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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第五章「決めるのは、いつだって今だ」
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第五章⑥ ルキフェルとソフィー

 夜の徒刑所の部屋には重たい静寂が沈んでいた。誰も眠れていない、目を閉じてもすぐに意識が浮上してしまう。明日の裁判が胸の奥へ沈んだ鉛のように全員を圧迫していた。


 ジャスパーはベッドに転がって天井を見つめ、ニールは開いた本をほとんど読めずに同じページを眺め続けている。コリンは毛布へ潜り込んでいるが、時折ごそりと寝返りを打つ音がした。マテオは壁際へ座ったまま腕を組み、微動だにしない。そして、ルキフェルは窓辺へ寄りかかって月を見ている。銀色の海、月光に照らされた波が呼吸するように揺れていた。

 自分は誰として生きればいいのか。ラウルなのか、ルキフェルなのか。考え始めると終わりがない。ルキフェルの頭の中で無数の声が渦を巻く。レオパード家、フランソワ、ゼフィランサス、アントワーヌ。父、海賊、血筋、仲間。過去、未来。どれも捨て切れず、どれも自分の一部で、だからこそ何者なのか分からない。


「……ルキフェル」


 誰かが呼んだ。たぶんジャスパーか、ニールか。だが、ルキフェルは反応しなかった。気づけば身体が動いていた。扉を開け、そのまま部屋を出る。今はとにかく夜風へ当たりたかった。


 徒刑所の外へ出ると冷たい潮風が頬を撫でた。ルキフェルはそのまま歩き始める。向かう先は、今朝マテオと歩いた海辺だった。石畳を踏む足音が夜道に響き、やがて硬い反響が消える。柔らかな砂を踏む感触が足裏へ伝わり、靴が沈み込む。波音が近づき、月明かりに照らされた海が広がっていた。ルキフェルは砂浜をあてもなく歩いていく。頭の中では答えの出ない問いが渦を巻いていた。


 誰として生きるのか、考えるたびに胸の奥が軋む。アントワーヌの最期が何度も脳裏へ蘇った。刃が落ちる瞬間、風、光を失っていった自分自身。それに、死んでいった人間たちの顔が次々と浮かんでは消えていく。


 ルキフェルが深く息を吐いた時、波音の合間に微かな嗚咽が混じった。ルキフェルは足を止めて顔を上げると、少し離れた砂浜に人影が見えた。月明かりに照らされた亜麻色の髪、肩を震わせて蹲っている。ソフィーだった。ルキフェルは声をかけるべきか一瞬迷うが、彼女の震える背中を見てしまった以上、そのまま立ち去ることはできなかった。


 本当は自分だって限界に近い。誰かを気遣う余裕など、もうほとんど残っていない。それでも、死んだ人間を想って一人で泣いている姿を見れば放っておけなかった。


 ルキフェルは恐る恐る歩み寄り、砂を踏む音にソフィーの肩がびくりと揺れて振り返った。涙で滲んだ瞳、赤くなった目元。彼女の顔を見た瞬間、ルキフェルは胸の奥が鈍く痛むのを感じた。ああ、こいつも同じなんだ。死んだ人間に置いて行かれて、それでも生き残ってしまった側の顔だ。


「……ソフィー、こんな時間にどうした」


 ソフィーは何か言おうとして、唇を震わせて視線を落とした。上手く言葉にならないらしい。ルキフェルは少しだけ距離を詰め、同じ海を眺める位置へ立つ。手は伸ばさない。今はそういう距離じゃない気がした。


「……どうしても……受け入れられなくて……」

「……それでいい。簡単に受け入れられる方がおかしい。俺だって、死んだ人間を忘れられたことなんてない。無理に強がるな。今は……一歩も進めなくていい」


 ようやく絞り出されたソフィーの声は、夜風に消えそうなほど弱かった。波が岸へ寄せ、ルキフェルは月明かりに照らされた海を見る。ベルナルド、フランソワ、アラン、アントワーヌ。名前には出さない。出した瞬間、自分まで崩れそうだった。

 ソフィーは肩を震わせたまま頷いた。嗚咽を押し殺そうとしているのが分かるが、抑え切れていない。涙が次々と零れ、月明かりの砂へ落ちていく。ルキフェルは彼女の様子を見ながら一年前を思い出した。


 フランソワが死んだ時のことだ。あの時、自分は泣いた。仲間たちの前で、みっともないぐらい泣いた。コリンもジャスパーも、ニールもマテオも。みんな、泣いていた。海賊だから泣かない、なんてことはなかった。むしろ大事なものを失った時ほど、あいつらは子供みたいに泣いていた。胸の奥が鈍く軋む。限界が近いのかもしれない。普段なら飲み込める感情まで、今は勝手に口から零れそうになる。気づけば、言葉が漏れていた。


「俺も、同じだった」


 ソフィーがゆっくり顔を上げ、涙で滲んだ瞳が真っ直ぐルキフェルを見る。ルキフェルは海へ視線を戻した。


「フランソワを失った。……親がいなかった俺にとって、育ての親だった。兄貴みたいでもあってさ。時には、親父みたいな存在でもあった。あいつがいなくなった時……正直、世界が全部ひっくり返った気がした」


 翡翠の瞳が月光の中で揺れ、ルキフェルは砂を軽く蹴って波打ち際へ視線を落とした。


「何を信じて生きればいいのか、分からなくなった。だから、お前の今の気持ちは否定しない。泣いていい。怒っていい。立ち止まっていい。それでも、生きてるお前には、まだできることがある」


 自分自身へ言い聞かせるように言い切ると胸の奥が痛んだ。本当は自分だって分からない。生き残った意味も、これから先の答えも。それでも言わなければならなかった。


「お前が生き延びること。それ自体が、あの人たちの死を無駄にしない唯一の道だ」


 ソフィーは涙を止められないまま彼の言葉を聞いていた。月明かりの下、翡翠の瞳の奥にある痛みを、ソフィーは初めて見た気がした。ルキフェルは海を見たまま潮風に髪を揺らす。月明かりが銀色に波を照らしていた。やがて、ソフィーが掠れた声で口を開く。


「……今なら……少しだけ、わかる気がする。あなたが……復讐に走った理由。大切な人を奪われて……何もできなかった。守れなかった。その無力さと、残された痛み……あれは……きっと、正気でいられなくなるほど、つらかったんでしょう」


 彼女の言葉に胸の奥が微かに軋む。ルキフェルが驚いたようにソフィーを見るが、すぐに視線を落とした。何かを否定しようとして、でも言葉が出なかった。ソフィーがルキフェルに一歩近づく。


「……悲しかったんだよね。愛する人を失って……」


 ルキフェルは肩を震わせ、翡翠の瞳が月光を受けて滲む。普段なら絶対に押し殺している感情が一瞬表へ滲み出た。やがてルキフェルは深く息を吐き、内に眠る獣を退けて心の底に在るものに手を伸ばして喉元まで掬い上げる。


「……ああ。悲しかった」


 言葉にした瞬間、自分の中の何かが崩れた気がした。今まで、こんなふうに本音を言葉へしたことはなかった。声が自然と続いて止められなかった。


「いや……悲しいなんてもんじゃない。胸を引き裂かれて、中身を全部持っていかれたみたいだった。それでも生きてる自分が……どうしようもなく、許せなかった」


 砂を踏む足先へ力が入って翡翠の瞳が鈍く光る。喉が詰まりそうになった。言葉にするたび、喪失が現実になる。それでも止まらない。


「フランソワは、俺にとって親だった。兄貴みたいでもあって、親父みたいでもあって……船で、海で……生き方そのものだった。お前たち……マクシミリアンの隊が、それを奪った。俺は、その穴を抱えたまま生きることができなかった。ただ……剣を握るしかなかったんだ」


 ようやく自分の声が震えていることに気づいた。怒りだけではない、憎しみだけでもない。もっとぐちゃぐちゃで言葉にならない感情。ルキフェルが海を見ると波は変わらず静かだった。


「だから俺は復讐に走った。憎しみだけじゃない。怒りだけでもない……どうしようもなく、失ったものの代わりを探して、暴れてただけだ」


 ルキフェルが言い終わったあと妙な静けさが残った。自分自身の傷口を初めて見たように。ソフィーはルキフェルの言葉を受け止めて震える声で言う。


「……壊れそうだったんだよね。愛する人を失って……どうしようもなく。……グウェナエルさんを失って、心が引き裂かれて、それでも時間だけは進んでいく。どうして私だけ生き残って、あの人はいないの……って。マクシムも……みんなも……みんな……! 生きてるのが……もう……申し訳なくて……!」


 ソフィーの声が崩れ、涙が夜へ落ちて嗚咽が波音へ溶けた。ルキフェルはしばらく黙って彼女を見ていた。この姿が以前の自分と重なる。フランソワを失った頃の、自分自身と。ルキフェルは砂を軽く蹴て海の向こうを見やる。


「……生きてるのが申し訳ない、か。そんなふうに思ってる限り、お前はずっと縛られたままだ。俺がフランソワの後を追ってたら……あいつ、どう思ったかな。たぶん怒鳴るな。『ふざけるな』って、首掴んででも止める。今のお前を見たら……死んでいった仲間たちのほうが悲しむ」


 ルキフェルはソフィーを見つめると、ソフィーは首を振って掠れた声を夜に溶かす。


「でも、私には……無理……ルソー准将の言葉も……あなたの言葉も……頭ではわかってる。でも……リー・ウェンの言ってた話が……どうしても離れないの」

「……どんな話だ?」


 ルキフェルが眉を顰めると、ソフィーは迷うように視線を落として押し出すように言う。


「……人の縁は決まってるって。出会いも別れも、生も死も……全部、最初から決まってるって。もしそれが本当なら……グウェナエルさんを救えなかったことも、マクシムを失ったことも、リラさんも、ダヴィットさんも、メリッサも、フェルナンドも……全部……最初から決まってたってことになるじゃない……?」


 ルキフェルは黙って聞いていたが、胸の奥で次第に何かがざわつき始める。ソフィーの肩が震え、頬を伝う涙を月光が照らし出した。


「そんなの……残酷すぎる……! もし出会いが運命なら……私とグウェナエルさんが出会ったことも、そうだったの……? でも……結局、彼は死んだ……どれだけ願っても、止血しても……! だったら……最初から出会わなければよかった……!」


 その瞬間、ルキフェルの脳裏に別の光景が蘇る。砂浜、怒鳴り声、自分自身の叫び。


 ——俺だけ生き残って……みんな俺を置いていくんだ!


 そして、マテオの声。襟を掴まれた感触。呼吸が詰まるほどの怒り。


 ——お前のために命張った奴らに……そんな言葉を口にするな!


 あの時、自分は止められた。生き残った側が「出会わなければよかった」なんて言葉を吐く資格はないと。ソフィーの声がなおも続く。


「笑わなければ、こんなに苦しまなかった……! なにが赤い糸よ……最初から結ばないでよ……そんなもの……!」


 ルキフェルは奥歯を噛み締めた。胸の奥が熱くなる。苛立ちじゃない、焦りだ。このまま放っておけば、こいつは本当に壊れる。駄目だ、それ以上は。


「……もし、マクシムとの出会いも運命だったなら……信じて、ついていって……最後が、あれも運命なの……? それなら……やっぱり出会わなければよかった……」


 マクシム。——いや、アントワーヌ。最後まで妹を守ろうとしていた男の顔が脳裏に過った瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが弾けた。


「——そこまでだ」


 ソフィーが弾かれたように顔を上げる。ルキフェルは翡翠の瞳を光らせてソフィーを見つめるうち、憤りに似た感情が突き上げてきた。けど、本当に腹が立っているのはソフィーじゃない。自分の中で蘇った、あの日の絶望だ。皆、自分を守るために死んでいった。それでも、自分はあの出会いを無かったことにはできない。全部、自分の人生だからだ。あの時間まで否定してしまったら、自分たちが生きてきた意味ごと消えてしまう。


「……ルキフェル……」

「いい加減にしろ。聞いてて胸が悪くなる。……あの法廷でお前が何を言ったか、覚えてるか?」


 ルキフェルが言葉を鞭のようにしならせると、ソフィーは息を呑んで囁くように言う。


「……今でも……彼を、愛してる」


 ルキフェルは一瞬視線を落として恐る恐る訊ねる。


「マクシミリアンと、最後に話したか?」


 興味本位じゃない、確認したかった。自分がアントワーヌへ言った、“伝えろ”という言葉が、ちゃんと届いたのか。ソフィーが頷くと、ルキフェルは喉を震わせて詰め寄るよう。


「……あいつ、何て言った?」


 ソフィーは唇を震わせて告げる。


「……生きろって……。何があっても、生きろって……」


 その瞬間、ルキフェルは深く長い息を吐いた。


 ——ああ、ちゃんと伝えたんだな。でも結局、あいつは兄だと最後まで言わなかった。胸の奥が鈍く痛むが、今は飲み込む。こいつを絶望へ落とし切らないために。


「だったら、生きろ。それに……あのグウェナエルって男を愛して、向こうもお前を愛してたんだろ。なら、その気持ちを自分で踏み潰すようなこと、口にするな。『最初から出会わなければよかった』なんて言葉をな……それを言った瞬間、お前は人として終わる」


 ルキフェルが睨みつけるほど真剣な目つきで言い放ち、ソフィーは言葉を失って涙を溢した。


「……わたし……」


 ルキフェルは息を吐き、もう怒鳴らない代わりに真っ直ぐソフィーを見る。


「……頼むから。それ以上、自分を壊すな」


 ルキフェルは月明かりの海を見ながら息を吐き、口元に荒っぽい笑みを浮かべた。脳裏に別の海が蘇っている。嵐のあとの昼間、濡れた甲板。怒鳴り声と拳と血の味、自分を殴りながら叫んでいた仲間たちの顔。


「……まあ、俺の場合だけどな。絶望の底から引き上げてくれたのは、仲間だった」


 ソフィーが小さく息を呑む気配がし、ルキフェルは苦笑して言いながら、あの時の衝撃を思い出す。


「甲板で四人がかりでボコボコにされたのは……今じゃ、まあ、いい思い出だ」


 マテオの拳の重さ、ジャスパーの体当たり、ニールの叫び、コリンの涙。止められて、殴られて、引きずり戻されて、それでも最後まで見捨てられなかった。あの時、自分は本気で怒っていた。本気で憎んでいたのに、今になって思う。あいつら、全員必死だった。


「……そんなふうに、笑えるものなの?」


 ソフィーは戸惑いを混ぜて声を震わせ、ルキフェルは肩をすくめる。


「笑えるさ。だって、あそこで死んでたら何も残らないだろ」


 夜風が二人の髪を揺らした。あの日、自分は本当に壊れかけていた。怒りで、復讐で、悲しみで。もう自分の心すら見えなくなっていた。そんな自分を、あいつらは殴ってでも止めた。


「絶望も恐怖も、全部ひっくるめて越えた先にしか、生きる意味なんてないんだ」


 翡翠の瞳が月光を受ける。仲間を失った。全部、消えない。悲しみも喪失も怒りも、たぶん一生消えない。それでも、抱えたまま生きるしかない。ルキフェルはソフィーを見た。月明かりの中、彼女の瞳はまだ涙で濡れているが、さっきまでとは違う。沈み切ってはいないことに、ルキフェルは安堵して再び海に目を向けた。風が濡れた砂と潮の匂いを運び、波は砕け、銀色の筋を海面へ引いている。


「……慰めになるかわからんが、ひとつ話してやる」


 ルキフェルが低い声で言うと、ソフィーはこくりと頷いた。彼女の反応を確認してから、ルキフェルは息を吐いた。脳裏に血の臭いが蘇る。塔室に崩れた兵士。赤黒い石段、終わらない螺旋階段。そして、その中心に立っていた男。


「あの時、俺が最後に見たグウェナエルはな。階段の上で兵士どもを薙ぎ払って……満身創痍になりながらも、先に行くマクシムを守り続けてた。あの姿を見て、正直思ったんだ。……『かっこいいな』って」


 自分でも妙な感想だと思うが、あの時、本当にそう思った。血塗れで、足元すらおぼつかなくて。それでも剣を構え、自分を通すまいとしていた。あの男はただ戦っていたわけじゃない。守っていた。一人を、仲間を、信じたものを。彼の姿が焼きついて離れない。


「腹立つ奴でもさ。守りたいもんがあって、必死になれるんだなって。あの闘志を見て……胸が熱くなった。だから対峙した時、あえて剣を抜かなかった。あいつ、ボロボロでも意外と冷静でさ。俺の話をちゃんと聞いた挙句……俺を通して、しかも俺まで守るとか言い出しやがった」


 あの時の声が蘇る。


 ——さっさと行けよ。止めるのが俺の役目だ。……お前も守るためにな。


 ルキフェルの喉の奥が熱くなり、つい拳を握り締めた。


「あの背中を見て、俺は階段を駆け上がった。復讐を止めなきゃ、あいつの命も助からない。そう思ってな」


 ソフィーが俯き、月明かりが濡れた睫毛を淡く照らしていた。ルキフェルは彼女の横顔を見つめて呟く。


「……けど、俺が未熟だった。復讐は止められたが、結果としてあいつも死なせてしまった。失ったもんの方が……でかすぎた」


 ルキフェルはソフィーに向き直って目を伏せる。


「……悪かった。お前の愛した人を……救えなくて」


 ソフィーの呼吸が止まり、弱々しい声を絞り出す。


「……そっか……私、まだ……あの人たちのこと、諦められない」


 逃げるような声ではなかった。痛みを抱えたまま、それでも前を向こうとする声だ。ルキフェルは一瞬目を伏せて言う。


「……それでいいさ。泣け。思い出せ。忘れようとするな。お前が生きてる限り、あいつらのことも、俺たちのことも無駄にはならない」

「……ルキフェル……ありがとう……」


 ソフィーが初めて素直に礼を言い、ルキフェルは困ったように笑って海に目を向ける。夜の海は相変わらず冷たいが、暗闇の底には小さな光が揺れていた。波音が続き、さっきまで張り詰めていたソフィーの呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻していた。ルキフェルは海を見ているが、意識の半分はソフィーへ向いている。ソフィーが胸元へ視線を落とした。海から吹きつける夜風が強い、髪が揺れて衣服の裾がはためくせいで、彼女の小さな独り言は波音にさらわれていた。ルキフェルの眉がピクリと動く。ソフィーは胸元の首飾りを握りながら何かを呟いている。


 ——ああ。こいつも今、誰かに向かって話してるんだな。


 ルキフェルは彼女の横顔を見つめ続けた。やがて風が少しだけ弱まった瞬間、月明かりがソフィーの胸元を照らす。銀細工の龍と蛇、中央で揺れる青い石。首飾りがキラリと光ってルキフェルの視線が止まる。


「……その首飾り。前に大事なもんだって言ってたな」


 ソフィーは少し驚いたように瞬きをしたあと笑って頷いた。


「うん。私が真実を掴めなかったら、ルキフェルが引き取るって……前に言ってたでしょ」


 その瞬間、ルキフェルの脳裏にぼんやりと昔の光景が浮かぶ。トルチュ島での別れ際、夜風。この女が妙に真面目な顔で首飾りを握っていた。


「ああ。言った気がするな」


 かなりうろ覚えだったが、そんな話をした。ソフィーは首飾りを指先でなぞる。


「昔、仲の良かった友だちにもらったの」


 ルキフェルは一瞬目を瞬かせた。友だち。胸の奥が妙にざわつくが、彼は表には出さず苦笑混じりに返す。


「……そんな高そうなもん、よく人にやるな。そいつ」

「ほんとね。でも、約束だったから」


 ソフィーが笑った瞬間、ルキフェルは顔を強張らせた。約束という言葉だけで胸の奥が鈍く軋む。守れなかった約束、間に合わなかった約束。交わしたまま終わってしまった言葉たち。アントワーヌの顔が脳裏を掠めた。守れた約束なんて自分には一つもない気がする。


「……そうか。約束、か」


 ソフィーは首飾りを握っている。ルキフェルは海を見ていた。波は絶えず寄せては返し、月光を砕きながら揺れている。静謐な光景に、ふとソフィーが口にしていた言葉が頭をよぎった。


 ——運命。人の出会いも別れも、生きることも死ぬことも、全部最初から決まっているのだとしたら。


「……胸糞悪ぃな」


 ルキフェルは思わず吐き捨てた。もし本当に全部決まっていたのなら、自分の人生も、死んだ仲間の最期も、生き残った奴らと傷だらけになりながら生きてきたことも、最初から決められていたことになる。そんなもの納得できるはずがなかった。ルキフェルは眉を寄せて砂を軽く蹴った直後、別の疑問が頭をよぎった。


 ——じゃあ、俺は今までどうやって生き抜いてきた?


 考えるより先に記憶が浮かび上がる。血の匂いに荒い呼吸、冷えていく身体。アランが薄れゆく意識の中で自分を見ていた。


 ——なあ、ルキフェル。どんな過去だろうと、大事なのは今だ。できることやって、自分の生き方を選べ。囚われるな、今が一番自由だから。


「……アラン」


 ルキフェルは目を瞑った。震える瞼の奥で穏やかな海が滲み、もう一つの記憶が重なった。


 ——生きろよ。絶対に……生き抜いてくれ。


 フランソワの声。あの日、走り去る自分の背中に向かって、声が枯れるほど叫んでいた。


 ——悪魔の名を冠しても! お前は、光だ! どんな困難があっても、お前なら乗り越えられる! もし乗り越えられなくても、寄り添える強さをお前は持ってる!


 夜風が頬を撫で、ルキフェルは息を整えた。運命、未来、結末。そんなものを考える暇なんて本当はずっとなかった。生きるのに必死だった。今、自分に何ができるか。どうすれば目の前の誰かを守れるか。どうすれば、この瞬間を越えられるか。それだけを考えてきた。


「……そうだ。俺は……ずっと、そうやって生きてきた」


 不意打ちかのように、古い記憶が浮かび上がる。まだ六歳だった頃、狭い部屋。広げられた航海図とアランの低い声。


 ——自由とは追い求めるものではない。今この瞬間をどう生きるか、それが真の自由だ。


 幼い自分は言葉の意味も分からないまま聞いていた。


 ——じゃあ、おれは記憶が無いまま生きててもいいってことだよな?

 ——俺が決めることじゃない。君の好きなように生きればいい。


 その時の自分は笑っていた。


 ——じゃあ、おれはひたすら前を向いて生きる。


 あの時は本気で思っていた。過去なんて捨てられると、全部置いていけると。ルキフェルは息を吐く。


「……でも、やっぱり過去は捨てられない」


 死んだ仲間も消えない。消せるはずがない。それでも——。ルキフェルは目を開けて海を見つめた。果ての見えない、夜の海。広すぎる。自由すぎる。だからこそ、怖い。


「たぶん、俺が言いたかったのは、『過去に囚われるな』ってことなんだろう」


 過去は消えない。傷も消えない。けれど、縛られ続ければ前が見えなくなる。だが、未来はどうだ。明日、生きている保証なんてない。今日、海に落ちれば終わりかもしれない。広すぎる海を前にすると人は立ち尽くす。どこへ向かえばいいのか、何を選べばいいのか分からなくなる。ルキフェルは苦く笑った。


「未来って、この海みたいなもんか」


 だだっ広くて、自由で、だから恐ろしい。何をどうすればいいのか分からず足が竦む。その時、これまで聞いてきた言葉たちが胸の奥で繋がった。皆、違う言葉を口にしていたはずなのに、根っこはどこか似ていた。浦風が強く吹き抜け、ルキフェルの髪を揺らしていった。


「ああ、そうか。……そういうことか」


 ルキフェルは隣にいるソフィーを見て口の端を上げた。


「そういやさっき、運命がどうこうって言ってたな。……人の生き死にも、最初から決まってるんじゃないかって。相変わらず、重たいこと考えるな」


 ルキフェルは鼻で笑って海を見た。夜の海はどこまでも広く、境界が曖昧だ。月明かりに銀色の筋だけが浮かび、果ては闇へ溶けている。体内を流れる生来の負けず嫌いの血が、紅蓮の炎となって燃え上がる。


「……じゃあ、その考えをぶち壊す話をしてやる」


 ルキフェルはソフィーに一歩近づくと月光を背に傷だらけの輪郭が淡く浮かぶ。


「運命だの、生死だの……そんなもんに縛られるな。信じなくていい。誰かが決めた未来なんて、俺は信用しない」


 怒鳴りでも説教でもない。何度も間違えて、何度も壊れて、それでも生き残ってしまった男の実感だ。ルキフェルは砂を踏みしめて思い出す。あの時も、この時も未来なんて考えていなかった。ただ、“今”しかなかった。


「決めるのは、いつだって今だ。俺がどう動くか、何を選ぶか。それだけだ。生きる意味なんてのはな、後からついてくるもんだ」


 フランソワの背中、アランの穏やかな目、甲板で泣き崩れた自分が浮かぶ。あの時は意味なんて分からなかった。ただ必死だったけれど、今なら少しだけ分かる。選んだものが残ることを。


「今、この瞬間に何を選んだか。それだけが残る。今この瞬間、自分で選べ。それで十分だ」


 ソフィーの肩が揺れる。彼女の中で何かが崩れたのをルキフェルは感じ取った。しばらくして、ソフィーは胸元へ手を当てて言う。


「でも、今この瞬間を選べって……それってさ、周りから見たら……怠けてるとか、立ち止まってるって思われるんじゃないかな」


 ルキフェルは一瞬目を瞬くも笑い、翡翠の瞳で真っ直ぐソフィーを射抜いた。


「……ああ、なるほど。そう来たか。勘違いしてる。『今を選べ』ってのは、何も考えずに楽な方へ流れろって意味じゃねえ」


 ルキフェルの脳裏に次々と仲間との時間が過る。皆、“今”から逃げなかった。痛くても苦しくても向き合った。だから、自分も今ここに立っている。


「今この瞬間に自分ができることを選んで、ちゃんと動けって話だ。しかも全力で、だ。今を選ぶってのは手を抜く免罪じゃない。逃げ道がない分、覚悟が要る。だから、迷うくらいなら今できることを選べ。それができて初めて、『選んだ』って言える」

「……楽をする話じゃ、ないのね」

「当たり前だ。楽な道なら、俺は最初から勧めねえよ」


 ルキフェルが肩の力を抜くとソフィーが頷いて言う。


「……そっか。今を選ぶって……覚悟を決めるってことなんだ」


 ルキフェルは海を見た。自分もようやく辿り着いた気がした。運命じゃない、過去でも未来への怯えでもない。今、自分で選ぶ。ソフィーがぽつりと呟く。


「……自由だね。あなた、何者かになろうとしてるんじゃないんだね。全部背負ったまま、動く人なんだ。……だから私も、私も自由でいていいんだよね」


 ソフィーは首飾りを握りしめ、涙の跡が残る顔で前を向く。


「自分で選んで、生きていい」


 ルキフェルは息を吐いて目を瞑る。


「自由、か……」


 ——ラウルとして生きるのか、ルキフェルとして生きるのか。


 全部、明日には暴かれる。ラウル・レオパードの名を、自分は捨て切れるのか。同時に、ルキフェルという名もまた自分が歩いてきた人生そのものだ。血ではなく、生き方で繋がった時間。どちらかを、今この瞬間に切り捨てることはできなかった。


 ——今は、まだいい。もう少しだけ……二つの名を持って生きればいい。答えを出すのは今じゃない。本当に決める時は、きっと明日だ。裁判の最中、自分の口で、自分の人生を選ぶ瞬間だ。


 ルキフェルはゆっくり目を開いて囁く。


「……俺も、決めた。自分の道を。選択を。もう、迷わない」


 明日、何を言われようと、何を失おうと自分で選ぶ。ソフィーがルキフェルを見ながら首を傾げる。


「ルキフェルも……悩んでたの?」


「……どうありたいか、だな。でも、もう大丈夫だ」


「……やっぱり。ルキフェルは、自由な人だ。海でも、炎でも、風でもない。今のあなたは……ただの人間。でも、すごく強い。——ありがとう、ルキフェル。あなたがそう言ってくれるなら……私、ちゃんと前を向ける」

「……いい覚悟だ」


 ルキフェルは口元を緩めると、ソフィーも声を漏らして微笑んだ。もう十分だ。ソフィーは立ち上がれる。なら、自分も進まなければならない。


「じゃあ、俺は行く。お前も、早く休め」


 ルキフェルはソフィーに背を向け、砂を踏みしめて一歩ずつ歩き出した。明日へ向かって。するとソフィーの声が飛んできた。


「ルキフェル、待って!」


 ルキフェルは足を止めて振り返ると、ソフィーが彼を見ていた。


「……覚えてる? なんで私たちが海軍で、あなたたちが海賊なのかって話」


 ルキフェルは頷いた。覚えている。トルチュ島、潮風の中で交わした言葉。「もう二度と会いたくない」と言われたことも、「お前が海軍で、俺たちが海賊なら、またどこかで巡り合う」と返したことも。ソフィーが胸に手を当てて柔らかい眼差しを向けてくる。


「私、あの時……もう二度と会いたくないって言った。でも、あなたは言ったよね。私が海軍で、あなたたちが海賊でいる限り、また巡り合うって……本当に、その通りになった。それに……マクシムの復讐を止めるために、あなたたちは戦ってくれた。私にはできなかったことを、あなたたちがやってくれた。……ありがとう。本当に」


 ルキフェルは肩をすくめると苦笑混じりに言う。


「感謝される筋合いはねぇよ。俺たちは自分の都合で動いただけだ」


 実際、その通りだ。悲しみの連鎖を断つために立ち向かったこと、全部自分たちの問題だ。だが、ソフィーは首を振って言う。


「そんなふうには思えない。あんな怪我をしてまで、マクシムを止めたのよ。そこに……覚悟がなかったなんて言わせない」


 ルキフェルは押し黙っているとソフィーが苦く笑う。


「……全部は教えてくれないんだね」


 ルキフェルの胸が痛んだ。教えられない。アントワーヌのことも、自分の出生も。命を削って守ってきたものを自分の口で壊したくなかった。ソフィーは胸元へ触れると、銀の龍と蛇とアクアマリンが月光を反射する。


「でも……これだけは伝えたい。また巡り逢えたこと……嬉しい。今この瞬間、こうして出会えたことだけは……私の中で大切な意味を持ってる。あなたがこの世界にいてくれたから……私は自由に息ができた」


 ルキフェルは目を伏せた。


「勘違いするな。俺の決断は、歩いてきた道と背負ってきたものの結果だ。信じるのは運命じゃない。今、この瞬間だ」


 そう言い残し、ルキフェルは闇の中へ歩き出した。砂浜を抜けて石畳へ戻る。もう振り返らない。足取りは不思議なほど迷いがなかった。明日へ向かって、裁判へ向かって。仲間たちが待つ場所へ向かって。ルキフェルは徒刑所の灯りへ向かい、ひたすら真っ直ぐ歩き続けた。

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