第四章① 法廷
トゥーロンの裁判所は、海賊たちにとってひどく居心地の悪い場所だった。
高い天井、磨かれた石床、重厚な壁。窓から差し込む淡い光は清らかというより冷たい。剣も銃も抜けない、相手の喉元へ飛び込むこともできない。ただ椅子に座らされ、周囲の視線に晒され、誰かの言葉が人の命を決めていく。厳粛な空気の中で開廷を告げる木槌の乾いた音が鳴った。ルキフェルは参考人席の一角で、じっと証言台を見つめている。
アントワーヌが立っている。かつてマクシミリアン・ブーケと呼ばれ、第七艦艇部隊の一部隊長として紺の制服を着ていた男。今は拘束され、首謀者として一人離された席にいた。それでも、証言台へ向かう背中は崩れていない。彼の姿を見た瞬間、マテオが小さく鼻を鳴らした。
「……まだ折れてねえな」
「折れてたら、あんな歩き方はしないだろうね」
ジャスパーは腕を組んで目を細めている。コリンは落ち着かない様子で膝の上に手を置き、ニールは傍聴席と法廷係の動きを静かに確認している。裁判官が罪状を読み上げていった。
エリオット・ド・レオパード大元帥暗殺未遂、ブレスト城襲撃事件部隊員の関与、外部勢力との接触。言葉は整っていたが、ルキフェルには気味悪かった。血の匂いも雨風も屋上の殺気もない。ただ文字にされた罪が石の床へ落ちていく。
やがて、検察官がアントワーヌへ問いかけた。
「被告人。あなたは本件の首謀者であることを認めますか」
法廷中の視線が彼へ集中する。アントワーヌはしばし沈黙し、一瞬目を閉じると低い声で答えた。
「……認める」
騒めきが起こり、隊員たちが一斉に息を呑む気配がした。ルキフェルは微動だにしなかったが、胸の奥に重いものが沈んでいく。そこから先、検察官は畳みかけるように問いを重ねた。
襲撃当日の配置、隊員たちへの指示、エリオットを屋上へ呼び出した手紙、ブレスト城で何が起きたのか。アントワーヌは答え続けた。逃げもせず曖昧に濁さないが、すべてを話しているわけでもない。その危うさにルキフェルは気づいていた。やがて検察官が声を強める。
「では、今回の襲撃を決行した動機を述べなさい」
法廷が静まり返り、アントワーヌは正面の裁判官席を見据えた。
「……報復です。フランス海軍に対する報復のためにやりました」
その一語が落ちた瞬間、空気が裂けて傍聴席が騒めく。ルキフェルの隣に座るマテオが舌打ちした。証言台のアントワーヌは裁かれているというより、刃を抜いているように見える。——言葉という刃を。
検察官の問いに対し、彼はゼフィランサスと多民族集団の名を出し、奪われた故郷と二十年近く続いた苦しみを語った。傍聴席の一角でレオンが両手を組んでいた。祈りは神へ向けたものなのか、アントワーヌへ向けたものなのか、ルキフェルには分からなかった。レオンの隣に座るイヴォンは険しい顔で証言台を見つめている。かつて同じ戦場を知っていた者の目だった。戦う場所は違う、今のアントワーヌが立っているのは甲板でも戦場でもないが、彼が本気で戦っていることだけはイヴォンにも分かっているようだ。彼の横顔に怒りとも悔しさとも違う、複雑な痛みが滲んでいる。
「顔、怖いぞ」
ジャスパーがルキフェルの耳元で声を押し殺して言い、ルキフェルは目を泳がせた。
「……そうか」
「そうか、じゃねえ。睨み殺しそうな顔してる」
ルキフェルは視線を証言台へ戻すと、アントワーヌは検察官に責め立てられていた。
「国家に反旗を翻していい理由にはならない!」
検察官の声が響き、アントワーヌは手首の鎖を鳴らして検察官の非難を正面から受け止める。
「国だの、王宮だの、そんなもののためにおれは命を賭けたわけじゃない。おれが守りたかったのは、踏みにじられた仲間たちだ」
やがて裁判官はアントワーヌを一度席へ戻らせ、続いて証言台に立ったのはエリオットだった。大元帥の制服を纏った姿は、法廷の中でも異様な存在感を放っている。
彼は襲撃日より前に受け取った手紙のことを語った。アントワーヌと二人で話すつもりだったこと、だが別部隊がすでに配置され、戦闘は避けられなくなったこと。
エリオットの証言に、アントワーヌは顔を伏せている。やがて裁判官がゼフィランサスの名について問うと法廷の空気がまたピリリと変わった。エリオットは揺れない声で答えた。アントワーヌの行為を許すことはできないが、その背景にある痛みを完全に否定することもできない。もし国が人々から誇りや未来を奪っていたのだとすれば、それを見過ごしてきた側にも責任がある。
エリオットの発言に傍聴席が揺れ、レオンの指が祈るより更に強く組まれ、イヴォンは深く目を伏せた。アントワーヌは衝動的に立ち上がって鎖が鋭く鳴る。
「そうだ! 今の言葉こそ、真実だ!」
法廷が一気に騒然となり検察官が制止し、裁判官の木槌が鳴り響く。それでもアントワーヌの声はその場に爪痕を残した。ルキフェルは思わず息を詰めると鼓動が早鐘を打ち始めた。
この男は本当に最後まで燃え尽きるつもりだ。
その後、審理は次のフェーズへ進み、検察官がエリオットの診察記録を読み上げた。エリオットの身体に残っていた切創、打撲、拳による暴力の痕跡。検察官はそれらを暗殺の意思を示すものとして突きつけた。アントワーヌは反論せず検察官を睨み返している。マテオが眉を寄せて声に苛立ちを滲ませた。
「……あいつ。黙って睨んでりゃ、首が締まるだけだろ」
ルキフェルは証言台を見たまま口元を歪める。
「いや」
「いや?」
「今でも、あいつは国と戦ってる」
「戦ってる? こんな法廷でか?」
「ああ、剣を持ってないだけだ。あいつにとって、ここも戦場のひとつなんだろう」
法廷の中心でアントワーヌは一人で立っている。周囲すべてが敵のような場所で、彼は自分の言葉だけを武器にしていた。
「……勝てるかどうかは別としてな」
ルキフェルがため息混じりに言葉を結び終えるとマテオは舌打ちした。
「救いようがねえ」
「そうだな。けど、引く気はなさそうだ」
二人の囁きは木槌の音と傍聴席の騒めきに紛れて消えていく。ルキフェルには、アントワーヌが黙っている理由が何となく分かった。あれは諦めではない。黙ることで何かを受け止めている。あの沈黙すら彼にとっては答弁なのだ。
弁護人が立ち上がり、アントワーヌと隊員たちの功績を述べ始める。サン・マロでの働き、ブレスト城防衛、エドガー海賊団率いる海賊同盟との戦い。そして——。
「さらに……大海賊フランソワとの対峙です」
ルキフェルの指が膝の上で強く握られ、マテオの眉がぴくりと動き、ジャスパーの瞳から薄い笑みが消えた。弁護人は続ける。
「生け捕りには至らなかったものの、彼を討ち果たしたことはフランスにとって重大な脅威を取り除いたに等しい。この功績が王宮と市井の双方から喝采を受けたことは、皆様の記憶にも新しいはずです」
「……英雄気取りかよ」
ジャスパーが低く吐き捨て、ルキフェルは顔を伏せて噛みしめるように呟く。
「フランソワを『悪』と呼ぶとは」
マテオの手が今にも腰の銃を探しそうに動く。ここには銃などない、持ち込めるはずもないのに身体が覚えている。怒りの矛先を向ける方法を。
「マテオ」
ニールが即座に低く名を呼び、コリンも小さく腕を伸ばしてマテオの袖を掴んだ。
「今は駄目」
「分かってる」
マテオは吐き捨てるように言ったが、目は燃えている。裁判官が木槌を打った。
「静粛に」
傍聴席の視線が一斉に五人組へと向く。怪物を見る目、海賊を見る目、怒りを期待する目。ルキフェルは彼らの視線を感じながら息を吐いた。フランソワの名をこんな場所で、こんな言葉と共に聞きたくなかった。弁護人は気づかぬふりで言葉を続ける。
「功績は功績だが、罪は罪」
検察官はそう切り返した。法廷は再び冷たい秩序の中へ戻っていくが、五人の海賊たちの中では何も戻っていなかった。ジャスパーは沈黙し、ニールは額に手を当て、コリンは唇を噛んでいる。マテオは椅子に深く座り直して足を組んだ。ルキフェルは証言台と被告席を交互に見つめていた。
この国の法廷は言葉で人を裁く場所だが、今の彼には剣よりも残酷に見えた。法廷の空気は少しずつ人を削っていく。木槌の音、紙をめくる音、誰かが咳払いをする音。それだけで胃の奥が重くなる。海の上とは違う。波も風もない場所で、人間が人間を追い詰めていく。
エリオットが参考人席に戻り、裁判官が次の証人を呼ぶ。
「——ソフィー・ド・ルノアール」
法廷の扉が開いて亜麻色の髪が揺れた。ソフィーは背筋を伸ばしたまま法廷へ入ってきて、傍聴席が騒ついた。
好奇、疑念、憶測。無数の視線がソフィーへ突き刺さるが、彼女は決して止まらなかった。ルキフェルはソフィーの姿を見て妙な息苦しさを覚える。逃げていない。ソフィーもまたこの場所へ立ちに来ている。自分の意志で。裁判官に名と職業を問われたあと、ソフィーは答えた。
「ソフィー・ド・ルノアール。軍医です。……ただし、現在は階級を剥奪されています」
その瞬間、法廷の空気が揺れた。
「軍医だろ……?」
「階級剥奪されたって話……」
「じゃあ裏切り者なのか?」
マテオが眉を顰め、コリンも目を見開く。
「……マジかよ」
「そこまでされてたんだ」
ニールは黙ったままソフィーを見つめ、ジャスパーがどこか苦い顔で鼻を鳴らす。
「国って怖ぇな」
ルキフェルは証言台へ立つソフィーから視線を外せなかった。
検察官の問いに、ソフィーは淡々と答えていく。計画の存在を知っていたこと、アントワーヌと衝突したこと、医務室へ残るよう命じられていたこと。そして不安を拭い切れず、城へ向かったこと。彼女の声は落ち着いていたが、ルキフェルには分かる。無理をしている。言葉を崩さないように、必死に押さえ込んでいる。
「私は四人の海賊と共に屋上へ向かいました」
ソフィーの証言と共に傍聴席の視線が再び五人組へと向く。ルキフェルは慣れていたが、今はその視線が妙に苛立たしかった。
「途中……瀕死の状態にあった、グウェナエル・ブランシェ中尉と対話しました」
ルキフェルの胸の奥が嫌な音を立てた。グウェナエル、あの瑠璃色の瞳をした男。血塗れで、それでも立っていた男。ルキフェルは無意識に拳を握った。救えなかった。結局、自分はあの夜、誰も救えていない。アントワーヌも、グウェナエルも、エリオットも、ソフィーも。全部、壊れていった。
「……顔色悪いぞ」
ルキフェルの隣でマテオが低く言い、ルキフェルは首を横に振った。
「平気だ」
「全然平気そうに見えねえけど」
ソフィーはなお証言を続けた。屋上へ辿り着いた時には戦いが終わっていたこと、負傷したエリオットと倒れていたアントワーヌと海賊ルキフェル。そして、アントワーヌを止められなかったこと。
「……それが、私の過ちです」
ソフィーの消え入りそうな声を法廷が拾った瞬間、コリンが俯いた。
「……違うのに」
この場にいる全員が、止められなかった側だ。検察官はソフィーに対して問いを重ねた。
「では証人。あなたは被告人アントワーヌ・ブーケをどう見ていますか」
法廷が静まり、ソフィーの視線が被告席へ向く。拘束されたアントワーヌの姿を見つめる目には、怒りと悲しみが同時にあった。
「……普段の彼は、穏やかな人です。冷静で、理知的で、部下思いでした。ですが……復讐に囚われた彼は、まるで別人でした。恐ろしかった。正直に言えば」
マテオは息を吐き、ジャスパーが苦く笑った。
「……お互い様だろ」
「復讐に囚われてんの、あいつだけじゃない」
ここにいる全員、何かを抱えてここへ来ている。やがて、ソフィーの声が震え出して語気が強くなった。
「私はその中で愛する人を失いました」
ルキフェルは目を見張り、隊員たちもざわつく。ジョルジュが顔を青くし、アニータが口元を押さえ、リラは震えるように俯いた。
「私はグウェナエル・ブランシェという男を愛していました。彼も……私を愛してくれていました」
ソフィーは泣いていないが、彼女の声は痛いほど真っ直ぐだ。アントワーヌが目を見張って息を漏らす。知らなかったのだろう。ルキフェルは目を伏せて眉間に皺を寄せた。
胸が痛む。グウェナエルの最後を思い出す。あの男もまた誰かを守ろうとしていた。誰かを愛していた。なのに、全て戦いの中へ飲み込まれていった。
「私は今でもグウェナエル・ブランシェを愛しています。誰にだって大切な人がいます」
ソフィーの声が法廷内に響き渡った時、誰もが黙り込んだ。マテオが証言台から顔を背け、ジャスパーも唇を噛んだ。コリンもニールも目を伏せている。苦しい、全員同じように苦しかった。アントワーヌも、ソフィーも、自分たちも。
ソフィーが退廷したあと、裁判官が次に呼んだのはリラとダヴィットだった。
二人は副官と副隊長として証言台へ立つ。戦闘は最初から明確な襲撃ではなかったこと、混乱の中で引き返せなくなっていたこと、恐怖と疑念が連鎖していったこと。
二人の言葉を聞きながら、ルキフェルは目を閉じた。結局、あの日は誰も正しくなかった。誰も間違っていなかったからこそ、こんなにも壊れた。裁判官は隊員たちへの判決保留を告げたあと厳かに宣言する。
「本日は、被告人アントワーヌ・ブーケ本人の責任と行動に焦点を当てる」
その瞬間、法廷中の空気が再びアントワーヌへ集まった。拘束された男はまだ俯いていたが、背中は折れていない。それがどうしようもなく痛々しかった。




