第六章① ルキフェル
曇りがちな空の向こうから、弱い陽光が海面を鈍く照らしていた。潮の匂いは変わらないが、今日は空気そのものが張り詰めている。
これまでの因縁が集結する日、裁判の日だ。
ルキフェルは仲間たちと簡素な朝食を食べながら、机を囲んで話し合いをしていた。昼頃に予定されている裁判に向け、確認すべきことを一つずつ整理していく。
「だから、そこで余計な挑発に乗るなよ」
「乗るわけねぇだろ」
ジャスパーが腕を組みながら釘を刺し、ルキフェルはパンを齧ったまま返した。ニールが紅茶を口に運ぶ。
「昨日も似たようなこと言ってた人の台詞とは思えないね」
「……お前、地味に失礼だよな」
そんなやり取りを挟みながらも部屋の空気はどこか重い。やがて話し合いが一区切りつき、ルキフェルは窓辺へ歩み寄って古びた窓枠に手をついた。中庭が見える。朝露に濡れた石畳、小さな花壇、灰色の空の下でジョルジュが不慣れな手つきで園芸道具を持っていた。
「……ぎこちないな、あいつ」
ジョルジュの隣ではリゼーヌが花に水をやっている。ジョウロを傾けるたび、水滴が朝日に反射して光った。ジョルジュは時折リゼーヌに何かを聞いているらしく、そのたびに彼女が呆れたような顔で説明している。土を掘り返しすぎているのか、何度かリゼーヌに止められていた。ルキフェルはぼんやりと二人の様子を眺めた。戦争も復讐も、裁判も。そんなものと無関係な朝だった。
「……彼らなりに前を向いているんだね」
気づけば隣に立っていたニールが呟いた。ルキフェルは中庭へ向けたまま、「かもな」とだけ返す。ジョルジュが泥だらけの手で何かを熱弁し、リゼーヌが呆れながらも花の位置を直してやっている光景は滑稽なくらい平和で、だからこそ胸に引っかかった。つい最近まで殺し合っていた連中なのに、今は花に水をやっている。ルキフェルはふっと息を吐き、ニールが窓枠に肩を預ける。
「君は?」
「……何が」
「前、向けそう?」
ルキフェルは目を細めて中庭から視線を外した。今日、自分は何を選ぶのか。
「……さあな。でも、逃げる気はねぇよ」
「なら大丈夫だ」
ニールは小さく笑う。コリンは椅子の上で膝を抱え、うつらうつらしていた。マテオは壁際で腕を組んで目を閉じ、ジャスパーは机に広げた書類を眺めながらも、イヤリングを弄んでは手を止めている。五人は午前の薄い光の中で静かに時を待ち、頃合いを見てトゥーロン徒刑所を後にした。海風は朝よりさらに冷たくなっている。全員、外套を羽織ったまま歩き出した。裁判所へ向かう道は海辺沿いに続いている。灰色の海に曇り空、風に煽られた波が岸壁へ絶えず打ちつけていた。
「っあー、風強ぇな今日!」
先頭気味に歩いていたジャスパーが外套の襟を押さえながら喚く。
「なんだこれ、海がオレに帰れって言ってんのか?」
「普段お前が海側だろ」
マテオが即座に返し、ジャスパーは口を尖らした。
「いや、今日は違う。敵」
「意味わかんねえ」
ルキフェルは二人のやり取りを耳で拾っていた。今日、自分たちは裁判へ向かっている。待ち受けているのは、あのダラス家だ。ジャスパーだって平気なはずがない。それでも、こうして軽口を叩き続けている。自分たちの空気が重く沈みきらないように。ルキフェルは息を吐いた。昔からそう、こいつはこういう男だ。どれだけ状況が悪くても、仲間が潰れそうになっている時は妙に空気を読んで動く。だから厄介で、だから助けられてきた。どうやら他の三人も同じらしかった。ニールの表情も少し柔らかくなっているし、コリンも外套に埋もれながら笑っている。マテオですら口元にうっすら呆れたような笑みを浮かべていた。波音の合間、ルキフェルはふと呟く。
「……そういえば、アーシャたちは無事だろうか。フェリスも。カルロータとディッキーも」
時期的に、アーシャ海賊団はすでにトルチュ島へ到着していてもおかしくない。そこからマルセイユへ蜻蛉返りしていたとしても不思議ではなかったが、今のところ何の報告も入っていない。本当に無事なのか、不安がないわけではなかった。ニールが言う。
「……あの二人なら大丈夫だよ」
「いやあ、全くだな。案外、もう着いてたりして」
ジャスパーが頷き、ルキフェルがジャスパーの背中を見る。
「……なぜそう言える?」
「勘だ」
「じゃあ、そうなんだろうな」
ジャスパーは即答し、ルキフェルが当たり前みたいに返す。ニールが吹き出し、コリンが外套の中で肩を震わせた。マテオは「はっ」と鼻で笑ったあと、呆れたように首を振った。
「なんだよ」
ジャスパーが眉を寄せ、ニールが笑いを堪えながら言う。
「いや……久しぶりだなって思って」
「何がだ?」
「その感じ」
風が吹き抜け、ルキフェルは目を細めた。
——ああ。確かに久しぶりだ。
ジャスパーが「勘だ」と言えば、たぶんそうなんだろうと思える。根拠なんてないのに、不思議と間違っていない気がする。昔からずっとそうだった。嵐の時も、航路を決める時も、命を賭ける時も。理屈ではなく、何となく「こいつが言うなら大丈夫だ」と思ってしまう。ジャスパーは「なんだよ、お前ら気持ち悪ぃな」と顔を顰めていたが、その小さな声はどこか照れ隠しのようでもあった。海風は相変わらず冷たい。コリンが歩きながらジャスパーを見上げ、外套に半分埋もれたまま小首を傾げる。
「そういえばさ。エル・イエロ島にいた時、ダラス家に向かって『ぜんぶ思い出した』って言ってたよね」
ルキフェルが眉を寄せる。
——そんなこともあった気がする。
エル・イエロ島滞在中は、あまりにも色んな陣営が一ヶ所へ集まりすぎていた。あの碌でもない幻覚剤による記憶のフラッシュバックが強烈すぎて、細かいやり取りを思い返すのは難しい。ただ、ジャスパーがドミニクに向かって何か言っていた記憶は薄っすら残っていた。ジャスパーが頭を掻く。
「あー、あれな。ま、今日話せたら話すわ」
風が吹いた瞬間、ジャスパーの表情が曇った。ルキフェルは横目で彼を見たが、ジャスパーはすぐにいつもの軽薄そうな顔へ戻る。今は裁判へ向かう途中だ。踏み込むには少し重すぎる。その時、先を歩いていたマテオがぴたりと足を止め、顎で前方を示した。
「……おい」
ルキフェルが顔を上げると、マテオが少し離れた場所、海へ突き出た小さな桟橋を見ていた。昨日、自分とマテオが競争のゴール地点にしていた場所だ。その先に人影がある。長いシルバーブロンドが風に揺れている。ルキフェルは目を見開いて呟く。
「……スザンヌ」
スザンヌは一人で桟橋の先に立ち、海を見つめていた。いや、よく見るともっと近い。波打つ水面、寄せては返す波の動きそのものをじっと見下ろしている。海風に煽られ、細い背中がぐらりと揺れていた。ルキフェルの胸の奥が妙にざわつくと、彼の隣でコリンが無邪気に言う。
「声かけてきなよ」
「……は?」
「いやいや、明らかに待ってますみたいな空気じゃん」
「何を根拠に言ってんだお前」
「勘」
「お前までそれ言うのかよ……」
ルキフェルが顔を顰め、コリンが得意げに胸を張る横でジャスパーが吹き出した。
「行ってこいって。裁判前に英気養ってこい」
「そうそう。君、昨日からずっと難しい顔してるし」
ニールまで頷くとルキフェルは吐き捨てるように返す。
「してねぇよ」
「してる」
「してない」
「してるって」
マテオに至っては無言でルキフェルの背中を押し始めた。
「おい待て」
「行けよ」
「なんでだよ」
「いいから行け」
「お前らなぁ……!」
マテオにぐいぐい押され、ルキフェルの顔に益々皺が寄る。コリンが手を振った。
「頑張れー」
「何をだよ!!」
「知らないけど」
「無責任すぎるだろ!」
ジャスパーは腹を抱えて笑っていた。
「ははっ、久々に見たなその顔」
「うるせぇ」
「行ってこいって。なんなら裁判より難易度低いだろ」
「比較対象がおかしい」
ニールが肩を震わせながら言う。
「大丈夫。最悪、海に落ちても回収するから」
「その前提やめろ」
とうとうマテオが本気で背中を押し、ルキフェルの身体が数歩前へ出る。
「っ、おい!」
ルキフェルは振り返って唸るが、四人ともニヤリ顔をしていた。ルキフェルは数秒苦悶すると深く息を吐く。
「……あとで覚えとけよ、お前ら」
「おう」
「頑張れー」
「応援してるよ」
「落ちるなよー」
「だから何をだ!!」
ルキフェルの背後で笑い声が上がり、ルキフェルは渋々桟橋へ向かって歩き始めた。歩幅を緩め、できる限り砂の音を立てないよう踏みしめる。波が桟橋へぶつかるたび、水飛沫が白く散っていた。徐々にスザンヌの立ち姿が鮮明になってくる。風に揺れるシルバーブロンドの長髪、細い肩、海を見つめる横顔。近づくたび心臓の音がうるさくなった。
「……なんだこれ」
鼓動が速い、顔が熱い。いや、耳まで熱い気がする。最悪だ。絶対、後ろ振り返ったら笑われる。しかも、今日に限って外套にフードがない。顔を隠せない、終わった。そんな煩悩を抱えている間にも鼓動はどんどん加速していく。
「なんでだよ……」
スザンヌは海を見つめたまま微動だにしなかった。ルキフェルは慎重に歩み寄り、やがて彼女の横顔を鮮明に捉える距離まで来たところで足を止めた。横顔が綺麗だ。風に流れる髪も、白い頬も、長い睫毛も。なんだか十年前を思い出す。
「……なんて声かけりゃいい」
——久しぶり? いや無理だ。ブレストで鉢合わせた時、何も言わず立ち去ったのを思い出す。気まずい。元気だったか? 元気なわけがない。一昨日、上官を失っている。そもそも、向こうは自分をどう見ているのか。巷を騒がす海賊の一人としてか。それとも……化け物みたいに思ってるか。十年前のこと、覚えてくれているだろうか。
ルキフェルがそんなことを考えていた時、ふっと空気が変わって肌が先に察知する。気の流れがどこか淀んでいる。重くて張り詰めている。殺気にも似た、不自然な静けさ。ルキフェルの眉が寄る。
「……なんだ?」
そこで初めて違和感に気づいた。さっきから動かない。髪も服も風には揺れているのに、彼女自身がまるで止まっているみたいだ。特に、手。だらんと下げたまま、身体の前に揃えられていて力が入っていない。いや、違う。よく見ると、縛っていた。ルキフェルの顔から一気に血の気が引く。
「……え」
ルキフェルの声が漏れた瞬間、スザンヌの身体がぐらりと傾いて轟音が鳴り、桟橋脇で水飛沫が激しく跳ね上がった。
「——スザンヌ!!」
ルキフェルの叫びが裂けた。彼は反射的に外套を剥ぎ取って放り捨て、桟橋を駆ける。彼の背後で仲間たちが何か叫んでいるが聞こえない。全部、遠い。視界には海しかない。飛び込んだ場所、荒れる波、白い泡。ルキフェルは袖を乱暴に捲り上げると海面を睨みつけ、一瞬息を止めると桟橋を蹴って身体を宙へ投げ出した。黒い海へ、水の中へ一直線に吸い込まれていく。冷たい、海水が全身へ叩きつけられる。視界が暗くて息が潰れ、耳の奥で水音が暴れている。それでも、ルキフェルは海中へ潜った。目が焼けるように痛む、塩が染みるが閉じない。必死に開く。暗い海の底、揺れる髪、沈んでいく銀の影。
——いた!
ルキフェルの肺が悲鳴を上げるも腕を伸ばす。海流が邪魔をしてくる。外套を脱いだとはいえ服が重い。視界も悪いが、そんなものどうでもよかった。ただ……届け。指先が触れる瞬間、ルキフェルはスザンヌの手首を掴んだ。細くて冷たい感触を認識した瞬間、ルキフェルは一気に彼女を引き寄せて強引に腕の中へ抱き込むと、一気に水を蹴った。ひたすら上へ、暗い海の中に揺れる陽光を目指して泳ぐ。肺が痛い、苦しい。だが止まれない。離したら、また沈む。そんな確信が頭を支配していた。やがて、水面が割れてルキフェルの顔が勢いよく出る。
「っ、はぁ!!」
ルキフェルの肺が空気を貪る。咳き込みながら、でも腕は離さない。スザンヌがルキフェルの顔を見て息を呑み、悲鳴みたいな声を上げる。
「——いや、離して!!」
スザンヌは縛られた手のままルキフェルの胸を押す。
「離して!! いや!!」
ルキフェルの呼吸が止まりかけた。……なんでだ。理解できない。助かった。助けた。なのに、なんでそんな顔をする。なんでそんな声を出す。
「離してって言ってるでしょ!!」
水飛沫が散り、スザンヌが必死に身体を離そうとするが、ルキフェルは無視して息を荒げながら強引に海を掻く。岸へ、とにかく陸へ。逃がすな、離すな、沈ませるな。頭の中、それしかない。仲間たちの叫び声が浜から聞こえるが、言葉として認識できない。ルキフェルは歯を食いしばって泳ぎ続け、やがて足先が砂へ触れた。浅瀬だ、ルキフェルは半ば強引に立ち上がって水を蹴り、スザンヌを抱え上げる。
「いやっ、お願い、やめて!!」
スザンヌが縛られた手で押し、蹴って逃げようとするたび、ルキフェルの中で何かが軋んだ。なんでだよ、なんでそうなる。呼吸が乱れる。怖かった。海へ落ちた瞬間、あのまま消えるかと思った。また置いていかれるのかと思った。フランソワみたいに、アランみたいに、アントワーヌみたいに。今度は、こいつまで。胸の奥がぐちゃぐちゃになって、ルキフェルはずぶ濡れのまま歩き続けた。砂浜を越え、波打ち際から離れ、海から遠ざける。一歩でも、一メートルでも遠くへ、スザンヌを抱えたまま石畳の鋪道へ向かっていく。濡れた靴が硬い地面を踏みしめる音が荒い呼吸に混じって響いていた。石畳の鋪道脇、ルキフェルは空いていた木製ベンチへスザンヌを下ろした。
「……っ、離して……!」
スザンヌが濡れた身体で立ち上がろうとする。逃げようとする。海へ戻ろうとしているのか。そう思った瞬間、ルキフェルの中で何かが切れた。
「何してんだお前ぇっ!!」
怒声が鋪道へ叩きつけられ、スザンヌが凍りつく。ルキフェル自身も自分の声の大きさに一瞬遅れて気づくも止まらなかった。呼吸が荒い、濡れた髪から水が落ちる。翡翠の瞳が怒りとも恐怖ともつかない色で揺れていた。
「何考えて海に飛び込んだ!!」
「……っ」
「手ぇ縛って!! ふざけんな!! 死ぬ気だっただろうが!!」
スザンヌの肩がびくりと震えるもルキフェルはさらに畳み掛ける。
「なんでそんなことになる!! なんでそうなるんだよ!!」
息が乱れる。胸が苦しい。怖かった。あと少し遅れていたら、目の前から消えていた。その想像だけで胃が捩れる。
「お前、自分が何したかわかってんのか……!?」
ルキフェルが怒鳴った時、スザンヌの唇が震えて掠れた声を漏らす。
「耐えられ、なかった……」
ルキフェルの呼吸が止まり、スザンヌは濡れた髪を顔へ張り付かせたまま俯く。
「死ぬの待つのが……耐えられなくて……」
ルキフェルの顔から怒気が一瞬で引き、スザンヌは喉が詰まるも無理やり吐き出す。
「この街で、ただ生かされて……毎日、毎日『いつ死ぬんだろう』って考えて、誰かに決められた日に、死ぬためだけに生きてるみたいで……だったら……」
スザンヌが顔を上げ、壊れそうなほど揺れている瞳でルキフェルを見上げる。
「自分で終わらせた方が……楽だと思った……」
風だけが吹き、ルキフェルは怒りが止まった代わりに鈍い理解が胸の奥へ落ちてきた。
——ああ。こいつ、限界だったんだ。
二人から少し離れた場所、仲間たちもまた言葉を失っていた。ジャスパーが目を伏せ、マテオの眉間に深い皺が寄る。ニールは息を呑んだまま動かず、コリンはルキフェルの外套を胸元へ抱き寄せて握っていた。ルキフェルは思わず片膝をついた。濡れた前髪から水が落ち、片手で額を押さえて深く息を吐こうとする。
「……っ、はぁ……」
肺が焼けるみたいに痛い、鼓動もうるさい。さっきまで海の中にいたせいだけじゃない。感情がぐちゃぐちゃだった。死を選ぼうとしたこと、それ自体も許せなかったが、それ以上に昨夜、自分が口にした言葉たちが心を掻き乱す。今を選べ、自由に生きろ、運命なんかに縛られるな。目の前の女は自分で終わらせる理由として使った事実が胸を抉っていた。違う、そんな意味で言ったんじゃない。そんなふうに諦めるための言葉じゃない。
ルキフェルは顔を上げるとスザンヌと視線が絡んだ。スザンヌが息を呑み、熱を持った呼吸が白く揺れる。ルキフェルの翡翠の瞳は濡れていた。涙なのか、海水なのか。もう自分でも分からない。たぶん両方だった。だが、瞳の奥にあるものは鮮明に見えた。消えきっていない、生命の光を。スザンヌはその輝きをとらえた瞬間、思わず掠れた声で問いかける。
「なんで、助けたの」
ルキフェルの喉が動き、熱を帯びた声を溢していく。
「……失いたく、なかった。自分で終わらせようとする奴を見て……放っておけるわけ、ないだろ……」
スザンヌの脳裏に一年前の記憶が蘇った。戦闘の最中、誰の手にもかからず自ら海へ身を投げた男。——フランソワ。海へ消えていく背中、誰も届かなかった。そして戦後、帰還途中の甲板でマクシムが海を見つめながら呟いていた。
「海賊は海に生き、海で死ぬ」
あの時の彼の横顔は妙に沈んでいた。まるで、自分に言い聞かせるように。スザンヌは今になって理解する。——この人は海へ消えるという選択を喪失として知っている。だから、自分を見た瞬間に過去の誰かと重なった。フランソワと、あるいはもっと別の誰かとも。十年前、幼い自分が海へ落ちた時も、この人は助けてくれた。けれど、今回はまるで違った。あの頃は手を伸ばしてくれただけ。今のルキフェルは違う。失う恐怖を知っている。だからこそ、そんな顔をしている。
スザンヌの唇が震え、声は擦れて今にも崩れそうだった。濡れた銀髪が頬に張り付き、細い肩が小刻みに揺れている。
「……これから、どうしろって言うの……」
彼女のターコイズブルーの瞳が縋るようにルキフェルを見下ろす。ルキフェルは目を見開いたが、ゆっくりと目を伏せた。
——どうすればいい。この女をどうすれば引き留められる。
息が荒い、胸の奥がまだ焼けるように痛む。その時、アントワーヌの横顔が脳裏に浮かんだ。
——生きていてほしい。
彼の願っていた目。その記憶が胸を貫いた瞬間、ルキフェルは理解した。
……同じだ。俺も同じなんだ。スザンヌに生きていてほしい。理由なんて、もうどうでもよかった。
ルキフェルは片膝をついたまま、スザンヌと同じ目線の高さで一歩近づくと、彼女の肩を強く掴んだ。
「……っ」
スザンヌの息が止まり、ルキフェルは真正面から彼女を見据えた。海水で濡れた翡翠の瞳が熱を帯びて揺れている。
「……生きろ」
——お前に生きていてほしい。
スザンヌの瞳が揺れる。喉まで出かかった言葉をルキフェルは噛み殺した代わりに、無理やり別の言葉を絞り出す。肩を掴む手に力が入って声が少し掠れる。
「お前には、まだ仲間がいるだろ。お前が消えたら、あいつらが悲しむ。……残り少ない時間を、生きてるだけでいい」
そこまで言った時、ルキフェルの脳裏に裁判の光景が過る。今日、このあと始まる審議。国家が自分たちを裁こうとしている。ルキフェルの目が鋭く細くなって低く言い直す。
「……いや。俺が永く生きられるようにする。——自由に」
スザンヌが息を呑むも、ルキフェルは熱を孕んだ声で言葉を重ねる。
「だから、お前は生きろ。仲間のためにも。……約束してくれ」
スザンヌのターコイズブルーの瞳が大きく揺れ、消えかけていた光が少しずつ戻っていく。
——生きたい。
スザンヌの瞳に輝きが戻ってきたと同時に、なぜか頬がほんのりと桃色に染まっていく。ルキフェルは不可解に眉を寄せたが、それ以上深く考えなかった。
……届いた。もう、大丈夫だ。
ルキフェルは彼女の手首へ視線を落とし、固く結ばれていた縄を解いた。スルリと力が抜け、スザンヌは自由になった両手を呆然と見つめた。ルキフェルは振り返ると仲間たちへ視線を向け、コリンを手招きする。コリンは慌てて駆け寄り、抱えていた外套をルキフェルに差し出した。
「はい……」
ルキフェルは外套を受け取ると、スザンヌの肩に掛ける。まだ海水を吸った身体が震えていた。
「風邪ひくぞ」
ルキフェルが立ち上がろうとした時、スザンヌは声をあげて呼び止める。
「あなた、やっぱり……」
十年前、名を名乗らなかった少年に自分がつけた仮の名前。だが、ルキフェルは立ち上がると石畳の舗道へ足を向けた。濡れた靴が水を跳ねる。彼の背後から仲間たちもついてくる。少ししてルキフェルの隣へ並んだマテオが耳打ちした。
「……いいのか」
ルキフェルは濡れた前髪を掻き上げ、遠くの裁判所を真っ直ぐ見据える。
「ああ、問題ない」
一方、スザンヌはベンチの前に立ち尽くしていた。遠ざかっていく背中、濡れた外套の裾。仲間たちに囲まれながら、それでもどこか孤独な男。胸が苦しい。十年前よりも、今までよりも、ずっと強く恋焦がれている。なのに、どうしようもなく寂しかった。スザンヌは唇を噛みしめ、肩に掛けられた外套をぎゅっと握る。まだ彼の体温が残っていた。やがて彼女はゆっくり踵を返す。向かう先は、トゥーロン徒刑所。死ぬためではない。——生きるために。
昼下がりの食堂には鈍い静けさが漂っていた。窓から差し込む光は白く淡く、石造りの壁に広がっている。誰もが口数少なくスープを口に運び、皿の触れ合う小さな音が断続的に響いていた。その静けさを重い扉の軋みが不意に裂いた。ギイと湿った音に全員の視線が一斉に入口へ向く。スザンヌの髪は肩に張りつき、外套の裾から水滴がぽたぽたと石床へ落ちている。袖口からも水が滴り、歩くたびに小さな跡が残った。なのに、顔だけは不思議なほど静謐だった。
「……何だ、あれ……」
「まるで海に落ちたみたい……」
ジョルジュが眉を寄せ、アニータがつぶやいた。スザンヌはゆっくり歩いてくる。水滴の音がやけに耳につく。ソフィーは彼女から目を離せず、胸の奥で妙なざわつきが掠めていく。
「……スザンヌ?」
シャルルが声をかけると、スザンヌは一瞬視線を向けて淡々と答える。
「……散歩していただけです」
彼女は外套を脱いで椅子に掛け、水が床へ広がっていった。やがてロザリーが恐る恐る口を開く。
「……スザンヌ……もしかして……海に……?」
「ええ。入りました」
「……どうして……」
ロザリーの声は震えていた。スザンヌは息を吐くと事実を差し出す声音で理由を告げていく。
「……愚かなことをしたのは、分かっています。それでも……私が選んだことです」
次に静寂を破ったサミュエルは困惑した顔で問う。
「……だったら、なんで今ここにいる? あんな海に飛び込んで……助かるとは思えないだろ」
スザンヌは少しだけ間を置いて答える。
「……海賊に助けられました」
「は? 海賊って……まさか」
ジョルジュが素っ頓狂な声を上げ、スザンヌは少しだけ唇を緩める。
「……ルキフェルです」
「……あの、ルキフェル?」
「はい。危険も構わず、引き上げてくれました」
その時、彼女の声色に今までの冷静さとは違う、柔らかな熱が混じる。スザンヌは濡れた袖を指先でそっと摘まんだ。
「あの人の瞳、不思議ですね。透き通った緑で……全部見透かしてるみたいなのに、なぜか怖くなかった」
スザンヌの横顔はまるで少女だった。凛として近寄りがたかった普段の彼女とは違う。胸の奥にしまっていた宝物を、少しずつ取り出して確かめるような顔、みるみる頬が淡く染まっていく。
「穏やかで、芯があって……優しかったです」
仲間たちは思わず顔を見合わせるが、スザンヌはまだ終わらなかった。
「……それに……あの声」
ジョルジュが瞬きをし、アニータが「え?」という顔になる。ルキフェルについて語られる時、人々はまず傷だらけの顔を思い浮かべる。剣、戦い、海、翡翠色の瞳。だが、声について語る者はほとんどいなかった。
「……ああ。確かに……よく通る声だな」
サミュエルが遅れて呟き、スザンヌはこくりと頷いた。
「そう。……私、彼の声が好きなんです」
しん、と食堂が静まり返る。スザンヌは泣きそうなほど愛おしそうに笑う。
「海の中で、もう息が続かなくなって、意識も遠くなって……その時、あの声で生きろって言われたんです。……あんな声で、あんなふうに言われたら……もう、自分の命を絶とうなんて思えなくなります」
誰かが息を呑んだ。あの声は人の心を動かす。理屈じゃなく、もっと深いところを。スザンヌは目を伏せて濡れた袖を握りしめた。胸の奥で熱が灯っている。
一度は諦めたはずだった。十年前、名前も知らないまま消えていった少年。
海みたいだった人。深くて、静かで、少し怖くて。でも、その胸の奥に優しい光を隠していた人。そして今日、彼女はまた恋に落ちてしまった。
——いいや、違う。ずっと落ちたままだった。




