第五章④ ヤン
トゥーロン港。潮風に帆が軋み、白いカモメが空を横切っていく。
ブレストから遥々辿り着いた帆船を前に、リュウはただ立ち尽くしていた。船の周囲では東洋人たち、組織リー・ウェンの同僚たちが慌ただしく動いている。荷を運ぶ者に情報を整理する者、港の人間と話をつけている者だが、その光景はどこか遠かった。
ほんの少し前まで彼らは船内で情報共有をし、ワンからマクシミリアン・ブーケの死を、いやアントワーヌ・ド・ルノアールの死を告げられた。最初、リュウが街中にばら撒かれていた号外を読んだ時、未来ある若き士官が謀反を起こしたとしか思わなかった。どこにでもある、時代の濁流に呑まれた悲劇。そう認識していたが、ワンは言ったのだ。その男は、かつて組織リー・ウェンとも関わりがあった人間だと。アントワーヌの名を聞いた瞬間、リュウの記憶の底に沈んでいた少年の顔が浮かび上がった。
二十年前、まだゼフィランサス海賊団にいた頃、武人として用心棒のような仕事をしながら海を渡っていた時代。ルキフェルと共に現れた、あの少年。不器用で少し尖っていて、どこか目が離せなかった子供。目の前の帆船でレオンとも再会した時、彼もまた間違いなくあの少年本人だったと語っていた。
「……そうか」
リュウの呟きは波音へ掻き消えた。港では人々が忙しなく行き交い、船員たちの怒鳴り声が飛び交っている。誰かの人生が壊れ、誰かが死んでも、海は波を打ち続ける。リュウは視線を落とした。節くれ立った自分の手、鉄を打ち続けてきた手だった。
トゥーロンへ流れ着いてから、彼は鍛冶屋を営みながら暮らしてきた。情報収集はしているが、他のリー・ウェンの者たちほど積極的ではない。生活の足しとして続けているだけ。本心では、ただ静かに暮らしたかった。もう争いから遠ざかった場所で、穏やかに鉄を打っていたかった。だが、もし自分がもう少し動いていたら。もし、あの少年の行く末をもっと追っていたら、何か変わったのだろうか。リュウの胸の奥で鈍い痛みが広がっていく。港風が長い白髪を揺らした。
同僚たちが次の行動へ向けて動き続けている流れの中、リュウは取り残されたように海を見つめていた。その時、彼の背後で石畳を踏む足音が止まる。
「……ここにいましたか」
恭しく静かな声だ。リュウはゆっくりと振り返ると、ヤンが潮風に黒髪を揺らしながら両腕に包みを抱えている。
「今、大丈夫ですか?」
ヤンの問いにリュウは目を細めた。ヤン・ジュンジャー、同じ東洋の血を引く者でありながら、この男は昔から妙に礼儀正しかった。そして何より、ヤンでさえリュウには畏怖を抱いている。剣を握り続け、海賊時代を生き延び、ゼフィランサスの用心棒として海を渡った男。ヤンにとって、リュウは半ば伝説に近い存在だ。
「ああ、君か。ずいぶんと久しいね」
リュウは小声で応じると、何かを思い出したように視線を逸らした。
「そういえば、君が気にかけていたブレストの若いの。君が双剣を与えたいと言ったから、私もわざわざお気に入りを託したわけだが……その彼は元気か?」
ヤンは顔を強張らせて目を伏せ、喉を震わせて告げる。
「……その彼が昨日、国に殺された男です」
その瞬間、リュウの思考が止まった。またか、またアントワーヌだったのか。リュウの胸の奥がさらに深く沈み、指先に力が入った。彼の脳裏に過去の光景が浮かび上がる。
以前、ヤンの元へ行くためにブレストへ赴いた時のこと。マクシム隊宿舎にて、ひとり剣を振っていた灰色の髪の男。夢中になって剣を握り続ける姿、荒削りながらも必死に食らいつこうとしていた背中、汗を流しながら何度転んでも立ち上がっていた。今思えば、あれがアントワーヌだったのか。
「……そうか」
リュウは目を瞑った。少し嬉しかった。あの少年が大人になり、自分の道を歩いているのだと。がむしゃらでも目を輝かせながら剣を握っていた。あの目を確かに覚えている。もう、成長を見られないのか。港には相変わらず波の音が響いている中、ヤンはリュウを見つめて口を開く。
「実は、お願いがあって参りました」
ヤンは両腕に抱えていた包みをそっと解き、一振りの短剣を見せた。リュウは目を細めて鑑定する。軍支給品だが、長く使われていたのだろう。鞘には細かな傷が無数に刻まれ、金具の一部には錆も浮いていた。
「これは?」
「アントワーヌさんが部下としていた男の遺品になります。今の短剣の持ち主は……その部下の大切な人になっています。わたしの友人です。綺麗にしたいという彼女の想いを……叶えてあげたいのです」
ヤンは短剣へ視線を落とし、柔らかい声音で告げた。潮風が二人の衣服を揺らし、リュウは短剣をもう一度だけ一瞥して微笑む。
「ああ。それなら、お安い御用だ。私に任せなさい」
リュウの微笑みは穏やかだった。穏やかすぎるほどに。鉄を打つことだけへ意識を逃がそうとしている。ヤンの胸の奥が少しだけ痛んだ。アントワーヌの死を受け止め切れていないのだろう。だからこそ、この男は今、鉄へ触れようとしている。何かを直すことで、自分の中の喪失まで繋ぎ止めようとしている。ヤンは短剣を抱え直し、潮風の中で頭を深く下げた。
ルキフェルはテーブルの前で眉を顰めていた。執務室の机いっぱいに並べられているのは、「ブレスト襲撃事件」に関する裁判証拠品だ。海軍が押収し、そのまま自分たちと共にトゥーロンへ移送されてきた物たち。壊れた銃、血の染みが残る軍服、折れた刃。そして、細々とした私物。どれも無機質に並べられている。ルキフェルは息を吐いた。本来ならトゥーロン司令部の記録室へ回されるか、あるいは価値があるものは勘定へ出されるらしい。だから、エリオットは告げてきた。手元へ残したいものはないか、と。ルキフェルの視線がテーブルの端で止まる。二振りの片手剣。見覚えのある意匠、使い込まれた鍔。そして、柄に刻まれた細かな傷。ルキフェルは指を差した。
「……これ、返してほしい」
彼の隣に立っていたエリオットが目を瞬く。
「それは、アントワーヌの武器じゃないか」
「ああ」
「君のものではないだろう」
「それでも返してほしい」
ルキフェルは断固とした響きで言った後、エリオットは数回瞬きして困ったように笑う。
「……分かった」
ルキフェルは二振りの剣を手に取った。アントワーヌの遺品となった双剣、かつて自分が双影と名付けた武器だった。冷たく、ずっしりした重みが掌に伝わる。ルキフェルは執務室を後にし、廊下を歩きながら途中の窓から中庭を覗いた。
「……遅いな、リー・ウェン」
ルキフェルはため息を吐いて自分たちの宿泊部屋へ戻った。彼が双影を取り敢えず机の上へ置くと、コリンが目を輝かせながら近寄ってきた。
「わあ。これ、アントワーヌの剣?」
コリンが興味津々といった様子で双剣を覗き込み、ルキフェルは頷いた。
「証拠品として押収されてたらしい」
コリンはそっと剣へ触れようとして途中で手を止めた。さすがに空気を読んだのだろう。ルキフェルは窓の外を見やる。ヤンが戻ってきたら、双剣はあいつに渡そう。
夕暮れが近づく頃、トゥーロン徒刑所の廊下にヤンの足音が戻ってきた。どうやら、今夜はここへ泊まるらしい。彼は律儀にも宿泊している者たちの部屋を順番に回って挨拶をしているようだった。やがて、ルキフェルたちの部屋の扉が軽く叩かれる。
「失礼します」
扉が開き、ヤンが姿を現した。ジャスパーがベッドに転がり、マテオが窓際に寄りかかり、コリンが机に置かれた双剣をじっと眺めている。ニールは本を読んでいたが、ヤンを見るなり顔を上げた。
「お、戻ってきた」
ジャスパーが片手を上げ、ヤンは軽く会釈した。ルキフェルは椅子から立ち上がると双剣を手に取ってヤンへ差し出す。
「……これ、海軍に押収されてた、アントワーヌの剣だ。……お前が持ってた方がいい気がした」
ヤンが目を瞬いて双剣を見つめる。彼の脳裏には、先ほど港で会ったリュウの姿が浮かんでいた。もしリュウのことを話せば、ルキフェルは間違いなく彼に会いに行くだろう。だが、今は明日の裁判を控えている。余計な感情の揺れは、きっと集中を乱す。
「……ありがとうございます」
結局、ヤンは礼を述べながら双剣を受け取った。ルキフェルは特に深く追及せず、息を吐いてヤンの後ろ姿を見送った。




