第六章② 法廷
裁判所前に辿り着いた頃、曇天が明るくなってきた。海から吹きつける風は相変わらず冷たい。濡れた髪先から落ちる雫が、石畳へぽたりぽたりと染みを作っていく。五人が足を止めると、すでに人影があった。エリオットとルソー、イザベルにアルフォンス。裁判所の巨大な扉を背にそれぞれ沈黙したまま立っている。最初に口を開いたのはエリオットだった。
「……どうした?」
エリオットの視線が真っ直ぐルキフェルへ落ちる。ずぶ濡れだ。髪も服も未だ水気を含んでいる。海の匂いが微かに漂っていた。ルキフェルは前髪をかき上げながら答える。
「なんでもない」
滴がまたルキフェルの頬を伝う。エリオットの隣でルソーが盛大にため息を吐いた。
「……お前さんは本当に毎回毎回……」
エリオットは裁判所の扉へ視線を向ける。
「ダラス家当主と他の貴族たちが中で待っている。……せめて顔くらいは拭きなさい」
アルフォンスがすっと白いハンカチを差し出し、ルキフェルは一瞬目を瞬かせる。
「どうぞ」
「あ?」
「濡れたままでは不快でしょう」
ルキフェルは少しだけ眉を寄せたあと、「悪い」と呟いて受け取ってざっと顔を拭った。海水混じりの水気が布へ吸われていく。彼がハンカチを返そうとすると、アルフォンスは首を振った。
「持っていてください」
「……そうか」
ルキフェルが深く考えずにポケットへ押し込む。彼の様子を見届けるとエリオットたちは先に裁判所の中へ歩き始めた。重厚な扉が開き、闇のような廊下が覗く。彼らの背を見送った直後、ルキフェルが動きを止めて慌ててズボンのポケットを探り始めた。
「……あ。おい、どこだ……?」
ルキフェルの声に焦りが滲むと、コリンは自分のポケットからアントワーヌのイヤリングを取り出す。
「ほら、外套の内側に入れてたでしょ? ぼくが抜いといた」
「……助かった」
「どういたしまして」
コリンはにっと笑い、ルキフェルはイヤリングを受け取ってポケットへしまった。その時、裁判所前の広場の向こうから見覚えのある影が現れる。レオンにイヴォン、ワンとティエン。そして、彼らの背後に見知らぬ二人——ヴィクトルとグレゴワール——も歩いてくる。身なりがいい。貴族階級特有の隙のない仕立て。片方の男を見た瞬間、ルキフェルの眉がわずかに動く。シルバーブロンド、どこかスザンヌに似ていた。
「……誰だ、あれ」
ヴィクトルは遠目からでも分かるほど鋭い目で五人組を見ていた。彼の隣のグレゴワールもまた静謐に佇んでいる。空気がぴんと張り詰めると、マテオがルキフェルに向かって言う。
「行こうぜ。あんま金持ちを待たせんな」
「彼ら、“自分たちを待たせるとは何事だ”って顔するだろうね」
ニールがくすりと笑う。妙に実感のこもった言い方に、ジャスパーが吹き出す。
「お前、経験者みてえに言うなよ」
「経験者だよ」
「うわ、嫌な説得力」
小さな笑いが生まれるも、五人組は裁判所を見上げた。巨大な石造り、閉ざされた窓、重苦しい空気。建物そのものが彼らを飲み込もうとしているようだ。ルキフェルは濡れた前髪をかき上げ、翡翠の瞳を細めた。
「……行くぞ」
彼の声を合図に五人は裁判所の闇へと足を踏み入れた。
法廷内はすでに人が揃っていた。重厚な木製の扉が閉じる音が静まり返った空間に鈍く響く。高い天井、冷えた石壁、差し込む光すらどこか色を失っている。ルキフェルは視線を巡らせた。
貴族たちが着席している。豪奢な衣服に飾り立てられた勲章。香水の匂いが漂っている。緊張、警戒、嫌悪、そして恐怖が法廷全体に薄く広がっていた。
普段、裁判官が座す高い席は空席だった。見下ろすように作られた場所、王国の法と権威の象徴。今はまだ誰もいない。弁護士と検事が座す双璧の席には、数名の貴族たちが腰掛けていた。皆、五人を見ている。値踏みするように、あるいは怪物を見るように。
エリオットら海軍総司令部組は、参考証人席へ向かっていた。あの時、アントワーヌの裁判で自分たちが座っていた位置。皮肉だなとルキフェルは思う。
レオンら協力者たちは傍聴席へ。最前列、いつでも声を上げられる位置。彼らの背後にはヴィクトルとグレゴワールの姿も見えた。
そして、自分たちは法廷中央。証言台の後ろには五脚の木椅子が並べられている。ルキフェルは法廷へ入った瞬間に直感していた。自分の場所は後ろの椅子じゃない。——証言台だ。
仲間たちが後方の席へ向かう。マテオ、ジャスパー、ニール、コリン。四人はルキフェルの背を見ていた。ルキフェルは一歩、また一歩と証言台へ向かう。石床に靴音が響くたびに、貴族たちの空気が変わる。恐怖と訝しみと怒りが混ざり合い、濁った波のように押し寄せてくる。それでもルキフェルは止まらず証言台へ立って正面を見る。
そして、法廷の扉が開いた。重い音に全員の視線がそちらへ向く。現れたのはシルヴェストル・ダラスだ。彼は誰とも視線を合わせず、あの高い席へ歩いていく。裁判官の席の階段を上がって座す直前、シルヴェストルはルキフェルを見下ろした。アイスグレーの瞳、冷たい視線。法廷の空気がさらに張り詰める中、彼は厳かに告げる。
「遅れてしまい、申し訳ありません。私、シルヴェストル・ダラスと申します。王宮より、本日の審議役を務めさせていただきます」
ルキフェルは真正面から見返している。法廷中の誰もが二人の睨み合いから目を離せなかった。やがて、シルヴェストルは静かに席へ腰を下ろす瞬間、外から鐘の音が響く。
——ゴォン。
重く低く、街全体へ広がるような音。法廷内にも音の余韻が流れ込んできた。シルヴェストルが肘掛けへ片腕を置き、ルキフェルを見下ろす。
「ルキフェルとやら。世間を騒がす鬼が、正統で気高い人の血が流れているのを自負している、と聞いた」
ルキフェルは数秒黙っていたが、首を傾げて眉を寄せた。
「まず、そのオニってなんだよ」
検事席、貴族の一人が勢いよく立ち上がって顔を真っ赤にした。
「口を挟むな、この悪魔め!! 貴様のような海賊風情が!!」
一人の怒声を皮切りに貴族席が一気にざわつき始める。
「鬼のくせに人の言葉を喋るな!」
「怪物が法廷に立っているだけでも不快だ!」
「五鬼衆……まさしく災厄そのものだ!」
「王国に仇なす悪魔どもめ!」
マテオの額に青筋が浮いて拳が鳴る。
「……っ」
シルヴェストルが片手を上げて制する。
「静粛に」
一瞬で法廷が静まり、彼は深々とため息を吐いた
「まったく、ここは市場ではない。少しは品位を保て」
貴族たちが気まずそうに口を閉ざす間、シルヴェストルは五人組を見渡して言う。
「鬼というのは、東洋に伝わる化け物のことだ。人を襲い、喰らい、災厄を齎す存在として語られる。君たちの異名、五鬼衆の元ネタだ」
マテオが盛大に舌打ちして声に苛立ちを滲ませる。
「はっ、じゃあ何か? オレたちのことを五匹の悪魔とでも言いてえのかよ」
ジャスパーが椅子に座ったまま肩をすくめる。
「今さらだろ。散々言われてきたじゃねえか」
「慣れるかよ、あんな呼ばれ方」
マテオが裁判官席を睨んだ。ニールは目を伏せ、コリンが法廷中をきょろきょろと見回している。
「なんか、思ったよりみんな怖がってるね」
何人かの貴族がびくりと肩を震わせた。証言台の前、ルキフェルは法廷全体を見渡して目を細める。シルヴェストルは指先で机を叩いて口を開いた。
「今回の審議は、悪を裁くためのものではない。我々の世界にとって重要なもの、血筋について明らかにするためにこの場が設けられている。……アレを用意しろ」
弁護人席で壮年の貴族が立ち上がった。彼は机の上に置かれていたワイングラスと、透明な水の入った硝子瓶を手に取って証言台へ近づいてくる。法廷内の視線が集まった。貴族はルキフェルの目の前で透明な液体をグラスに満たし、証言台にそっと置くと元の席へ戻っていく。ルキフェルはグラスを見下ろして半眼で言う。
「……毒でも入ってないだろうな」
シルヴェストルは目を細めた。
「飲めば分かる」
「雑だな」
ルキフェルは眉を寄せるが、結局グラスを手に取った。慎重に匂いを嗅ぐと無臭。今度は少しだけ舌先につける。
「……ふーん」
次の瞬間、ルキフェルはグイッと一気に飲み始めた。
「なっ……!」
「おい、待て……!」
貴族席から驚愕の声が漏れる。ルキフェルは水を飲み干してグラスをコトリと証言台へ戻し、喉を鳴らしてシルヴェストルに不敵に笑った。
「ん、ちょうど喉渇いてたから助かった。どうも」
次の瞬間、再び貴族席が騒ぎ始めた。
「おいおい……!」
「なんだ今の所作は!?」
「まさか……海賊が……!」
ルキフェルはきょとんとする。何が起きているのか分からない。ちらりと貴族席を見ると全員が妙な顔をしている。次にルキフェルはシルヴェストルを見上げた。
——こいつまで怪訝そうな顔をしている。ますます分からない。
すると参考証人席から、ルソーの声が飛んだ。
「おいおい……女みてえな持ち方してたぞ、アイツ」
イザベルが目を細めて感心したように呟く。
「見事なステム持ちね。洗練されてるわ」
ルキフェルは完全に困惑した。
「いや、普通だろ」
「普通じゃねぇよ。ステム持ちは、貴族の女がよくやるやつだ」
マテオが腕を組んで呆れたように笑い、貴族席の反応を眺める目元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「……へぇ」
ルキフェルはグラスを見るもまだ分かっていない。ジャスパーが吹き出した。
「そういや前にも言ったな。お前、それ無意識でやるんだよ」
「最初見た時、僕も驚いた」
「でも綺麗だから別にいいじゃん」
ニールが頷き、コリンはけろっと言う。貴族たちはまだざわついていた。
「ありえん、教育も受けていない海賊が……」
「所作だけであそこまで……」
マテオは貴族たちの様子を眺めながら鼻を鳴らす。
「……出だしとしては悪くねぇな」
ジャスパーもニタニタと笑い、ニールは目を細めて微笑む。コリンだけは「なんでそんな騒いでるんだろ」とでも言いたげに首を傾げていた。シルヴェストルは法廷内に残るざわめきを見渡し、参考人席に目を向ける。
「海軍大元帥殿。貴殿はご子息への所作教育について、何か心当たりはありますか」
ご子息という言葉が法廷内に沈んでいく。呼ばれたエリオットが起立してシルヴェストルを見た。
「息子への教育について、私は主に勉学を担当しておりました。生活指導については……亡き妻が」
ルキフェルの顔が曇る。母。胸の奥に遠い記憶が掠めた。陽だまり、歌声、白い手がすぐ霧のように消えていく。エリオットは続けた。
「レオパード家はよく紅茶を嗜んでいたので……私も妻も、息子にはカップの持ち方をよく指導していたものです」
法廷内が途端にざわつく。
「やはり……」
「では、あの所作は……」
シルヴェストルは頷いて問いを重ねる。
「大元帥は、他に何か具体的な指導を?」
エリオットは少し考えるように目を伏せて苦笑する。
「そうですね……人の部屋へ入る前は必ずノックをする、とか。いかんせん、私は従軍任務で長く家を空けていたこともあり、妻へ任せきりでした」
その時、貴族席の一人が怪訝そうに声を上げる。
「ノックなど当たり前のことでは?」
ジャスパーは椅子にだらりと座ったまま飄々と言ってのける。
「海賊じゃ当たり前じゃねぇけどな! 船長室だって勝手に入るし、勝手に飯食うし。ノックなんてしてたら逆に怪しまれるぜ?」
「な……!」
「なんという無法……!」
「だから海賊なのだろう!」
貴族たちが顔を顰める中、シルヴェストルはジャスパーを捉えて目を細めた。ゼフィランサスの息子、あの男の血。胸の奥でどす黒い感情がゆっくりと燃え上がる。
——いずれ、必ず父の代の決着を。
シルヴェストルは穏やかな声音のまま口を開く。
「なるほど。ここから先は過去の事例も交えながら、詳しく話を聞く必要がありそうだ」
試験、値踏み、探りの段階は越えた。シルヴェストルは机に肘をつくと指先を組み、顎を乗せて証言台のルキフェルを見下ろす。
「さて……貴様がやんごとなき身分であることは、身体がある程度証明している。ここからは、貴様が本当にレオパード家の人間なのか。……いくつか確かめさせてもらう」
ルキフェルの鋭い目つきを眼下から受け止めながら、シルヴェストルは口を開く。
「まず、レオパード家にとって避けては通れない問題。……他ならぬ、レオパード家襲撃事件についてだ。記録では犯人不明。現場は見るに堪えない状態だったとか」
その時、傍聴席にいたグレゴワールが思わず眉を寄せた。
——そういえば、王宮の記録庫で見たことがある。
レオパード家惨殺事。閲覧制限付き、血塗れの記録。王宮内でも半ば禁忌のように扱われていた文書。グレゴワールは証言台に立つ傷だらけの男を見た。シルヴェストルの声が再び法廷内に響く。
「ルキフェル。まず事件当日のことを語ってもらおうか。何を見て、何を聞いたのか」
ルキフェルの脳裏に以前、夢蛇によって無理矢理引きずり出された記憶がよぎる。血、絶叫、月光、剣。もっと前、もっと深いところ。底無しの暗闇に沈んでいたものが浮かび上がってきた。ルキフェルの指先が証言台の縁を握って軋む。
「……暗かった。何も見えなかった。壁も、床も、どこにいるのかも分からなくて。……でも、何かが呻いてた。低くて、苦しそうで……喉の奥から絞り出すみたいな声だった。声の方へ歩くと目が見えた。暗闇の中で二つ……狼だった。小さくて、黒くて、人みたいだった。そいつ怯えてたから近づいた」
ルキフェルは翡翠の瞳を細めて喉を震わす。
「そしたら……これ、自分だって思った。……次に覚えてるのは、扉を叩く音。夜中、友達と会う約束をしてた。そしたら……扉の向こうから『絶対に開けるな』って声がした。——アンリだった。怖がってた。……俺も怖かった」
ルキフェルの指先が証言台をさらに強く握り、法廷の誰もが今や彼の言葉の中へ引きずり込まれていた。
「でも、何が起きてるのか分からなくて……開けた。そしたら……死んでた。アンリが血だらけで……冷たくて……」
ルキフェルは顔の傷に触れて瞼を閉じ、指先で額から頬へ走る古傷をなぞる。
「そのあと誰かが来た。剣を持ってて……斬られた。ここ、痛かった。死ぬって思った。……そしたら、女が来て俺を庇った。逃げろって言った。……そのあと、目の前で斬られた」
ルキフェルの声が初めて掠れ、誰かが顔を伏せた。彼の言葉の残響が石造りの空間に沈んでいる。シルヴェストルは感情を読ませない目でルキフェルを見つめていた。
「……それだけか?」
ルキフェルは目を開けて顔を上げる。
「……そうだ。それ以降もその前も、何も思い出せない。……記憶喪失だから」
ざわりと貴族席が揺れ、疑念が再び法廷へ広がっていく。先ほどまで同情に傾きかけていた空気が徐々に冷え始めた。
「記憶喪失……?」
「そんな都合のいい話が……」
「ならば、何とでも言えるではないか」
シルヴェストルは指を組み直してルキフェルを眺めていた。
「なるほど。他に証明できるものは? 例えば物的証拠とか」
ルキフェルは数秒黙って首を横に振る。
「ない」
その瞬間、シルヴェストルの目が鋭くなった。
「……そうか。悪いが、貴様の話は創作ではないか」
ルキフェルは目を見張るが、シルヴェストルは止まらない。
「記憶喪失。唯一の生存者。証拠なし。そして、見る者の同情を誘う凄惨な過去。……よく出来た脚本だな」
「まさか……」
「では、やはり作り話を……?」
貴族たちがまた騒ぎ出し、ルソーが眉を顰めた。
「おいおい……」
イザベルも目を細める横で、エリオットはルキフェルを見つめている。ジャスパーが奥歯を噛み、マテオの拳が鳴る。コリンは不安そうにルキフェルの背を見つめ、ニールは目を伏せた。シルヴェストルはルキフェルから視線を外さず、暗記した文章を読み上げるように言う。
「それと貴様の証言には矛盾がある。記録では、『子息の部屋で、母子の無惨な遺体が転がっていた』と。貴様がレオパード家の子息だとして、記録に残され子供は誰だ。なぜ、貴様は生き延びた」
「——お言葉ですが、ダラス殿」
エリオットが立ち上がって法廷の視線が一斉に向く。彼はシルヴェストルを真っ直ぐ見据えたまま有無を言わせぬ口調で続ける。
「私にも思い当たる点があります。ここで発言を」
シルヴェストルは数秒黙ったあと仕方なく頷いた。
「……続けてください」
エリオットは息を吸ってから断固とした口調で告げる。
「先ほどのルキフェルの証言。その中に、“アンリ”という名前が出たかと思います」
ルキフェルはビクリと肩を震わせた。
——無意識だった。記憶を掬い上げただけなのに。
「……あれ、なんで」
ルキフェルは目を泳がせて額に手を当てている間、エリオットは法廷内に向かって語る。
「アンリという少年は……レオパード家が雇っていた小間使いです。親子で使用人として仕えていました。年齢も近かったため、アンリ少年には息子の世話役として傍に置いていたのです」
法廷がざわついた時、エリオットがアルフォンスに視線を送った。アルフォンスは立ち上がって一礼すると、肩掛け鞄から紙束を取り出す。羊皮紙の擦れる音が法廷へ響いた。
「こちらに、我が総司令部が取り寄せた事件記録書がございます。事件現場で保管されていた金銭管理用の帳簿、使用人への給与支払い明細書。そして、事件調査時に数えられた遺体数を基に作成された被害者名簿です。どちらも複写ですが……人数は一致しています」
アルフォンスは紙束を捲って続ける。
「記録によれば、まず現場で遺体数を確認したあと、帳簿を基に身元特定が行われたとのこと。ですが、この二つの複写にはアンリ少年の名前がありませんでした」
一瞬空気が止まるが、すぐに貴族席の一人が苛立った声を上げた。
「それは当然だろう! 一家で使用人をしていたなら、父親がまとめて給与を受け取っていたのではないか? 名前が無くとも不自然ではない!」
法廷に同意のざわめきが広がるが、アルフォンスは待っていたと言わんばかりに頷いて一枚の紙を持ち上げる。
「ええ。問題なのは被害者名簿の方です。記録上、子供の遺体は一人。もし、ご子息もアンリ少年も亡くなっていたなら、子供の遺体数は二人でなければおかしい」
アルフォンスの声が法廷へ落ち、シルヴェストルは初めて露骨に顔を顰めた。
「……まさか、その記録に残った子供がアンリ少年だとでも言うのか」
「……可能性としては大いにあります」
エリオットは一切揺るがず答えると法廷が爆発したように騒ぎ始めた。
「そんな……!」
「では本当に……!」
「記録そのものが誤認だったと!?」
貴族たちが一斉に立ち上がりかける混乱の中、ルキフェルは額にじわりと汗を滲ませた。脳裏に浮かぶのは扉と血、そして冷たくなった身体。
——アンリ。
扉を開けた瞬間、倒れていた小さな影。自分より少し年下でよく笑って、いつも後ろをついて回っていた少年。胸の奥がずきりと痛む。もし、もし本当に記録に残された死んだ子供がアンリだったなら、自分は生き残ってしまった側だ。




