第四章⑤ アントワーヌ
死刑執行の前日。昼を過ぎた頃、ルキフェルはアルフォンスを呼び止めた。
「頼みがある。俺たちの部屋に父さんを呼んできてほしい」
アルフォンスは一瞬目を細めたが、特に問い返すことはしなかった。
「承知しました」
アルフォンスが一礼して廊下の向こうへ去り、ルキフェルは踵を返して部屋へ戻った。室内で四人の仲間に横目で見られながら、ルキフェルはウロウロと彷徨っているとノック音が響いた。
「どうぞ」
ルキフェルが即座に声をかけると、エリオットが部屋へ入ってきた。ここ数日の疲労が顔に滲んでいる。軍服も姿勢も崩れていないが、目の奥がひどく沈んでいた。
「……何だ」
ルキフェルはエリオットを正面に歩み寄ると頭を下げ、エリオットも仲間たちも目を見張った。ルキフェルは床を見つめたまま言葉を紡いでいく。
「頼む。他の隊員たちの処刑だけど……俺の裁判が終わるまでは自由にしてほしい。せめて、人としての自由は保証してやってくれ。——じゃないと、俺も牢に入る」
エリオットは目の前の青年をじっと見て、やがて深く長いため息を吐いた。
「……しょうがない。昼間だけだ」
ルキフェルが反射的に顔を上げ、エリオットは目を逸らして続ける。
「夜は必ず戻ってもらう。騒ぎを起こしたら即刻中止だ」
「……分かった。ありがとう」
ルキフェルは顔の緊張を緩ませるも、エリオットはすぐ背を向けて足を引き摺るように部屋を出ていった。
一方、アントワーヌは面会室にいた。簡素な机に硬い椅子、小窓から差し込む灰色の光。彼の向かいにはリラとダヴィットが座っていた。アントワーヌは二人を見つめながら息を吐く。
「……本当に、これでよかったのか」
彼の問いにダヴィットは苦笑した。
「ここまで来て変更しろ、とか勘弁してくださいよ。今さら『やっぱ生きます』とか言うのも困りますし」
「おい」
アントワーヌが眉を寄せるとダヴィットは肩を竦めた。
「……冗談だ」
ダヴィットの隣でリラが微笑んでいる。
「それと、マクシミリアンが『家族は心のつながり』って言ってくれたの……嬉しかった」
アントワーヌが目を瞬かせ、リラは照れたように笑った。
「血が繋がってない姉弟なんて、貴族社会じゃ色々言われたし」
ダヴィットが頬を掻きながら頷く。
「ほんと、親戚連中からの評判良くなかった」
「ダヴィット」
「事実だろ、姉さん」
二人が顔を見合わせて笑い合った光景を見た瞬間、アントワーヌの胸の奥で何かが少し軽くなった。自分の言葉と生き方が、誰かを少しでも救えていた。アントワーヌは目を伏せて笑った。
「……そうか」
やがて、面会室には次々と旧マクシム隊の隊員たちが訪れるようになった。
シャルル、ジョルジュ、アニータ、スザンヌ、リゼーヌ、サミュエル、ロザリー、ペネロペ。
一人ずつ、入れ替わり立ち替わりで別れを言いに来る。感謝を伝えに来る。
ある者は泣き、ある者は笑い。ある者は最後まで平静を装っていた。
シャルルは目を逸らしながら「本当に、君は馬鹿だ」と吐き捨て、ジョルジュは何度も言葉に詰まりながら「隊長でよかったです」と絞り出した。アニータは涙を堪えきれず、途中から全然喋れていなかった。スザンヌは静かだった。最後まで泣かずアントワーヌを見つめていた。彼女の視線がアントワーヌの胸にチクリと刺さる。リゼーヌは部屋を出る前に敬礼し、「お世話になりました」と頭を下げた。サミュエルは空気を軽くしようと必死に冗談を飛ばしていたが、途中から声が震えていた。ロザリーは終始静かだったが、退出する直前に一度振り返り、「ありがとう」と微笑んでウィンクをくれた。
そして、ペネロペが部屋へ入ってきた時、アントワーヌは思わず眉を顰めた。
「……皆、なんでそんなに自由なんだ」
死刑囚とは思えないくらい普通に歩いてくる。ペネロペは椅子へ座りながら肩を竦めた。
「昼間だったら好きにしていいってさ」
「はい?」
「……あたしたちが死ぬまでの息抜きかな」
ペネロペは冗談めかして言うが、アントワーヌは何とも言えない顔で黙り込む。不思議だった。なぜ急にこんな温情が与えられたのか。だが同時に、最後くらいはこうして話せる時間があってよかったとも思ってしまう。皆と話しながら、アントワーヌは今ある時間を噛み締めていた。
……だが、どれだけ時間が過ぎてもソフィーだけは最後まで面会室へ来なかった。
アントワーヌはふと扉の方を見る。開かない。誰も来ない。理由は分かっている。きっと会えないのだ。会えば壊れてしまうから。それでも、心のどこかでは少し期待していた。最期に、一目でも妹の顔を見られるのではないかと。アントワーヌは視線を落として溜め息を吐いた。項垂れた顔は逆光の中に沈んでいる。面会室に束の間の静けさが落ち、アントワーヌは椅子へ深く腰掛けてぼんやりと扉を見つめた。他に誰か来るだろうか。そんな期待とも諦めともつかない感情が胸の奥で揺れていた時、控えめなノックのあと扉がゆっくりと開き、アントワーヌは反射的に背筋を伸ばした。
「……あなたは」
アントワーヌが思わず立ち上がる。イヴォンが杖をつきながら入ってきた。
「久しぶりだな、マクシミリアン・ブーケ」
「……どうして、ここに」
「退役軍人の肩書きも、ここではたまに役立つ」
イヴォンが椅子へ腰を下ろし、杖を横へ立てかけて息を吐く。
「裁判、見させてもらった」
「……そうですか」
アントワーヌは目を伏せ、イヴォンは目の前の青年を死刑囚ではなく、かつての海軍士官として見ていた。扉の向こうでまた気配が動いてレオンが現れた。彼の姿を見た瞬間にアントワーヌは顔を強張らせ、レオンは扉の前で立ち止まって掠れた声で名を呼ぶ。
「……アントワーヌ」
「ごめん……こんなことになって」
「謝るな」
しばらく三人でぽつぽつと言葉を交わしていった。昔のこと、船のこと、くだらない失敗談。会話の途中でイヴォンが開いたままの扉へ視線を向ける。
「……入ってきな。会いたかったんだろ」
扉の向こうでピクリと影が揺れ、おずおずと姿を現したのは東洋の衣装を纏った男だった。アントワーヌの目が大きく見開く。
「まさか、あの時の——」
彼の脳裏を過ったのはサン・マロ奪還作戦、突如乱入してきた黒衣の男。だが、目の前の青年はあまりにも雰囲気が違った。顔立ちはそのままなのに、纏う空気がまるで別人だった。敵意がない、あの底知れない不気味さもない。代わりにあるのは怯えだ。アントワーヌはじっと彼の顔を見つめた。
——どこで会った? 誰だった?
ふっと記憶が繋がり、アントワーヌの表情が柔らかくなって笑う。
「……違った。君、久しぶりですね。海賊同盟との戦争以来かな」
東洋の衣装の青年がびくりと肩を揺らす姿を見て、アントワーヌはようやく確信した。
「ダミアン君」
名を呼ばれた瞬間、ダミアンの瞳が揺れた。レオンがダミアンを椅子に座るよう促すと、ダミアンは椅子に浅く腰掛けて目を泳がせ、指先を膝の上でぎゅっと絡めた。
「あの……えっと、その……」
言葉が喉まで来ているのに形にならない様子だったが、アントワーヌは急かさず穏やかに頷く。
「うん、大丈夫。ゆっくりでいいよ」
ダミアンの隣でイヴォンが杖を抱えて座っており、レオンも黙って二人を見守っていた。ダミアンは耳まで真っ赤にしながら必死に言葉を探す。
「……明日。明日の、この時間には……もう、いないって……なんか、信じられなくて……」
アントワーヌは目を細め、ダミアンはさらに俯いた。
「あの、ボク……あなたに、憧れてたんです……」
「……憧れ?」
アントワーヌが首を傾げると、レオンはダミアンの傍に歩み寄って彼の肩にそっと手を置く。
「この子、ずっと抑えつけられて生きてきたみたい。環境というか……周囲がそうさせていたらしくて。簡単に言えば、酷い家庭で育ったんだよ。何も感じないように育てられたって話してくれた」
アントワーヌが目を見開き、ダミアンは俯いたまま唇を強く噛んでいる。レオンはダミアンに柔らかい声音で問いかける。
「それで、今は家族から抜け出してるわけだけど……これから、自分がどう生きればいいのか分からないんだよね?」
ダミアンはこくこくと何度も頷き、レオンはアントワーヌの方を見る。
「何か、この子に言葉をかけてもらえるかな。最後に」
アントワーヌは目を伏せて考え込むように沈黙した。
「……そっか」
目の前の人間に、最後に自分がかけられる言葉はあるのか。アントワーヌは目を瞑って腕を組んで唸ると、真っ暗な視界にあの日の記憶が蘇った。
——机の上、紙を前に鉛筆を走らせる自分の手。
「アントワーヌって、ジャンさんのことあんまり好きじゃないよね」
ラウルに問いかけられて、思わず手を止めた。次第に鉛筆を持つ指先が微かに震え、そっと机の上に置いて呟く。
「……そうだよ。叔父さんのこと、嫌いなんだ。いつも勉強させられて、なんか息苦しくて窮屈だった」
しばらくの沈黙のあと、ここまで言えばどうしようもないと諦めて続ける。
「おれさ、親いないんだ。半分だけ貴族の血が流れてて、でもルノアール家の後継はおれだけなんだ」
テキストからそっと顔を上げ、ベッドに寝転んでいたラウルを見た。
「必死に勉強してるのは家のため。それでも、全部嫌になって放り出したくなる時がある」
ラウルは少し考え込むと柔らかい声音で口を開く。
「だから、たまに家を抜け出すんだ」
……その通りだ。自分は目を伏せてラウルの言葉を受け止めると息を吐き、自分に納得するように頷いた。そうしたら、ラウルは目を輝かせて少し楽しそうに言う。
「いいな、ちょっとした冒険みたいで」
「……え?」
自分が反射的に顔を上げると、ラウルは声を落として真剣なまなざしで言う。
「ボクもさ、本当は海の上で生きたいんだ。自由になりたい」
自分はしばらく言葉を失っていた。脱走癖をそんな風に解釈する奴がいたなんて。やがて、自分は笑みを浮かべて囁く。
「海の上か。自由に生きるって、悪くないな」
ラウルは頷くと声を弾ませた。
「ねえ。アントワーヌは自由について、どう思う? 家のこととか全部置いといて、ただ自分の好きなことだけできたら」
自分は目を彷徨わせて少し考えてから答えた。
「置いとければな。でも、そう簡単にはいかないんだよ」
ラウルは腕を組み、うんうんと頷きながら楽しそうに言う。
「うん。それでもさ、考えるだけでも楽しいよね。冒険の計画みたいで」
……自由、冒険。それに、彼の言葉。
アントワーヌはゆっくりと瞼を開けると灰色の景色が戻ってきて、俯くダミアンを捉えた。
——そうか。この道は、自分がやったことの跳ね返りでもあるんだ。それなら、自分ができなかったことを託す。
アントワーヌは眉間の皺を解いて目が澄むと椅子から身を乗り出した。
「ダミアン君」
「……っ、は、はい」
「手、貸して」
ダミアンが戸惑いながら差し出した両手を、アントワーヌはそっと包み込んだ。冷たい手、手首の細さと震えにアントワーヌは胸の奥が少し痛んだ。
「じゃあ……おれの代わりに色んな世界を見てくれないかな」
「……え?」
ダミアンが目を瞬かせると、アントワーヌは穏やかな笑みを浮かべた。彼の脳裏に浮かんだのは、皮肉っぽく笑っていたマルセロの顔だ。
「以前、同僚に言われたことがあるんだ。因果応報って言って……この世界は案外よく出来てるんだって。自分のやったことは、巡り巡って自分に返ってくる」
アントワーヌは言葉にしながら、ようやく心の底から実感した。自分が選び、自分で積み重ねてきたもの。復讐も執着も、嘘も罪も。全部が少しずつ今の自分へ返ってきている。
「……でも、本当に全部返ってくるのは、たぶん明日なんだろう」
ダミアンの瞳が揺れ、アントワーヌは手を握る力を少し強める。
「おれは、世界がどれだけ広いのか知らないんだ。知らないまま明日を迎える」
ダミアンの目が潤み始め、アントワーヌは彼の両手を包み込みながら続けた。
「だから……おれの代わりに、世界を見てきてくれ。たぶん、君ならもっと遠くへ行ける。どれだけ美しい景色があるのか。どんな人がいて、どんな海があって、どんな空があるのか。……お願いしてもいい?」
ダミアンは唇を震わせながら何度も何度も頷く。
「……はいっ、ボク、ちゃんと見ます……!」
「……そっか」
ダミアンの答えを聞いた瞬間、アントワーヌはようやく肩の力を抜いて、気持ち良さそうに目を瞑った。
牢獄の薄闇は時間を沈めていった。湿った石壁、鉄格子に絡みつく錆、どこか遠くで滴る水音。夜気を含んだ風が細い窓から吹き込み、低く柔らかく鳴る。
アントワーヌは壁に背を預け、ぼんやりと左耳へ触れていた。指先に触れる小さな金属、ゼフィランサスのイヤリングの感触に昼間の光景が脳裏を掠めた。レオンとイヴォンと話した時、ダミアンの震える手を握った時。
——あの時、外せばよかった。
今さらになって、そんな後悔が胸の奥を刺してくる。自分はもう死ぬのに、未だ耳にぶら下げているのがひどく滑稽に思えた。復讐の誓いと憎しみの象徴にゼフィランサスに囚われ続けた証、もう自分には必要ない気がした。重い扉が軋んで開き、アントワーヌは思わず顔を上げた。
差し込んだ影はひとつ、月光に縁取られた輪郭はルキフェルだった。
アントワーヌは自然と背筋を伸ばし、ルキフェルは牢の中へ入ってくると、アントワーヌを正面に片膝をついた。二人の距離は呼吸の揺れさえ読み取れるほど近いが、言葉はなかった。アントワーヌは左耳へ手を伸ばして金具を外し、掌へ乗せた。トルコ石とチェコガラスが煤けて黒ずんだイヤリングを、ルキフェルへそっと差し出す。
「……それ」
「ああ。たぶん、おれが持ってるべきものじゃない」
アントワーヌは微笑むと、ルキフェルはイヤリングを見つめた。ゼフィランサスの形見。かつて自分を救い、壊し、導き、狂わせた男の証を見つめる瞳が翳る。やがて、ルキフェルは手を伸ばしてイヤリングを摘むと、冷たいはずの金属が不思議なほど重かった。しばらく二人は黙り、やがてルキフェルが波音に溶けるような声で囁く。
「……あいつに、明かさなくていいのか」
ソフィー。アントワーヌは胸の奥を軋ませて目を伏せた。
「……迷ってる」
今さら兄だと言う資格が自分にあるのか分からなかった。夜は更けていき、空の色が少しずつ変わり始めていった。朝が近い。つまり、終わりも近い。アントワーヌは息を吐いてルキフェルを真剣な眼差しで見据える。
「……ソフィーのこと、頼めないか。おれの代わりに守ってくれると嬉しい」
ルキフェルは身体が強張るも深呼吸して頷く。
「わかった。俺があいつにできることがあれば、なんだってする。……あいつも共に海を渡った仲間だから」
アントワーヌは瞼を閉じて胸を撫で下ろしたが、ピクリと肩を震わせて険しい目つきをルキフェルに向け、恐る恐る訊ねる。
「……そういえば」
「?」
「あの嵐の日のあと……君たちと過ごしていたのか? あの子は」
「ああ。大西洋を横断して、カリブ海近辺まで一緒にいた」
ルキフェルが平然と言った瞬間、アントワーヌが顔を顰めて兄としての感情を突然暴れさせた。
「ちょっと待て。むさ苦しい男どもに囲まれて、あの子は平気だったのか……?」
「……」
「いや。そもそも、そうなった原因はおれなんだけど、いやぁ……」
「安心しろ。誰も手ェ出してないから」
「…………」
アントワーヌが露骨に不機嫌になり、ルキフェルは呆れたように息を吐いたが「あっ」と口元に手を当てた。アントワーヌがピリリと顔を強張らせる。
「……なんだ」
「いや、えっと」
アントワーヌの悍ましい顔を前に、ルキフェルは目を泳がせると観念して両手を上げた。
「……二人きりで話したことある」
「いつ」
「トルチュ島。彼女の部屋で」
「ソフィーの部屋!?」
「うるせえよ。不法侵入はしたけど手ェ出してねえし」
アントワーヌは石壁に顔を埋めてみるみるうちに丸くなった。ルキフェルは彼の様子を見て次の言葉を躊躇うも口を開く。
「それとマテオが」
「今度は何」
「こっち向いて聞け。深刻な話だ」
ルキフェルが語気を強めて言った。アントワーヌは顔を上げて座り直し、ルキフェルに向き直った。ルキフェルは逡巡するも根性を据えて言う。
「あの嵐の日だ。天候大荒れの中、ソフィーが海賊船に飛び込んできた時、息をしていなかったらしい」
アントワーヌの顔がみるみるうちに青ざめ、ルキフェルは声を押し殺しながら言う。
「……あいつ、海軍船にぶら下がってた。俺が『飛び移れ』なんて叫んだから——」
「違う」
アントワーヌの鋭い声に遮られ、ルキフェルは思わず顔を上げた。アントワーヌが虚な目でルキフェルを見つめている。
「……違う。その後、おれが突き飛ばした」
ルキフェルは思わず目眩がして額に手を当て、怒りに声を震わせる。
「……危なかったんだぞ。マテオが命を繋いでくれなきゃ、あいつ死んでた」
アントワーヌはルキフェルから顔を逸らして唇を噛んだ。ルキフェルは額から手を離してアントワーヌに目を向ける。
「なんでそんなことをしたかは聞かない。なんとなく、わかってしまうから。けど……せめてソフィーには理由を話せよ、なんで黙っているんだ」
しばし沈黙が落ちた後、アントワーヌは目を伏せながら声を震わす。
「……マテオ、具体的に何した?」
「……人工呼吸」
「……そうか」
「けど、あいつが話してくれたのは後になってからだ。あの戦争が終わった後に、な」
ルキフェルの脳裏に、夜の船長室でマテオが苦悶の表情で語ってくれた記憶が掠めた。
——ソフィーが、あいつに向かって叫んでた。『あの嵐の日、突き飛ばしたくせに』って。
ルキフェルは首をブンブンと振って息を吐いた後、アントワーヌの顔は肩の力を抜いて呟く。
「……でも、君たちに救われたなら……良かった。おかげで、ソフィーはフランスに戻って来れた」
ルキフェルは痺れてきた片膝をつき直してアントワーヌを見据える。
「俺たちは何もしてない。あいつが自分で戻るって決めたんだ。俺たちは……あいつの選んだ道を見届けただけ」
アントワーヌは心の糸が緩むと同時に胸を打たれた。ソフィーは自分で歩いた。誰かに流されたわけじゃない、ちゃんと自分の意志で。格子窓の向こう、空が白み始めていた。月光は薄れ、朝の色が牢を満たしていく。ルキフェルが立ち上がり、格子窓の向こうを見ながら小声で言う。
「……そろそろ、お別れだ」
ルキフェルの声にアントワーヌの胸が軋む。ルキフェルはアントワーヌを見下ろした。翡翠の瞳がアントワーヌを真っ直ぐ捉えて離さない。
「見てるから。俺も仲間も……お前の部下たちも。みんな、目を背けず見るって」
アントワーヌは何かを言おうとしてできなかった。ルキフェルが顔を曇らせて踵を返そうとした瞬間、アントワーヌは衝動のあまり立ち上がって抱きついた。
「……っ!?」
ルキフェルの頭の中が真っ白になる。アントワーヌは彼の胸に顔を埋めて声を震わせた。
「ありがとう。ずっと……ありがとう。お前が生きてて、よかった」
アントワーヌは抱きしめる腕に力を込め、ルキフェルを見上げて熱涙に咽ぶ。
「おれ、お前とまた会えて……嬉しかった」
ルキフェルは目を大きく見開くも、顔の緊張を解いて幼馴染の背を抱き返した。
「……こっちこそ、ありがとう。お前がいたから……俺は、ラウルだった頃を覚えていられた」
ルキフェルは息を吐くと、静かな湖にさざなみが広がっていくように笑顔を浮かべた。アントワーヌは思わず息を呑んだ。
ラウルだった頃に見せていた、あの屈託のない笑顔。いたずらっ子のような口元、優しさが滲む目元。
アントワーヌは呆然と見つめていると、ルキフェルが名残惜しそうにアントワーヌの腕を剥がした。彼が背を向けて牢を出ていくと重い扉が閉まる。
「……ははっ」
アントワーヌは立ち尽くしたが、笑顔は絶えず細波のように起こっては消える。もう見られないと思っていた。あの笑顔を、最後に見られた。アントワーヌは石床へ座り込むと、白み始めた光が牢を優しく照らしていた。涙が音もなく頬を伝う。巻き込んでしまった罪悪感と、共にあったことへの感謝が溶け合って床に染み込んでいく。
「……ありがとう」
声にならない呟きが石壁へ吸い込まれていく。




