第五章③ ルキフェルとマテオ
翌朝、薄曇りの空の向こうで海は鈍い銀色に揺れていた。ルキフェルは重たい瞼を擦りながら上体を起こす。隣の寝台では、ジャスパーが毛布を蹴飛ばして寝返りを打ち、さらに隣の寝台ではコリンが丸くなって眠っていた。ニールはコリンと背中合わせで寝息を立てている。眠れたのか眠れていないのか、自分でもよく分からなかった。
「……少し、海でも見てくる」
ルキフェルは寝台から足を降りて立ち上がると、適当にシャツを羽織って扉へ向かう。
「待て。オレも行く」
背後から低い声が飛び、ルキフェルが振り返るとマテオが起きていた。いつもの無愛想な顔で、壁に寄りかかって腕を組んでいる。ルキフェルは一瞬目を瞬かせた。
「マテオが先に起きるの、珍しいな」
「悪いか」
「いいや」
二人は並んで徒刑所を出た。海辺沿いの道は朝の潮風で冷え、石畳の隙間に残った夜露が光を反射し、遠くでは漁船の鐘が鳴っている。裁判所へ続く海岸線を二人はふらふらと歩いた。しばらくは波音が会話の代わり、やがてマテオが不機嫌そうに口を開く。
「……一昨日な。廊下歩いてたら、あのジョルジュとかいうガキに捕まった」
「ジョルジュ?」
「ブレストでオレに尻尾振ってた元マクシミリアン隊の奴だよ」
ああ、とルキフェルは思い出したように鼻を鳴らした。マテオは舌打ちして言い放つ。
「で、しばらく付き纏われた。どこ行くんですかだの、銃の手入れどうしてるんですかだの……延々と」
「気に入られてるな」
「うるせえ」
マテオは露骨に顔を顰め、ルキフェルは口元を緩める。
「それで? 銃のお師匠さんは弟子入りを認めたのか」
「……認めてねーよ。てか、向こうが勝手についてくるだけだし。オレは一言も弟子にするなんて言ってねえ」
マテオの眉間に深い皺が寄り、舌打ち混じりに吐き捨てた。ブレストでのやり取りを思い出したらしい、綺麗な顔が朝から崩れている。ルキフェルは空を見上げて呟く。
「信頼してた上官を失ったばかりだ。……あんま邪険にするなよ」
波音が一度、二人の間を通り抜けた。マテオは黙ったまま歩いていたが、やがて小さく息を吐く。
「……それもそうか」
潮風が吹き抜け、海鳥の鳴き声が遠くで滲んだ。海岸線を歩き続けるうちに、白い石造りの裁判所が視界の先に見え始める。朝靄の向こうに浮かぶ石の建物はどこか現実感が薄い。まるで、自分たちとは別の世界に建っているみたいだった。その時、マテオが突然足を止め、海辺の先に突き出た木製の桟橋を顎で示す。
「おし、こっからあそこまでダッシュな」
「はぁ?」
ルキフェルが怪訝そうに目を向けると、マテオは得意そうに鼻を鳴らした。
「負けた方、昼飯のパン譲れ」
「なんでだよ」
「細けぇこと気にすんな。行くぞ」
「おい待て!」
マテオが勝手に走り出し、ルキフェルも反射的に駆け出す。石畳を蹴る音、潮風、肺を刺す冷たい空気。二人の足音が真っ直ぐに駆け抜けていった。桟橋へ飛び込むように辿り着いた瞬間、二人とも息を切らしてほぼ同時に木柵に寄りかかる。
「……っは、オレの勝ち」
「いや……俺だろ……!」
「絶対オレの方が先だった」
「靴半分くらい俺が前に出てた」
「出てねぇ」
「出てたっ!」
しばらく互いに睨み合ったあと、マテオがふっと鼻で笑う。
「……少しは気分晴れたか?」
ルキフェルは乱れた呼吸のまま顔を顰めた。
「……疲れた。朝から走ると風が冷たくて喉が裂ける」
口では文句を言っているが、表情はさっきより少しだけ軽くなっている。マテオは海風に髪を揺らしながら言う。
「たまには運動しろ。てか最近、太極拳やってねぇじゃん。悩んだ時、前はよくやってたろ」
ルキフェルは息を整えながら海へ視線を向けた。
「……たしかに、あれは自分自身と向き合える。けど、今の俺が悩んでるのは……そもそも、自分が誰として生きたいのかなんだ。ルキフェルなのか、ラウルなのか……克己とはまた違う。どこに自我があるのか、自分でも分からない」
波が桟橋へ打ち寄せる中、マテオは生真面目な顔でルキフェルの横顔を見つめた。
「……なるほど。それは深刻だな。でも、そんなのすぐ答え出る問いじゃねぇだろ。生きながら決めりゃいいんだよ、そういうのは」
ルキフェルは目を見張ると、マテオはそこで話を切るようにグッと背伸びした。
「よし。次は三本ダッシュな」
「なぜ!?」
ルキフェルが声を荒げ、マテオはニヤリともせず再び駆け出した。
「追いついてみろ」
「いや意味わからん……!」
ルキフェルは呆れながらも、結局マテオの背を追いかける。朝の海岸線に、再び二人分の足音が響き始めた。
裁判所から折り返して徒刑所へ戻る頃、二人ともへばっていた。息は上がって脚は重く、喉は焼けるように痛い。
「三本はやりすぎ……」
ルキフェルが壁に手をつきながら呻くと、マテオは肩で息をしつつも平然とした顔を作った。
「まだいける」
「嘘つけ、声死んでるぞ」
そんなやり取りをしているうちに、空模様が少しずつ変わり始める。どんよりと垂れ込めていた曇り空の切れ間から、淡い光が差し込んで灰色の雲が次第に流れ、切れ間の向こうから青空が覗いた。海風が吹き抜け、ルキフェルは身震いして足元を見ると、靴もズボンの裾も砂まみれで思わずぼやく。
「……せめて靴だけでもなんとかしよう」
二人は水場を探して徒刑所の敷地内を彷徨い始めた時、中庭の方から数人分の足音が近づいてくる。ルキフェルは音の方向に視線を向けると、旧マクシム隊の四人と鉢合わせした。一瞬空気が止まり、ジョルジュがマテオを見つけた瞬間にパアッと顔を輝かせた。
「あっ」
今にも駆け寄ってきそうな勢いだったが、ジョルジュの隣にいるシャルルたちは露骨に気まずそうだ。シャルルは視線を逸らし、リゼーヌもどこか落ち着かなげに目を伏せる。そして、褐色肌の自分たちより少し年上に見える女——アニータ——は、ルキフェルとマテオを視界に入れた瞬間に顔を顰めて背ける。ルキフェルは彼女の反応を見て目を細める。
……ブレストでの一件だけじゃない。もっと別の何かを、この女は抱えている。
まあ、当然かもしれない。シャルルは、あの嵐の日にコリンを撃った。しかも架空の海賊の掟なんて嘘まで使い、自分とソフィーを混乱に陥れた。
ジョルジュだって自分が散々痛めつけた相手だ。リゼーヌはあの場にはまだいなかったはずだが、それでも海賊を警戒する理由には十分すぎる。そして、アニータに至っては仲間を傷つけた張本人たちを前にしているのだ、敵意を向ける方が自然だ。
ルキフェルは無意識に息を止めていたことに気づき、こっそり吐き出す。彼らの頭上で青空がゆっくりと広がっていった。マテオがちらりとジョルジュを見る。
——なんか言え。
当のジョルジュはニコニコと笑って首を傾げるだけ。どうやら、彼の認識では「マテオがめちゃくちゃ見てくれている」ぐらいの認識らしい。
——ダメだ、こいつ。
ルキフェルは半ば呆れながら適当に立ち去るかと思い始めた時、意外にも先に切り出したのはリゼーヌだった。
「……靴、すごい汚れてますね」
彼女はルキフェルとマテオのブーツを見ていた。おそらく、気まずさから目を逸らした先で見つけたのだろう。ルキフェルは一瞬肩を跳ね、妙に掠れた声になる。
「あ、ああ……水ある場所探してて……」
ジョルジュがぱっと顔を上げ、勢いよく自分たちが歩いてきた方向を指差す。
「あっ、それならこの先にちっちゃい噴水あります! あそこ曲がってすぐです!」
「……そうか」
ルキフェルが頷くと、シャルルが小声で告げる。
「……では、ぼくたちはこれで」
シャルルは二人の横を通り過ぎていく。すれ違いざま、ルキフェルと刹那的に目が合うも、シャルルはすぐに新品の片眼鏡へ手を添え、位置をかけ直すふりで誤魔化した。リゼーヌは小さく頭を下げるとシャルルの後を追い、アニータはルキフェルとマテオへ一瞥すら寄越さず、足早に通り過ぎていった。最後に残ったジョルジュが、マテオとすれ違いざまに期待いっぱいの顔で言う。
「あの、銃の修行のこと考えてくれましたか?」
マテオは露骨に顔を顰め、深いため息のあと舌打ち混じりに吐き捨てる。
「……はぁ、勝手にしろ」
一秒後、ジョルジュは破顔した。
「えっ、じゃあ正式に弟子入りってことで!?」
「違——」
「ありがとうございます師匠!!」
最後まで聞かず、ジョルジュは跳ねるような足取りで仲間三人を追いかけていく。
「おい待て!!」
マテオの怒鳴り声が中庭に響いた。ジョルジュの後ろ姿を見ながら、ルキフェルは思う。
……あれ、完全に飼い犬だな。今にも尻尾と耳が生えてきそうだ。
二人が中庭の奥へ進むと、ジョルジュの言っていた小さな噴水はすぐに見つかった。石造りの円形噴水、中央では魚の彫像が口から細く水を吐き出している。二人は近くの縁石へ腰を下ろし、編み上げブーツを脱いだ。砂まみれになった革を軽く水で流していく。冷たい水が指先に触れ、しばらく靴を洗っていた時、穏やかな声が二人の背後から降ってきた。
「……おや」
ルキフェルが振り返ると、そこに立っていたのはヤンだった。あの事件以来、まともに顔を合わせていない。相変わらず整った和装姿のまま、ヤンは二人に歩み寄ってくる。
「……同僚からお聞きしました。無事に見送ったと」
「ああ」
風が噴水の水面を揺らし、ヤンは空を見上げて続ける。
「それから……裁判のことも。明日、組織からは代表して同僚が出席されます」
「……お前じゃないのか」
ルキフェルが首を傾げる。ヤンは首を横へ振って苦笑し、徒刑所の建物を見つめた。
「残念ながら。わたしは元部隊員の皆さまを放っておけないので……あの方の置き土産みたいなものですから」
ルキフェルは息を吐いて「わかった」とだけ返す。彼の隣でマテオがちょうど靴紐を結び終えた。
「うし、お待たせ」
「ああ、行こうか」
二人は立ち上がってヤンに軽く手を挙げると中庭を後にした。二人の背後では噴水の水音が変わらず響いている。ルキフェルとマテオの背中が中庭の向こうへ消えていくと、ヤンは両腕の中に抱えている小さな包みを見下ろした。布越しにも分かる細長い感触に、指先が力を帯びる。中にあるのは軍支給の短剣、グウェナエルの遺品だった。——ソフィーから託されたもの。ヤンは息を吐くと中庭の隅へ向かった。そこには一頭の黒馬が繋がれている。艶のある黒毛、静かな呼吸、鋭い瞳。ヤンが近づくと黒馬ヘイロンは鼻を鳴らした。
「待たせましたね」
ヤンはヘイロンの首筋を軽く撫で、手綱を取ると徒刑所の門へ向かった。この場所には時折、武器取引や修繕を理由に鍛治職の東洋人が出入りしている。だから、関係者たちは東洋衣装だけで察する。門番はヤンの姿を見ると門を開いた。重い鉄門が軋み、外へ出ると潮の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
「行きますよ」
ヤンはヘイロンに跨ると、ヘイロンは石畳を蹴って駆け出した。蹄の音がトゥーロンの街へ響き渡る。風を裂きながら、ヤンとヘイロンは街路を駆け抜けていった。向かう先はひとつ、トゥーロン担当のリー・ウェンが住まう場所。港町の片隅にある、小さな鍛冶屋だ。鍛冶屋の前で、ヤンは手綱を引き、ヘイロンは低く鼻を鳴らして緩やかに足を止める。ヤンは包みを抱え直すと店の扉へ手をかけた。鈴が控えめに鳴る。店内には人の気配がない。薄暗い店の奥には鍛え途中の刃や鉄材が並び、火の消えた炉だけが静かに残されていた。
「失礼しますよ」
ヤンはカウンター奥へ進んで暖簾をそっと揺らす。奥に広がっていたのは、東の島国の様式を模した空間だった。左手には鍛冶場。煤けた炉と鉄槌、整然と並ぶ工具。右手側に簡素な座敷造りの和室が続いている。畳の匂いが微かに鉄の熱気へ混じっていた。手前の石床には三人分の靴がきちんと並べられている。座敷の上でティエンがごろりと寝そべり、ヤンの姿を見つけると片手を上げて気の抜けた声を出す。
「うーっす」
一方、ヴィクトルとグレゴワールは慣れない胡座に苦戦しており、ぎこちない姿勢で妙に神妙な顔をしている。どうやらこの三人、宿代を浮かせるために鍛冶屋に半ば住み着く気らしい。ヤンは周囲を見回しながら問いかける。
「……家主はどこへ?」
「裏口から外に出てったよー」
ティエンが寝返りを打ちながら気怠げに答え、ヤンは鍛冶場のさらに奥にある扉へ目を向けた。すぐに歩み寄って開くと、扉の向こうに細い裏通りが続いている。あの男が向かう先など察しはつく、恐らく港だ。ヤンは包みを抱え直して裏路地の向こうへ消えていった。




