第三章② ティエン
アンジュ、スザンヌのかつての実家。石造りの屋敷の一室に重たい沈黙が澱んだ空気として漂っていた。その空気に圧しかかられたように、机の上に突っ伏したまま動かない背中もある。ヴィクトルは肩を上下させていた。眠っているわけではない、起きている。が、起きていること自体を拒んでいる。ティエンはヴィクトルの背を眺めながら遠い目で息を吐く。
「……はあ」
ため息は抑えたつもりだったが、静けさの中で大きく響いてしまった。マクシム隊が謀反を起こした報せが届いてから、この屋敷の時間はどこか歪んでいる。ブルボン家からスザンヌへの勘当が現実として押し寄せた瞬間、ヴィクトルはこの有様だ。
「……出仕は?」
ティエンが念のために問うも、返事はない。机に押しつけられたヴィクトルの顔の向こうで言葉が潰れているのが分かるだけ。無理もない、とティエンは思う。理解はしている。しているが……このままでは滞る。王宮での調査も連携もすべて遅れる。
「……はあ」
もう一度、ティエンは同じようなため息を溢した。感情に沈むのは構わないが、沈み続けるわけにはいかない。そういう立場に彼らはいるはずだった。ティエンが視線を外すと、扉の向こうの別室からは低い声が漏れていた。フィルマンだ。怒りを抑えきれず、誰に向けるでもなく吐き出している声の中に、娘の名は混じらない。が、混じらないからこそ何を思っているのかは明確に分かる。フィルマンの怒りは矛先を失っていた。
そして、別の場所ではスザンヌの母が手紙を書き続けている。長女と次女、それぞれの嫁ぎ先で狼狽している二人を必死に宥めるために。紙を重ねて言葉を選び、何度も書き直しているらしい。あの人が、あれほど強かった女が今は言葉一つで崩れそうになりながら書き続けている。
ティエンは唸りながら目を閉じた。どうしたものか。この家は割れている。怒りと沈黙と、辛うじて繋ぎ止めようとする意志が同じ屋敷の中に共存していた。ティエンは机に突っ伏すヴィクトルをもう一度見た。動かないが、完全に壊れているわけでもない。立ち上がるきっかけを失っているだけ。今はまだ、この屋敷がどこまで持つかを見極めるしかない。
ティエンはヴィクトルの私室を出て廊下を歩いた。空気が軽くなった気がしたが、それも錯覚だとすぐに分かる。どこへ行こうとこの重さはついてくる。ならば、せめて動ける者が動くしかない。ティエンは歩みを止めず次の手を考え始めていた。彼が廊下を抜け、玄関ホールへ出た時、低く抑えた声が交わされているのを耳にした。ティエンが視線を向けると使用人の一人が扉を開け、来客の対応をしている。玄関扉から外の光が差し込み、人物の輪郭が逆光に浮かぶ。ティエンは思わず足を止めて客人の姿を眺めた。
——見覚えがある。
客人が一歩室内へ入ったところで、逆光の中でも顔が鮮明に見えた。グレゴワールだった。ヴィクトルの紹介で知り合った男、弟シャルルがスザンヌと同じ部隊に所属しているらしい。弟の方は王宮でも噂の多い名だ。変わり者だの扱いづらいだの、そういう言葉と一緒にこの兄貴も語られることが多い。そのせいか、グレゴワール自身もどこへ行っても妙な距離を置かれていると聞いた。もっとも、今はそんな評判などどうでもいい。ここへ来る理由は一つしかない。ティエンは歩み寄って使用人に軽く声をかけた。
「あ、その人。オレの客だよ、通していい」
使用人は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに頭を下げて脇へ退いた。
「失礼いたしました」
使用人が扉を動かすと外の光が細くなり、再び屋敷の中の空気に戻る。グレゴワールがティエンに軽く視線を寄越した。
「……急にすまない」
「いや、ちょうどいい。こっちも人手が足りてないところだ」
ティエンは肩をすくめる。軽口のようで、半分は本音だった。グレゴワールはそれ以上言わず頷く。
「ヴィクトルなら奥だ。……今、あまりいい状態じゃないけど」
ティエンが歩きながら告げると背後で気配が動いた。グレゴワールがついてくる。二人は玄関ホールを離れ、廊下を渡り歩いた。先ほどと同じ屋敷のはずなのに息を吹き返したように感じる。外から来た人間が一人加わっただけで、こうも違うのか。ティエンは歩みを緩めずヴィクトルの部屋へ向かい、扉を軽く叩いてから中へ入った。室内はさっきと変わらず重いまま沈んでいる。ティエンは机に突っ伏した背中に向けて淡々と声を投げた。
「グレゴワール、来たよ」
返事はあったが、顔を上げないままのくぐもった声で何を言っているのかは聞き取れない。ティエンはそれ以上踏み込まずグレゴワールを振り返った。
「入って」
グレゴワールが部屋に足を踏み入れると、ティエンは窓辺にある机へと歩いた。チェス盤が置かれたままの小さな卓だ、彼は駒に手を伸ばして一つずつ盤から外していく。
「座って」
ティエンが駒を片付けながら椅子を示し、グレゴワールが腰を下ろすのを見届けてから自分も向かいの席に座った。盤面は何もない平面に戻った。
「それで、ここに来た理由は?」
ティエンが指先で最後の駒を箱に落としながら聞くと、グレゴワールは落ち着いた声音に棘を混ぜながら言う。
「……分かっているくせに。調査結果という名の資料持ち出しだ」
グレゴワールが言い終えると同時に鞄から紙束を取り出し、机の上にドサリと重い音を立てて落ちた。ティエンは分厚い紙の束に一瞬目を丸くする。
「……ほんとに持ち出すとは思わなかったよ」
「王宮で真面目に奉仕しても後ろ指を差されるだけだ」
グレゴワールの声音に乾いた諦めのようなものが滲んでいた。ティエンは口の端を上げて紙束に手を伸ばしながら言う。
「ほんとはスリルを味わいたかったんでしょ。オレが『あの事件の資料がほしい』って言った時、目が爛々としてたぞ」
グレゴワールが咳払いをして目を細める。
「……余計なことを言うな。ま、なんでもいいだろう。お目当てのものはこれで全部だ。今さら何が分かるというのやら」
グレゴワールが投げるような言い方をするも、ティエンは指先で一枚ずつ滑らせるように紙をめくり始めた。
——十三年前、リュミエール家謀反事件。昔、うちに遊びに来ていた。ジャスパーが給仕していた貴族。
ティエンの頭の中に断片的な情報が浮かぶ。数年前、港で出会った胡散臭い情報屋が口にした話を面白半分で拾ったのが始まりだった。そこから先は早い。ブルボン本家の名を使い、貴族の人脈を辿り、禁忌とされている話題に踏み込んだ。手に入れた資料を並べて、照らし合わせて矛盾を指摘した結果、目の前で燃やされた。暖炉の火の中で紙が歪み、黒くなり、形を失っていく光景が妙に鮮明に残っている。
——やめて。
母の声が今でも耳に残っている。ティエンはページをめくる手を止めず血眼になって記録を読んだ。並び、証言、日付、そして処刑までの速度。同じだ、以前手に入れたものと大差ない。時系列も証言も整いすぎている。整いすぎて不自然だ。空白がなく迷いがない、一直線に結論へ向かっているからこそ匂う。
ティエンは紙の上から視線を外し、グレゴワールに目をやった。当の本人は窓辺に置かれた小さな観葉植物の葉を、指先で気まぐれに撫でている。興味がないようでいて手持ち無沙汰でもない。待っているのだ、こちらが辿り着くのを。
「……んでさ。この資料って、そもそも誰が作ったの」
ティエンは資料の端を軽く叩くと、グレゴワールは指先の動きを止めてふっと笑い、横目でティエンを見た。
「……知りたいか?」
「もったいぶらずに教えてよ」
ティエンが拗ねるように言うと、グレゴワールは積まれた紙束に手を伸ばして一冊引き抜き、ページをパラパラとめくって机の上に滑らせるように寄越す。
「ここだ」
ティエンは指定された箇所に視線を落とした。文面は見慣れた調子だ。整った書式、過不足のない記述の末尾に署名。
——シルヴェストル・ダラス。
「……うわぁ、あいつかよ」
ティエンが顔を顰めて嫌悪とも納得ともつかない声を漏らすと、グレゴワールは肩を竦める。
「予想はしていたんじゃないのか」
「してたけどさ。実物見ると、やっぱり気分悪いね」
グレゴワールはすぐに次の資料を取り出した。今度はより厚い冊子を机の上に置き、別の書物も重ねると指先で表紙を押さえながら続ける。
「これは議事録だ。リュミエール家が大審問にかけられた時のもの。それと、当時の様子を記録したもの。……発覚は突然だった。王宮への密告者はシルヴェストル・ダラス」
ティエンが険しい顔をすると、グレゴワールは表紙を開いて指で一文をなぞる。
「ある時、王宮会議にて『裏切り者がいる。証拠もこの通り揃っている』と発言。その場で証拠を提示した直後、王は即座に命じたそうだ。リュミエール家を捕縛せよ、と」
「……あいつが、最初に形を出したわけか」
最初から筋書きは用意されていた。リュミエール家はその筋書きに沿って反逆者にされた。その中心にいたのがシルヴェストル・ダラス。ティエンは息を吐いて胸の奥にあった違和感にようやく名付けた。
——でっちあげ。
ただの疑いではない、構造そのものが歪んでいる。
「……なんで、こんなことするんだろ」
ティエンの問いは宙に置かれたまま重みを残し、グレゴワールは窓際に寄りかかって指先で葉を軽く弾いた。
「考えられる線はいくつかある。一番分かりやすいのは家の名誉だな。傷を消すために、より大きな正しさを作る。ただ、資料だけじゃ見えない部分が多い。裏で動いた人間が他にもいるはずだ。関係者に当たれているのか?」
グレゴワールが横目でティエンを見ると、ティエンは俯いて口ごもる。
「まあ、一人だけ。リュミエール家の長男と婚約してた人に会えた。ただ、その人はマクシミリアン・ブーケ隊なんだよ。……今、捕まってる」
ティエンの脳裏にロザリーの顔が浮かぶ。深い悲哀とも悔恨ともつかない苦痛を湛えた、彼女の眼差しが目に焼きついて離れない。グレゴワールはティエンの言葉を聞くなり「うーん」と唸って眉間に皺を寄せる。
「それは、急いでトゥーロンへ向かうべきでは? あの部隊……裁判にかけられるぞ」
「……え?」
ティエンの思考が一瞬で白くなった瞬間、ティエンの中で言葉が意味を伴って繋がる前に背後で叫び声が爆ぜた。
「——ふざけるなあああああああ!!」
ヴィクトルが机から勢いよく顔を上げ、息を荒くして立ち上がると椅子が倒れた。
「スザンヌが!? 裁判!? ふざけるな!!」
部屋の空気を一瞬で引き裂くような叫びに、ティエンは振り返る間もなく固まり、グレゴワールは目を瞬かせて身を引いた。
「まずい。地雷、踏んだな」
ヴィクトルは部屋を彷徨きながら掠れた声で必死に言葉を繋ぐ。
「いくら謀反を働いたからって、妹に変わりないじゃん……! 嫌だよ、スザンヌがいなくなるなんて……!」
グレゴワールはヴィクトルの様子を横目で見ながら、あくまで一定の調子で口を開く。
「王宮の決断は早かった。おれも噂の段階で耳にしていたが、そのあと上層部で妙な混乱があったらしい。海軍へ正式に王命が出たのは五日前だ」
ヴィクトルの動きがピタリと止まって恐る恐るグレゴワールを振り返る。目がすっかり充血していた。
「……五日前? じゃあ今のスザンヌは、もう……トゥーロンに送られてるってことかよ!!」
ヴィクトルが言い切る前に拳を机に叩きつけ、鈍い音と怒鳴り声が壁に反響した。ティエンは目をパチクリさせるも頭の中で別の計算をしていた。距離、時間、手段。金はいくら残っている。足りるか、足りなくてもどうにかするか。彼の中で思考が先走っていた時、コンコンと場違いなほど整った音が扉の向こうから響く。
「エティエンヌ様。お客様がお見えです」
「え、オレ?」
執事の声にティエンが顔を上げ、背後の騒ぎをそのままに立ち上がる。
「……行ってくる」
ティエンは執事の案内に従い、玄関ホールへ向かった。ティエンが扉の前で足を止めると思わず息を呑んだ。ヤンが肩で息をしながら穏やかな笑みを浮かべている。
「お久しぶりです、ティエンさん」
ヤンの背後ではヘイロンが水桶に顔を突っ込みながら激しく水を飲んでいた。彼は用意された干し草にも食らいつき、合間にちらりとティエンとヤンを睨んだ。完全に機嫌が悪い。ティエンは目の前の一人と一頭を見比べ、口角を引き攣らせる。
「……えっと、なんでここ分かったの?」
ヤンは肩で息をしながら答える。
「あなたの正体を特定するのは難しくありませんでした」
「ええ、ま、まさかニコラが……? それか、マルクかイヴォンか——」
「交友関係の広さ、やたらと持っている資金。服装で誤魔化していても所作と雰囲気は隠しきれません。わたしの目は誤魔化せませんよ。——ブルボン本家の長男エティエンヌ・ド・ブルボン様」
ティエンの顔が引きつり、乾いた逃げ場のない笑いを漏らす。
「え、へへ……まさか、そんなわけ——」
「エティエンヌ様になんという口の利き方を! このお方を愚弄するとは!」
ティエンの背後から執事の声が鋭く割り込み、ティエンの笑顔が石のように硬直し、顔を覆いたくなる衝動を堪えながら目の前の男を見た。
——ついにバレた。
そこから先の話は早かった。例の部屋ではヴィクトルが叫びながら引き出しを乱暴に開け、金をかき集め、荷をまとめ始める。
「トゥーロンに行く! 妹に会いたい!!」
ティエンは彼の様子を横目で見ながら自分の懐を確かめた。足りるかどうかではない、どう動くかだ。グレゴワールもまた所持金を確認している。結論は早々に出ていた。止められないなら、同行するしかない。屋敷の外ではヘイロンがようやく顔を上げた。水桶は空になり、干し草も半分以上が消えている。彼は「もういいだろう」とでも言いたげに鼻を鳴らし、蹄で地面を抉るように叩いた。
「行けますね」
ヤンが屋敷を出ると空気が変わり、重かったはずの場所から一歩外に出ただけで視界が開けた。一行はまずパリを目指した。ここから直接トゥーロンへ向かうより足と手段を整える方が早い。彼らは街へ入り、適当な馬車を見繕う。あまりに上等すぎず、かといって粗末でもないもの、目立たない程度の質。ティエンが御者に金を払って行き先を告げる。
「トゥーロンだ」
車輪が回り始め、ヤンはヘイロンに跨って馬車の横を並走する。ヘイロンは鼻を鳴らして風を切り、しばらく進んだところで何処からか花の香りが流れてきて、ぶしゅっと勢いよくクシャミをした。ヤンは思わず眉を顰めた。馬車の揺れの中で、ティエンは向かいのヴィクトルを見て声をかける。
「……ほんとに行くの——」
「行く」
ヴィクトルは腕を組んで被せるように即答した。ティエンは背もたれに身を預け、対角線の席でグレゴワールが天井を仰ぐ。
「……なぜ、おれまでこうなった」
彼はぽつりと呟くが、声音に本気の拒絶の色はない。一瞬、グレゴワールの脳裏に橙色が差した。
——あいつなら、笑って乗り込むのだろう。
そう思った瞬間、グレゴワールの肩から力が抜けた。諦めたわけではない、納得しただけ。トゥーロンへ向かって車輪は回り続ける、それぞれの理由を乗せたまま。




