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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】9・10巻「完結編」  作者: セキユズル
第四章「——君が生きてる限り、おれの心は自由だ」
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第四章⑥ アントワーヌとルキフェル

 その後、法廷関係者の手によって最期の朝食と処刑服が運ばれた。


 アントワーヌの希望により、パンと豆のスープがやってきた。アントワーヌは朝食を平らげると、黒い処刑服を纏って石床に腰を下ろした。黒い処刑服が体のラインに沿って肌に密着する。左耳は軽くてスースーした。昨夜、自分を縛り続けた呪いにも似た品物を最後に幼馴染へ託したから。あれでよかったんだろうか。分からない。ただ、不思議と後悔は少なかった。


 重い扉が開き、アントワーヌは反射的に顔を上げた瞬間、思わず呼吸を止めた。

 そこに立っていたのは、ソフィーだった。朝の光を背負った彼女は、まるで遠い昔の幻みたいだ。


「……ソフィー」


 アントワーヌがつい名を溢すと、彼女はアントワーヌの傍まで来て立ち止まる。


「……会いに来ました」


 ソフィーの声を聞いただけで、アントワーヌの胸の奥がひどく静かになった。嬉しい、もう会えないかもしれないと覚悟していたから。

 ソフィーは最初に謝っていた。裁判の時のこと、感情的になったこと、理解しようとしていたはずなのに責めてしまったこと。アントワーヌは首を振った。違う、謝るべきなのは自分だ。

 嵐の日、彼女を突き飛ばし、守るつもりで傷つけた。剣を向けて閉じ込めたこと、グウェナエルを死なせてしまったこと。口にするたび胸の奥が軋む。それでも、ソフィーは責めなかった。全部覚えていると言いながら、それでも今さら責めるつもりはないと、真っ直ぐアントワーヌを見返してくる。


 ——強くなったな。


 彼女は、もう自分が守るだけの存在ではない。自分で選び、自分で立ち、自分で痛みを引き受けながらここまで来た。その姿がどうしようもなく誇らしかった。


 それから、彼女が隣に座って海上実習の話になった時、アントワーヌは思わず笑っていた。あの時の彼女は本当に危なっかしかった。なのに、留年までして軍医を目指したと聞いた時は正直理解できなかった。だが、今なら分かる。あれが彼女の答えだった。


「自分の力で進む道を決めたこと。おれは……誇りに思ってる」


 アントワーヌが実際に言葉にすると胸の奥が少し軽くなった。それから、ソフィーはグウェナエルの話を始めた。最期まで信念を曲げず、約束を守ろうとしていたこと、満身創痍でも帰ると言っていたこと。アントワーヌはつい瞼を閉じた。


 ——ああ、あいつらしい。


 悔しさは消えないが、彼が最後まで彼自身であったことにどこか救われてもいた。そして、ソフィーが少しだけ悪戯っぽい顔をする。


「聞いてしまっても後悔しませんか。彼の秘密です」


 ソフィーが自分に耳を寄せた瞬間、アントワーヌは頭が真っ白になった。宇宙の真理に触れた猫みたいな顔とは、きっとこういう時の顔のことを言うのだろう。グウェナエルが最期に残した言葉、ソフィーにだけ託した想いを聞いた瞬間、胸の奥に何かが落ちた。


「……あいつ……」


 そこから先は暫く言葉にならなかったが、嬉しかった。あいつはちゃんと想いを伝えられたのだと知れて。そして、ソフィーが受け取っていたと知れて。


「……ありがとう、ソフィー。……教えてくれて」


 本心だ、少しだけ救われた気がした。やがて監視官の足音が近づき、空気が変わる。


「……時間だ。準備しろ」


 ——終わりが来た。


 アントワーヌは意を決して立ち上がる。怖くないわけじゃない。喉は乾いているし、心臓だってうるさいくらい鳴っている。それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。——ここまで来たのだから。アントワーヌが歩き出そうとした時、震えた声が彼の背を引き留める。


「隊長——!」


 アントワーヌが振り返った瞬間、ソフィーが飛び込むように抱きついてくる。アントワーヌは目を見開くも彼女の背に腕を回した。


「……ソフィー」

「……無理でした。行くのを、黙って見てるなんて……」


 自分の肩に顔を埋める彼女の体温がやけに温かい。ああ、まだ自分は生きている。こんなにも誰かの温もりを感じられる。ルキフェルに言われた言葉が脳裏に浮かんだ。後悔する前に気持ちは伝えたほうがいい、と。だから、今度は逃げなかった。


「ソフィー……ひとつだけ頼みがある。……生きてくれ。それだけは、絶対だ」


 これは命令じゃない、祈りだ。どうか、どうかこの子だけは自分みたいにならないでくれ。ソフィーが泣きながら笑いかけてくる。


「私は、隊長に生きてほしかったです。もっと……世界を見てほしかった」


 胸が痛む、優しすぎる言葉が酒精のように染みてくる。アントワーヌは抱きしめる力を強め、心を決めて打ち明ける。


「あの嵐の日、君を突き飛ばしたのは巻き込みたくなかったからだ。君には……海軍じゃなくても、生きられる未来があるって思いたかった」

「だったら……そう言ってください」

「……悪かった。ほんとに……すまない」


 ようやく言えた、真実の半分でしかないけど。失いたくなかった。本当は、ずっと。ソフィーは潤んだ目でアントワーヌの瞳を真っ直ぐ見つめる。


「……ありがとう。隊長……じゃなくて、マクシミリアン」


 アントワーヌの心が音を立てて崩れた。その名をもう一度呼んでもらえる日が来るなんて思わなかった。それと同時に、もう呼べない名が胸の奥へ沈殿していく。


「……『マクシム』でいい」

「……うん。マクシム」


 ——ああ、でも……自分の人生にも幸福はあったと初めて思えた。


 アントワーヌはそっと彼女の前髪を払って額に唇を落とした。


「……ありがとう、ソフィー」


 君が生きていてくれるなら、どこかで笑っていてくれるなら。それだけで自分は最後まで歩ける。


「——君が生きてる限り、おれの心は自由だ」


 監視官がやってきて二人を引き離した。


「マクシム!」

「ソフィー!」


 腕を掴まれ、距離が生まれる。アントワーヌは廊下に押し出されると、振り返らず言う。


「……一人で歩ける」


 監査官が彼を掴む手を緩め、アントワーヌは前を向いた。振り返れば、きっと歩けなくなる。冷たい石床、響く足音、死へ向かう道。それでも、胸の奥には温もりが残っていた。


 ——ありがとう。


 心の中で呟きながら、アントワーヌは意を決したような面持ちで歩き出す。




 死の匂いが立ち込める広場。処刑台の上に立つアントワーヌを、ルキフェルは来賓席から遠目に見つめていた。隣にはエリオットがいるが、今のルキフェルには彼の存在すら遠かった。群衆のざわめきと怒号、処刑宣告を読み上げる声。朝の風に揺れる旗の音が、薄い膜を一枚隔てた向こう側の出来事みたいに聞こえる。

 ルキフェルは処刑台の男から目を逸らさなかった。黒い制服、鎖に繋がれた両手、真っ直ぐ伸びた背筋。逃げも縋りもしていない。あの男は最後まで、自分の足で立っていた。宣告官の声が広場へ響き渡る。


「——国家反逆罪により、死刑に処す!」


 群衆が揺れて罵声が飛んだ。歓声も混じり、泣いている者もいる。それでも、アントワーヌはまるで何も聞こえていないみたいに静謐だ。いや違う、とルキフェルは思う。あいつは今、たったひとつしか見えていない。ルキフェルの視線が横に逸れる。来賓席の端、ソフィーが唇を噛んで涙を堪え、それでも目を逸らさず立っている。彼女の姿を見つけた瞬間、アントワーヌの表情がほんの少しだけ崩れた。泣きそうなのに、ひどく穏やかな彼の顔を見た瞬間、ルキフェルの胸の奥に何かが落ちた。


 ——ああ、兄だと名乗れなかったか。


 それでも、よかったのだ。赦されなくても、真実が届かなくても。あの女が生きていてくれれば、笑っていてくれれば。誰かに愛され、誰かを愛したまま、これから先を歩いてくれれば。それだけで。それだけであの男は救われてしまった。ルキフェルはつい奥歯を噛み締める。脳裏に浮かぶのは、あの黄金の瞳だ。


「愛を知らないお前が、誰かを愛せるはずがない」


 かつて呪いみたいに吐き捨てられた言葉。けれど、違う。違った。

 アントワーヌは、誰よりも人を愛していた。不器用で、歪で、傷つけることしかできなかっただけで。それでも、あれは間違いなく愛だった。


 処刑台の上で、アントワーヌが緩やかに笑う。彼の視線の先にいるのが誰なのか、もう考えるまでもない。やがて、刃がゆっくりと持ち上げられた。群衆の熱が高まる。歓声と怒号とざわめき、世界が断頭台の一点へ収束していく。それでも、ルキフェルは目を逸らさなかった。見届けると決めた、あの牢の中で宣言したのは自分だ。だから、最期まで見届けなければならない。


 アントワーヌが息を引き取るように瞼を閉じた瞬間、一陣の風が吹いた。海から流れ込んだ風が一斉に旗を鳴らし、ルキフェルの暗褐色の髪を大きく攫っていき、視界の端で空が白く瞬いた。


 ——刃が落ちる。


 次の瞬間、世界から音が消えた。風も群衆も歓声も、何も聞こえない。髪が靡き、ルキフェルは瞳を揺らして処刑台を見つめ続けている。やがて、遠くから少しずつ世界の音が戻ってきた。ざわめきと悲鳴、そして誰かの泣き声が風に乗って聴こえてくる。


 世界が次第に現実を取り戻す反面、ルキフェルの翡翠の瞳は少しずつ光を失っていった。

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