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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第五章「決めるのは、いつだって今だ」
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第五章① ルキフェル

 広場には死の余韻が沈殿していた。


 冷えた鉄の匂い、処刑台の木材へ染み込んだ赤黒い痕跡。風が吹くたび、群衆のざわめきが波みたいに揺れた。

 来賓席で、ルキフェルは無言で処刑台を見つめていた。翡翠の瞳はもう何も映していないように見える。彼の隣でエリオットも口を閉ざしていたが、二人の間に言葉はなく風が吹き抜けていった。


 やがて、短い号令が響いて再び鎖の音が石畳を渡る。リラとダヴィットは並んで歩いていた。鎖に繋がれているのに、不思議と歩みは穏やかだ。血の繋がりなんてない、それでも二人が家族だったことはもう誰にも否定できなかった。

 来賓席の端、ソフィーが唇を強く噛み締めている。目元は赤く、頬には乾ききらない涙の跡が残っていた。それでも、彼女は目を逸らさない。震える指で椅子の肘掛けを掴み、真っ直ぐに処刑台を見つめている。

 彼女の姿を横目で見た瞬間、ルキフェルは昨夜の牢獄を思い出していた。

 徒刑所の上階、海の見えるバルコニーにはジャスパーたちの姿もあった。鉄柵へ寄りかかるジャスパーは赤髪を風に揺らし、マテオは声を押し殺しながら広場を見下ろしている。コリンは細い指で柵を掴んで唇を引き結び、ニールは十字を切った。

 広場の隅では、監視兵に囲まれた旧マクシム隊の生存者たちが立っている。シャルルは唇を噛み、ペネロペは両腕を強く抱き締め、リゼーヌは涙を零しながら前を見続けている。

 少し離れた石段には、イヴォンが腰を下ろしていた。杖を握る手には力が入っている。彼の隣にいるレオンは帽子を取り、ダミアンが耐え切れず俯いている。


 やがてリラの名が呼ばれ、処刑台へ上がる彼女の背をダヴィットは真っ直ぐ見つめていた。ルキフェルには、なぜか分かってしまった。あれは別れの顔じゃない、家族の顔だった。刃が振り下ろされ、短い悲鳴とざわめき、風が巻き起こる。ルキフェルは瞬きひとつせず光景を見届けた。

 続いて、ダヴィットが台へ上がった時、来賓席の端でソフィーの肩が震える。どれほど苦しいことなのか、ルキフェルには分かる。それでも、彼女は逃げなかった。ダヴィットが空を見上げる横顔は不思議なほど穏やかだった。


 ——もう一度、姉さんと一緒に生きる。


 そんな願いを、きっと最後まで抱いていたのだろう。刃が落ち、群衆がどよめく。波の音が遠くで響いていた。処刑が終わり、人々が広場を離れても歓声とも悲鳴ともつかない騒めきは、ルキフェルの耳の奥に残り続けていた。石畳を踏む靴音がやけに遠く聞こえ、ルキフェルは振り返らず来賓席を立ち去った。広場も処刑台も血に染まった石も、もう視界には入っていない。それでも、瞼の裏には焼き付いていた。刃が落ちる瞬間の幼馴染の横顔、最期まで崩れなかった涼やかな目。


 風が吹いて潮の匂いが混じり始め、ルキフェルはいつの間にか徒刑所の裏手まで歩いてきていた。切り立った石壁の向こうから波音が聞こえる。港の喧騒から少し外れた、小さな海岸線だ。砂浜へ続く石階段が見え、ルキフェルは数段降りたところで、力が抜けるように腰を下ろして肘を膝に預け、深く項垂れる。


 ——アントワーヌは死んだ。


 処刑台の上で、最後まで目を逸らさず見届けた。あいつも、自分も。それなのに、今でもどこかから「ラウル」と声が飛んできそうな気がしてしまう。ルキフェルの指先がズボンのポケットに触れた。布越しに伝わる硬い感触に手を入れて取り出すと、陽光を受けたトルコ石が掌の上で淡く光る。かつて、復讐の誓いだったもの。今はもうアントワーヌの遺品だ。ルキフェルはイヤリングをじっと見つめて掠れた声を漏らす。


「……託しやがって」


 死ぬ直前まで、あいつはソフィーのことを考えていた。兄だと名乗ることもできず、真実も明かせず、それでも生きていてほしいと願い続けていた。


 ——おれの代わりに、あの子を守ってくれると嬉しいな。


 脳裏に蘇る声にルキフェルは目を閉じた。波が砕け、乾いた風が髪を揺らす音が妙に優しかった。


「……ったく」


 ベルナルド、フランソワ、アラン、そしてアントワーヌ。失ってばかりだ。守れなかったものばかりが積み重なっていく。それでも、アントワーヌは最期に自分へ何かを残した。ソフィーを想う気持ち、生きていてほしいという願い。そして、誰かを愛していた証。ルキフェルはゆっくりと顔を上げた。水平線の向こうで海が淡く光っている。世界は残酷なほど続いていく。


「……できること、か」


 答えなんてまだ分からない。けれど、あいつに託されたものがある以上、このまま立ち止まるわけにはいかない。ルキフェルはイヤリングを握り込んで波の音を聞いていた。


「……そうだよな」


 終わったわけじゃない。アントワーヌは死んだ。リラもダヴィットも、もう戻らない。それでも世界は進むなら、自分も進まなければいけない。

 ルキフェルは立ち上がってイヤリングをズボンのポケットへ戻し、石階段を上がって海岸線を後にした。潮風が背を押し、ルキフェルは徒刑所へ続く道を歩いていく。

 悲しみだけじゃない。——試される。世界が続いていくということは、自分もまたその続きを生きなければならないということだ。エリオット・レオパードの息子として、ラウルとして、ルキフェルとして。血筋問題も何ひとつ終わっていない。ルキフェルは目を伏せて息を吐いた。


「逃げられねぇか」


 独り言は誰にも届かないまま石壁へ溶けていく。ルキフェルは徒刑所の廊下へ足を踏み入れた。窓の外から差し込む午後の光が長く床へ伸び、白い石壁を淡く照らしている。重かった足取りが一定のリズムを刻み始め、ルキフェルのブーツの音が床に反響した。

 やがて、ルキフェルはエリオットの執務室前で足を止めると、分厚い扉の向こうから微かに声が漏れ聞こえていた。二人分、低く落ち着いた男の声と、もうひとつ聞き覚えのある静かな声。ルキフェルは一瞬目を細め、扉の向こうへ意識を向けた。扉の向こうから聞こえてくる声は、途切れ途切れだが、その静かな調子だけで分かる。ソフィーだ。


「……隊員たちの処刑だが、予定より延期することになった。本来なら、明日から始まるはずだったが……急ぎ対処すべき案件が入った」


 エリオットの低い声にルキフェルは目を伏せる。延期、助かるわけじゃない。ただ、終わりが少し先へ伸びただけ。それでも、生きている。そんな事実だけで人は希望を捨てきれなくなる。皮肉だな、とルキフェルは思った。やがて、椅子が引かれる音がしてルキフェルは扉を叩く。


「——失礼」


 ルキフェルは返事を待たず中へ入った。室内には重たい沈黙が漂っている。執務机の向こうに座るエリオット、その前に立つソフィー。彼女の目元は赤かったが、もう涙は流れていない。ルキフェルは視線を向けなかった。向ければ、きっと処刑台の光景がまた脳裏に蘇る。だから、そのまま真っ直ぐエリオットの方へ歩いていった。エリオットが一瞬ルキフェルを見るが、ソフィーへ向けて重々しく言った。


「今日は、もう休め」

「……はい」


 ルキフェルのすぐ横をソフィーが通り過ぎていった。かすかに潮風の残り香がしたが、二人とも立ち止まらない。言葉もなく互いに顔も向けずにすれ違う。ルキフェルがエリオットの傍まで歩み寄ると、背後で扉が開いて廊下の光が室内へ差し込んだ。ソフィーは室内をチラリと見てから扉を閉め、エリオットはルキフェルを見ながら机上の書類を閉じた。


「……座れ」


 ルキフェルは椅子へ視線を落とした。窓の外から聞こえる波音が遠く響いている。ルキフェルは椅子に腰を下ろし、エリオットを見つめて呟く。


「……あいつ、逝ってしまった」


 エリオットは目を伏せて言う。


「ああ、元はと言えば……私のせいだ。私が親友を殺した」


 その瞬間、ルキフェルの脳裏に浮かんだのは黄金の瞳だった。風みたいに笑う男、ゼフィランサス。ルキフェルは迷わず首を横に振った。


「違う。父さんは悪くない。家族を殺されて……返してほしかっただけだ」


 かつて自分も復讐を抱えて生きたからこそ分かってしまう。奪われた者は、どうしたって戻らないものを求めてしまう。どれだけ醜くても、どれだけ破滅へ向かっていても。

 ルキフェルは俯くと額に手を当てて弱々しい声で呟く。


「もう懲り懲りだ、終わりにしたい」

「……そうだな」


 窓の外で風が鳴り、エリオットは机上の書類へ視線を落として意を決したように口を開く。


「ラウル。王は帰還された。……血筋問題に関する裁判の件だが、ダラス家の当主が審議役として出席することになった」


 ルキフェルが顔を上げて目を見開く。一瞬、時間が止まった。


「……は、ダラス家……?」

「君も知っているのか」

「……あいつら、この街に来てるのか?」

「そう、その当主が来ている」


 ルキフェルの喉の奥にじわじわと熱が篭っていく。——ダラス家、すべての因縁の根。ジャスパーやマテオの人生を壊し、エドガーを歪め、ゼフィランサスから家族を奪い、アントワーヌの人生すら狂わせた一族。ルキフェルの胸の奥がぐらりと揺れ、頭の奥が焼けるみたいに熱くなった。怒りが黒い濁流みたいに込み上げ、獣が牙を剥いて爪を研ぐ。


 ——殺したい。


「……っ」


 ルキフェルは我に帰って息を詰まらせた。


 ——違う。心の奥底に沈んでいた喪失感と悲しみを、怒りで覆い隠そうとしていただけだ。まただ。また獣が目を覚まそうとしている。アントワーヌを失った痛みも、ゼフィランサスへの想いも、全部を怒りに変えようとしている。


「……はぁ……」


 ——落ち着け。


 ルキフェルは深く息を吐いて胸の内を整える。太腿の上で握り締めた拳が震えていた。エリオットはじっと息子を見つめている。


「……ダラス家以外にも、上流貴族の何人かが審議を見るとのことだ。裁判という形式ではあるが、実際には事実確認に近い。ラウル、お前のこれまでの人生の記憶と、残されている記録に齟齬がないかを確認する場になる」


 エリオットは机上の書類へ指先を置きながら続ける。


「君が今まで見てきたこと。誰と生き、何を知ったのか。……そこが問われる。君だけじゃない。多くの証言が必要だ。仲間たちにも参加してもらうことになる。何を話すべきか、整理しておきなさい」


 ルキフェルはしばらく黙っていたが、やがて皮肉とも呆れともつかない笑みを浮かべる。


「ああ、もう言いたいことだらけだよ。……直接対決だな」


 ルキフェルの脳裏に浮かぶのは、ダラス家の名前。どこから話すべきか。何を、どこまで証明できるのか。自分の記憶と仲間たちの証言、残された記録。ルキフェルの頭の中で断片だった情報が少しずつ組み上がり、胸の奥で消えかけていた感情が灯った。もし自分の血筋を証明できたなら、もし真実を世間へ突きつけられたなら……海賊、怪物、呪われた子。そんな目で見られてきた自分たちの立場を少しは変えられるかもしれない。淡い、あまりにも淡い希望だ。それでも、捨てきれない。

 エリオットはルキフェルを見つめながら厳かに告げる。


「裁判は明後日だ。それまでは他の隊員たちの処刑も延期される。……これは単なる海賊の裁判じゃない。貴族社会そのものを揺るがしかねない重要案件だと、上流階級は見做している。だからこそ……自分がどう生きたいのか、しっかり答えを見つけなさい」


 ルキフェルの顔が凍りつき、頭の中で積み上げていた情報を崩した。


 ——自分が誰として生きたいのか。


 情報なら山ほどある。語れる過去も暴ける罪も、証明したい真実も。だが、自分の生き方への問いは、未だに答えが見つからない。ラウルなのか、ルキフェルなのか。あるいは、どちらでもないのか。ルキフェルは目を伏せて唇を噛んだ。


「……わかったよ、父さん」


 エリオットは目を細め、ルキフェルは椅子から立ち上がると執務室を後にした。背後で扉が重々しく閉まる。廊下の空気は少し冷たかった。ルキフェルは自分たちの部屋にたどり着いたが、室内には誰もいない。


「……?」


 静まり返った部屋を見回し、ルキフェルは眉を寄せた。ジャスパーもニールも、コリンもマテオも気配がない。数秒考えたあと、ルキフェルは視線を上へ向ける。


「……屋上かな」


 ルキフェルは再び歩き出した。屋上へ続く廊下を早足でひたすらに進んでいく。

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