、シルヴェストルはルキフェルを見つめて口元を吊り上げた。
——なるほど。お前はこれを待っていたか。俺とここで直接戦うために。
シルヴェストルの胸の奥でカアッと熱が燃え上がる。最初から証言でも血筋でも、過去でもない。自分へ辿り着くためにこの法廷を使った。シルヴェストルはゆっくりと椅子へ座り直し、アイスグレーの瞳を煌々と鋭く光らせる。
「——いいだろう。受けて立つ」
彼の声はもはや審議役のものではない。
ルキフェルは胸の内で獣——あの日、夢で見た時から共に居る存在——と唸った。証言台の縁を掴む手の甲に筋が立っている。高く聳える山のような席、毒蛇が舌をチロチロと這わせてとぐろを巻いていた。ルキフェルも獣も、翡翠の瞳で獲物を捉えて離さない。




